2017年12月20日水曜日

雄略天皇:河内之多治比高鸇陵 〔141〕

雄略天皇:河内之多治比高鸇陵


記述漏れの追記となってしまったが、解釈に一工夫を要したこともあって別稿で記述してみようかと…多用される「多治比」倭国の中の各地が治水されていく様子を表わす言葉として欠かせないものであったのだろう。それに纏わることも含めて述べる。

古事記原文…

天皇御年、壹佰貳拾肆己巳年八月九日崩也。御陵在河之多治比高鸇也。

「多治比」に「河内」が被さる。元々河内のあるのだから、何故被せた?…ちょっと丁寧に書いただけ、そんな解釈であろう。履中天皇が寝惚け眼を擦りながら「何処だ、ここは。何だ多遲比怒かぁ」と発したところと同じであろうか?…異なるから被せた、と読む方が適切ではなかろうか。

「多治比」は固有の名前ではない。文字解釈を怠り、固有の地名とすると古事記中にその文字が登場する度にその地が登場することになる。前後の脈略は無視か何かの間違い、と片付けられる。労を問わずに古事記が示すところを紐解くことが肝要と思われる。因みに通説は「多治比」は大阪府羽曳野市とあったと言われている。

「多治比」=「田が治水されて並ぶ」という固有の名前ではないとすると雄略天皇の墓所を特定できるのであろうか?…迷うことなく「高鸇」に全てが潜められている、とは言え鳥の名前ではないか、と行き止まる雰囲気になってしまう。ここからが考えどころと言える。

実年齢六十過ぎと考えておこう。倭国立国宣言をした天皇として大往生であったろう。陵墓の場所も生前の事績に絡むところと推察される。鸇」は鷹、サシバなどの鳥の名前とある。倭建命の白鳥陵など、亡くなってその御霊が天空に舞う姿を映していることが思い起こされる。そう考えてくると墓所の在処は何処に潜められているのか?…、


鸇=亶+鳥


に分解できることが判る。辞書を開くと…、


亶=物が多く集積され分厚くなる様

…と解説されている。文字の印象からも積み重なった様子と見られる。これを適用してみると…


河内之|多治比|高鸇=河内の|治水された(田)|積み重なる

…と紐解ける。河内にある「高い山稜が作る谷間の棚田」に近接する場所となる。現在の地形からではあるが、行橋市にある長峡川と小波瀬川に挟まれたところとした河内の中では一ヶ所、それを示すところが見つかる。行橋市入覚の西側、塔ヶ峰南麓の谷間が合致することが判る。鳥は雄略天皇の御魂として飛んで行ったのであろうか・・・。



詳細な場所の特定は難しいが、小高いところに鎮座する五社八幡宮辺りではなかろうか。雄略天皇が長谷朝倉宮から吉野に通った道筋に当たる。古代の倭国東北部の主要交通路であったと思われる。



多くの説話を残した天皇が大国となった倭国に君臨し、大倭豊秋津嶋を初めとする大小の島の隅々までを統治できるようになったと告げた。その過程を古事記は神話・伝説の物語をも含めて実に合理的に記述して来た。驚嘆すべき、そして誇るべき史書に値すると思われる。

…全体を通しては「古事記新釈」の雄略天皇の項を参照願う。



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<河內之多治比高鸇陵>2019.05.20