2017年10月10日火曜日

再びの東方十二道 〔109〕

再びの東方十二道


「古事記新釈」なんて作業に取り掛かったら、出て来るは出て来るわ、読み飛ばし、珍解釈・・・何とか気持ちが折れることなく進められているのは、やはり推敲重ねるとそれなりの結果が伴うからで、グルグル回りはこれからも時間の許す限り、であろう。


中でも「東方十二道」は古事記そのものの記述も簡単で、登場回数も決して多くはない。倭建命の東方遠征が最後で後は顔を見せない。古事記の設定からすると、舞台の大枠はこの命の作業でほぼ完了ってことなのでしょうか・・・。

再々があるかもしれないが、通釈が倭建命まで進んだところで一応纏めてみようかと思う。現在のところ「精一杯」の結論である。下図に紐解いた命の東方遠征ルートを示す。

景行天皇の纏向日代宮から伊勢神宮に向かい、そこで気丈な命が泣き言を倭比賣に漏らして遠く旅立ち、甲斐で折返し、還りの尾張でちょっと余計なことに手を出したために命を落とす羽目になる。今思えば、通説のように広々とした本州蝦夷の辺りまでを使った遠征行程とは異なり、何とチマチマとしたルート・・・。

正直、こんな狭い範囲で求める地名が出て来るのか?…途中で船にでも乗られたら、何処に行くのか皆目判らずの状態であった…懐かしいものである。古事記全体を読み通した今では、このルート以外は思いもつかないようになってしまった。<追記:尾張国の場所修正等>



前回に紐解いた結果も含めて見直してみよう。上図に倭建命が遠征した時に登場する地名が示されている。国名あるいはそれなりに纏まりのある地域の名称として採用できそうなのが…西から…、

伊勢 三重 尾張 科野 相武 東 足柄 甲斐

の八か所と思われる。国が付かないのは「三重」と「足柄」であるが、土地の広さ、独立性から推定すると区切られた地域として存在していたように思われる。

少し曖昧なのが「三野国」なのだが、命は立寄らない。この地はむしろ高志道に属すると考える方が適切であろう。科野、相武に向かう途中の国の位置付けではない。勿論どの道にも属さない国があっても不思議ではない、と思われる。

また、既に神八井耳命(綏靖天皇の兄)が祖となったと記されている場所に「道奥石代国、常道仲国」があり、図中の「恒見」=「常道仲国」とし、更にその北側に「道奥石代国」があったと紐解いた(合計十か所)。命の行程には含まれないが、存在していたことは間違いところであろう。



上図にある「都久波、邇比婆理」倭建命の話し言葉の中にのみ登場で、古事記中では筑波、新治という記述がないことから「道」には加え難く、むしろ既に登場している天津日子根命が祖となった「茨木国」を採用すべきと考える(合計十一か所)。

残り一ヶ所倭建命の行き帰りの道中に存在したところとして「三川」(足立山西南麓:尾張国と科野国の間)がある。これを採用すると合計十二か所となる。些か異なる見地から検討すべきかと思われるが、目下のところ「東方十二道」の地名は…西から…
 
伊勢 三重 尾張 三川 科野 相武 東 足柄 甲斐 茨木 常道仲 道奥石城

と推察される。従来より定説がないのであるが、古事記の記述が簡単すぎるきらいがある。倭建命の遠征以降には登場しない文字であり、重きに置いていなかったのであろうか・・・。

…と、まぁ、出来たようでもあり、まだ、再考余地もあるかも・・・。

全体通しては「古事記新釈」の倭建命の項を参照願う。


<追記>