2017年7月17日月曜日

大倭国の天皇:清寧~推古天皇 〔066〕

大倭国の天皇:清寧~推古天皇


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
雄略天皇は天下人として満足いく人生であったと思う。国の拡張は止まった。即ち遠賀川西岸に横たわる山稜の「西」については全く語ろうとしない。既に幾度か述べたことではあるが、「言向和」した東方十二道の国々で統治がほぼ達成されるような記述では、例えあったとしても「西」の国々の数は僅かであろう。

序文の「遠飛鳥」「近淡海国」の統治報告書であるとの記述に頭を傾げながら今日まで進んで来たが、真に違いはなかった。そのものであった。今回で神代の記述を除きほぼ概略を読んできたことになるが、結論には変わりはないであろう。また、あらためて考察を加えてみよう。

グッと、記述が簡単になったので、纏めて地名ピースを求めてみる。最後の推古天皇まで十二代の天皇に関するものである。

清寧天皇


雄略天皇の御子であるが、早くに亡くなられた。后はなく、御子もない。急遽、市邊忍齒別王之妹・忍海郎女(亦名飯豐王)が「葛城忍海之高木角刺宮」で執政した。他の人選もあったのであろうが、不明である。葛城氏がしっかり国政に関わっていたことが伺える。

「葛城忍海之高木角刺宮」の場所について紐解いてみよう。「忍海」=「海を忍ばせている」ところである。市邊忍齒別王が居た「市辺」は現在の福岡県田川郡福智町市場辺りとしたが、その近辺であろう。


高木|角刺=高木(高い山=福智山)|角(山稜)|刺(棘)

と紐解けば、福智山から延びた山稜にある棘のような形をしているところを示していると思われる。現地名は福智町上野上里の福智下宮神社辺り(下図)と推定される。伊邪那岐・伊邪那美が生んだ佐度嶋にあった「刺国」を棘の地形象形として紐解いた。類似する表現と思われる。


葛城の地名については、海と川との混在の場所との表記が再現よく繰り返される。また、この地が「欠史八代」の天皇達によって開拓された地であること、当然それを援助した葛城氏の権勢は揺るぎ難いものであったろう。建内宿禰の子孫達の活躍も見逃せないものである。

日嗣が途切れて、針間に逃げた市邊忍齒別王の御子達の説話に入る。事の真偽は別としても皇統存続の危機的状況には変わりはない。継続するには大変な力が要る、ということである。志毘臣を排除する説話もこれまでの古事記の記述とは、少々感じが異なる。が、今は先に進めよう。

顕宗天皇・仁賢天皇・武烈天皇


兄弟で譲り合って結局弟が即位する。「袁祁之石巢別命」顕宗天皇、近飛鳥宮に坐した。久々にお目に掛かった「近飛鳥」場所は元のままでよいであろう。大坂山山口である。「石巢別」と修飾される。「石巣」の統治権を獲得した、ということであろう。

「石・巣」=「石()・巣(多く集まってるところ)」ある意味一般的な表現であるが、それを特徴とするなら、現在の同郡添田町辺り、岩石山という岩の塊のような山がある場所ではなかろうか。この地は多くの伝説を有するところであるが、古事記には今まで出現しなかった。

曾褒里山の別称があるとのこと。「ソウル」の転化したものとか、古代の名称を今に伝えるところである。古事記の「闇」の一つである。神武天皇が畝火山の麓に坐する以前からの人々、師木の兄弟とも関連するのであろうか…。ここに来て登場?…これ以上は考察不可である。課題としよう。


「淡海國賤老媼」の説話に進む。その老婆が語るには、事件の発端に絡んだ「韓帒」の子が「市邊王之御骨」を「蚊屋野之東山」に埋めて御陵を守ってきた、という耳よりな情報を得た、と始まる。「淡海国」実はこれが初出である。

「近淡海国」では、決して、ない。既に「蚊屋野」は「淡海之久多綿之蚊屋野」として登場した。「国」となったのであろう。「伊豫之二名嶋」の呼称が消えるのと同じ、河口付近の地形、古遠賀湾の変化に基づくのであろう。地形の変化及びその年代の特定、この研究は重要であるが、実施されているのだろうか・・・。

「東山」=「この地の東方にある山」と理解される。現在の皿倉山山塊であろう。陵はその麓とすると現在の同県北九州市八幡西区市瀬辺りにあったのではなかろうか。「置目老媼」と名前を授けて報いたとのことである。この墓に「仇」を討って終わる。


また、針間逃亡の際に食料を奪われた「猪甘老人」を見つけ出して「飛鳥河之河原」で成敗をする。「飛鳥河」とは光栄な命名であるが、「近飛鳥」の近く、現在の同県京都郡みやこ町犀川大坂を流れる「大坂川」と思われる。犀川(現今川)に合流する。その河原を「志米須」と命名したそうだが、特定には至らない(上記犀川大坂の地理院タイル参照)。


八年足らずの治世で終わり、陵が「片岡之石坏岡上」とある。

「片岡之石坏」=「不完全な丘の盃のようなところ」で探すと、現在の同町犀川大村にある丘ではなかろうか。

尚、武烈天皇も同じところと記載される。

仁賢天皇は「石上廣高宮」に坐した。現在の同県田川市夏吉にある山麓から少し上がった場所ではなかろうか。ロマンスヶ丘と呼ばれているところである。


武烈天皇は「長谷之列木宮」に坐した。例の「長谷」にある。「列木」は並木と訳されるようであるが、「木」=「山」であろう。障子ヶ岳から竜ヶ鼻に連なる山が並ぶところを背後に持つ、現在の同県田川郡香春町採銅所の黒中辺りと思われる。


天皇に御子はなく、近淡海国から応神五世の継体天皇を迎えることになる。

継体天皇


「袁本杼命」という諡号であり、調べると「意富本杼王」出雲の国境を固めた王の三世とある。「意富多多泥古」「河內之美努村」住んでいた記述もあった。近淡海国の出雲系の人材であったのだろう。皇統からすればかなり離れた位置ではあるが、人材を抽出する場所としては繰返し記述されているところでもある。

娶り関連では「三尾」が目立つ。現在の同県京都郡みやこ町吉岡・築上郡築上町船迫に跨るところ。垂仁天皇が山代大国之淵之女・弟苅羽田刀辨を娶って産まれた石衝別王が祖となったところである。生まれた御子に「大」「出雲」などが付く。

継体天皇の出自に関連すると思えるが、山代大国に基づくかもしれない。あるいは、山代大国は元々「出雲」との関係があるのかもしれない。これまでに記述されてなかったことのようであり、いずれ調べてみよう。<追記:後に大物主大神と関連あることが判明>

一気に御子の名前の命名が違った風になる。これも少し気になるところである。また「竺紫君石井」がサラリと述べられている。纏めて調査、である。

安閑天皇・宣化天皇<追記>・欽明天皇


廣國押建金日命(安閑天皇)が坐した「勾之金箸宮」は、現在の同県田川郡香春町中津原にある鶴岡八幡神社近隣であろう。勾った丘に勾金中学校などの名前が残る。現住所は同町高野となっている。建小廣國押楯命(宣化天皇)が坐した「檜坰之廬入野宮」。文字の意味からではなかろうが…。

「檜」「入」は、先が尖がった地形象形、「坰」は「境」である。現在の同郡福智町金田の菅原神社近隣、彦山川と中元寺川の合流地点と思われる。天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)が坐した師木嶋大宮。師木の中で離島のようになってるところ、現在の同県田川市糒にある日吉神社近隣と推定される。


この天皇は25人の御子を得たが内4王子が皇位に就くがその他は不明である。

敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇・推古天皇


沼名倉太玉敷命(敏達天皇)が坐した他田宮。何の修飾もなく、であるから倭の近隣であろう。何と読む?…「タタ」「オサダ」・・・「意富多多泥古」の「タタ」を連想する。ならば同県京都郡みやこ町勝山箕田の扇八幡神社辺りではなかろうか<追記>橘豐日命(用明天皇)が坐した池邊宮。同様に池が強調されているところを見ると、同県行橋市入覚にある五社八幡神社辺りと思われる。


長谷部若雀天皇(崇峻天皇)が坐した倉椅柴垣宮は、女鳥王の倉椅山経由の逃避行で紐解いたところ。詳細を求めるには情報が少ないが、川辺に近いところとして、現在の同県田川郡香春町香春にある大岩弘法院辺りではなかろうか<追記>

豐御食炊屋比賣命(推古天皇)が坐した小治田宮については、「小治田」は既に紐解いた。現在の同県京都郡苅田町鋤崎である。宮の場所はおそらく貴船神社辺りかと思われる。用明天皇と推古天皇に「豊」が付く。「豊日別」の方位にある場所で坐したことを示しているのであろう。合致する結果である<追記>

地図に未記載の宮の場所についてはこちらを参照願う。

御陵の場所に「科長」という表記が多くを占める。「科野国」と同じように考ええると急勾配の山の斜面であり、しかも長いとくれば、上記の行橋市入覚の西側の山の斜面が該当すると思われる。またいずれ特定していきたく思う。

記述中に「上宮之厩戸豐聰耳命」など気に掛かる名前もあるが、簡明過ぎる記述では如何ともし難いものである。古事記は唐突にその記述を終える。地名ピースは些か増えたが、拡大ではなかった。いよいよ、神代も含めた古事記全体を見ていくことにしようかと思う…。

…と、まぁ、漸くにして尻に到着である・・・。

…本投稿については多くの修正あり。「古事記新釈」清寧天皇~推古天皇の項を参照願う。

<追記>

2018.01.13
「上宮之厩戸豐聰耳命」の詳細。こちらを参照願う。
②「宣化天皇」后と御子については、こちらを参照願う。

2018.01.18
「他」を分解する。異字体「佗」=「イ+它」と分けると「它」=「蛇の象形」であることが判る。即ち「他」は「人と蛇」の会意から生まれた文字であると解説されている。現在用いられている意味とはかなり離れた字源ではあるが、字形そのものの解釈はその通りであろう。古事記はこれを使っていると思われる。


他田=他(蛇のように畝って細長い)|田

と紐解ける。「長田」は「長い」の意味を抽出し「蛇のようなうねり」を避けたものであろう。肝心の「うねる」ことが欠落した表現である。この特徴的な地形は、現在の京都郡みやこ町勝山矢山・岩熊の谷間にある畝って続く田を指し示していると思われ、「他田宮」は勝山矢山にある龍王宮辺りにあったと推定される。詳細はこちらを参照。



2018.01.24
宮、御陵など修正を含めて再投稿。こちらを参照願う。