古事記の『山邉』
古事記中に「山邉」の文字が登場するのは、崇神天皇紀の御陵の場所が最初である。古事記・日本書紀・万葉集ゆかりの地に多数出会える「山の辺の道」として有名な道として知られる。崇神天皇及び景行天皇の両御陵は、現在の国道169号線沿いにあるとされている。
奈良盆地を囲む東側の山稜の麓を南北に繋がる道とされているようである。詳しいところはこちらのサイトで知ることができる。とにかく古代の香りに満ち溢れた場所として知り置いたところである。勿論本ブログ主も、それを信じて、実際に幾度か出向いたこともある。「山の辺の道」は懐かしいところなのである。
1. 山邊道勾之岡上陵・山邉之道上陵
さて本題に入ろう。崇神天皇陵として記載される。御眞木入日子印惠命は師木に侵出、初国の天皇として記録されている。その和風諡号が指し示すところは、現在の田川郡香春町中津原辺りと紐解いた。「御眞木」、「印惠」が示すところは一に特定するのに十分な情報を有していたのである。
「山邉」は如何なる地形を示しているのであろうか?…「邊」の文字は、伊邪那岐の禊祓の段(邊津、邊疎)などに類似する解釈「邊」=「端が広がった様」とすると、「山邊」は…、
山の端が広がったところ
…と読み解ける。「山麓が延びて広がったところ」である。ただ、この地形象形表記では特定することは難しい。「道」=「辶+首(凹(窪)んだところ)」を合せて該当する場所を探索することになる。
<山邊道勾之岡上陵> |
更にその山稜に神武天皇が滞在した筑紫岡田宮の[岡]=「山稜に囲まれた中に山稜があるところ」を示す場所が見つかる。
その岡の上を示していると推定される。漠然とした表記かと思えば、いつものことながら極めて精緻なものであることが解った。
急斜面であり、かつ御祓川との間隔も少なく、現在でも開発が進んでいない場所のようである。現地名の「湯」は、伊余湯のように山から流れる川の様相を表しているのではなかろうか。
倭国が大国への道を歩み始めた時の二人の天皇は、ほんの少し離れたところに眠っておられることになる。ほぼそれらしき場所なのであるが、「山邉」をこの地に決定付けるもう一人の人物が登場する。
2. 山邊之大鶙
垂仁天皇と沙本毘賣との間に誕生した御子、本牟智和氣命が何故か言葉を発せず、近習達が何かと世話する時に「鵠」の鳴き声を聞いて「阿藝」と言ったことから、この「山邉之大鶙」の出番となる。彼は「鵠」を求めて諸国を巡る役を担ったと記述される。
登場する諸国の順序、国から国へと向かう時の記述は、真に正鵠を得ていて、諸国の配置が決定されるのである。詳細はこちらを参照願うが、これも従来の解釈は到底納得できるようなものではなく、古事記の主舞台は奈良大和ではないと言える。
それはともかくも大変な苦労をした「山邊之大鶙」は何処に住まっていたのか?…どうでも良いこと?…ではなかろう。
天皇であろうがなかろうが、名前はその現住所を物語っている、というのが古事記の「ルール」の筈である。
結果は図に示したように、真に見事な地形象形であった。「鶙」=「帝+鳥」として、「帝」の甲骨文字の形で山稜の図柄を表したものと解る。
柿本(現地名柿下)の「市」更には大坂山の「大」と並び、この地の名称は、山稜の図柄に依存して名付けられたと思われる。
やはり、解いてみるものである。大坂山~愛宕山山系の南麓が如何に早期に開け、人々が住まった地であるかが、これらの名付けからも伺える。
名前に「鳥」が含まれるから(?)御呼びが掛かり、苦労させられ、挙句には効果は見られない。何とも悲哀なことではあったのだが、「山邉」の場所を確定するには、不可欠な登場人物と言える。重ね重ね、労を労わねばならないようである。
万葉の時代を代表する「柿本人麻呂」の名前は「山邊之大鶙」の近隣に出自を持つことが判る。「山邉道」は彼とは切っても切り離せないところであったのではなかろうか。