倭建命の東奔西走:その参
<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
「東方十二道」を巡る旅、真に大変。いやいや、通説はもっと大変、日本書紀の記述まで参考にすると仙台辺りまで赴く、後程教科書の地図を例示しよう。安萬侶くんの伝えたかったことは、具体的な「倭」の勢力範囲、「言向和」した場所を丁寧に述べているのである。
「東方十二道」の中で、景行天皇の時代に未だ「言向和」が行われていない場所、それを「倭建命」に命じた、ということである。姻戚関係の整っていない国を如何に「言向和」するか、武力に頼らざるを得ない状況を示している。
垂仁天皇の時代の「鵠」の追跡時「相武国」「常陸国」は「言向和」が未達であった。また、未だ完全ではない国もあった。「尾張国」のようにしっかりと姻戚関係が出来上がった国にする必要性があったのである。「倭建命」の東奔西走は大戦後の掃討作戦と理解できる。決して拡充膨張の侵略作戦ではない。
また日をあらためて「東方十二道」について述べてみよう。「東方」の定義が極めて重要の筈である。ところで、前回の記述の中で、どうも引っ掛かることがある。「東国」の国造に指名されたお爺さんの歌、国造にする程のことを言ったのか? ということ。
迦賀那倍弖 用邇波許許能用 比邇波登袁加袁[日數重ねて、夜は九夜で日は十日でございます]
安萬侶くん、例によってお戯れかな? 「九十(クソ)」=「糞」=「(日数なんて)取るに足らないものでございます」と言った? まぁ、国造かも?・・・。
東奔(復路)
さて、いよいよご帰還である。「甲斐」の「酒折宮」で一息ついて「科野国」へ、その山麓に向かう予定である。古事記は簡単記述、書くことないから、である。「甲斐」から既に「言向和」した「常陸の筑波、新治」通過、「相武国」に至る。
そこから「科野国」の山側に向かい、そこの「坂神」を「言向和」して「尾張国」に入ることになる。現在の北九州市小倉南区葛原高松、湯川辺りを経由したのであろう。作戦通りの成果を挙げて尾張の姫と再会である。が、事件が発生する。
古事記原文[武田祐吉訳]…
故爾御合而、以其御刀之草那藝劒、置其美夜受比賣之許而、取伊服岐能山之神幸行。於是詔「茲山神者、徒手直取。」而、騰其山之時、白猪、逢于山邊、其大如牛。爾爲言擧而詔「是化白猪者、其神之使者。雖今不殺、還時將殺。」而騰坐。於是、零大氷雨打惑倭建命。此化白猪者、非其神之使者、當其神之正身。因言擧、見惑也。故還下坐之、到玉倉部之淸泉、以息坐之時、御心稍寤、故號其淸泉、謂居寤淸泉也。[そこで御結婚遊ばされて、その佩びておいでになった草薙の劒をミヤズ姫のもとに置いて、イブキの山の神を撃ちにおいでになりました。そこで「この山の神は空手で取って見せる」と仰せになって、その山にお登りになった時に、山のほとりで白い猪に逢いました。その大きさは牛ほどもありました。そこで大言して、「この白い猪になったものは神の從者だろう。今殺さないでも還る時に殺して還ろう」と仰せられて、お登りになりました。そこで山の神が大氷雨を降らしてヤマトタケルの命を打ち惑わしました。この白い猪に化けたものは、この神の從者ではなくして、正體であったのですが、命が大言されたので惑わされたのです。かくて還っておいでになって、玉倉部の清水に到ってお休みになった時に、御心がややすこしお寤めになりました。そこでその清水を居寤の清水と言うのです]
1.伊服岐能山
気の緩み、少々調子に乗り過ぎた感じである。「倭比売」から授かった刀、肌身離さずの筈が…拙かった。「伊服岐能山」は通説「伊吹山」とされる。この山の特徴はその後に記述される「清泉」である。「玉倉部之淸泉」=「玉倉部にある清く澄んだ泉」通説は「玉倉部の清水」とするが、原文通りに「泉」とする。
名水ある場所、それは鍾乳洞の近くである。「伊吹山」も関ヶ原鍾乳洞に隣接する山である。前記の「志賀之穴穂宮」の在処で記述したように現在の北九州市小倉南区は全国でも有数のカルスト台地を持つ。
一方、この山塊の最高峰「貫山(ヌキサン:712m)」及び隣接する「水晶山」は花崗岩質の岩場を形成しており幾つかの奇岩が名付けられている。尾張(現在の地名小倉南区貫)の山である。通説は「近江」の山を拝借するという離れ業を使っているのである。
「貫」=「つらぬく、突き通す」岩が突き出た様相を象形したか、岩場から出て来る湧水の有様を意味したのかは定かでないが、表面に突出る地形に合致した命名ではなかろうか。「服岐(フキ)」=「吹」=「外や表面に現れ出る」類似の意味であろう。
「空手」でお出掛けの「倭建命」、どこまで山に入られたかは不明であるが、手酷く傷めつけられたようである。這う這うの体で「玉倉部之清泉」まで辿り着き休んだとのこと。「玉倉部」通説は場所を示すとするが、宝玉、薬石等の保管、管理場所(部)ではなかろうか。「水晶山」から連想される透明な水晶の玉、立派な宝玉であったろう。
「玉倉部之清泉」は「貫山」北方山稜の麓辺りあったと思われる。残念ながら「倭建命」の体調には効かない薬石しかなかったのか、清泉の水を飲んでホッと一息したのであろう。山の神は怖い…まだまだ山奥には「言向和」する相手が…本物の神様?・・・。
2.當藝野/杖衝坂/尾津前一松
自其處發、到當藝野上之時、詔者「吾心恒念、自虛翔行。然今吾足不得步、成當藝當藝斯玖。自當下六字以音。」故號其地謂當藝也。自其地、差少幸行、因甚疲衝、御杖稍步、故號其地謂杖衝坂也。到坐尾津前一松之許、先御食之時、所忘其地御刀不失猶有、爾御歌曰、
袁波理邇 多陀邇牟迦幣流 袁都能佐岐那流 比登都麻都 阿勢袁 比登都麻都 比登邇阿理勢婆 多知波氣麻斯袁 岐奴岐勢麻斯袁 比登都麻都 阿勢袁
[其處からお立ちになって當藝の野の上においでになった時に仰せられますには、「わたしの心はいつも空を飛んで行くと思っていたが、今は歩くことができなくなって、足がぎくぎくする」と仰せられました。依って其處を當藝といいます。其處からなお少しおいでになりますのに、非常にお疲れなさいましたので、杖をおつきになってゆるゆるとお歩きになりました。そこでその地を杖衝坂といいます。尾津の埼の一本松のもとにおいでになりましたところ、先に食事をなさった時に其處にお忘れになった大刀が無くならないでありました。そこでお詠み遊ばされたお歌、
尾張の國に眞直に向かつている尾津の埼の一本松よ。お前。
一本松が人だったら大刀を佩かせようもの、着物を著せようもの、一本松よ。お前]
傷んだ身体に鞭打って帰途に就くわけだが、往路で立寄った「伊勢大御神宮」へは赴かないようである。それどころではなかったのであろう。「當藝野」で「當藝當藝斯玖」なる。懐かしい「當藝」=「弾碁」ではなく、そのまま「凸凹」と解釈。山稜線が延びたところを交差するように歩くのであるが、地形的に適したとも思われる場所、現在の北九州市小倉南区舞ヶ丘辺りではなかろうか。
西に進んで行き当たる「杖衝坂」は次の「尾津の埼の一本松」(現在の小倉南区横代南町の高倉八幡神社辺り)に至るまでの坂道であろう。通説もいくつかの候補があり特定することは困難である。ここから左に旋回して南下する。
歌の内容は太刀への思い、「空手」で伊吹山に入ったことへの後悔なんだろうか・・・。しかし、よく太刀を手元から放してしまうお方のようで、ポカもやる天才的ヒーロー、かつて野球選手にもそんなお方が…人気でるよね・・・。
3.三重村/能煩野
自其地幸、到三重村之時、亦詔之「吾足、如三重勾而甚疲。」故、號其地謂三重。自其幸行而、到能煩野之時、思國以歌曰、
夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯
又歌曰、
伊能知能 麻多祁牟比登波 多多美許母 幣具理能夜麻能 久麻加志賀波袁 宇受爾佐勢 曾能古
此歌者、思國歌也。又歌曰、
波斯祁夜斯 和岐幣能迦多用 久毛韋多知久母
此者片歌也。此時御病甚急、爾御歌曰、
袁登賣能 登許能辨爾 和賀淤岐斯 都流岐能多知 曾能多知波夜
歌竟卽崩。
[其處からおいでになって、三重の村においでになった時に、また「わたしの足は、三重に曲った餅のようになって非常に疲れた」と仰せられました。そこでその地を三重といいます。
其處からおいでになって、能煩野に行かれました時に、故郷をお思いになってお歌いになりましたお歌、
大和は國の中の國だ。重なり合っている青い垣、山に圍まれている大和は美しいなあ。 命が無事だった人は、大和の國の平群の山のりっぱなカシの木の葉を 頭插にお插しなさい。お前たち。
とお歌いになりました。この歌は思國歌という名の歌です。またお歌い遊ばされました。
なつかしのわが家の方から雲が立ち昇って來るわい。
これは片歌でございます。この時に、御病氣が非常に重くなりました。そこで、御歌を、
孃子の床のほとりにわたしの置いて來た良く切れる大刀、あの大刀はなあ。
と歌い終って、お隱れになりました]
通説に従って読み下せると思われる。「三重村」は現在の北九州市小倉南区堀越辺り(通説は三重県三重郡川越町辺り)、また「能煩野」は母原を流れる母原川辺りではなかろうか。太刀への思いを告げながら、幕切れとなった。
例によって参考に地図を…
また、教科書に載せてある地図は…
比べるまでもないことだが、本州各地を点で結んだ行程である。「倭建命」の東征は「東方十二道」の掃討作戦である筈。点と点の間が空いていては全く意味のない作戦となろう。解釈した結果の矛盾を伝承記録書に過ぎないとして解決?する態度は、断じて許されるべきことではない。
<追記>
2017.06.08
ルートの修正です。その後の考察で「尾津」の在処がほぼ確定した(縄文海進を伴うため現在地名からの推定:根拠は後日に)。修正図を下記に…
往路
1.伊勢神宮に向かう時、頭書より西側、紫川に沿うルートに変更(おそらく頭書のルートはまだ開拓されていなかったと思われる、距離は長くなるが…)
復路
1.「當藝野」までは変わらず。
「尾津」の位置は、現在の北九州市小倉南区北方辺りまで淡海が入り込んでいたと思われることから、その近隣の岬に一本松が立っていたと推測される。
それに伴い杖衝坂は、同小倉南区下石田・石田町辺りと推定される。
2.三重村も移動し、現在の地名では、北から同小倉南区徳力~新道寺辺りであろう。
「能煩野」は頭書の通り「母原」辺りと思われる。
2017.09.19
「貫山」が花崗岩質であることが明らかとなってので、本文修正。原文を下記に留める。
1.伊服岐能山
1.伊服岐能山
気の緩み、少々調子に乗り過ぎた感じである。「倭比売」から授かった刀、肌身離さずの筈が…拙かった。「伊服岐能山」は通説「伊吹山」とされる。この山の特徴はその後に記述される「清泉」である。「玉倉部之淸泉」=「玉倉部にある清く澄んだ泉」通説は「玉倉部の清水」とするが、原文通りに「泉」とする。
名水ある場所、それは鍾乳洞の近くである。「伊吹山」も関ヶ原鍾乳洞に隣接する山である。前記の「志賀之穴穂宮」の在処で記述したように現在の北九州市小倉南区は全国でも有数のカルスト台地を持つ。
「平尾台」に繋がる山塊は「穴」だらけ、である。この山塊の最高峰「貫山(ヌキサン:712m)」、尾張(現在の地名小倉南区貫)の山である。通説は「近江」の山を拝借するという離れ業を使っているのである。
「貫」=「つらぬく、突き通す」石灰岩層から出て来る湧水の有様を意味している。「服岐(フキ)」=「吹」=「外や表面に現れ出る」類似の意味であろう。この「伊吹山」の地名比定は、なんとなくの思い込みから容易に頷けるようであるが、極めて大きな齟齬を示している例である。
「空手」でお出掛けの「倭建命」、どこまで山に入られたかは不明であるが、手酷く傷めつけられたようである。這う這うの体で「玉倉部之清泉」まで辿り着き休んだとのこと。「玉倉部」通説は場所を示すとするが、宝玉、薬石等の保管、管理場所(部)ではなかろうか。現在も奈良の正倉院に「鍾乳床」(止渇薬、利尿薬)が保存されている。
鍾乳洞は地下に浸透した水を、水温、水質が年中変わらぬ状態で、湧水として生み出す。また石灰石そのものも種々の薬剤として利用できる。普通の環境では得られない貴重な資源を提供してくれるところなのである。だから感謝をし、祈り、祀り、敬ったのである。その素直な心を素直に受け止めることが大切である。
「玉倉部之清泉」は「貫山」北方山稜の麓辺りあったと思われる。残念ながら「倭建命」の体調には効かない鍾乳床ではあったが、清泉の水を飲んでホッと一息したのであろう。山の神は怖い…まだまだ山奥には「言向和」する相手が…本物の神様?・・・。