2017年10月12日木曜日

沙本の謀反 〔110〕

沙本*の謀反


垂仁天皇紀の説話の冒頭に記述される事件である。垂仁天皇は沙本之大闇見戸賣の子の沙本毘賣(別名、佐波遲比賣)を娶った。この比賣の兄に沙本毘古がいた。

古事記原文…

此天皇、以沙本毘賣爲后之時、沙本毘賣命之兄・沙本毘古王、問其伊呂妹曰「孰愛夫與兄歟。」答曰「愛兄。」爾沙本毘古王謀曰「汝寔思愛我者、將吾與汝治天下。」而、卽作八鹽折之紐小刀、授其妹曰「以此小刀、刺殺天皇之寢。」

事件の前書きである。巷の兄妹の会話ならいざ知らず、妹の夫はまがりなりにも天下の天皇…これで天下がひっくり返っては堪ったもんじゃない…と古事記に語り掛けても答えは還って来ない訳で・・・。勿論、安萬侶くんが書き残すことができない事情があったと思うべし、である。

さて、説話の内容は過去の記述を参照願うとして、この書き残せない事情なるものを妄想してみようかと思う。必ずそのヒントを忍ばせている、と信じて・・・。この兄妹の系図を示す。



前記「丸邇臣の台頭」でも述べたように兄妹の母、祖母及び父方の祖母の名前が凄まじいのである。再記すると、

・沙本之大闇見戸賣辰砂のある”真っ暗闇の採取坑(道)を見(張)る”女人

・春日建国勝戸賣=春日に居る”建国を心密かに目論む”女人

・丸邇臣之祖日子国意祁都命之妹意祁都命比賣命=丸邇臣の祖の日子国に居る”思いは大きく都にる”命
 の妹の”思いは大きく都にする”比賣

である。勿論安萬侶くんの常套手段、偽名若しくは当て字で表わす登場人物の「人となり」である。ならばと、「丸邇臣の台頭」として丹に係る一族の「思い上がり」の解釈とした。だが、この思い上がりだけで「以此小刀、刺殺天皇之寢」となるとは、納得のいかないところではあった。

今一度「丸邇」と「沙本」の言葉を紐解いてみようかと思う。「丸邇」は「和邇」「和珥」などと呼ばれ、当然のごとくに名前そのもののように読取ってきたが、そうではないとしたらどうなるであろう?…「邇」=「近い」という意味を持つ。


丸邇=丸(辰砂)|邇(近い)

辰砂の採れるところを「壹比韋」と記載される。孝昭天皇の御子、天押帶日子命が祖となったところであり、後の応神天皇の「蟹の歌」で詠われる「伊知比韋」に当たる。


壹比韋=壹(一途に)|(並べ備える)|(囲い)

場所と読み解ける。周囲を小高い山で取り囲まれた、現在の福岡県田川郡赤村内田山の内と推定した。この囲われた地域を「丸」と表現したのではなかろうか。このことは重要な意味を示す。「丸邇」は丹の中心ではなく、その近隣に居たと述べているのである。

「日子国」の「日の子」、「日」そのものではないが、近しい関係であること述べていると思われる。「丸邇」は丹に深く関わる存在であったことには変わりはないが、「丸」に居たわけではないことを告げているのではなかろうか。彼らが居た場所は「柿本」で、現在の田川郡香春町柿下とした。

「柿本」の由来は何であろうか?…現在地名の柿下に残る「柿」である。消すに消せない重要なキーワードなのであろう。



図は別表示で拡大願いたいが、「柿」=「木+市」=「山稜が市」尾根と山稜が作る地形が「市」を模していると見做したのであろう。


柿本(下)=山稜が作る市の字形の麓


現在に繋がる地名由来であるが、果たして納得頂けるであろうか・・・。「壹比韋」に近接する場所である。勿論「春日」に隣接する地でもある。「沙本*」はどうであろうか…


沙本=沙(辰砂)|本(麓)

…と読み下すのが適切のように思われる。沙本毘賣の別名、佐波遲比賣の「佐波遲」は…、


佐波遲=佐(促す)|波(端)|遲(田を治水する)

…「丹の端の豊かな水田がある場所に住んでいた」比賣と解釈される。現地名、田川郡赤村内田本村である。「丸邇」「沙本」は本丸を取り囲むように住まっていたのであろう。

「丸邇」「沙本」及び「柿本」を紐解いた結果、「沙本の謀反」の本来の姿が見えてきたようである。丹を手中に収めて勢い付いて、調子に乗って、天下を取ろうなんてこともあったかもしれないが、もっと根深い怨念が横たわっていたと推測される。

開化天皇の諡号「大毘毘命」=「坑道に集まる人を加護する天皇」裏を返せば見張ってる張本人とも解釈できる。開化天皇の春日への侵出は間違いく地元の混乱を招いたであろう。邇藝速日命一族との融和、決して簡単ではなかったのであろう。それが積年の思いとなって沙本毘古・沙本毘賣の事件に顕在化したと解釈される。



少々長くなるが、経緯を纏めてみると…、

登美の地に邇藝速日命の一団、三十数名の将軍を抱える大船団がやって来た。現在の福岡県田川郡赤村、そこに聳える戸城山を根城として、十種の神宝を持ち、天神の見印をかざして侵攻した。その地を「春日」(日=邇藝速日命)という呼び名に変えて「虚空見日本国」への第一歩を歩んだのである。

しかし、思うようには事は運ばず、特に「銅」の産地を抑えられなかったのが痛かった。「神」の怒りをかってしまい、神倭伊波禮毘古命の登場となった。彼の戦略は当たった(太陽邇藝速日命でキャンセル)。邇藝速日命から受け継いだ神宝を守り、香春の地に落ち着いたのである。

だが、決して楽ではなかった。幾人かの天皇が変わって始めて「春日」に辿り着き、そして都の中心「師木」(低く小さな山が無数にあるところ)、現在の福岡県田川郡香春町中津原辺りに、漸くにして行き着いた。

邇藝速日命一族が切り開いた地に開化天皇一家が侵出した。それは元来そこで生きて来た住民にとって全てを歓迎する出来事であったろうか。彼らは辰砂=丹という世にも珍しいモノを見つけていたのである。だが、力及ばず次第に端に追いやられてしまうのである。

「丸邇」=「丸()の近く」、「沙本」=「辰砂の麓」これらが意味するところは、その時の丹の中心とは離れていることである。「壹比韋」の入口に陣取った開化天皇の進出は決定的な出来事であったろう。おそらくは「辰砂の麓」一帯を差配していた「沙本」の人々を排除し、取って代わって「伊邪河宮」に坐したのではなかろうか。民の心はその急変に追随するには尚早であったと思われる。

これが沙本毘古・沙本毘賣の謀反の真相ではなかろうか。開化天皇の諡号「大毘毘命」=「坑道に集まる人を加護する天皇」裏を返せば見張ってる張本人とも解釈できる。丹に関する鬩ぎ合い、軋轢それが謀反の動機であろう。

春日の地の銅に勝るとも劣らない「宝」に多くの人が集まった。天皇家を脅かす輩も現れる。この危機を乗越えずしてなんとする、垂仁天皇の知恵の出しどころあったと、伝えているのであろう。「丸邇」はこの後も引継続き大きな勢力となって天皇家に尽くす。葛城の地いる一大勢力との鬩ぎあいも垣間見える記述も後に登場する。

天皇への奏上書としてあからさまな記述を差し控え、その名前に忍ばせた安萬侶くんの知恵に感謝申し上げよう。漸くにして君の本意が伝わったように思われる。

全体を通しては「古事記新釈」の垂仁天皇【説話】を参照願う。

沙本*
春日建國勝戸賣之女・名沙本之大闇見戸賣

「建國勝」とは何の意味?「建国しがち(仕勝ち)」=「建国を心密かに目論む」と解釈できる。なんとも壮大な夢を持った女性なのである。娘の名前がなんとも奇妙なもの…本名とは思えない…これこそ名前で伝える、安萬侶くん、である。

「沙本」から紐解いてみる。「沙」=「辰砂」とし「本」=「麓」=「(踏(フ)み元(モト:初め)」と解釈すると…、


沙本=沙(辰砂の)|本(麓)

…「辰砂(の山)の麓」と読み解ける。「大闇見戸賣」は何と解釈できるであろうか?…

大闇(真っ暗闇)|見(見張る)|戸(凹地)|賣(女)
 
…「真っ暗闇(の採掘坑)を見張る凹んだ地の女」と紐解ける。闇を見る人→預言者→巫女」のような解釈ではなく「辰砂(丹)」の採掘の有り様を示していると思われる。


<沙本と壹比韋>
戸賣の「戸」=「斗:柄杓の地(凹の地)」と解釈する。図の「壹比韋」を表したものである。

女性が採掘現場を管理監督するなんて、勇ましい、いや逞しい。でも不思議ではない。古代の女性は逞しい、勿論現在も・・・古事記に登場するのは概ね才色兼備である。しかも想像を遥かに越える、である


既に幾度か述べたように安萬侶くんは神憑りな話は決して好みではない。登場人物の名前は実務に即した命名である。

図に示したが、彼らの住まうところは稲作のできる地である。腹が減っては戦は不可、採掘現場に程近い場所が「沙本」であったと告げている。続いて記述される御子達の名前がその場所の環境を顕にしていると思われる。

誕生した御子が「沙本毘古王、次袁邪本王、次沙本毘賣命・亦名佐波遲比賣此沙本毘賣命者、爲伊久米天皇之后。次室毘古王。四柱」である。


沙本毘古王・沙本毘賣命

妹の沙本毘賣命は後の伊久米(垂仁)天皇の后となる。古事記中最もドラマチックな説話が展開されるが、後に譲ろう。因みに日本書紀では「狭穂」と記されている。確かに狭い三角州(穗の形状)であるが、伝わるべきものが激減するし、居場所も不確かに…思惑通りなのであろうが・・・。沙本毘賣命の別名佐波遲比賣」は…、


佐(促す)|波(端)|遲(田を治水する)

…「端にある田の治水を促す」毘賣(田を並べて生み出す女)と読み解ける。沙本毘古王は「沙本の田を並べて定める王」である。上図で示した場所は「登美能那賀須泥毘古」が居た長い谷間に田を広げたところ、その下流に当たる場所である。豊かな水田を作ることができる貴重な地であったと推測される。が、この読み解きは後に起こる大事件の伏線でもある。その段で述べてみよう。

袁邪本王・室毘古王

「袁邪」は開化天皇が坐した伊邪河宮の「伊邪」と対比されていると思われる。「小ぶりで曲がる」のではなく「ゆったり大きく曲がる」と読み解ける。「袁邪本王」は…、


<沙本と登美>
袁邪(ゆったり大きく曲がる)|本(麓)|王

…上記した「登美能那賀須泥毘古」の谷の麓、下流域を示していると紐解ける。上図と併せてこの王は最も南側の地に坐していたのではなかろうか。

やはり御子達の命名によって彼らが住まう地が語られていたのである。逆に言えば「那賀須泥毘古」が居た場所の確度も高まったと思われる。

「室毘古王」の解釈は如何なものであろうか?…「室=岩屋」では迷路に入り込むだけであろう。彼らの住まいは深い谷間ではない。「室」=「宀+至」と分解すると「山麓+至(矢を地面に突き立てた象形)」となる。「室毘古王」は…、


室(山麓に挟まれた三角の地)|毘古(田を並べて定める)|王

…と紐解ける。上図<沙本と壹比韋>に示したように二つの稜線に挟まれた鏃のような地がある。彼らの居場所の北側に当たるところである。それにしても真に丁寧な記述であることが判る。一人一人の御子に、手を抜くことなく、命名しているのである。畏敬の念さえ浮かんでくる有様である。四人の兄妹のお蔭で「沙本」は確定したようである。(2018.04.26)