2018年1月12日金曜日

物部連の祖:宇摩志麻遲命 〔152〕

物部連の祖:宇摩志麻遲命


古事記が手を抜く、と言うか最低必要限度のことしか記述しないのが邇藝速日命関連事項である。既に幾度か述べたように「日=邇藝速日命」と推測される表現に遭遇して来た。その度に「一言」だけの補足説明で済ましてしまうのである。「日下」「春日」など過去のブログを参照願う。

首記の「宇摩志麻遲命」は物部氏、穂積氏など古代の有力な氏族の祖と知られているのであるが、関連する記述は極めて簡素、いつものことながらと思うものの、やはりこれでは「混迷」の解釈が横行する事態になるわけである。

彼は神倭伊波禮毘古(神武天皇)が邇藝速日命と接触し「天津瑞」を受け取る時に登場する。表記は邇藝速日命の子孫として祖となる連、臣の羅列である。穂積氏は孝元天皇の后の出自で一度、「內色許男命・內色許賣命の名前から春日に居たと紐解いた。一方物部氏は竺紫石井君の征伐を実行した「物部荒甲之大連」で登場するのみである。

そんな扱いを受けている「宇摩志麻遲命」ではあるが、この名前もその居場所を示しているものと考えて紐解いてみよう。

古事記原文[武田祐吉訳]

故爾、邇藝速日命參赴、白於天神御子「聞天神御子天降坐、故追參降來。」卽獻天津瑞以仕奉也。故、邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也。[時にニギハヤビの命が天の神の御子のもとに參って申し上げるには、「天の神の御子が天からお降りになたと聞きましたから、後を追て降て參りました」と申し上げて、天から持て來た寶物を捧げてお仕え申しました。このニギハヤビの命がナガスネ彦の妹トミヤ姫と結婚して生んだ子がウマシマヂの命で、これが物部の連・穗積の臣・采女の臣等の祖先です]

邇藝速日命が登美毘古之妹・登美夜毘賣を娶って誕生したと記述される。「登美」は「春日」の旧名と推定した。現地名、福岡県田川郡赤村内田の中村と呼ばれるところが中心のところであったと紐解いた。邇藝速日命が降臨し、居着いた戸城山周辺の地域を示す地名であったと推測される。

宇摩志麻遲命の一文字一文字を解釈してみると…「宇」=「山麓」、「摩」=「接近している、近い」、「志」=「之:蛇行した川」、「遲」=「治水された田」までは頻度高く登場した文字解釈通りかと思われるが、「麻」は略字と仮定して「麻」⇒「麼:細かい、小さい」としてみる。


宇(山麓)|摩(近い)|志(蛇行した川)|麻(麼:小さい)|遲(治水された田)

…「高い山の麓近くで蛇行する川沿いに小さく治水された田があるところ」と紐解ける*。さてそんな場所が見つかるのか?…



戸城山の南麓、現地名は田川郡赤村赤の畑である。犀川(現今川)が大きく蛇行する急峻な地形で造られた田畑は決して大きくはなかったであろう。邇藝速日命に随行した者達及びその子孫は戸城山周辺から各地に散ったと推測される。それは天の神々にとっては好ましくない結果であった。邇邇芸命の降臨の物語はこの先史を受けて語られたものであろう。故に散々たる過去を伝えることを避けたと推測される。

古事記が描く世界では物部氏が皇族に絡むことはない。「物部荒甲」のように武将としての地位を得ていたのであろう。同根の穂積氏は成務天皇紀に比賣を送るが、誕生した和訶奴氣王は皇位に就くことはなかった。古代の日本という途轍もなく深い淵の上に立つ気分である。

*別天神五柱の一人「宇摩志阿斯訶備比古遲神」の「宇摩志」と全く同じ解釈である。


少し余談になるが・・・上記したように宇摩志麻遲命は「物部連、穗積臣、婇臣祖也」と記される。穂積臣は春日近隣に留まり、婇臣(采女)は後に登場する倭建命が名付けた「三重村」辺りと推定される。雄略天皇紀にも気骨のある女性が登場する。現在の紫川周辺である。


物部連は何処に行ったのであろうか?…大河の下流域に拡散したとするならば、彦山川・遠賀川流域ではなかろうか?…これも他の史書によるが遠賀川河口付近に「物部」に関連する地が多くあったと伝えられる。十分に想定されるところではなかろうか。(2018.03.24)


…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。