2017年7月3日月曜日

応神天皇:華麗なる船出-その弐-〔058〕

応神天皇:華麗なる船出-その弐-


伊豫之二名嶋の遠賀川対岸にあった「日向国」、と言っても古遠賀湾はトンデモなく大きな湾、しかも度重なる氾濫、響灘の荒海、挙げれば切りがないくらいの厳しい環境の中だったであろう。邇藝速日命の「虚空見日本国」と同じように邇邇芸命も感激の言葉を残しているが・・・。

日向の地を見れば神倭伊波礼比古の東行はそんな環境の中で起きた出来事だ、と頷ける。欠史八代の天皇達の位置付け等々、通説では謎となっている天皇達の振舞いも少しは見えてきているが、それは後日に回そう。洞海湾、遠賀川河口付近の発展した状況に続くところは何処であろうか?

応神天皇は「蟹の歌」と言われる、歌か?と思わせるような長文の歌を語られる。その解釈など前記を参照願いたいが、丸邇氏の隆盛、日向国の動静など極めて大切な事柄を述べている。仁徳天皇に繋がるこの天皇の挙動は倭国の船出に大きな役割を果たしたものと思われる。

大山守命の事件が終息して跡目が決まったところで挿入の説話である。なんと昔話…新羅國主之子の「天之日矛」物語。新羅で娶った玉のような美しい女人の祖が倭国という設定である。現在の感覚とは全く異なる日本海広域交流圏の説話である<追記>。説話全体は省略して、地名に関するところを抜き出してみよう。


難波之比賣碁曾社


古事記原文[武田祐吉訳]

故其國主之子、心奢詈妻、其女人言「凡吾者、非應爲汝妻之女。將行吾祖之國。」卽竊乘小船、逃遁渡來、留于難波。此者坐難波之比賣碁曾社、謂阿加流比賣神者也。於是天之日矛、聞其妻遁、乃追渡來、將到難波之間、其渡之神、塞以不入。[しかるにその國王の子が心奢おごりして妻を詈ののしりましたから、その女が「大體わたくしはあなたの妻になるべき女ではございません。母上のいる國に行きましよう」と言って、竊に小船に乘て逃げ渡て來て難波に留まりました。これは難波のヒメゴソの社においでになるアカル姫という神です。 そこで天の日矛がその妻の逃げたことを聞いて、追い渡て來て難波にはいろうとする時に、その海上の神が、塞いで入れませんでした]

神話のような記述の中に突然現れるリアルな記述、古事記の魅力かな? 「難波」の詳細を知る好機である。「阿加流比賣神」を祀る「難波之比賣碁曾社」という神社が「難波」の入り口付近にある、と言っている。場所的にもその由来的にも特異な神社の筈である。調べてみると…それらしきところが現存していた。

現在の祓川河口、沓尾山の麓にある「龍日賣神社」である。祭神は住吉大神、宇那足尼命、豊玉姫命とある。豊玉姫命は大綿津見神の子で鵜草葺不合命の母親である。「龍」の化身の説話がある。「龍日()賣」だから本神社は豊玉姫を主祭する神社と思われる。「玉」の説話と合致する。現住所は福岡県行橋市沓尾である。

更にこの「沓尾山」が大変なところであった。巨石の産出場所として後代の大阪城石垣の設営の際に拠出したことが史実として残っている。瀬戸内海沿岸の巨石を海上輸送で難波に運んだのであろう。調べると九州沿岸では唯一で難波から最も遠いところであった。その石垣のどの部分に使われているかもわかっているそうで、当時の大騒ぎ振りが目に浮かぶ。

状況証拠的にはかなり有力なのであるが「碁曾」は何と解釈できるのであろうか?…何度も登場の「曾」=「積み重なる」であろう。「碁石」ではないだろうから…「碁」=「其(箕)+石(岩)」と分解すると「箕の形の石(岩)」増々意味不明の様相を呈して来る。ところが地形に合せると見事な象形となるのである(2018.04.12修正)。


現在の沓尾山(当時は島と推定)の山麓は「箕」の形を示している。特に南側の斜面は明確であろう。度々登場の「箕」(三野、美濃と表記される)の地形である。


碁曾=石が重なって[箕]の山

…と紐解ける。難波津にある巨石が重なる山の麓の神社が「難波之比賣碁曾社」である。

通説に言及するのは極力差し控えたいが、あまりにも不適合な故に、由緒に古事記を持ち出さないことをお勧めする。大分県姫島(ここも難波?)も含めて「碁」→「許」「語」に置換えられているのがせめてもの救いである・・・いや、許曾苦であろう。

そんなわけで巨石を背にした比賣達の封鎖作戦、見事に的中した。止むを得ず天之日矛さんは多遲摩国に向かい、そこで居座ることになった、と続く。古事記の舞台を大和に置かれる方はこれをどう理解されているのか? 陸行ではなく水行である。解読不能で1,300年、である。

前記のごとく「多遅摩国」は「旦波国」の南、直に向かうことができる位置にある。で、何故「旦波国」に行かなかったか? 阿加流比賣神の御威光がまだまだ届くから、もう少し先まで…いや、わかりません。

本文は天之日矛の娶りと子供達の話になり、「葛城之高額比賣命。此者息長帶比賣命之御祖」と記載される。神功皇后の出自、新羅王の末裔である。三韓征伐なんていう文字を記憶させられるが、この一文を見てもあり得ないことであろう。国政はコワイ、今もそうであろうが・・・。

これに含まれる「葛城之高額」高い買い物をするわけではなく、「高い所にある額(ヒタイ)」である。山腹に突き出たところ…容易に見つかる。福岡県直方市永満寺の福智山西陵に突き出た「鷹取山」の地形象形である。比賣の在所はその西麓にある現在の福智山山ろく花公園辺りであろう。

伊豆志


古事記原文…

其天之日矛持渡來物者、玉津寶云而、珠二貫・又振浪比禮・切浪比禮・振風比禮・切風比禮、又奧津鏡・邊津鏡、幷八種也。此者伊豆志之八前大神也。

「八」という縁起の良い数にあわせてもいるのであろうが、半分は「航海」がらみのものと思われる。おそらく八幡神社に関連するものであろう。「多遅摩国」とした辺りには正八幡神社が二社もある。周防灘の航海を祈念して建てられたものであろうが、上記に繋がる。

「伊豆志之八前大神」の「八前」に関連すると思われるところ、「八津田」という地名がある。大きな、あるいは多く、の津という意味にとれるが、やはり八幡宮に関連したと思われる。「八津」=「八崎()」とすれば現在の福岡県築上郡築上町西八田にある岬(漁港)辺りと推定される。

現在の「正八幡神社」元々は航空自衛隊築上基地内にあったのを移設したようであり、また、基地の東南脇を流れる宮ノ川(恐らくこれが伊豆志河)の流れも変えられたように思われる。すっかり変貌した土地ではあるが、何とか古を思い起こすことができそうである。

「伊豆志」とは何を意味するのであろうか? 「豆」=「粒状の凸(突起)」である。嶋の名称は例外なくこの地形象形であった。求菩提山山塊からの長い稜線が続き周防灘に達する。今は開発が行われ平らな土地となってなっているが、当時はまだまだ幾本もの稜線があったであろう。そう考えれば城井川下流は蛇行し、いくつもの支流を作りながら海に注いだと思われる。


「志」は志賀=之江」の「之」を意味しているのかもしれないが、変貌した地形からでは想像の域を出ない。古事記の「論理性」を信じれば、そうであろう、と思われる。「多遅摩」はやはり、「治水」のところであった。確かなことはこれである。

「伊豆」半島、かつて、寒い時期には毎週のように出向いたところ、その時はその由来も知らず、現在に至る。

思い起こせば、正に「豆」の塊である。決して高山ではないが、その高さの揃った山々が連なる光景、「豆」のようだ、と叫んだのであろうか、次回に訪れた時にはまた違った景色が見られることであろう。

この段の説は、やたら「八」の数字が並ぶ、お戯れなんだろうが、内容は今回省略である。応神天皇紀、後僅かなのだが、祖の羅列が始まる。次回に回そうと思う。

…と、まぁ、難波之比賣碁曾社、一度はお伺い、いや、参拝し…海上封鎖はない筈・・・。



<追記>
2018.02.27
阿加流比賣神がいた場所が新羅国の「阿具奴摩」その場所を推定した結果である。「具」は沼の形を象形したと思われる。谷の川が注ぐとことが「具」の足を示しているようである。頭の部分は後に手が加えられたようであるが・・・。

地名など少々不明だが、高速進礼JCの西、約5kmのところ(新安里近辺)である。標高は130~160mで「阿(台地)」として問題なしであろう。背後の山塊を越えると新羅の中心地(慶尚南道庁近隣)であったと思われる。

大国主命の子孫、比比羅木之其花麻豆美神の孫神美呂浪神の居場所とは約7~10kmの距離のところにある。天之日矛が追いかけて来た「阿加流比売神」の祖先と繋がるかもしれない。また後日に調べてみよう・・・「比比羅木」楽しくなって来たようだが、又いつの日か・・・。