2019年5月25日土曜日

大年神:大山咋神(山末之大主神) 〔350〕

大年神:大山咋神(山末之大主神)


速須佐之男命が神大市比賣を娶って誕生したのが大年神である。その大年神が実に多くの御子を誕生させる。その中の一人…秋津に居た天知迦流美豆比賣が生んだ「大山咋神」又の名を「山末之大主神」…である。

また、大年神の他の系譜には、伊怒比賣を娶って誕生した御子に韓神・曾富理神などが記されていて、韓国、京城と深い関係を持っていたと言われている。そして記述に矛盾があれば、神話だから、と放棄する。いずれにしても古事記は全く解読されていなかった、と断言できる。それはともかく、詳細はこちらを参照願う。

さて、本題の「大山咋神(山末之大主神)」の紐解きは、読み返すと、決して明解ではなかったことに気付いた。大活躍をされた神で、坐したところが複数あり、それに気を取られてしまった…単なる言い訳を述べて、早速紐解いてみよう。

該当する古事記原文を抜き出すと…「大山咋神、亦名、山末之大主神、此神者、坐近淡海國之日枝山、亦坐葛野之松尾、用鳴鏑神者也」…である。

出雲に生まれ、近淡海国及び葛野にまで渡った人物であることが解る。通説は、良くできていて、「近淡海国」=「近江」として、琵琶湖周辺の地に比叡山、葛野が配置されているのである。従って、「大山咋神」が祭祀されている。祀られる方も、何で俺が?!…ってことであろうが、天皇陵と同様の状況であろう。


大山咋神(山末之大主神)
  
この名前を何と紐解くか?…「山末」の別名からすると山稜の端に坐していたのであろうが、「大主神」とは大物風の名付けであろうか・・・。


<大山咋神(山末之大主神)>
勿論、これでは至る所にある山稜の端から場所を特定することは不可能である。やはり「咋」の解釈に頼ることになる。

幾度か登場する「咋」=「口+乍」と分解される。「作」にも含まれる「乍」=「切れ目を入れる様」を象ったものと解説される。

結果として、ギザギザ(段々)になった形を表すものと解釈されている。伊邪那岐の禊祓で生まれた飽咋之宇斯能神などに含まれた文字解釈である。

類似の地形、山稜の端が海(汽水湖)に面するところは浸食によって複雑な形状を示すと思われる。それを「咋」と表記したと読み解ける。


大山(平らな頂の山稜)|咋(ギザギザになった地形)

…と紐解ける。

些か不運なことに「山末」は地形の高低差が少なく判別し辛いのであるが、その時は陰影起伏図を採用すると、「淡海」に面した場所でギザギザとした地形が見出せる。図に示した通りに父親の大年神の近隣の地である。

また、大年神が香用比賣を娶って誕生させた大香山戸臣神、御年神の前に隣接するところと解る。「大主神」とは、大物風などと述べたが、「主」=「山稜が[主]の地形」として「山末之大主神」は…、

平らな頂の山の山稜が[主]の形から伸びた稜線の端

…に坐した神と読み解ける。正に戸ノ上山山稜の中央部に位置する枝稜線の端っこに当たる場所である。端っこで誕生すると、新天地を求めて彷徨うのであろうか?…山の谷間に居ては巣篭ってしまうのかもしれない。彷徨う先が、何とも突飛なのだが・・・。


<大山咋神(山末之大主神)>
出自の場所に加えて、坐した場所が二つもある程に活躍をされた神である。その場所は「近淡海國之日枝山、亦坐葛野之松尾」と記述される。

この神には「用鳴鏑神者也」と付記されるように武闘に長けていたのであろう。強引に遠征したのであろうか・・・。

突然倭国の地名が出現する。この記述だけでは到底突き止めることは不可能で後代の記述に依存する。それらを参照しながら求めてみよう。
 
・近淡海国之日枝山

「近淡海国」は、古事記で登場する初の場面である。現在の行橋市、京都郡みやこ町・苅田町辺りが該当するところである。

玄界灘・響灘に面するのではなく周防灘の一部に接し、倭国の中心に近接するところである。

古事記の中で発展する地であってその初期は蛇行する複数の川がある入江の「難波」の地であったと思われる。

「近淡海国」の場所が求められるのは、垂仁天皇紀に山邊之大鶙が鵠(クグイ:白鳥の古名)を求めて木国から高志まで追跡する行程の記述からである。水辺に佇む鵠の居場所を求める?…何故そんな説話を?…と訝っては勿体ない。登場する国々の場所が線で繋がった見事な記述なのである。安萬侶くんが伝えたかったのは、国々の配置であったことに間違いなかろう。

さて、その「近淡海国」にある「日枝山」は、入江の奥まった中央にあり中心の地点、現在の行橋市上・下稗田辺りにある小高いところと推定した。現在の日吉神社、比叡山それらの”本貫”となる地である。


<近淡海国之日枝山>
「日枝」とは何を示しているのであろうか?…「日(炎)」として、「枝」=「木(山稜)+支(分かれる)」と分解すると…、
 
[炎]の形の山稜が枝のように分かれているところ

…と紐解ける。

図に示したように長く延びた主稜線が更に分かれるところが見出せる。その枝稜線が[炎]のような地形を示している。

この地は後の開化天皇紀に比賣陀と記される。共にこの枝稜線の形を表したものと思われる。異なる文字で重ねられた表記である。

古事記が記す「日枝」の由来である。解ければ納得の地形象形と言えるであろう。「日枝山」は現在大規模な団地(宮の杜)となっているところと思われる。後の大雀命(仁徳天皇)が開拓する難波津の中央部にあり、天皇の宮こそ建てられることはなかったが、多くの命が住まった場所でもある。

「日枝(ヒエダ)」=「稗田(ヒエダ)」は関連する地名と思われるが、定かではない。「日吉」、「比叡」と文字が変化するが、それらの全ての元がこの地「日枝」にあると確信する。

・葛野之松尾

「葛野」は「吾勝野」と呼ばれた地域(現在の田川郡赤村赤)にある場所と比定した。その中に「松尾」と表記される場所が見出せるであろうか?・・・。
 

「松」=「木+公」と分解される。「公」の甲骨文字を図に示したが、「公」=「ハ+囗」と分解される。

「八」=「谷」の象形としてきたが、「ハ」=「谷が作る[ハ]の形」を象った表記と思われる。即ち二つの谷が集まるところを表していると読み解く。

「囗」がその間にある台地を示している。見事に「公」の文字ができ上がっているのである。

後に神八井耳命が祖となる伊勢之船木という地名が登場する。「船」=「舟+公」として同様に紐解ける。二つの谷が集まるところに渡し場ある地である。

近淡海国と同様、未開の地であったと思われるが、上記したように「用鳴鏑神」と言われ、武力を背景とした侵出を行ったようである。

上記の、唐突に記された「近淡海國之日枝山」、「葛野之松尾」は一体何を示そうとされたのであろうか?…坐したのであるが、その後の経緯は全く語られない。後代に近隣の地に命が入って行くが、その繋がりも不詳である。関連する資料がなかったからであろうが、大年神の系列として、発展する記述は見当たらない。

憶測の域ではあるが、これらの地は、邇藝速日命が戸城山に坐し、その子孫が南北に広がり(現在の田川郡赤村~北九州市小倉南区;参考図)、また、その領域に留まったことを示しているように感じられる。その領域の東側及び南側は全くの未開の土地であったのであろう。

邇藝速日命系列もさることながら、速須佐之男命ー大年神系列も、古事記が語る歴史の影の部分を担う役目となっているようである。そして、このコントラストこそが古事記が伝える主要なところの一つでもあることを忘れてはならないように思われる。