淡嶋と淡道嶋
「淡」が付く二つの島が古事記に表れる。勿論これらは伊邪那岐・伊邪那美が産んだ島であるが、「淡嶋」は何故か「子」の数には加えていない。一方の「淡道嶋」は正式名称「淡道之穗之狹別嶋」であり、決して両者は同じ島ではないことを伝えているようである。
しかしながら現在までこれらの区別をした解釈はできておらず、本ブログも曖昧な記述で終わっていた。と言うのもこれらの島が登場する場面は限られており、なかなか出くわさなかった訳である。やはり国生み神話の島が登場する仁徳天皇紀の記述の再読であろう。
…と言う訳で、奥方の実家遁走を招いた仁徳さんの怪しい「吉備国」行き、バレバレの口実をしてまで行った吉備国への行程、とりわけ「遙望歌曰」の歌の紐解きを再考してみてみよう・・・。
伊邪那岐・伊邪那美が初めて産んだ子は[武田祐吉訳]…
久美度邇興而生子、水蛭子、此子者入葦船而流去。次生淡嶋、是亦不入子之例。[結婚をして、これによつて御子の水蛭子をお生みになりました。この子はアシの船に乘せて流してしまいました。次に淡島をお生みになりました。これも御子の數にははいりません]
と記述される中で登場するのが「淡嶋」である。子には加えていないが、後に仁徳天皇がこの「淡嶋」を見ているのである。つまり実際に存在していた島であったと伝える。一方の「淡道之穗之狹別嶋」はれっきとした第一子として記述される。要するに「淡」に関連する島は二つあったと解釈すべき、なのである。
仁徳天皇紀の歌の前後を抜き出してみると、古事記原文[武田祐吉訳]…
しかしながら現在までこれらの区別をした解釈はできておらず、本ブログも曖昧な記述で終わっていた。と言うのもこれらの島が登場する場面は限られており、なかなか出くわさなかった訳である。やはり国生み神話の島が登場する仁徳天皇紀の記述の再読であろう。
…と言う訳で、奥方の実家遁走を招いた仁徳さんの怪しい「吉備国」行き、バレバレの口実をしてまで行った吉備国への行程、とりわけ「遙望歌曰」の歌の紐解きを再考してみてみよう・・・。
伊邪那岐・伊邪那美が初めて産んだ子は[武田祐吉訳]…
久美度邇興而生子、水蛭子、此子者入葦船而流去。次生淡嶋、是亦不入子之例。[結婚をして、これによつて御子の水蛭子をお生みになりました。この子はアシの船に乘せて流してしまいました。次に淡島をお生みになりました。これも御子の數にははいりません]
と記述される中で登場するのが「淡嶋」である。子には加えていないが、後に仁徳天皇がこの「淡嶋」を見ているのである。つまり実際に存在していた島であったと伝える。一方の「淡道之穗之狹別嶋」はれっきとした第一子として記述される。要するに「淡」に関連する島は二つあったと解釈すべき、なのである。
仁徳天皇紀の歌の前後を抜き出してみると、古事記原文[武田祐吉訳]…
故、大后聞是之御歌、大忿、遣人於大浦、追下而、自步追去。於是天皇、戀其黑日賣、欺大后曰「欲見淡道嶋。」而、幸行之時、坐淡道嶋、遙望歌曰、
淤志弖流夜 那爾波能佐岐用 伊傳多知弖 和賀久邇美禮婆 阿波志摩 淤能碁呂志摩 阿遲摩佐能志麻母美由 佐氣都志摩美由
淤志弖流夜 那爾波能佐岐用 伊傳多知弖 和賀久邇美禮婆 阿波志摩 淤能碁呂志摩 阿遲摩佐能志麻母美由 佐氣都志摩美由
乃自其嶋傳而、幸行吉備國。
[ここに天皇は黒姫をお慕い遊ばされて、皇后樣に欺つて、淡路島を御覽になると言われて、淡路島においでになつて遙にお眺めになつてお歌いになつた御歌、
海の照り輝く難波の埼から立ち出でて國々を見やれば、 アハ島やオノゴロ島アヂマサの島も見える。サケツ島も見える。
そこでその島から傳つて吉備の國においでになりました]
何としても黑日賣に会いに吉備国に行きたいが為に取った挙動不審なことを述べて、「淡道嶋」が登場する。「坐淡道嶋、遙望歌曰」その島に坐し、遥か彼方を望んで歌ったと言う。その歌の中に「阿波志摩」=「淡嶋」が登場するのである。
その他の島については原報を参照願うが、比定した現地名を含め概略は以下の通り…
●「淤能碁呂志摩」=「彦島(西山)」(下関市彦島西山町)
伊邪那岐・伊邪那美が天浮橋に立って沼矛で作った島。血液が凝固する時の凸凹状態。
●「阿遲摩佐能志麻」=「馬島」(北九州市小倉北区)
「阿遲」=「小型の鴨」渡り鳥の一種。「摩佐」=「増す(繁殖)」
●「佐氣都志摩」=「六連島」(下関市大字六連島)
「佐氣都」=「裂ける」天然記念物(雲母玄武岩)の劈開性を表現。もしくは「氣都」=「穴」
溶岩台地の凝結時に海水の水蒸気爆発による多孔状の外観、又はその両者。
さて、仁徳天皇が詠った場所は明らかに「淡道嶋」であるが、歌の冒頭部…「淤志弖流夜 那爾波能佐岐」の解釈が重要となってくる。通訳は「海の照り輝く難波の埼から」とある。「那爾波」=「浪速」=「難波」と置換えると問題なく読み取れるといった感じであろうか…。
ここで二つの疑問が浮かび上がる…
①淡道嶋に居ながら、何故、難波の崎に立った時の歌としたのか?
②「佐岐(サキ)」=「前、先(突出たところ)」である。難波(海)が突き出ることはない。
「氣多之前」など串刺しの算盤玉のような山塊の陸地が海に突き出た表現である。
やはり「那爾波」の解釈がキーポイントとなってくる。「難波」ではなく淡道嶋にある海に突き出た岬を持つ地形を意味していると思われる。では、何と紐解けるのか?…思った以上に難物であった。「那」=「多い、美しい」、「波」=「端」であるが、「爾」の解釈が一向に浮かんで来なかったが…国土地理院さんに感謝である。
上図彦島塩浜町~田の首町にある山塊の稜線を「爾」と表現したのである。その北部は宅地開発によって些か削られているように伺えるが、当時の稜線を残していると思われる。この色別標高図がなければ到底見出せなかった地形象形である。
と紐解ける。上図西端にある岬のことを指し示している推定される。「淤志弖流夜」=「押し照るや」=「海の照り輝く」とは全く異なる解釈となった。ナニワの枕詞で片付けられそうなことではなく、立派に意味を持つ文字列となった。意味不明→枕詞の多さに驚かされるが、一度しか出現しない言葉を枕詞とは言えないであろう。
記述された内容を再現した図である。仁徳天皇はここに示された島伝いに吉備国へと旅立った説話は続く。挙げられた島の順序も手前の阿波志摩(彦島本村)から遠い佐氣都志摩(六連島)へと合致する。
古事記で挙げらる島の名称とその地形及びその数がピッタリと一致することは、その描かれた舞台が北九州の玄界灘、響灘及び周防灘の海域であったことを強く支持するものと思われる。
淡嶋と淡道嶋は明確に区別され、それぞれが実在する島として記述されていることが明らかとなった。淡道嶋の詳細は仁徳天皇紀に記載されている。「免寸河之西、有一高樹」の説話でその島の東部の様相を示す、また既に第三代安寧天皇の孫、和知都美命が坐した「淡道之御井宮」でもその地の状況を伝えている。
上図に示したようにこの二つの島の分岐点は下関市彦島江ノ浦町辺りであろう。縄文海進など海面上昇によって淤能碁呂志摩、淡道嶋は彦島(淡嶋)から分離独立したものと推測される。
悔しいかな本ブログも通説に引き摺られて「那爾波能佐岐」の解釈を取り違えたようである。その御崎に立って初めて古事記が伝える本当のところを伺えたように感じる。一語一語を大切に…である。淡嶋を国生みに加えない理由は今一不詳ではあるが、それは今後の課題としよう。
その他の島については原報を参照願うが、比定した現地名を含め概略は以下の通り…
●「淤能碁呂志摩」=「彦島(西山)」(下関市彦島西山町)
伊邪那岐・伊邪那美が天浮橋に立って沼矛で作った島。血液が凝固する時の凸凹状態。
●「阿遲摩佐能志麻」=「馬島」(北九州市小倉北区)
「阿遲」=「小型の鴨」渡り鳥の一種。「摩佐」=「増す(繁殖)」
●「佐氣都志摩」=「六連島」(下関市大字六連島)
「佐氣都」=「裂ける」天然記念物(雲母玄武岩)の劈開性を表現。もしくは「氣都」=「穴」
溶岩台地の凝結時に海水の水蒸気爆発による多孔状の外観、又はその両者。
さて、仁徳天皇が詠った場所は明らかに「淡道嶋」であるが、歌の冒頭部…「淤志弖流夜 那爾波能佐岐」の解釈が重要となってくる。通訳は「海の照り輝く難波の埼から」とある。「那爾波」=「浪速」=「難波」と置換えると問題なく読み取れるといった感じであろうか…。
ここで二つの疑問が浮かび上がる…
①淡道嶋に居ながら、何故、難波の崎に立った時の歌としたのか?
②「佐岐(サキ)」=「前、先(突出たところ)」である。難波(海)が突き出ることはない。
「氣多之前」など串刺しの算盤玉のような山塊の陸地が海に突き出た表現である。
やはり「那爾波」の解釈がキーポイントとなってくる。「難波」ではなく淡道嶋にある海に突き出た岬を持つ地形を意味していると思われる。では、何と紐解けるのか?…思った以上に難物であった。「那」=「多い、美しい」、「波」=「端」であるが、「爾」の解釈が一向に浮かんで来なかったが…国土地理院さんに感謝である。
上図彦島塩浜町~田の首町にある山塊の稜線を「爾」と表現したのである。その北部は宅地開発によって些か削られているように伺えるが、当時の稜線を残していると思われる。この色別標高図がなければ到底見出せなかった地形象形である。
淤志弖流夜 那爾波能佐岐
=押し出ている美しい多くの(爾の)稜線持つ山並の端にある岬
と紐解ける。上図西端にある岬のことを指し示している推定される。「淤志弖流夜」=「押し照るや」=「海の照り輝く」とは全く異なる解釈となった。ナニワの枕詞で片付けられそうなことではなく、立派に意味を持つ文字列となった。意味不明→枕詞の多さに驚かされるが、一度しか出現しない言葉を枕詞とは言えないであろう。
記述された内容を再現した図である。仁徳天皇はここに示された島伝いに吉備国へと旅立った説話は続く。挙げられた島の順序も手前の阿波志摩(彦島本村)から遠い佐氣都志摩(六連島)へと合致する。
古事記で挙げらる島の名称とその地形及びその数がピッタリと一致することは、その描かれた舞台が北九州の玄界灘、響灘及び周防灘の海域であったことを強く支持するものと思われる。
淡嶋と淡道嶋は明確に区別され、それぞれが実在する島として記述されていることが明らかとなった。淡道嶋の詳細は仁徳天皇紀に記載されている。「免寸河之西、有一高樹」の説話でその島の東部の様相を示す、また既に第三代安寧天皇の孫、和知都美命が坐した「淡道之御井宮」でもその地の状況を伝えている。
上図に示したようにこの二つの島の分岐点は下関市彦島江ノ浦町辺りであろう。縄文海進など海面上昇によって淤能碁呂志摩、淡道嶋は彦島(淡嶋)から分離独立したものと推測される。
悔しいかな本ブログも通説に引き摺られて「那爾波能佐岐」の解釈を取り違えたようである。その御崎に立って初めて古事記が伝える本当のところを伺えたように感じる。一語一語を大切に…である。淡嶋を国生みに加えない理由は今一不詳ではあるが、それは今後の課題としよう。