2018年1月5日金曜日

竺紫君石井 〔148〕

竺紫君石井


后と御子の名前の羅列に入った古事記が継体天皇紀に記す説話に登場する。大事件であったと思われれるが、これだけ寡黙では何とも、なのだが日本書紀、築後国風土記などにはもう少し詳細が載っているようである。とりわけ後者などから推論されて墓所(福岡県八女市吉田の岩戸山古墳)などが比定されている。

大規模な古墳であり、九州に居た豪族が天皇家に匹敵する勢力を持っていたと解釈すると別の王朝の存在を示す証左と見る向きもあるとのこと。古代史解釈の物的証拠を遺跡、遺物に求めるのは当然のこととして、そこから様々な説が生まれているようである。

いずれはそんな領域にも足を踏み込んでみたく思うが、今は古事記の一文を読み解いておこう。古事記原文[武田祐吉訳]

此御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連・大伴之金村連二人而、殺石井也。[この御世に筑紫の君石井が皇命にわないで、無禮な事が多くありました。そこで物部の 荒甲の大連、大伴の金村の連の兩名を遣わして、石井を殺させました]

前記したように大河の中流域などそれまでとは異なる地域が開拓されつつあった時代であろう。また下流に向かうに従って耕地面積が増大し、貯える財力も桁外れに増えて行きその地を支配する豪族の誕生へと繋がって行ったと推測される。

天皇家は武力による統治ではなく、緩やかな「言向和」の統治戦略を採ってきた。中央集権的な体制ではなく、各地の開拓を豪族に任せるなら、必然的に確執が生まれていたのであろう。「天皇之命」は不明であり、「竺紫」に関わる説話、娶りも姿を消して来た時の「命」は憶測の中にある。

さて、「竺紫」は邇邇芸命が降臨した地であろうが、人名「石井」は地名に依るものであろうか?…関連する場所が特定されれば「憶測」も許されることになるかもしれない。

降臨地は現在の遠賀郡岡垣町にある孔大寺山山系であるとした。下図を参照願う。東側が「日向国」(現遠賀郡岡垣町)、西側が「阿岐国」(現宗像市赤間周辺)である。算盤の珠が並んだような山系を「久士布流多氣」と表現した、と紐解いた。



図の下方にある金山南陵と城山の間に「石峠」と記載される峠がある。拡大図を下に示す。現在は登山道として以外は殆ど使われていないようだが、嘗ては荷駄も通れる峠道として活用されていたようである。東側の谷筋には今も複数の堰が設置されている。「石井(水源)」を示すと思われる。




「石峠」名付けの由来は不明だが、古くからそう呼ばれていたことは間違いないようである。宗像に隣接するところであり、倭国中心からは遠く離れた地である。先進の地域に接するところに居ては天皇家の乱れに乗じることもあり得たかもしれない。

古事記表記において「竺紫」は「筑紫」ではない。ましてや筑前、筑後などでは決してあり得ない。「竺紫君石井」は「紫日向」の地に居たと伝えているのである。いずれにしても大国倭国は時代の変節点を迎えたのであろう。そして古事記は記述を終えつつある。

…全体を通しては「古事記新釈」及び「竺紫君石井の『石』 〔264〕」を参照願う。