2017年4月22日土曜日

東方十二道〔026〕

東方十二道

「古事記」序文の記述を思い起こせば「倭国創生」の物語は、神武天皇の「遠飛鳥」と「近淡海国」二国の支配から始まった。そして、続く天皇達の活躍で各国を「言向和平」し、姻戚関係、人事の交流を計って領域の拡大を行った。「倭建命」の「東方十二道」への遠征は、その拡大の一つの区切りとして重要な位置付けである。

後の正史「日本書紀」によって北海道、沖縄を除く現在の「日本」へと拡張拡大された。律令制にある「五畿七道」となる。中国の行政区分に倣ったものとされるが、その内の西海道を除いては「道」としての行政機関は無かったとのことである。

その拡張拡大の過程を、そして行われた時点における背景、意図を思い合せて紐解こう、というのが本ブログの狙いである。「日本書紀」に含まれる、「要素」としての「古事記」、恣意的な改竄も含めて、その「要素」が止揚された実態をあからさまにすることである。

「東方十二道」の記述は「古事記」中、崇神天皇紀と景行天皇紀の二度出現するだけである。極めて簡略なものであるが、それを基にして安萬侶くんの伝えたかったことを推測してみよう。

将軍の派遣

崇神天皇、師木水垣宮に居られたのであるが、大物主大神に祟られて、なんとかその場を凌いだという説話の後に続く。師木水垣宮は前記の垂仁天皇の師木玉垣宮に近接するところであろう。二代続けて「磯城」である。

古事記原文[武田祐吉訳]

又此之御世、大毘古命者、遣高志道、其子建沼河別命者、遣東方十二道而、令和平其麻都漏波奴自麻下五字以音人等。又日子坐王者、遣旦波國、令殺玖賀耳之御笠。此人名者也。玖賀二字以音。
[またこの御世に大彦の命をば越の道に遣し、その子のタケヌナカハワケの命を東方の諸國に遣して從わない人々を平定せしめ、またヒコイマスの王を丹波の國に遣してクガミミのミカサという人を討たしめました]

「東方十二道」初出、と言うかいきなりである。加えて「高志道」という表現もある。「高志に向かう道」と思われる。そうであるなら「東方十二道」=「東方十二に向かう道」となろう。「高志道」は「東方十二道」とは異なる「道」と区別されている。

「東方十二」には主要な「国」に加え未だ「国」として明確に認知されていないところも含めているのであろう。また、それが一本の「道」で繋がるところに位置することであろう。それら十二の国及び国らしきところが彼らの定義する東方にあるという意味する

「旦波國」(現在の行橋市稲童辺り)には「道」が無い。当然ではなかろうか、「山代」を抜けると、そこにある。「道」として区別する必要がないからである。「高志道」が区別されるのは何故か? 「山代」を抜けて難波津から「淡海」を渡ると、そこは「高志国」だからである。前記17番で御子の禊のために使った行程である。

通説ではこれらの違いを説明するには方角の違いだけであろう。古事記は方角の違いを区別していない。「道」の手段であり、「道」が繋げる場所を纏めて表現したものである。後の行政機関としての「道」による統括機能は求めていない。実際、統括機能は殆ど果たせなかったようであるが。

ここで何故「新治」「筑波」が東方限界であったのか? 「道」の手段が異なれど「高志国」はもう間近の筈。通説だと、理由なくしてUターンであり、日本書紀だと仙台辺りまで。この東方限界の根拠を求めることは古事記記述の拡大解釈の齟齬を示す一例となろう。

あらためて調べて見た。古事記では「常陸」という記述はない。通説に準じて「恒(見)」=「常(陸)」としたが、結果的にはこれもあり得るかも、である。「常陸」の由来は決して明確なものではなく、諸説の中にある。「直(ひた)すら)」からというのもある。Uターンとは一層かけ離れる。全く拘るわけではないが、「ヒ(追い)」=「鉱脈(追い)」という言葉がある。このヒを使えば「常陸」=「ヒ断(タ)ち」でUターンとなるが…

「筑波」「新治」で解釈するのであるが、「筑波山」は「常陸国風土記」の記述に「紀国」に聳えていたとある。「筑波」はその昔「紀国」=「紀氏国」=「吉志国」であることを示している。「倭建命」が相武国から向かったのは、前記で現在の北九州市門司区「吉志」とした。

全国に散らばる「紀氏」の痕跡、大阪府吹田市岸部に残る「吉志部神社」、門司と同じ文字が使われている。「高志国」にある「猿喰」もそうであるが、改名の圧力?にも屈せず、現在に到達したのであろう。そこに住んだ人々の気概を感じる

「新治」=「新(しい)治(水)」である。企救半島東部の急峻な地形、扇状地のないところを開拓したところである。現在も山の中腹に溜池が多く残る。現存する設備は後代のものであろうが、それを切り開いたのが紀氏であった。渡来人達の多くは未開の土地に入り開墾し住処を得たのである。

現在に伝えられる各地の伝説はそれらを如実に伝えているのではなかろうか。日本の、日本人の原点を、そして現在の日本人に繋がる日本人を古事記が語っている、と思われる

現在の北九州市門司区吉志(筑波、新治)及び小倉南区吉田(東国)を併せた地域が紀氏の領域であったろう。徳川の時代に至っても尾張、紀伊、水戸に御三家を置いた。上記の流れは、「常陸国」の扱いを理解することに通じるものである

「筑波」の由来も諸説ある。「尽く端」=「崖の端」、縄文海進による「着く波」などなど。企救山地の最高峰「足立山(竹和山)」の「竹(の)端」もあるかもしれない。地形象形的には「崖の端」がピッタリである。当時の「吉志」の先は入江が大きく入り込んで、山の手は断崖のように海に接すると推測される。

これが、Uターンの理由である。「鉱脈」の尽きるところであった。安萬侶くんでさえ地形の変貌までは読み切れなかった。説明など不要と思ったのであろう。いや、1300年間も経つとは神のみぞ知る、世界である。

東方十二道<追記>


さて、本題のこの十二道はどう解釈されのであろうか? 「倭建命」の遠征に登場した地名が十二の内の一つに該当すると考える。最初の「伊勢大御神宮」は地名ではないが現在の伊勢神宮と同じくその地名を表していると思われる。また、そこに行く道すがらになんらの「言向和」の記述がないことから既に彼らの支配下にあったことを示している。

前記で東方、西方の概略のボーダーラインを描いてみたが、比定した「伊勢大御神宮」の周辺までを東方とする。下図を参照願いたいが、以下の地名である

伊勢、尾張、三野、科野、相武、新治、筑波、足柄、東、甲斐、當藝、三重


三野国はこの遠征には登場しないが尾張国に隣接()するところである。

古くは本居宣長著『古事記伝』に、伊勢、尾張、参河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総、常陸、陸奥、とある。また、その後に、遠江、駿河、甲斐、相模、武蔵、上総、下総、常陸、信濃、上野、下野、陸奥、という提案もある。いずれにしても主に五幾七道に基づくものである。古事記を律令制発足以後の目で眺めては、その意味するところは伝わらない。

古事記が当然のこととして記述しない重要な境界条件を、その拡大創作によって境界条件の意味を失くしてしまったことを的確に読み取ることである。恣意的かどうかは別として、それを行って来なかったことこそ責められるべきであろう。

ところで、上記の古事記原文に「将軍の派遣」具体例が続く、それなりに興味ある内容、後日紐解いてみよう…と、今日はこの辺で・・・。



<追記>


2017.10.07
修正した。未だ正解かどうか判断しかねるところではあるが、以下に纏めてみた。


下図に倭建命が遠征した時に登場する地名を示した。国名あるいはそれなりに纏まりのある地域の名称として採用できそうなのが…西から…、


伊勢 三重 尾張 科野 相武 東 足柄 甲斐

の八か所と思われる。三野は通過しておらず、外して考える。また、既に神八井耳命(綏靖天皇の兄)が祖となったと記されている場所に「道奥石代国、常道仲国」であり、図中の「恒見」=「常道仲国」とし、更にその北側に「道奥石代国」があったと紐解いた(合計十か所)。下図参照。

上図にある「都久波、邇比婆理」倭建命の話し言葉の中にのみ登場で、古事記中では筑波、新治とは繋がっていないことから「道」には加え難く、むしろ既に登場している「茨木国」を採用すべきと考える(合計十一か所)。

残り一ヶ所倭建命の行き帰りの道中に存在するところとして「三川」(足立山西南麓:尾張国と科野国の間)がある。これを採用すると合計十二か所となる。些か異なる見地から検討すべきかと思われるが、目下のところ「東方十二道」の地名は…西から…
 
伊勢 三重 尾張 三川 科野 相武 東 足柄 甲斐 茨木 常道仲 道奥石代


と推察される。従来より定説がないのであるが、古事記の記述が簡単すぎるきらいがある。倭建命の遠征以降には登場しない文字であり、重きに置いていなかったのであろうか・・・。