2019年5月22日水曜日

伊勢大神之宮:佐久久斯侶伊須受能宮・外宮 〔349〕

伊勢大神之宮:佐久久斯侶伊須受能宮・外宮


日子番能邇邇芸命の段で唐突に登場する宮である。実は、この段の解釈は古事記中最も難解なところと思われる。概略は主題のように「伊勢神宮=佐久久斯侶伊須受能宮」とすれば読み取れる内容なのだが、一文字一文字の解釈は簡単ではないようで、殆ど訳されていないのが現状であろう。

登場人物は概ね既出であるが、やはり地名が読取り難く感じられる。概略であっても、現在の伊勢神宮の場所を示しているとは到底思い難く、そんな背景からもスルーの状態を継続しているかもしれない。正に”禁忌”の世界に足を踏み入れることになる。

諸行無常、伊勢神宮の本来の姿を求めることは重要であろう。日本の天皇は、世界(文化)遺産と思うのだが・・・。尚、登場人物など詳細は、こちらを参照願う。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

此二柱神者、拜祭佐久久斯侶、伊須受能宮自佐至能以音。登由宇氣神、此者坐外宮之度相神者也。次天石戸別神、亦名謂櫛石窻神、亦名謂豐石窻神、此神者、御門之神也。次手力男神者、坐佐那那縣也。故、其天兒屋命者、中臣連等之祖。布刀玉命者、忌部首等之祖。天宇受賣命者、猨女君等之祖。伊斯許理度賣命者、作鏡連等之祖。玉祖命者、玉祖連等之祖。
[この二神は伊勢神宮にお祭り申し上げております。なお伊勢神宮の外宮にはトヨウケの神を祭ってあります。次にアメノイハトワケの神はまたの名はクシイハマドの神、またトヨイハマドの神といい、この神は御門の神です。タヂカラヲの神はサナの地においでになります。このアメノコヤネの命は中臣の連等の祖先、フトダマの命は忌部の首等の祖先、ウズメの命は猿女の君等の祖先、イシコリドメの命は鏡作の連等の祖先、タマノオヤの命は玉祖の連等の祖先であります]


御伴をした神々の行く末の一部である。武田氏は「佐久久斯侶、伊須受能宮」=「伊勢神宮」とサックリと訳されている。勿論直観的にも理解できるところではるが、一文字一文字の意味するところは不詳のようである。

一説には「佐久久斯侶」は「伊須受」の枕詞(拆釧:口の割れた鈴のついた腕飾り、五十鈴に掛かる)…「自佐至能以音」と注記されるように口に割れた鈴に関わる表記であろう。だが、「以音」とするには地形を象った記述と推察される。
 
佐久久斯侶伊須受能宮

ではその枕の意味は?…、
 
佐(促す)|久([久]の形)|久(山稜)|斯(切り分ける)|侶(仲間)

…「山稜に促されて[久]の形(二俣)に仲間(山稜)が切り分けられたところ」と紐解ける。「佐久(サク)」=「割く」と解釈しても通じるようであるが、重ねた表記と思われる(通説の口が割れた鈴は、この解釈に基づくのであろう)。下図<佐久久斯侶伊須受能宮>参照。

続けて、「伊」=「小ぶりな」、「須」=「州」、「受」=「受け渡す、引き継ぐ」の意味から地形象形的には、「受」=「連なる」、「能」=「熊(隅)」として…「伊須受能宮」は…、
 
伊(小ぶりな)|須(州)|受(引き連なる)|能(隅)|宮

…「小ぶりな州が引き連なるところの隅にある宮」と解釈される。「伊須受」の「受」は、天宇受賣命、また後の美夜受比賣毛受の「受」と同義であろう。

「佐久久斯侶伊須受能宮」を通して解釈すると…、
 
山稜に促されて[久]の形に切り分けられたところで
小ぶりな州が引き連なっている隅にある宮

…を示していることが解る。現在の北九州市小倉南区蒲生、現在の蒲生八幡神社辺りと推定される。


<佐久久斯侶伊須受能宮>
紫川の西岸、即ち蒲生八幡神社の東麓には谷間からの川が流れているのが伺える。国土地理院地図参照。

当時には、より多くの川が紫川と合流する場所であったと推測される。それを「伊須受」と表記したと思われる。

紫川の東岸については、現在は志井川との間に大きな三角州の地形を示すが、当時は紫川も志井川も幾つにも分岐して多くの州を形成していたと推測される。

北九州の地形・地質の調査資料に依ると紫川流域はかなり南側(内陸側)に至るまで沖積層の地層を示しているようである。現在の地形との差が大きく現れる地域かと推測される。

現在の地名、南方・徳力・守恒辺りは、沖積が未熟であり、紫川の氾濫する度に流れを変え、また分岐して州が形成されていたのではなかろうか。

ずっと後代の敏達天皇紀に伊勢大鹿首之女・小熊子郎女が登場する。この宮の近傍を「能=熊(隅)」と名付けていたと思われる。また「伊勢神宮、伊勢大神之宮」の表記で現れるのは、かなり後になって…例えば倭健命の記述など…である。
 
登由宇氣神(外宮之度相神)

ここで取り上げたいのが「登由宇氣神、此者坐外宮之度相神者也」の一文である。「登由宇氣神」は「豊受神」とも訳されるが、これが意味するところは何であろうか?…「坐外宮之度相神」坐してるところが「外宮の度相の神」だと言う。通説は、ほぼ全面的に解釈放棄である。こういう時に極めて重要な意味が潜んでいるのである。
 
度(広がり渡る)|相(山稜の隙間)

…「山稜の隙間が広がり渡っているところ」にある外宮は、内宮である「伊須受能宮」に対して川向こうにあり、向き合ってる状況と解る。「相」=「木(山稜)+目(隙間)」と分解できる。後に登場する相津など多用される表記である。

「伊勢神宮」が上記のところとすると「外宮」は同区守恒の小高い丘の麓にあったのではなかろうか。「登由宇氣」は…、
 
登(登る)|由(寄り添う)|宇(山麓)|氣(気配:~らしい)

…「山麓らしきところに登って寄り添う」神と紐解ける。上記の場所の地形を表していると思われる。「豐受神」とすれば…、
 
豐が受け入れる神=豐(日別)にある神
 
<伊須受能宮・外宮>
…と紐解ける。簡単に言ってしまえば、ここも「豐」としましょう、という意味合いになる。

また「受」(引き継ぐ)の解釈を用いれば…、
 
豐が引き継ぐところの神

…と読み解ける。結果として「伊須受能宮」の「須(州)」が連なって「豐」が「受(引き継ぐ)」を表していると解釈できる。

天照大御神の詔「此之鏡者、專爲我御魂而、如拜吾前、伊都岐奉」に従って、「佐久久斯侶、伊須受能宮」が造られたのである。「伊都岐奉」とは五穀を奉ることであろう。

その五穀を得る場所が紫川と志井川に挟まれた巨大な三角州、その州の中が治水されて連なっている状況を「度相」と表現したものと思われる。「此二柱神」とは天照大御神と高木神であろうか・・・。

伊邪那岐・伊邪那美が協同して生んだ最後の神について「和久巢日神、此神之子、謂豐宇氣毘賣神」と記述された。「和久産巣日神」=「穏やかに[く]の字に曲がる州を造り出す日神(日々の神)」と紐解いたが、これで繋がった。州を生み出す神の子、それが豐宇氣(受)毘賣神であると告げているのである。

本題の「登由宇氣神」の示すところは…上記守恒の小高い丘は「白日別」と「豐日別」の間の方向に位置する。「伊勢神宮」という表現を取らずに紫川の川中にある州の「受」の表現を用いてその場所を示していた。これが「五十鈴(イスズ)」に繋がるのであるが、古事記に鈴は登場しないようである。
 
<豐由宇氣神・櫛石窻神・忌部首>
「天石戸別神」は少し前の記述では「天石門別神」と記されているが、更に多くの別名を与えられる。

櫛石窻神」「豐石窻神」「御門之神」どうやら最後の表記が坐していた場所を表しているのであろう。

「石窻」は何と読み解くか?…、
 
石([石]の地形)|窻(通り抜けるところ)

…「天石門」と同様に「石」の文字形の地が見出せる。それに接して「窻」の地形(凹んだところ)も見出せる。両方の地形が並んだ場所を表していると解釈される。

更に「御門之神」は…、
 
御(束ねる)|門(谷間の登り口)

…「[石窻]の山稜にある谷間の登り口を束ねるところ」と紐解ける。現地名は北九州市小倉南区守恒にある八旗八幡神社辺りと推定される。小高くなった場所で古墳があるとのこと(参考資料)。

「櫛」=「櫛の目が並んだような」、「豐」=「多くの段差がある高台」と解釈すれば、「石窻」の地形を詳しく表していると思われる。また、上記したように「豐(日別)」に重ねているとも思われる。

「天」(壱岐)の「石」と同じ地形象形を行っていることが解る。そして、その「石」が繋がっていることを示しているのである。多くの別名を記して「石」が示す意味を伝えようとした記述ではなかろうか。現在の蒲生八幡神社、八旗八幡神社及び大権現がある場所、それが伊勢神宮内宮・外宮の”本貫”の地であると読み解ける。
 
忌部首・中臣連

布刀玉命が祖となった「忌部首」の場所も併せて図に示した。「忌」=「己+心」と分解して、蛇行する地形を表すと解釈する。神武天皇紀に登場する紀國などに類似する。頻出の「首」=「凹(窪)んだところ」である。現地名は小倉南区葉山町辺りでる。
 

<中臣連>
少しサイトを検索すると、朝廷の祭祀を司った氏族であって、主に御門祭の時には忌部氏の祝詞が用いられたとのことである。

次に述べる中臣氏がその他の祭を担当したが、次第に取って代わられたようである。
上図に示した通り、忌部氏は御門の近隣に位置している。本来の姿が読み取れたのではなかろうか。

天兒屋命が祖となった「中臣連」の「中」=「真ん中を突き抜ける様」と解釈すると・・・、

「中臣」は…、
 
左右対称に開いた山麓の谷間

…と紐解ける。更に「連」=「山稜の端が延びて連なった様」を表していると読み解ける。

これが「中臣連」の出自の場所であり、それは伊須受能宮に近接しているところである。邇邇芸命の降臨に随行した命達は、猨女君を除き伊勢大神宮の近隣に住まい、そして祭祀を執り行う役目を担ったと告げている。そして中臣氏は後に藤原氏としてその権勢を天下に知らしめることになる。

現在の伊勢神宮の外宮と内宮を繋ぐ道も古市参宮街道などとして大切に保存されているようである。「豐」=「豊かな」も掛けている、としておきましょう。あや、そうなってるではないか…衣食住の恵みの神…。(2020.03.08改)