2019年4月15日月曜日

古事記の『小楯』 〔337〕

古事記の『小楯』


古事記に「小楯」の文字が現れるのは、白髮大倭根子命(清寧天皇)紀に「爾山部連小楯、任針間國之宰時、到其國之人民・名志自牟之新室樂。・・・」と記述される段である。皇統断絶の危機に際して、大長谷若建命(雄略天皇)に惨殺された市邊忍齒別王の御子、意祁命・袁祁命を針間国で見つけると言う重要な役割を担ったと告げる。

なのだが、本ブログの主対象は仁徳天皇の大后石之日賣命が嫉妬で狂って発した「袁陀弖 夜麻登」の「袁陀弖」である。勿論「山部連小楯」も併せて紐解くことにする。通説では夜麻登に掛かる枕詞「小楯」として知られている。奈良大和を取り囲む山々が盾を並べてような景観を持つことに由来すると解説されている。勿論「小」の意味は含まれていない。

現在の地形を見る限り、とても楯を並べたような地形でもないし、通常の山を楯と表現することはあり得ないであろう。無茶苦茶な地理感覚がそのまま今に残っているという有様である。「令」=「目出度い」と解釈するのと同様であろう。

そんな背景で「小楯」の意味をじっくりと紐解いてみようかと思う。当然、その解釈によって「夜麻登」の文字解釈も、くっきりと浮かんで来る、筈である、何せ枕詞なのだから・・・。

袁陀弖 夜麻登」が登場する場面を再掲することから始める。古事記原文[武田祐吉訳]…、

自此後時、大后、爲將豐樂而、於採御綱柏、幸行木國之間、天皇婚八田若郎女。於是大后、御綱柏積盈御船、還幸之時、所駈使於水取司・吉備國兒嶋之仕丁、是退己國、於難波之大渡、遇所後倉人女之船。乃語云「天皇者、此日婚八田若郎女而、晝夜戲遊。若大后不聞看此事乎、靜遊幸行。」爾其倉人女、聞此語言、卽追近御船、白之狀具如仕丁之言。於是大后大恨怒、載其御船之御綱柏者、悉投棄於海、故號其地謂御津前也。卽不入坐宮而、引避其御船、泝於堀江、隨河而上幸山代。此時歌曰、
都藝泥布夜 夜麻志呂賀波袁 迦波能煩理 和賀能煩禮婆 迦波能倍邇 淤斐陀弖流 佐斯夫袁 佐斯夫能紀 斯賀斯多邇 淤斐陀弖流 波毘呂 由都麻都婆岐 斯賀波那能 弖理伊麻斯 芝賀波能 比呂理伊麻須波 淤富岐美呂迦母
卽自山代廻、到坐那良山口歌曰、
都藝泥布夜 夜麻志呂賀波袁 美夜能煩理 和賀能煩禮婆 阿袁邇余志 那良袁須疑 袁陀弖 夜麻登袁須疑 和賀美賀本斯久邇波 迦豆良紀多迦美夜 和藝幣能阿多理
如此歌而還、暫入坐筒木韓人・名奴理能美之家也
[これより後に皇后樣が御宴をお開きになろうとして、 柏の葉を採りに紀伊の國においでになつた時に、天皇がヤタの若郎女と結婚なさいました。ここに皇后樣が柏の葉を御船にいつぱいに積んでお還りになる時に、水取の役所に使われる吉備の國の兒島郡の仕丁が自分の國に歸ろうとして、難波の大渡で遲れた雜仕女の船に遇いました。そこで語りますには「天皇はこのごろヤタの若郎女と結婚なすつて、夜晝戲れておいでになります。皇后樣はこの事をお聞き遊ばさないので、しずかに遊んでおいでになるのでしよう」と語りました。そこでその女がこの語つた言葉を聞いて、御船に追いついて、その仕丁の言いました通りに有樣を申しました。そこで皇后樣が非常に恨み、お怒りになつて、御船に載せた柏の葉を悉く海に投げ棄てられました。それで其處を御津の埼と言うのです。そうして皇居におはいりにならないで、船を曲げて堀江に溯らせて、河のままに山城に上つておいでになりました。この時にお歌いになつた歌は、
山また山の山城川を上流へとわたしが溯れば、河のほとりに生い立つているサシブの木、
そのサシブの木のその下に生い立つている葉の廣い椿の大樹、その椿の花のように輝いており その椿の葉のように廣らかにおいでになるわが陛下です。
それから山城から回つて、奈良の山口においでになつてお歌いになつた歌、
山また山の山城川を御殿の方へとわたしが溯れば、うるわしの奈良山を過ぎ
青山の圍んでいる大和を過ぎわたしの見たいと思う處は、葛城の高臺の御殿、故郷の家のあたりです。
かように歌つてお還りになつて、しばらく筒木の韓人のヌリノミの家におはいりになりました]

仁徳さんが若い比賣を相手にするものだから、大后が嫉妬に狂って遁走するという段取りである。安萬侶くん筆さばきも軽やかで、前記したところも少し引用してみると・・・、

少々大后を走らせる為の前書きが何とも微笑ましい。庶民までも吉備国との行き来ができている様が伺える。定期船でも発着していたのかも?…そこで噂話が飛び交う、まるで江戸時代の渡し場の光景を浮かび上がらせるような記述である。民の賑わいを伝えんがためとも思われるが、むしろ捏造された匂いが感じられない。安萬侶くんの筆さばきかも・・・。

吉備の「黒日売」との密会が終わったかと思うと、自分がいない間に、なんと宮に女を連れ込んで日夜…なんてヒドイひと、許せません、あんたのお仕事のためにわざわざ出掛けて取って来たのに…大事なものをかなぐり捨てて、実家へ・・・その行程記述が始まる。
 
<石之日賣命>
「夜麻志呂賀波」=「山代(背)川」=「山の背(うしろ)を流れる川」を通って、「山口」=「那良山口」に到着する。

彦山川と中元寺川に挟まれたところ、現地名田川市奈良の近隣となる。

現在の赤村辺りで犀川が大きく曲がる所で上陸し、おそらく舟を引き摺って彦山川に向かったと思われる。

この川を下れば目的地に届くのだが、ここで思い止まって、開けた眺望の場所で見渡せる景色を縷々と述べる。地図を参照願うと、見事に葛城(現地名田川郡福智町辺り)が見渡せることが判る。

初見では・・・枕詞「あおによし」の「那良」(現在の田川市奈良)を過ぎ、枕詞「小楯」=「青山の囲んでいる」そうでしょう(?)…「夜麻登」=「田川市香春町高野」を横に見ながら・・・と記している。

現在の奈良大和では「平城」から「大和」を過ぎて葛城に向かうことはないであろう。殊更葛城を遠望する時に挙げる場所ではない。怒り狂った大后の目が回っていた?・・・古事記の記述は信用できない?…と言う結末であろう。

武田氏は「楯」を使わず「青山」としている。現実的な解釈を採用したからであろう。がしかし「楯」に青山の意味はない。致し方なく訳されたものと推察される。ともあれ、大后はここで思い止まって山代に戻り、奴理能美のところに留まったと伝えている。上図に示した通りの行程を歩んだことと思われる。


楯津

「楯」は、神倭伊波禮毘古命と登美能那賀須泥毘古の初戦の場所となった場所に用いられている。この「楯津」は、それを含めて三つの異なる表現で表していることが解る。残りの二つは「青雲之白肩津」と「日下之蓼津」である。詳細はこちらを参照願う。


<青雲之白肩津>

①青雲之白肩津

「白」=「団栗もしくは頭蓋骨」を象ったものと言われる。地形的には丸く小高いところと解釈すると…「肩」=「直角に曲がったところ」として…、
 
丸く小高いところが直角に曲がった地

…と紐解ける。山稜の端に並ぶ小高く丸いところを捉えた表記と思われる。現地名北九州市小倉南区長野と横代東町の境辺りである。

②日下之蓼津

邇藝速日命の別称として「櫛玉命(クシタマノミコト)」と呼ばれる。「日下(クサカ)」とは…、
 
<楯津・日下之蓼津>
ク(櫛玉命)|サ(佐:助くる)|カ(処) 

…「櫛玉命のご加護があるところ」となる。古事記序文に「日下}=「玖沙訶(クサカ)」と読むことが述べられている。

登美能那賀須泥毘古の初戦勝利は邇藝速日命のお陰であったと後の世の人々が言ったと伝えている。

では「蓼津」とは何を意味するのであろうか?…「蓼」=「艹+羽+羽+㐱(人+彡)」とバラバラにすると、地形象形していることが解る。

二つの羽の様な台地に挟まれた「髪の毛のようにしなった入江(人)」を表していると読み解ける。何とも言えないくらいに見事な地形象形である。

邇邇藝命の兄、邇藝速日命(天火明命)の威光との闘いであったことを述べている。彼らとの闘いそしてその後裔達との融和(娶り)を繰り返して草創期に天皇家は統治の範囲を拡げて行ったのである。

では本題の・・・、

③楯津

「楯」、楯を並べたような津?…文字の意味そのものを用いているとは到底思われない。「楯」=「木+盾」、更に「盾」=「斤(斧)+目(隙間)」と分解される。
 
木(山稜)|斤(切り取る)|目(隙間)|津(入江)

…「山稜を斧で切り取った隙間のような入江」と紐解ける。上記①、②は津の周辺の地形を説明し、③で津の形を述べたものと解る。


<神屋楯比賣命・事代主神>
神屋楯比賣命

もう一つの例示である。大国主命が娶った神屋楯比賣命、事代主神の母親でもある。この比賣にも「楯」が含まれる。

少々見辛いかもしれないが、山稜に端が割れていることが伺える。

現在は近隣を高速道路が通ったり、地形の変化は否めないが、基本の形は残されているように思われる。

出雲を譲った「事代主神」の場所も示してある。この名前の解釈も極めて重要な意味を持っているが、詳細は原報を参照願う。

前置きが長くなって来たようだが、もう一つの例示を・・・、


狹城楯列陵

帶中津日子命(仲哀天皇)の大后、息長帶比賣命(神功皇后)の陵墓の名称に使われている。后の陵名が記されるは二人だけ、その内の一人である。通常よく知られて、その活躍が伝えられる皇后ということになる。「狹城楯列」は…、
 
狹(狭い)|城(整地された高台)
楯(切り取られたような隙間がある地)|列(連なり並ぶ)

<狹城楯列陵>
…「狭いが整地された高台が切り取られたような隙間が連なり並ぶところ」にある稜と紐解ける。

現在は切り取られたところが、広大な棚田になっているようだが、その間に小高いところが見える。

やはりその一部は墓所になっているように伺えるが、その中の何処か?…が神功皇后の陵墓であろう。

「楯列」これなら「楯を並べたような」と解釈しても良いように思われるが・・・「小楯」ではない。

縷々と述べて来た「楯」は、その文字解釈として「切り取られた隙間」を表していると思われる。では袁陀弖 夜麻登」の「小楯」は何と紐解けるのであろうか?・・・。


小楯

少し振り返りながら・・・「小楯」は大和に掛かる枕詞と解説されている。青山が囲むという訳は「楯」が立ち並んでいる様を象ったという解釈であろう。だが、実際の大和は山に囲まれてはいるが、「楯」に繋がる地形とは到底掛離れた様相であろう。では、何故「小楯」という表現が生まれたのであろうか?…やはり「楯」の文字解釈である。

大国主命が娶った神屋楯比賣命、事代主神の母親でもあるが、また神倭伊波禮毘古命と登美能那賀須泥毘古の初戦の場所となった楯津、これらの名前に含まれる「楯」の解釈は「楯」=「木(山稜)+盾」更に「盾」=「斤(斧)+目(隙間)」と分解すると…、
 
山稜の端に斧で切り取られたような隙間があるところ


<夜麻登>
…と読み取れる。

「夜麻登」の部分を拡大したものを別図として示した。

「夜麻登」=「狭い谷間を登ったところ」と解釈した。その狭い谷間を「楯」=「斧で切り取ったような隙間」と表現していると紐解ける。

言い換えると「夜麻登」は「狭い谷間を挟む山稜が二つに分かれるところにある高台」を表していることが裏付けられたと思われる。

「夜麻登(ヤマト)」については様々に読み取られて来た。山門、山戸など、それなりに地形的には近いもののようにも思われるが、やはり、単なる門・戸ではなく、特徴ある具体的な地形を示している。

しかしながら、固有の地名ではなく「夜麻登」はその他にも存在するのである。「小」は「小さい」に重ねて、推古天皇の小治田宮近傍に類似の地形であり、[小]の字形を象った表記であろう。


<小楯>
これらの地形を満足する「夜麻登」に冠するのが「小楯」と読み解ける。

今回も古事記全般を通じて、揺るぎなく貫かれた記述に感心させられた。それがなければ混乱に陥るのみであったろう。

漢字学の重要性も痛感させられたようである。もっともっと漢字を大切に用いたいものである。

トンデモナク長くなってしまった。「山部連小楯」、「山部大楯連」と言う将軍もおられたようで、彼らの紐解きは後日とすることに・・・。