丸邇と春日
反正天皇が丸邇之許碁登臣之女・都怒郎女を娶ったという記述以来丸邇と春日の端境域の話題が語られようになる。散在する地名を纏めてみると丸邇と春日の関係が少しは見えてくるように思われる。現在の行政区分を重ねると極めて興味深く感じられる。古代の息吹が甦る場所ではなかろうか。
関連する地名は…
春日之日爪
…である。
最後の「春日之日爪」については欽明天皇が「春日之日爪臣之女・糠子郎女、生御子、春日山田郎女、次麻呂古王、次宗賀之倉王。三柱」と記述された中に登場する。仁賢天皇紀の「丸邇日爪臣之女・糠若子郎女、生御子、春日山田郎女」と類似したものである。
丸邇日爪、春日山田は以下のように紐解いた…、
日爪=日(春日)|爪(山稜の先端)
…とすると、現在の田川郡赤村小柳辺りを示しているようである。「丸邇日爪」は既に登場した「木幡村」があった場所、時を経て繁栄したのであろう。「春日山田」はかつては壹比韋と呼ばれたところ、現在の赤村内田山の内、に重なるところである。この地もまた時を経て「辰砂」の発掘ばかりではなく人が住まう地に変化したのであろう。
こうように見て来ると「日爪」という場所に対して、その所属が「丸邇」と「春日」の違いだということになろう。端境の地名を纏めて地図に示した。
丸邇の許碁登、佐都紀及び日爪と端境を拡げた丸邇と旧来の春日勢力の鬩ぎ合いと判断して良いであろう。邇藝速日命が開いた地に居て同族であっても世代が進むに伴って生じたものと推察される。それにしても大坂山南麓の厳しい自然環境、耕作地の面積は絶対的に少なく、それを切り開いて財を成して来た一族である。決して途切れることなく姻戚関係を保持する努力も評価される。
日爪の地が時には丸邇、春日と入替るのもそんな両者の葛藤の現れであろう。上図に現在の香春町と赤村の境界線(赤色二点鎖線)を示した。古代の境界を引継いでいると思うと、1,300年以上もの間それが存続してきたことに感慨深いものがある。人と自然環境、地形との関わり合いは後者が破壊されない限り不変的に存在するもののように思われる。
漢字という記録する手段を有した民族がこの倭国に来て、その地を記録した。漢文と倭文を交えて伝えようとした。その精緻さに驚愕するのである。何度も言う、古事記を神話・伝説の物語にしてしまった歴史学者の罪は拭い切れにないくらいに重いのである。
古事記終章の記述は大河の中流域の開拓、それを成遂げた新しい豪族の出現を示すようになる。後日に述べる予定であるが、それは大きな改革を要する、即ち危機的状況をも生み出すことになる。丸邇と春日の鬩ぎ合い、それは狭い土地の中で既に端境に近付いたことを暗示するものであろう。邇藝速日命の地は倭国全体に起る状況を示しているのである。