2019年4月22日月曜日

大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇):『淤斯呂』とは? 〔339〕

大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇):『淤斯呂』とは?


大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の和風諡号が表す意味は、何となく判ったようなところで中途半端に終わっていた。再度の見直し結果である。

古事記原文…、

凡此大帶日子天皇之御子等、所錄廿一王、不入記五十九王、幷八十王之中、若帶日子命與倭建命・亦五百木之入日子命、此三王、負太子之名。自其餘七十七王者、悉別賜國國之國造・亦和氣・及稻置・縣主也。故、若帶日子命者、治天下也。小碓命者、平東西之荒神及不伏人等也。次櫛角別王者、茨田下連等之祖。次大碓命者、守君、大田君、嶋田君之祖。次神櫛王者、木國之酒部阿比古、宇陀酒部之祖。次豐國別王者、日向國造之祖。

…と言う訳で、さしもの安萬侶くんも御子を省略して記述である。逐次追いかけてみよう。が、その前に天皇の諡号と居場所の紐解きである。

大帶日子淤斯呂和氣天皇の「淤斯呂」=「御代」とすると…、
 
淤斯呂和氣=御代別=子に代を別ける

…となる。上記中の「悉別賜國國之國造・亦和氣・及稻置・縣主也」の「偉業」に繋がる。言向和した、あるいは開拓した土地を分け与えたのである。素晴らしい、天皇家の実力を天下に示す作業である。と同時に全てが将来への布石ともなる。「大帯日子」は…、
 
大(大いに)|帯(満たす)|日子(稲穂)

…「大いに稲穂を満たす」国中に田畑を多く作り、その地を八十人の御子に分け与えたという大繁栄の倭国の天皇であったと伝えている。と言うことで、何とも豊かな時の天皇が浮かび上がって来るのであるが、「淤斯呂」=「御代」の読み替えで納得するわけにはいかない。

この三文字、決して目新しいものではなく、地形象形の表記として使われている。ならば…、
 
淤(泥が固まったような)|斯(切り分ける)|呂(四角く積重なる)

<大帶日子淤斯呂和氣命・纒向之日代宮>
…「泥が固まったような地と四角く積重なった地が切り分けられたところ」と読み解ける。「斯」=「其(分ける)+斤(切る)」と分解される。
 
「和氣」=「しなやかに曲がる様子の地」として、金辺川と呉川の合流地点にあって、「淤能碁呂嶋」(下図)のような地形を示す極めて特徴的なところである。

「纒向之日代宮」は何処であろうか?…「纏向」は…、
 
纏(纏わり付く)|向(向く)

…「山麓にあって正面を向けている」と読み解ける。正面を向けているのは、既に登場した三つの畝の香山(香春岳)の最高峰、香春三ノ岳である


<淤能碁呂嶋>

では「日代」とは?…、
 
日(日=太陽)|代(背)

…「日が背にある(日を背にする)」と解釈される。即ち香春三ノ岳に対してその正面を向けていて、日(太陽)がその背を照らす宮と思われる。

この解釈で宮は、呉川が流れる谷間を背にして建っていたと推定される。

上記の「淤斯呂和氣命」と併せて、図に示した通り、現在の福岡県田川郡香春町鏡山辺りと結論付けられる。

現在の四王寺辺りかと思われたが、その西側の小高いところ…現在は新道が開通していて当時の地形と些か異なるようでもあるが…と推定される(国土地理院地図には印がある)。


<纏向日代宮と長谷朝倉宮>
「纒向之日代宮」については、後の雄略天皇紀にも詳細な記述がある。

雄略天皇の「長谷朝倉宮」についての詳細はこちらを参照願う。抜粋して述べると・・・。

「長谷(長い谷)・朝倉(朝が暗い:東に山塊)・宮」として現在の香春町採銅所宮原辺りと推定。

説話はその地が日代宮の近隣である。

日代宮は小高いところの「多氣知」にある、と后が詠う。天照大神の御子:天津日子根命が高市縣の祖となる記述がある。

伊勢國之三重婇の歌に「麻岐牟久能 比志呂乃美夜波 阿佐比能 比傳流美夜 由布比能 比賀氣流美夜」[武田祐吉訳:纏向の日代の宮は朝日の照り渡る宮、夕日の光のさす宮]とある。宮は一日中日が当たる場所にあったと告げている。

これだけの情報を併せて矛盾のない記述かと思われる。天皇一家の倭国支配が本格化した景行天皇からそれが極められた時の天皇の揃い踏みの記述である。日代宮はさぞかし立派な宮であったのだろうか…知る由もないのだが・・・。妾が何人も、いやはや、流石である。


<坂手池・膳之大伴部・田部>
前記<大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の事績 〔323〕>で紐解いた結果を再掲する。

纏向日代宮の近隣をしっかりと開拓したと告げてる。

金辺川と呉川が作る「津」の周辺は、これらの川の恵みとその脅威を両立させるにはまだまだ時間が必要であったのであろう。

それにしても和風諡号、事績などから浮かび上がって来る地形にあらためて古事記記述の”凄さ”を感じさせられてしまう、ようである。