2018年1月13日土曜日

宣化天皇:后の川內之若子比賣と御子 〔153〕

宣化天皇:后の川內之若子比賣と御子



<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
第二十七代安閑天皇(廣國押建金日命)は御子も無く逝去した。それを引継いだのが弟の建小廣國押楯命、バックアップがないといつ途切れるかわからないという危なっかしさである。既述は極めて簡略であるが、初出の文字が多数並ぶ。座したところなどは既に記したが再掲しながら紐解いてみよう(参照)。

古事記原文…

、建小廣國押楯命、坐檜坰之廬入野宮、治天下也。天皇、娶意祁天皇之御子・橘之中比賣命、生御子、石比賣命訓石如石、下效此、次小石比賣命、次倉之若江王。又娶川之若子比賣、生御子、火穗王、次惠波王。此天皇之御子等、幷五王。男三、女二。故、火穗王者、志比陀君之祖。惠波王者、韋那君、多治比君之祖也。

建小廣國押楯命が坐した「檜坰之廬入野宮」。文字の意味からではなかろう。「檜」「入」は、先が尖がった地形象形と解釈する。「坰」=「境」と解説されている。現在の同郡福智町金田の菅原神社近隣、彦山川と中元寺川の合流地点と思われる。

文字の意味からでは「檜」と「廬」が相応しない。通説は日本書紀の「檜隈廬入野宮」に従って「檜」の文字合わせで場所を比定している。「坰」≠「隈」である。古事記の忠実な地形象形を無視した変形と断じる。またこれに乗っかった後代の解釈が古代の姿を歪めてしまったのである。

「大倭日子鉏友命(懿徳天皇)、坐輕之境岡宮」、「大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)、坐輕之堺原宮」は遠賀川と彦山川との合流点、そこにある「州」を「輕」と表現し、地名を「境、堺」と記述されていた。類似する地形だが異なる地には別の表記を用いたのであろう。が、それにしても凝った名前である。


Ⅰ. 意祁天皇之御子・橘之中比賣命

「意祁天皇之御子・橘之中比賣命」を娶ったと記述される。これは「財」現在の北九州市門司区喜多久に居た比賣として既に記述した。原報を参照願うが、地図のみを下記に示す。



別名解釈から比賣の居場所は更に確からしいものになったと思われる。それにしてもこの地の豊かさは想像以上であったろう。古代において特異な位置付けを有した地として記憶に留めるべき地域である。

Ⅱ. 川內之若子比賣

川内に住んでいた若子比賣を娶ったと記される。川内の何れかは不詳であるが、これまでの古事記記述はここらの娶りが少ない。祖となったり、多くの墓所であったり、近淡海国としての表現は見かけられたのであるが…。きっと蘇った川内の姿が浮かび上がって来るのではなかろうか。御子が二人「火穗王、次惠波王」とされる。この比賣の居場所は名前からでは突き止め難く、御子の記述後に述べてみよう。

Ⅱ-1. 火穗王

「火」は「畝火山」を想起させる。三つの頂を持った連山となっているところであろう。「近淡海国の御上」である。現在の行橋市入覚にある観音山を示すと思われる。「穂」=「穂先(先端)」とすれば…


火穂=火(観音山連山)|穂(山稜の端)

と紐解ける。現地名は京都郡みやこ町勝山黒田、この連山の最南端にある勝山神社辺りであろう。更に「志比陀君之祖」になったと記される。


志比陀

記述が簡略になると途端に解釈のハードルが高くなる。さて、如何に解くか?…「志」は志賀に通じるであろう。「志=之」(蛇行する川の象形)と解釈すると、蛇行する川に挟まれた「川内」を表現したものとできる。ならば…、

志比陀=志(川内の)|比(並ぶ)|陀(崖)

…と解釈できるようである。「川内にある並び立つ崖の麓にあるところ」これを指し示すと解読される。背後に崖が立ち並ぶ地形を求めると…現地名は行橋市入覚の別所が浮かび上がる。もう一人の王子に移る。

Ⅱ-2. 惠波王

既に「惠(ゑ)」=「志」として同じく川の蛇行を表現したと解釈した。「惠」は更に蛇行が
激しくなった状態を示しているのであろう。これを組合せると…

惠波=惠(川内の)|波(端)

…「川内の中で最も蛇行が激しい場所の端」と紐解ける。現在も複数の川が合流する近傍、行橋市二塚辺りと推定される。更に「韋那君、多治比君之祖」と記される。「多治比」は雄略中天皇の陵墓あった川内之多治比であろう。現地名は行橋市入覚辺りと推定される。


韋那

久々に登場の、壹比韋に含まれる「韋」である。同様に解釈して…、


韋那=韋(取り囲まれる)|那(広い)

…「取り囲まれた広いところ」と紐解ける。現地名は京都郡みやこ町勝山池田が示す地形と思われる。この期に及んでの川内の詳細である。纏めた地図を参照願う。



近淡海国は早期に出現する国名ではあるが、現在から想像するよりもっと河川の治水に手間取ったところであったのだろう。それが漸くにして財力を貯え、国としての発展に迎える時期に達したと推測される。天皇家に近接する地であり、豪族が密かに力をつける地理的環境でもなかった。まだまだ発展途上の地域であったことを示しているようである。

閉塞感が頭をもたげて来た時代、やおら天皇家は近淡海国へ目を向けるようになった。が、それは時期尚早だったのか、手遅れだったのか、古事記は相変わらず無口である。

さて「川内之若子比賣」は何処に居たのであろうか?…「子」=「植物の幹から生え出たもの」という解説を信じると、上図の黒田神社がある辺り、ではなかろうか。川内の中心に位置する場所であり、誕生した御子が散ったところがそこを取り囲む。古事記の川内の中心地、そして現在の京都郡みやこ町本庁を含む地域である。1,300年を経て変わらぬ人々の佇まいに、あらためて感動する気分である。

…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。