2019年4月18日木曜日

建内宿禰:平群都久宿禰・木角宿禰 〔338〕

建内宿禰:平群都久宿禰・木角宿禰


天皇家の早期に登場した傑物建内宿禰、通説では竹内宿禰とも解釈されるのであるが、勿論大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の御子である以上葛城に深く関わっている人物でもある。彼一人を抜き出しても、古事記の解釈は魑魅魍魎の有様であろう。

そんなことは、取り敢えず脇に置いて、彼の子孫が拡散した記述の中で少々読み解きが不十分であったところの補足である。詳細はこちらを参照願う。

古事記原文(抜粋)…、

此建內宿禰之子、幷九。男七、女二。波多八代宿禰者、波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君之祖也。次許勢小柄宿禰者、許勢臣、雀部臣、輕部臣之祖也。次蘇賀石河宿禰者、蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也。次平群都久宿禰者、平群臣、佐和良臣、馬御樴連等祖也。次木角宿禰者、木臣、都奴臣、坂本臣之祖。次久米能摩伊刀比賣、次怒能伊呂比賣、次葛城長江曾都毘古者、玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也。又若子宿禰、江野財臣之祖。
 
平群都久宿禰

「平群」は通説に従い…地形象形として…現在の田川市、田川郡に横たわる丘陵地帯である。さてその中に求める地名があるのか、勿論そのまま残っているとは思えないが…。「都久」=「衝く(田)」で丘陵地帯の開拓に努めた宿禰かもしれない。

平群():田川市伊田 佐和良():田川市奈良 馬御樴():田川市伊加利

田川市以外は田川郡に属する。大任町は大行事と任原との合併で生じた地名のようである。元の大行事辺りが「平群」の中心地だったのであろう。

通説などを参考して考察すれば上記のようなところに落ち着きそうであるが、一文字一文字の紐解きも忘れてはならない。「群」=「君+羊」だが、更に「君」=「尹+囗(大地)」と分解され、「尹」=「統治する、整える」の意味を持つとされる。「平」=「平らに」、頻出の「羊」=「谷間」、「都」=「集める」、「久」=「山」とすると・・・、

「平群都久」は…、
 
山が集まったところで谷間の地を平らに整える

…と紐解ける。文字の印象から読み取れる結果と大きくは異ならないようであるが、やはり一文字一文字の紐解きは、極めて具体的である。丘陵地帯は決して平らではなく、それなりの凹凸のある形状である。それを「平群都久」で表記したと読み解ける。

各々祖となった地を読み解いてみよう。「平群臣」は中心となる地と思われる。「佐和良臣」の「佐和良」の文字列を紐解くと…「佐」=「助くる、支える、促す」として…、
 
佐(支える)|和(しなやかに曲がる)|良(なだらか)

…「しなやかに曲がってなだらかな地に支えられたところ」と読み解ける。
 
<平群都久宿禰>
現在の田川市奈良を、中元寺川に向かって流れる蓑田川沿いの地と思われる。「和良」の地形であることが判る。

「奈良」、「那羅」という表記は古事記に出現しない。地形象形には不向きな文字列のようである。

言い換えると、だから地名として現在も使用されるようになったのかも?…である。

「奈良」の地名を見つけて、奈良大和との関係を云々する向きもあるようだが、それを古事記記述と絡めての考察は無意味である。

また少し東方には「京都」の文字もある。上記したように古事記には「京都」の文字も見出すことはできない。

「馬御樴」「樴」=「杭」である。文字の意味するところは「牧場」牧畜の行われていたところではなかろうか・・・などと初見では読んだが、これもしっかり文字の紐解きであろう。「馬」=「踏み台の地形」とすると…、
 
馬(踏み台の地形)|御(束ねる)|樴(杭:山稜)

…「踏み台の地形が束ねられた山稜」と解読される。現地名田川市伊加利は広大な工業団地になっているようだが、当時もそれなりに平坦な地形を有していたのであろう。ちょうど山稜が分岐する(台地が寄り集まる)ところが見受けられる。それを「樴」と表記したと解釈される。

建内宿禰の次女「怒能伊呂比賣」が坐した場所に接するところでもある。唐突に「怒」が登場したように錯覚しがちだが、ちゃんと建内宿禰一族が広がって行くところに居た比賣と解る。それにしても現在の「伊加利」の地名は広大である。

「平群」地の地形象形は「師木」と同様に判り辛いところではあるが、垂仁天皇の師木玉垣宮の在処と同じく現在の地形から求めることができた。古事記記述の精緻さにあらためて感動する思いである。
 
木角宿禰

():豊前市大村 都奴():豊前市中村 坂本():築上郡築上町坂本

<都奴臣>

「木」が示す場所は木國造之祖宇豆比古の在所及びその近隣であろう。今回は「都奴」を紐解くことにする。

「都奴」=「角」とすれば現在地名は「豊前市中村」であるが「角田八幡宮」「角田小・中学校」「角田公民館」などなど旧角田村の名前が残っている。

古事記記載の由緒ある名前、消さないで・・・。「木角宿禰」は、この「角田」が本拠地だったのではなかろうか。

速須佐之男命の御子、八嶋士奴美神に含まれる「奴」=「女(嫋やかに曲がる)+又(手)」と分解でき、「又(手)」=「手の指が分かれる/寄り集まる様」を象った文字であると解釈される。

図に示したように「都奴」は…、
 
嫋やかに曲がる地形が寄り集まったところ

…と紐解ける。仲哀天皇紀に高志之「角鹿=都奴賀」と記述される。「都奴=角」と古事記が伝えているのである。
 
<坂本臣>
「坂本」はそのものズバリで残っているようであるが、残存地名のみで、ここだ!…とは言わないのが本著の取り柄…なのかどうか怪しいが・・・。

それにしても「坂本」だけでは何とも解釈のしようがない。取り敢えず「坂」を原義に戻って紐解いてみよう。

「坂」=「土+反」これで地面が反った形を表すと解釈できるのでるが、更に「反」=「+又(手)」と分解される。「本」=「山稜の麓」とする。

粉々された破片を繋ぎ合わせると・・・、
 
土(地)|厂(崖)|又([手]の形)|本(山稜の麓)

…「[手]の形の山稜が崖となっている麓の地」と紐解ける。

「坂」を通常に解釈しては全く特定できなかったが、これで求めることが可能となる。現地名築上郡築上町山本・椎田辺り、求菩提山・国見山山稜の端にあっては珍しく崖に挟まれたところである。確かに「坂本」も近隣に当たるところにある。現在は見事な棚田が連なっているように見受けられる。

安康天皇紀に「坂本臣等之祖・根臣」が登場する。上図の手先辺りに居たのではなかろうか。これらの唐突に登場する臣、どうにかその居場所も落ち着いたようである。

「木角宿禰」が居た地域、北は城井川、南は山国川に挟まれた地となる。木国の背後は山深い山岳地帯である。豊な材木資源で倭国に貢献したということであろう。古事記の中で地味ではあるが欠かせない位置付けのように感じられる。

「平群」の地の詳細やら「都奴」の地形象形の再現であったり、やはりしっかりと紐解くことであろう。彼らの事績は全く語られないが、この居場所を基に伝えられる出来事を眺めてみるのも一興かもしれない・・・それはまたいつの日か・・・。