2017年10月15日日曜日

倭建命:尾張から甲斐への行程 〔111〕

倭建命:尾張から甲斐への行程


倭建命の東方十二道の行程については伊勢、尾津(小津)の辺りは詳細にわかって来たのだがその他は決して明確ではない。要するに地名の情報が少なく、手掛かりが掴めないと言った状況のままで今日に至ったようである。推論を逞しくして挑んでみよう。


尾張国・相武国

尾張国と相武国についての記述は以下の通りで…古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…

故、到尾張國、入坐尾張國造之祖・美夜受比賣之家。乃雖思將婚、亦思還上之時將婚、期定而幸于東國、悉言向和平山河荒神及不伏人等。[かくて尾張の國においでになって、尾張の國の造の祖先のミヤズ姫の家へおはいりになりました。そこで結婚なされようとお思いになりましたけれども、また還って來た時にしようとお思いになって、約束をなさって東の國においでになって、山や河の亂暴な神たちまたは從わない人たちを悉く平定遊ばされました]

故爾到相武國之時、其國造詐白「於此野中有大沼。住是沼中之神、甚道速振神也。」於是、看行其神、入坐其野。爾其國造、火著其野。故知見欺而、解開其姨倭比賣命之所給囊口而見者、火打有其裏。於是、先以其御刀苅撥草、以其火打而打出火、著向火而燒退、還出、皆切滅其國造等、卽著火燒。故、於今謂燒津也。[ここに相摸の國においで遊ばされた時に、その國の造が詐って言いますには、「この野の中に大きな沼があります。その沼の中に住んでいる神はひどく亂暴な神です」と申しました。依つてその神を御覽になりに、その野においでになりましたら、國の造が野に火をつけました。そこで欺かれたとお知りになって、叔母樣のヤマト姫の命のお授けになった嚢の口を解いてあけて御覽になりましたところ、その中に火打がありました。そこでまず御刀をもって草を苅り撥い、その火打をもって火を打ち出して、こちらからも火をつけて燒き退けて還っておいでになる時に、その國の造どもを皆切り滅し、火をつけてお燒きなさいました。そこで今でも燒津といっております]

尾張国は既に何度も登場で概略の位置は不動である。一方、相武国は建比良鳥命が国造となった「无邪志國」と思われ、ほぼこれに該当するのであるが、決して明確ではない。むしろこの国も倭建命の東方十二道に記述される「沼」が決め手と思われる。現在も多くの沼があり、地名も「沼…」が付く。現在の…、


北九州市小倉南区沼(大字)

である(地名表示は細分されているが…)。地名絡みの文字「焼津」「大沼」が登場する。これらの比定が今一スッキリしない、という状況である。

また、前後するが「尾張國造之祖・美夜受比賣之家」も尾張の何処にあったのか、と問いには答え切れてないのが現状と思われる。これらを当時の地形を推測しながら行程として矛盾のない解釈を試みる。下図を参照願いながら論を進めるとして、先ずは「美夜受比賣之家」からである。


尾張の中心としてあったところは現在の小倉南区長野であろう。残存する地域の大きさ、地図上で占める面積の大きさからも疑いのないところと思われる。また、数は少ないが尾張国内の地名も幾つか比定したものがある。上図では嶋田、知多、その他に丹羽、尾張之三野等挙げられる。

これらの周辺地域の場所を纏めてみると、当然と言えばそうなのだろうが、美夜受比賣之家」は…、


貫山山系から流れ出る川(現長野川)の谷筋

の上流部であったことが導かれる。現地名は小倉南区長野(大字)であり、上図の破線円の辺りと推定される(白抜き文字は北九州市小倉南区の地名)。「美夜受」は…、


美夜受*=美(三つ)|夜(谷)|受(引継ぐ)
 
…「三つの谷から流れる川を引継ぐ」ところに居た比賣と推定される。上図に記載のところより申し少し南側に移動したところと思われる。

国土地理院図の青色が示すところは概ね標高10m以下で、その大部分が当時は海面下にあったと予想される。

上図「尾張国」辺りが海岸線であったと思われる。このことは相武国に向かう際に船を利用したことを裏付ける推察である。

向かった先は相武国の西南端、小さいが入江の形状を示している場所、「焼津」と推定される。上図の上側の破線円辺りである。現地名は…、


小倉南区沼緑町

沼らしきものが多くあるが、同じ町内に属し、最も山側の池を「大沼」と比定できるのではなかろうか。神様が住んでるという表現からも人が住む海辺に近いところではないように思われる。


新しい地域に出向いたのではなく、東方十二道は既に祖先が切り開いたところ、時の変化で「言向和」不十分となった。建比良鳥命からその時の国造までの経緯は不詳だが、何かの理由で謀反を企てたのであろうか。欺くのは得意、欺かれることは全くなしの倭建命であった。

伊勢で貰った袋には何と火打石が入っていた…倭比賣、なかなかの切れ者、というところか・・・火には、火を、である。同じく授けられた草薙の剣は役に立ったのかどうか…肝心な時に持たずに出かけるという不始末を犯す。この説話、小道具も活用しているのである。

初戦を大勝した倭建命は意気揚々と次に向かうが、焼津から出航して間もなく難破の危機に陥るという事件が起きたのである。


弟橘比賣命

自其入幸、渡走水海之時、其渡神興浪、廻船不得進渡。爾其后・名弟橘比賣命白之「妾、易御子而入海中。御子者、所遣之政遂、應覆奏。」將入海時、以菅疊八重・皮疊八重・絁疊八重、敷于波上而、下坐其上。於是、其暴浪自伏、御船得進。爾其后歌曰、
佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母
故七日之後、其后御櫛、依于海邊。乃取其櫛、作御陵而治置也。[其處からおいでになって、走水の海をお渡りになた時にその渡の神が波を立てて御船がただよて進むことができませんでした。その時にお妃のオトタチバナ姫の命が申されますには、「わたくしが御子に代て海にはいりましよう。御子は命ぜられた任務をはたして御返事を申し上げ遊ばせ」と申して海におはいりになろうとする時に、スゲの疊八枚、皮の疊八枚、絹の疊八枚を波の上に敷いて、その上におおり遊ばされました。そこでその荒い波が自然に凪いで、御船が進むことができました。そこでその妃のお歌いになつた歌は、
高い山の立つ相摸の國の野原で、燃え立つ火の、その火の中に立って わたくしをお尋ねになつたわが君。
かくして七日過ぎての後に、そのお妃のお櫛が海濱に寄りました。その櫛を取て、御墓を作て收めておきました]

焼津から東に向かうとそこは「走水海」と呼ばれたところと記述される。「走水」の表現は「浪速」「難波」とは異なっているのだが、何を言いたかったのでろうか?…因みに横須賀にある走水神社には近くの湧水が「走水」の由来とのことらしい。これも少しズレているような・・・

文字通り「走る水」とすれば、何かの上を滑るように水が流れる様を表していると思われる。隣国の科野国、茨木国の名前が示す通りに急傾斜の土地であり、相武国も全く同様であったと思われる。高蔵山及び鋤崎山の南陵が交錯しながら長く延びてストンと海に落ちるという極めて荒涼たる…当時は…風景の中で事件が起きたと思われる。

「走水海」とは相武国の…、


急傾斜の地を水が走り落ちていく海

である。浪速、難波と違っているから異なる表現を使ったのである。そう気付くと真に特異な地形であることがわかる。当時の海岸線の状況は不詳だが、十分に推測可能なものと思われる。

古事記登場の比賣達は、概ね、才色兼備、弟橘比賣命も正しくそれに相応しい行動をした。我が身を挺して走水の災難を防ぎ船を進めさせた、というのである。上記の走水神社では弟橘比賣命を祭祀しているとか。この比賣との間に若建王という御子がいる。系譜が詳しく語られる。詳細はこちら

命拾いをして先に進む…倭建命の船は現在の沼本町辺りで上陸したと推測される。ここからの記述が少々入組んでいて読み辛いところではあるが、整理をしながら読み解いてみよう。

自其入幸、悉言向荒夫琉蝦夷等、亦平和山河荒神等而、還上幸時、到足柄之坂本、於食御粮處、其坂神、化白鹿而來立。爾卽以其咋遺之蒜片端、待打者、中其目乃打殺也。故、登立其坂、三歎詔云「阿豆麻波夜。自阿下五字以音也。」故、號其國謂阿豆麻也。
卽自其國越出甲斐、坐酒折宮之時、歌曰、
邇比婆理 都久波袁須疑弖 伊久用加泥都流
爾其御火燒之老人、續御歌以歌曰、
迦賀那倍弖 用邇波許許能用 比邇波登袁加袁
是以譽其老人、卽給東國造也。[それからはいっておいでになて、悉く惡い蝦夷どもを平らげ、また山河の惡い神たちを平定して、還ってお上りになる時に、足柄の坂本に到って食物をおあがりになる時に、その坂の神が白い鹿になって參りました。そこで召し上り殘りのヒルの片端をもってお打ちになりましたところ、その目にあたって打ち殺されました。かくてその坂にお登りになって非常にお歎きになって、「わたしの妻はなあ」と仰せられました。それからこの國を吾妻とはいうのです。 その國から越えて甲斐に出て、酒折の宮においでになった時に、お歌いなされるには、
常陸の新治・筑波を過ぎて幾夜寢たか。
ここにその火を燒いている老人が續いて、
日數重ねて、夜は九夜で日は十日でございます。
と歌いました。そこでその老人を譽めて、吾妻の國の造になさいました]


邇比婆理・都久波

上陸してから「足柄之坂本」に至るのであるが、歌でその途中通過した地名が登場する。「邇比婆理」「都久波」である。あらためてこれらの文字を解釈してみよう。「邇比婆理」は…、


邇(近接する)|比(並ぶ)|婆(端)|理(区分けされた田)

…「近接して並ぶ端にある区分けされた田」と紐解ける。図に示したように稜線の端の高台が二つ並んでいるように見えるところである。現地名は細分化されているが、北九州市小倉南区沼新町、上・中吉田辺りと思われる。かなり広い団地が造成されているようである。「都久波」は…、


都久(筑=竹)|波(端)

足立山(竹和山)山系の端にあると解釈される。地図を見てみよう。接岸した沼本町を上がると、現在は大規模な団地が形成されている。しかしながら、高蔵山、鋤崎山の稜線が大きく張り出したところであったことは明瞭である。この凹凸の地面を暫く進むと北九州市門司区吉志の地名となる。ここが「都久波」に該当すると思われる。



 
足柄之坂本・甲斐・阿豆麻(東国)

足柄之坂本は「足柄」=「足搦(アシガラ)ミ」勾配、距離等きつい坂道を上る様子を示したものであろう。現在の北九州市門司区恒見から小倉南区吉田に抜ける道がある。抜けたところの吉田が「東国」である。足柄の坂を登り切ったところで「阿豆麻波夜」と叫ぶのである。走水海を眼下に見下ろす場所であった。

最もらしいシナリオとロケーションではなかろうか。この入組んだ行程の説明もこれで漸く納得、である。更に説話に落が付く、面白いので再掲…幾ら日数が経ったかの問いに「日數重ねて、夜は九夜で日は十日でございます」と老人が答える。「九十(クソ)」=「糞」=「(日数なんて)取るに足らないものでございますと言った?…まぁ、国造かも?・・・。

ところで失った妻のことを嘆いて「吾妻」素直な解釈なのだが、やや引っ掛かる…


阿豆麻=阿(台地)|豆(小さな凹凸)|麻(摩:削る)

吉田の地も大規模な団地となっていることが伺える。しかしながら背後の山の稜線が殆ど見られない状況である。後代の仕業かどうかは定かではないが、当時既に稜線を削って平坦にされていたのではなかろうか。即ち倭建命の目線は上図の二つの白破線の方向、走水海だけでなく東国にも向けられていた、と。

安萬侶くんの戯れ、いい加減にしろと言いたいところだが、文字遊びもここまでくれば、感服である。夜露死苦なんていう落書きより…巷で見かけることは殆どなくなったが…遥かに高度な文字遊びである。かつてポケベルで「4908」というのがあった、何のメッセージか?…お判りでしょうか?

東を「アズマ」と言う有力な語源の一つである。碓氷峠で関東を眺めて「吾妻よ!」と叫んだことに由来するとある。飛鳥に始まる難読文字の仲間に、また一つ加わることになるであろう。

吉田から東北方向に山を越えると甲斐国に行き酒折宮で一息ついたら科野国に向かうのである。この大英雄が教えてくれた古事記の国々、弟橘比賣と共にその霊に感謝の意を表そう。

全体通しては「古事記新釈」の倭建命の項を参照願う。


――――✯――――✯――――✯――――
美夜受*
美(谷間が広がる)|夜(谷)|受(引継ぐ)
 
…「谷間が広がるところを谷が引き継ぐ」と紐解ける。谷と谷とに挟まれ、その間に居た比賣と推定される。


<美夜受比賣>
<羊>

「美」=「羊+大」と分解すると、「大きな羊」が原義であり、それから通常の意味へと転化したと解説される。地形象形としては如何に解釈できるであろうか?・・・。
図に「羊」の甲骨文字を示した。この文字の上部を「二つ並んだ山稜」に見做すと、その下部は谷間及びそれから広がる扇状地を表し、それが「大」と読み取れる。(2018.07.04)

――――✯――――✯――――✯――――