2017年10月17日火曜日

倭建命:能煩野・白鳥御陵 〔112〕

倭建命:能煩野・白鳥御陵


大英雄のエンディングの場所、ある程度の根拠を持ちながらこの辺りとして来たが、今一度在所を突止めてみようかと思う。更なる情報がきっと埋め込まれていることを期待して…古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…

自其地幸、到三重村之時、亦詔之「吾足、如三重勾而甚疲。」故、號其地謂三重。自其幸行而、到能煩野之時、思國以歌曰、
夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯
又歌曰、
伊能知能 麻多祁牟比登波 多多美許母 幣具理能夜麻能 久麻加志賀波袁 宇受爾佐勢 曾能古
此歌者、思國歌也。又歌曰、
波斯祁夜斯 和岐幣能迦多用 久毛韋多知久母
此者片歌也。此時御病甚急、爾御歌曰、
袁登賣能 登許能辨爾 和賀淤岐斯 都流岐能多知 曾能多知波夜
歌竟卽崩。
[其處からおいでになって、三重の村においでになった時に、また「わたしの足は、三重に曲った餅のようになって非常に疲れた」と仰せられました。そこでその地を三重といいます。 其處からおいでになって、能煩野に行かれました時に、故郷をお思いになってお歌いになりましたお歌、
大和は國の中の國だ。重なり合ている青い垣、山に圍まれている大和は美しいなあ。 命が無事だた人は、大和の國の平群の山のりぱなカシの木の葉を 頭插にお插しなさい。お前たち。
とお歌いになりました。この歌は思國歌という名の歌です。またお歌い遊ばされました。
なつかしのわが家の方から雲が立ち昇て來るわい。
これは片歌でございます。この時に、御病氣が非常に重くなりました。そこで、御歌を、
孃子の床のほとりにわたしの置いて來た良く切れる大刀、あの大刀はなあ。
と歌い終って、お隱れになりました]

能煩野*

通説に従って読み下せると思われる。現在の北九州市小倉南区徳力辺りと推定される「三重村」から、紫川に沿って現在の金辺峠に向かう。倭建命が西方、東方、吉備へと何度も通った道である。そのどこかに「能煩野」がある。足が疲れて歩けなくなるなんて当時は予想もしなかったことであろう。

前記で能煩野は現在の「母原」辺りと推定した。「煩(ボ)」=「母(ボ)」を共に持つ文字列を一つの根拠にした。が、何とも頼りないと思われた。古事記原文には、上記に続いて駆け付けた后と御子達のことが記述される…、

於是、坐倭后等及御子等、諸下到而作御陵、卽匍匐廻其地之那豆岐田而、哭爲歌曰、
那豆岐能多能 伊那賀良邇 伊那賀良爾 波比母登富呂布 登許呂豆良[ここに大和においでになるお妃たちまた御子たちが皆下っておいでになて、御墓を作てそのほとりの田に這い回ってお泣きなってお歌いになりました。
周まわりの田の稻の莖くきに、稻の莖に、這い繞めぐつているツルイモの蔓つるです]

…能煩野に駆け付けて、陵を作ったのだが、その周りを「那豆岐田」と呼んでいる。


那豆岐田=那(多くの)・豆(凹凸がある)・岐(二つにわかれた)・田

山稜の端にあるゴツゴツとしていて、それが二つに割れた台地状の地形象形であろう。現地名は小倉南区母原・新道寺の境界にある台地である。地図を参照願うが、「三重村」を発って暫くは紫川沿いに進み、現在の小倉南区高尾辺りで東谷川沿いの道となる。谷間を抜けると小高い台地が眼前に広がる。



それが二つに割れた台地の北半分の地(母原)である。ここが「能煩野」と推定される。上図のの周辺である。やはりと言うべきか、能煩野の地形を忍ばせていたのである。


白鳥御陵

后、御子達のてんやわんやが語られる…、

於是化八尋白智鳥、翔天而向濱飛行。智字以音。爾其后及御子等、於其小竹之苅杙、雖足䠊破、忘其痛以哭追。此時歌曰、
阿佐士怒波良 許斯那豆牟 蘇良波由賀受 阿斯用由久那
又入其海鹽而、那豆美此三字以音行時歌曰、
宇美賀由氣婆 許斯那豆牟 意富迦波良能 宇惠具佐 宇美賀波伊佐用布
又飛、居其礒之時歌曰、
波麻都知登理 波麻用波由迦受 伊蘇豆多布

是四歌者、皆歌其御葬也。故至今其歌者、歌天皇之大御葬也。故自其國飛翔行、留河內國之志幾、故於其地作御陵鎭坐也、卽號其御陵、謂白鳥御陵也。然亦自其地更翔天以飛行。凡此倭建命、平國廻行之時、久米直之祖・名七拳脛、恒爲膳夫、以從仕奉也。[しかるに其處から大きな白鳥になって天に飛んで、濱に向いて飛んでおいでになりましたから、そのお妃たちや御子たちは、其處の篠竹の苅株に御足が切り破れるけれども、痛いのも忘れて泣く泣く追ておいでになりました。その時の御歌は、
小篠こざさが原を行き惱なやむ、空中からは行かずに、歩あるいて行くのです。
また、海水にはいて、海水の中を骨を折つておいでになつた時の御歌、
海の方から行けば行き惱む。大河原の草のように、海や河かわをさまよい行く。
また飛んで、其處の磯においで遊ばされた時の御歌、
濱の千鳥、濱からは行かずに磯傳いをする。
この四首の歌は皆そのお葬式に歌いました。それで今でもその歌は天皇の御葬式に歌うのです。そこでその國から飛び翔ておいでになて、河内の志幾にお留まりなさいました。そこで其處に御墓を作て、お鎭まり遊ばされました。しかしながら、また其處から更に空を飛んでおいでになりました。すべてこのヤマトタケルの命が諸國を平定するために廻っておいでになた時に、久米の直の祖先のナナツカハギという者がいつもお料理人としてお仕え申しました]

…白鳥伝説の説話となって「河內國之志幾」に「白鳥御陵*」が作られる。古事記読み解きの当初は、近淡海国の内陸部の「志幾」=「師木」であろうと推測し、倭の師木と同様の地形、小さな凸凹の丘陵地帯である現在の京都郡みやこ町勝山黒田、橘塚古墳や綾塚古墳の辺り…とした。

だが、読みは同じでも文字を変えているのは異なるからであろう。


志幾=志(之)・幾(近い)

「之」は直ぐ後に記述される成務天皇が坐した志賀高穴穂宮の「志」と解釈する。詳細は既述のこちらであるが、川の河口付近で大きく湾曲して流れる様を象形したもので、中国江南の「之江」に由来すると紐解いた。志幾は河口付近の蛇行する川の近くにあったと推定される。

「白鳥」は浜に向かって飛び立ち、追いかける御子達は浜辺を彷徨うと述べている。白鳥が降り立ったのは河内の内陸部ではなく、限りなく浜辺に近いところであったことを示すのではなかろうか。現在でも蛇行する複数の川に挟まれたところを探すと…



行橋市大字二塚辺り

が該当すると思われる(上図の八雷神社近隣)。読みが同じと安易に置換える、禁じ手を犯してしまったようである。問わず語りに記述する古事記をしっかり受け止めることが肝要と改めて思い知らされた。

…全体を通しては「古事記新釈」の倭建命の項を参照願う。

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能煩野*


「能煩野」も地形象形の表記と思われる。「煩」=「火+頁」と分解し、「頁」=「谷間の田畑」とすると…、


能(熊:隅)|煩(炎の地形の傍らの谷間の田)|野

…「隅にある炎の地形の傍らに谷間の田がある野原」と読み解ける。

「炎の地形」とは、山稜の端が細かく突き出ている様を表す。図に示した通りの表現となっていることが判る。現地名は北九州市小倉南区母原辺りである。(2018.06.22)

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白鳥御陵*
<白鳥御陵>

(2019.01.07)
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