2017年10月26日木曜日

迦邇米雷王 〔115〕

迦邇米雷王


神の教えを聞かぬ仲哀天皇、熊曾退治が優先との考えに拘泥なされて、息長ならぬ息短になってしまったと古事記が伝える。他の史書では実際に熊曾征伐に出向き、弓矢に当たって亡くなったとの噂もあるほどである。古事記は語らないので、琴を弾きながら息を引取ったとしておこう。

そこで大后の息長帯比賣が華々しい活躍をする舞台が設定されることになる。この背景については憶測の域を出ないが、少し調べてみたのが、この大后の出自である。ところどころで大后の祖となる人物が登場するが、先ずは整理をしてみようかとしたら、思わぬ人物に出会ってしまった。迦邇米雷王である。彼のことは、例によって素っ飛ばしていた。

古事記原文…

山代之大筒木眞若王、娶同母弟伊理泥王之女・丹波能阿治佐波毘賣、生子、迦邇米雷王。此王、娶丹波之遠津臣之女・名高材比賣、生子、息長宿禰王。此王、娶葛城之高額比賣、生子、息長帶比賣命、次虛空津比賣命、次息長日子王。三柱。此王者、吉備品遲君、針間阿宗君之祖。又息長宿禰王、娶河俣稻依毘賣、生子、大多牟坂王。此者多遲摩國造之祖也。

大毘毘命(開化天皇)丸邇臣之祖日子國意祁都命之妹・意祁都比賣命を娶って日子坐王が誕生する。その日子坐王が其母弟・袁祁都比賣命を娶って誕生したのが山代之大筒木眞若王である。ここまでは丸邇一族に関連するのであるが、崇神天皇紀に日子坐王は旦波國の玖賀耳之御笠を征伐する出来事が発生する。

この事件は旦波国の平定を確定したことを意味しているようで、日子坐王はこの国に強い影響力を持った王になった推測される。それがあってか日子坐王一族の一派に旦波国系が継続することになったのであろう。大変な数の子孫を残した王なので多方面にではあるが、この旦波国から優秀な人材が輩出することになる。

山代之大筒木眞若王が娶ったのが同母弟伊理泥王之女・丹波能阿治佐波毘賣とある。姪を后にしたのである。この「丹波能阿治佐波毘賣」の居場所は既に紐解いたように現在の行橋市稲童出屋辺り、音無川の北岸近隣の地域とした。名前の通り旦波国の東南端の台地であり、既に治水が行き届いたところであったのだろう。そして御子の「迦邇米雷王(カニメイカヅチノミコ)」が誕生する。


以下の系譜を述べると、この王が丹波之遠津臣之女・名高材比賣を娶って息長宿禰王が誕生し、更にこの御子が葛城之高額比賣を娶って誕生するのが息長帯比賣であり、河俣稻依毘賣を娶って産まれた大多牟坂王が多遲摩國造之祖となると記述される。旦波国と多遲摩国が深く繋がっていく様が伺える。

系譜的には母親である「葛城之高額比賣」が重要なのであるが、それは後程にして…本日の興味の対象である「迦邇米雷王」を紐解こう。

変わった名前で「雷」があるからそれらしい武将のイメージに引っ掛かってしまうところである。また「迦邇(カニ)」と結び付けてしまうのである。ネット検索も文字解釈をされているものでは「蟹の目」とされているようである。唐突に蟹である。やはり一文字一文字解釈するしか道はないようである・・・とあれこれ考えているうちに「邇米」と気付いた。

迦邇米雷=迦(施す)|邇(丹:赤)|米|雷(雨+田)

「迦邇米雷王」は赤米の田に雨を施す王となるが、「迦」=「辶+加」とすると、単なる施しではなく「十字路(水路)を作って田に水を施す」と読み解けるのではなかろうか。丹波国は赤米の産地と既述したが、ここにもそれを示す表現が潜んでいたのである。

丹波国、多遲麻国、それにあまり登場しないが稲羽国の三ヶ国(現在の福岡県行橋市稲童~築上郡築上町高塚)は当時の穀倉地帯として際立った存在であったと推測される。

食が満たされていく、それが国の発展に対して何よりの礎になったであろう。そして有能な人材を出す基盤となったと推測される。茨田(松田)、石垣の池(筒木)、溝作りと繋がり、葛城から旦波、多遲麻へと物語が進行する過程は実に論理的であり、感動的な記述と思われる。

さて、上記の「葛城之高額比賣」の出自は、新羅の王子、多遲麻国に居座った天之日矛から始まる系譜である。詳細は後日に纏めようかと思うが…この王子が多遲摩之俣尾之女・名前津見を娶って多遲摩母呂須玖が誕生。その子が多遲摩斐泥で、更に斐泥の子が多遲摩比那良岐。

比那良岐の子に多遲麻毛理(垂仁天皇紀に登場:常世国に橘を求めた)、多遲摩比多訶、淸日子の三人。淸日子が當摩之咩斐を娶って誕生したのが酢鹿之諸男、菅竈上由良度美の二人。この由良度美を娶ったのが比多訶であり、誕生するのが葛城之高額比賣命となる。多遲麻国内の地名がズラリ、それは後日として…新羅の血が流れる比賣だと伝えている。

旦波、多遲麻、當摩、葛城これらの在処は既に紐解いてきたが、正に縦横の交流が行われていたと読み取れる。上記したように食が満たされた土地の間で行われた人材交流である。古事記の記述は、一見全てが唐突な感じに受け取られるが、実に見事に布石、少々後出しの感もあるが、が打たれているのである。

「迦邇米雷王」彼の登場はその後記載されないが、このような国と国、人と人と…「迦」する…の繋がりの基を示す重要なキーワードを担った命名であったと気付かされた。「息長帯比賣」はこのような背景を担う存在であったと思われる。

…仲哀天皇紀を通しては「古事記新釈」の仲哀天皇・神功皇后の項を参照願う。