平群の志毘と菟田の首等:再考
再考のブログがすっかり増えて来た・・・なかなか一筋縄では紐解けない古事記であるが故に、これからも引き続く・・・のでなければ良いが・・・。そんな訳で、少し前の「山部連小楯」に関連した説話に登場する「平群臣之祖・名志毘臣」、「菟田首等之女・名大魚」について纏め直してみよう。
かなり以前に平群の志毘と菟田の首等 〔138〕として投稿したものの改訂版となる。ほぼ一年半前の記述なのだが、その後もいくらか手を加えて現在に至っている。建内宿禰:平群都久宿禰・木角宿禰 〔338〕で述べた「平群」の詳細を参照願う。
平群臣之祖・志毘臣
平群は建内宿禰の子、平群都久宿禰が切り開いた地であり、現在の福岡県田川市~田川郡に横たわる丘陵地帯であると比定した。「志毘」は地形象形として紐解けるであろうか?・・・「志」=「之:蛇行する川」と思われるが、「毘」は波多毘の「臍(ヘソ)」あるいは開化天皇の諡号である毘毘命の「坑道の前に並ぶ人々を助ける(増やす)」では平群の丘陵地帯に合致する場所はなさそうである。
「毘古」の場合と同様に「毘」=「田+比」と分解して、「田を並べる」と読むと、「志毘」は…、
…「蛇行する川の傍らで田を並べたところ」と解釈される。現在の田川郡川崎町田原辺り(現在は西・中・東田原と細分化されているようだが…)と推定される。中元寺川と櫛毛川が合流する地点であり、川崎町の中心の地と思われる。山間の場所ではあるが、真に豊かな川の水源とその流域の開拓によって繁栄してきたものと推察される。
茨田(松田)は谷間を利用した水田である。給水と排水が自然に行われ初期の水田開発には最も適したところであったが、その耕地面積の拡大には限りがある。
一方、平地が沖積によって急激に拡大し河川の築堤、排水の手段が講じられるようになると圧倒的に耕地面積が増加していったものと推察される。
生産量の増大が生んだ豪族間格差の広がりを示しているようである。
平群は内陸にあり、都から遠く離れたところであり、決して先進の地ではなかったであろう。この地理的条件が天皇不在時に志毘という人物を登場させる要因であったと思われる。
結果的には叩き潰されてしまうのであるが、彼以外にも登場して何ら不思議ではない人物も居たことであろう。時の流れ、地形の変化、水田耕作の進化等々、それらを記述していると読み取ることができる説話と思われる。
では娶ろうとした美人の「菟田首等之女・名大魚」は何処に住まっていたのであろうか?・・・。
まかり間違っても「菟田」は「ウダ」ではない。「菟田」=「斗田(トダ)」である。高山の「斗」ではなく丘陵地帯の「斗」で少々判別が難しく感じるが、上記の「志毘」の近隣にあった。
「首等」は「斗」が作る「首」の形を捩ったものであろう。下関市彦島田の首町に類似する。
更に「等」の文字は初登場である。古事記が記述する範囲外では重要人物に用いられたようであるが、「等(ラ)」で読み飛ばすところであった。固有名詞ならば地形を表している筈であろう。
「等」=「竹(小ぶりな山稜)+寺」と分解すると、「寺」=「之:蛇行する川」と紐解ける。伊邪那岐の禊祓で誕生の時量師神など。
「等」=「小ぶりな山稜の谷間を蛇行して流れる川」を表していると読み解ける。この「斗」の地に全て揃っていることが解る。
美人と聞けば、どうしてもその謂れが知りたくなる…という訳で求めた結果は、やはりそのままズバリの地形象形のようである。お蔭で、少々「菟=斗」の形が崩れかかっている地ではあったが、比定確度が一気に高まった、と思われる。それにしても魚の真ん中の「田」と下の「灬」の部分を上手く捉えたものである。
加えて二人の御子と志毘臣との遣り取りの歌、何となく分かりそうではあるが、原文の直接的な解釈が今一でもある。案の定、志毘臣及び大魚の居場所が潜められていた。再度抜き出すと「斯本勢能 那袁理袁美禮婆 阿蘇毘久流 志毘賀波多傳爾 都麻多弖理美由[潮の寄る瀬の浪の碎けるところを見れば遊んでいるシビ魚の傍に妻が立つているのが見える]」。
①斯本勢能
「斯」=「切り分ける」、「本」=「山麓」、「勢」=「山稜に挟まれた小高いところ」、「能」=「熊:隅」とすれば…、
…と紐解ける。
②那袁理袁美禮婆
「那」=「整った」、「袁」=「ゆったりとした山麓の三角州」、「理」=「区分けされた田」、「美」=「谷間に広がる地」、「禮」=「高台」、「婆」=「端」とすれば…、
…と紐解ける。
③阿蘇毘久流
「阿」=「台地」、「蘇」=「山稜が寄り集まる」、「毘」=「田を並べる」、「久」=「[く]の形」、「流」=「広がる」とすれば…、
…と紐解ける。
④志毘賀波多傳爾
「波多」=「端」、「傳」=「続く」とすれば…、
…と紐解ける。
⑤都麻多弖理美由
「都麻」=「妻」とすれば…上記の武田氏の訳通り「妻が立っているのが見える」となるが・・・。
「都(集まる)」、「麻(近接する)」、「多(山稜の端の三角州)」、「弖([弓]の形)」、「理(区分けされた田)」、「美(谷間に広がる地)」、「由(如し)」とすると…、
…と紐解ける。回りくどいようだが「大魚」(とりわけ尾の部分)の地形をそのまま述べていると思われる。「弖」=「[弓]の形:曲りくねる様」と読み解く。安康天皇紀に登場する目弱王の「弱」の解釈に類似する。
「妻(大魚)」と志毘臣の場所を見事に表している歌であることが解る。初見では志毘臣の場所をもう少し南側と推定したが、「志毘」の情報からだけでは何とも特定し辛いところであった。上記の歌は極めて詳細である。これこそ「古事記の暗号」と言えるのではなかろうか。
「斯」、「勢」、「袁」、「阿」、「蘇」、「久」、「麻」、「多」、「美」など地形を表す文字が盛り沢山に使われている。そして重要なことは「志毘」と「大魚」の位置関係、正に両者は目と鼻の先、しっかり見張れる位置なのである。だから志毘臣が”切れた”。
最後の歌、「意布袁余志 斯毘都久阿麻余 斯賀阿禮婆 宇良胡本斯祁牟 志毘都久志毘[大きい魚の鮪を突く海人よ、その魚が荒れたら心戀しいだろう。 鮪を突く鮪の臣よ]」は、お前の傍にいる大魚(鮪:シビ)は私の妻になる…と止めをさしているのである。
「志毘」=「鴟尾(シビ)」も掛けられているのかもしれない。宮殿の大棟に取り付けられる鳥の尾の形とのこと…それを突いてはいけません。兄弟の謀議は必然的に行われた、と伝えている。
「志毘」の出自は語られないが、平群臣の祖となった平群都久宿禰を遠祖に持つのであろう。天皇家の混乱に乗じて新興勢力として力を示していた様子が伺える。彼らは葛城一族なのであるが、時を経るに従って同じ一族間でも主導権争いは生じるものである。その一面を説話が伝えたものと推察される。
志(蛇行する川)|毘(田を並べる)
…「蛇行する川の傍らで田を並べたところ」と解釈される。現在の田川郡川崎町田原辺り(現在は西・中・東田原と細分化されているようだが…)と推定される。中元寺川と櫛毛川が合流する地点であり、川崎町の中心の地と思われる。山間の場所ではあるが、真に豊かな川の水源とその流域の開拓によって繁栄してきたものと推察される。
<志毘・菟田> |
一方、平地が沖積によって急激に拡大し河川の築堤、排水の手段が講じられるようになると圧倒的に耕地面積が増加していったものと推察される。
生産量の増大が生んだ豪族間格差の広がりを示しているようである。
平群は内陸にあり、都から遠く離れたところであり、決して先進の地ではなかったであろう。この地理的条件が天皇不在時に志毘という人物を登場させる要因であったと思われる。
結果的には叩き潰されてしまうのであるが、彼以外にも登場して何ら不思議ではない人物も居たことであろう。時の流れ、地形の変化、水田耕作の進化等々、それらを記述していると読み取ることができる説話と思われる。
菟田首等
まかり間違っても「菟田」は「ウダ」ではない。「菟田」=「斗田(トダ)」である。高山の「斗」ではなく丘陵地帯の「斗」で少々判別が難しく感じるが、上記の「志毘」の近隣にあった。
<菟田首等・大魚> |
更に「等」の文字は初登場である。古事記が記述する範囲外では重要人物に用いられたようであるが、「等(ラ)」で読み飛ばすところであった。固有名詞ならば地形を表している筈であろう。
「等」=「竹(小ぶりな山稜)+寺」と分解すると、「寺」=「之:蛇行する川」と紐解ける。伊邪那岐の禊祓で誕生の時量師神など。
「等」=「小ぶりな山稜の谷間を蛇行して流れる川」を表していると読み解ける。この「斗」の地に全て揃っていることが解る。
美人と聞けば、どうしてもその謂れが知りたくなる…という訳で求めた結果は、やはりそのままズバリの地形象形のようである。お蔭で、少々「菟=斗」の形が崩れかかっている地ではあったが、比定確度が一気に高まった、と思われる。それにしても魚の真ん中の「田」と下の「灬」の部分を上手く捉えたものである。
加えて二人の御子と志毘臣との遣り取りの歌、何となく分かりそうではあるが、原文の直接的な解釈が今一でもある。案の定、志毘臣及び大魚の居場所が潜められていた。再度抜き出すと「斯本勢能 那袁理袁美禮婆 阿蘇毘久流 志毘賀波多傳爾 都麻多弖理美由[潮の寄る瀬の浪の碎けるところを見れば遊んでいるシビ魚の傍に妻が立つているのが見える]」。
①斯本勢能
「斯」=「切り分ける」、「本」=「山麓」、「勢」=「山稜に挟まれた小高いところ」、「能」=「熊:隅」とすれば…、
山麓を切り分けた小高いところの隅
…と紐解ける。
②那袁理袁美禮婆
「那」=「整った」、「袁」=「ゆったりとした山麓の三角州」、「理」=「区分けされた田」、「美」=「谷間に広がる地」、「禮」=「高台」、「婆」=「端」とすれば…、
整ったゆったりとした山麓の三角州に区分けされた田があり
その三角州の谷間に広がる地の高台の端
その三角州の谷間に広がる地の高台の端
③阿蘇毘久流
「阿」=「台地」、「蘇」=「山稜が寄り集まる」、「毘」=「田を並べる」、「久」=「[く]の形」、「流」=「広がる」とすれば…、
山稜が寄り集まった台地に田が並べられて[く]の形に広がる
<志毘臣> |
「波多」=「端」、「傳」=「続く」とすれば…、
志毘の端に続くところで
⑤都麻多弖理美由
「都麻」=「妻」とすれば…上記の武田氏の訳通り「妻が立っているのが見える」となるが・・・。
「都(集まる)」、「麻(近接する)」、「多(山稜の端の三角州)」、「弖([弓]の形)」、「理(区分けされた田)」、「美(谷間に広がる地)」、「由(如し)」とすると…、
近接する山稜の端の三角州が集まり谷間に広がる地で
曲りくねって区分けされた田がある様子
…と紐解ける。回りくどいようだが「大魚」(とりわけ尾の部分)の地形をそのまま述べていると思われる。「弖」=「[弓]の形:曲りくねる様」と読み解く。安康天皇紀に登場する目弱王の「弱」の解釈に類似する。
「妻(大魚)」と志毘臣の場所を見事に表している歌であることが解る。初見では志毘臣の場所をもう少し南側と推定したが、「志毘」の情報からだけでは何とも特定し辛いところであった。上記の歌は極めて詳細である。これこそ「古事記の暗号」と言えるのではなかろうか。
「斯」、「勢」、「袁」、「阿」、「蘇」、「久」、「麻」、「多」、「美」など地形を表す文字が盛り沢山に使われている。そして重要なことは「志毘」と「大魚」の位置関係、正に両者は目と鼻の先、しっかり見張れる位置なのである。だから志毘臣が”切れた”。
最後の歌、「意布袁余志 斯毘都久阿麻余 斯賀阿禮婆 宇良胡本斯祁牟 志毘都久志毘[大きい魚の鮪を突く海人よ、その魚が荒れたら心戀しいだろう。 鮪を突く鮪の臣よ]」は、お前の傍にいる大魚(鮪:シビ)は私の妻になる…と止めをさしているのである。
「志毘」=「鴟尾(シビ)」も掛けられているのかもしれない。宮殿の大棟に取り付けられる鳥の尾の形とのこと…それを突いてはいけません。兄弟の謀議は必然的に行われた、と伝えている。
「志毘」の出自は語られないが、平群臣の祖となった平群都久宿禰を遠祖に持つのであろう。天皇家の混乱に乗じて新興勢力として力を示していた様子が伺える。彼らは葛城一族なのであるが、時を経るに従って同じ一族間でも主導権争いは生じるものである。その一面を説話が伝えたものと推察される。