2019年3月7日木曜日

御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇):葛城掖上宮 〔324〕

御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇):葛城掖上宮


第五代孝昭天皇(御眞津日子訶惠志泥命)は再び葛城の地に戻って来た。その真意を明かされることはないが、行きつ戻りつしながら、だが、着実に領地を拡げて行ったことは確かであろう。坐した場所は、ほぼ間違いなく求められるのであるが、一文字一文字に込められた意味を詳細に読み解いてみよう。
 
<葛城掖上宮>
この天皇の在処は「葛城掖上宮」から紐解く。「掖」=「脇(腋)」として、山を胴体と見做し、谷の部分を「脇(腋)」と表現したと解釈した。
 
掖上=脇(腋)を上がったところ

…の宮と解釈する。葛城の地で、それらしいところは田川郡福智町上野にある福智中宮神社辺りと推定する。

現在も山頂に達する登山道がある。谷間に入って暫くしたところに登山口が設けられているようである。正に脇から登るところであろう。

福智山のトレッキングレポートは多いが、香春岳は少ない。当然の結果かもしれない…「飛鳥」の山は消滅してしまっているのだから・・・。

脇道に入ると遭難しそうなので本道に戻って、宮の在処を求めてみよう。「御眞津日子訶惠志泥命」を紐解くことになる。
 
<御眞津日子訶惠志泥命>
図を参照願うと現在の上野峡は大きくは三つの谷川が合流、更に夫々が分岐した多くの谷川が合流した地形を示し、真に渓谷に相応しいものと思われる。

既出の文字解釈を適用すると・・・。

「御」=「統べる、束ねる、臨む」、「眞」=「一杯に満ちた」、「津」=「川の合流するところ」として…「御眞津」は…、
 
御(束ねる)|眞(一杯に満ちた)|津(川が合流する地点)

…「川の合流点が一杯に満ちたところを束ねる」と紐解ける。

深い谷にある数多くの津、中でも三つ列なった「津」を束ねて一つの川になったところを象形した表記と読み解ける。山腹の谷の状態から判断して現在の地図上には未記載の川を想定する。

「眞」は天之眞名井などで登場した文字である。宮の名前と併せて決定的に地形象形した記述であった。後の師木に坐した崇神天皇の諡号に含まれる御眞木は「山稜の端が一杯あるところを束ねる」と解釈する。山稜と河川では束ね方に違いこそあれ、「御」、「眞」の解釈は同様である。
 
<訶惠志泥:goo Map
訶惠志泥」は何と読み解けるのであろうか?…、
 
訶惠志(返し)|泥(否:ない)
=元には戻さない

…解釈できるようである。

葛城に帰ったが先代と同じことを繰り返さない、違うことをしよう、そんな心根を表しているように思われる。確かに娶りは変わり、御子の派遣も師木に近付くようだが・・・。

こんな読み解きも行ってみたが、やはり一文字一文字の地形象形であろう。「訶惠志泥」は…、
 
訶(谷間の耕地)|惠(山稜に囲まれた小高いところ)
志(之:蛇行する川)|泥(尼:近付く)

…「谷間の山稜に囲まれた小高いところで蛇行する二つの川が近付き傍らに耕地がある」という地形を示していると紐解ける。「惠」は人名に使われるのは、これが最初である。後の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)、また惠賀の表記でも登場する。全て上記の解釈を行って読み解ける。

「泥」=「氵+尼」と分解される。更に「尼」=「尸+匕」と分解され、「左、右を向いて尻を突き合せた形を象ったもの」と解説される。「近付く」と訳されるが、象形のイメージは「一旦近付いて離れる」状態を表していると思われる。上図に示したように二つの蛇行する川の様相を表現していると思われる。

これらの結果より、「葛城掖上宮」の在処は谷の入口にある小高いところであったことが導かれる。一見では現在の福智中宮神社辺りかと比定しそうだが、古事記は異なることを告げているようである。

古事記原文「天皇御年、玖拾參歲、御陵在掖上博多山上也」と記される。「博多山」は何処であろうか・・・ほぼ間違いなく現在の福智山となるのだが、聞き馴染んだ「博多」とは?・・・。
 
<掖上博多山>
博(遍く広がる)|多(山稜の端の三角州)

…山頂から延びる山稜の端に遍く三角州が広がる様を表したと思われる。頻出の「」の解釈に拠る。

多くの山稜と谷間が織り成す自然の造形美であろう。それを捉えた巧みな表現である。

福智山山塊中の最高峰でかつ山頂が広く幾つかの峰が集まった形状をしている。御陵は「鈴ヶ岩屋」辺りかもしれない。