伊勢大鹿首の比賣
沼名倉太玉敷命、坐他田宮、治天下壹拾肆歲也。…<中略>…又娶伊勢大鹿首之女・小熊子郎女、生御子、布斗比賣命、次寶王・亦名糠代比賣王。二柱…。
「財」出身の敏達天皇の娶りと御子の記述に「伊勢」が登場する。前記近淡海国の「川内」の比賣と同じく后の居場所としては初めてのことである。「伊勢」の文字は早期に出現するのであるが、比賣を送り込む神の地であって、比賣を求める后の地ではなかったのであろう。
紫川の中流域、当時の海面からすると下流域に入るところと推測される。上流からの開拓が進行しつつあった状況を示している。元々地形的には決して広い平野が広がっている場所ではない。福智山山塊の東北の山麓に当たり、大河の紫川に接する。
沼名倉太玉敷命は「他田宮」に座したという。この宮の名前も難解なのであるが、これは後日に記述しよう。まぁまぁの長きに亘って天下を治められた。皇位継承問題も一段落っていうところであえろうか…。伊勢の場所は既に比定してきたのであるが、それ以降の詳細となると甚だ情報に乏しい。さて、どんな状況なのか、紐解いてみよう。
Ⅰ. 伊勢大鹿首之女・小熊子郎女
「大鹿」は大きな鹿の生息地ではなかろう。「大鹿」=「大きな山の麓」…ひょっとすると鹿もいたかもしれないが…上記の如く伊勢がある福智山山麓を示していると思われる。「首」=「囲まれた凹の地」を示す。今に残る下関市彦島の「田の首」の表現に類似する。纏めると…、
大鹿首=大鹿(大きな山の麓)|首(囲まれた凹の地)
…と紐解ける。この特異な地形を求めると、現在の北九州市小倉南区蒲生にある虹山と蒲生八幡神社に挟まれたところと推定できる。採石場が近接し、かなり地形は変化しているが「首」の形を留めていると思われる。下図及び俯瞰図を参照願う。
「小熊子郎女」は紫川の蛇行の「熊=隅」、それが「小」=「小さく」、「子」=「成り切ってない」と記される。八幡神社の近傍であろう。御子に「布斗比賣命、次寶王・亦名糠代比賣王」が誕生する。
布斗=布を拡げたような柄杓の地
…「首」の中を示すと読み解ける。次いで「寶」=「宀+玉+缶+貝」と分解すれば…
寶=宀(山麓)|玉+缶+貝(宝:財)
…があるところ、と読める。別名の「糠代」=「小さな田」であろう。虹山の麓、紫川に接するところと思われる。纏めて示すと下図のようになる。
<伊勢大鹿首>
|
この時代になって伊勢の地にも御子を育てられる財力が蓄えられて来たのであろう。大河の紫川の下流域に属する地であるが、稀有な出来事と思われる。現在に至っては広大な耕地を有する中流域となっているが、未だ治水が及んでいなかったのであろう。遠賀川と同じく下流域の開拓はずっと後代になってからと推測される。
Ⅱ. 寶王・亦名糠代比賣命
敏達天皇の后と御子の記述は更に「息長眞手王之女・比呂比賣命、生御子、忍坂日子人太子・亦名麻呂古王」と続く。息長一族の比賣を娶って「忍坂日子人太子」が誕生したと伝える。その彼が妹の「寶王・亦名糠代比賣王」を娶る記述がある。
日子人太子、娶庶妹田村王・亦名糠代比賣命、生御子、坐岡本宮治天下之天皇、次中津王、次多良王。
「坐岡本宮治天下之天皇」後の「舒明天皇」(別書では田村皇子と記述)が誕生している。他に「中津王、次多良王」が生まれる。「中津王」は紫川と志井川との合流点近隣、「多良王」は「たらたらとしたところ」として現在の虹山北麓辺りと推定される。
忍坂日子人太子は皇位に就くことはなかった。宗賀一族以外であったからか、凄まじい宗賀の勢いを止められる者は居なかったのであろう。がしかし、御子が居た場所の詳細を示すことで宗賀の勢いもその限界に達していることを古事記は伝える。これが歴史の変曲点の背景である。
<田村王と多良王・中津王>
|
古事記は推古天皇まで、それが忠実に守られているようである。それ以降の天皇名は記述されない。「岡本」は何処であろうか?…何も修飾されずに記されるのだから…倭国の中心辺りで探索すると…、
上図中央部の一ノ岳東麓、香春町本町、その下にある⛩(山王神社)辺りではなかろうか。「沙本」を現在の田川郡赤村内田の「本村」に比定した時に類似して興味深い。
余談になるが…忍坂日子人太子の系統から天智天皇、天武天皇が誕生することになる。宗賀一族外の血筋が今に繋がっていると記述される。そして倭国は変貌していくのであろう。
…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。