2017年12月18日月曜日

仁賢天皇:倭国の向かうところは? 〔139〕

仁賢天皇:倭国の向かうところは? 


前記に続き針間国に潜伏していた逃亡者、意祁王と袁祁王の物語である。運よく見つけ出されて先ずは弟の袁祁王が皇位に就き、短命であったことから兄の意祁王が引継いだと古事記は伝える。意祁王、後の仁賢天皇に関する記述である。

通説はと言うと、終わりに近付いて古事記記述の分量が少なくなり、また一部欠落していると思われるような記述もあり、解釈はかなり大まかになっているようである。日本書紀の記述に依存した歴史解釈が益々表に出て来る時代となる。

がしかし、時代が動く、動くところに何かを示す兆しがあると信じて読み解いてみよう。ここまで関わった以上引き返すわけにはいかない…なんて気張ってはみるものの・・・。

古事記原文…

袁祁王兄・意祁命、坐石上廣高宮、治天下也。天皇、娶大長谷若建天皇之御子・春日大郎女、生御子、高木郎女、次財郎女、次久須毘郎女、次手白髮郎女、次小長谷若雀命、次眞若王。又娶丸邇日爪臣之女・糠若子郎女、生御子、春日山田郎女。此天皇之御子、幷七柱。此之中、小長谷若雀命者、治天下也。

意祁命が坐した石上廣高宮は既に紐解いて現在の福岡県田川市夏吉にある山麓から少し上がった場所、ロマンスヶ丘と呼ばれているところと推定した。安康天皇の石上穴穂宮に近い。袁祁王が山代の近飛鳥からは父親の市邊、幼い頃に過した場所である葛城の近隣に戻ったのであろう。


弟は積年の恨みを晴らすことに注力して夢途中で亡くなったその後を引き継いだ兄は弟の果たせなかったことを、と思ってみてもやはり時間はそう多くはなかったのであろう。


雄略天皇の御子:春日大郎女

娶ったのが大長谷若建天皇之御子・春日大郎女と記述されるが、出自が不詳なのである。古事記には珍しく布石されていない。記述漏れか?…とは思うが、雄略天皇紀で丸邇に関連する記述は「丸邇之佐都紀臣之女・袁杼比賣」を娶ろうと出向いたが逃げられたという説話が残っている。

ただそれだけの話であって、「佐都紀」の場所を示すだけか、とも勘ぐってしまうような内容であるが「金鉏岡」の歌まで送っているのだからそこで記述されただけの事件ではなかったようにも受け取れる。憶測の範囲となるが、この説話が春日大郎女の出自に関連するのではなかろうか。

日本書紀などの記述で補うこともできるであろうが、今は控えておこう。「丸邇之佐都紀」は春日との端境と推定したことから生まれた比賣が「春日大郎女」と命名されても不思議はないであろう。目下のところは袁杼比賣が生んだ比賣と見做しておく。

誕生した御子が「高木郎女、次財郎女、次久須毘郎女、次手白髮郎女、次小長谷若雀命、次眞若王」と記載される。何の修飾も無く述べられる「高木」は伊豫之二名嶋の「粟国」であろう。現在の北九州市若松区である。また「財」は「江野財=角鹿」で北九州市門司区喜多久と思われる。

倭国中心地域には誕生した多くの比賣達に分け与ええるところが急速に減少してきたことを示すものではなかろうか。比古は豪族の比賣の元に預ければ済むし、何せ皇位継承の問題から彼らは何とか確保したい、一方の比賣達の処遇に頭を痛めたことは容易に推測される。

母親を春日大郎女として、山間の春日に土地を分ける余裕はなかったであろうし、また早期に開発された地でもあり、既に多くの人が棲みついている。天皇の方もそもそも分け与える土地を持ち合わせていない。必然的に各地に散らばることになったと推測される。

後にも述べるが、「高木」も「財」も「耕作地」ではなく特有の産物(魚類、布織物)があり、変わらず豊かさを保っていた地域と思われる。比賣の受入れが可能であったと推察される。このような地域の開拓に向かうか否かに天皇家の命運が掛かっていたのではなかろうか。
 
「手白髮郎女、小長谷若雀命、眞若王」は特に地名関連ではなく名付けられたものと思われる。小長谷若雀命は雄略天皇の大長谷若建命から引継いだ命名のように見える。残る「久須毘郎女」は何処を意味しているのであろうか?…


久須毘

「久須」は意祁命と袁祁命が針間国に逃げた時に通った「玖須婆河」に含まれると解釈する。「毘」の意味は「臍」を選択すると…


久須毘=久須(霊妙なところ)|毘(臍:凹部)

…「英彦山山稜の凹んだところ」と紐解ける。京都郡犀川内垣辺りと推定される。上記したように誕生した比賣達は倭国の広い範囲に散らばった。勿論それが可能だったのは天皇家だったからであろうが、「久須毘」は川の中流域で漸くにして田地が開拓されて来たところであったろう。



大河中流域の沖積の進行で州の形成が進み、更に治水の技術で水田が開拓されて行った様子が伺える。そこに人が集まり、豪族らしき者も出現することになる。その歴史を物語る古事記であろう。前記の「志毘」に類似するが、そこまでの発展は無かったのであろうか。現在の地図に見える河口域での大面積の耕地が発生する以前の出来事を主とする古事記である。


丸邇日爪と春日山田

次いで丸邇日爪臣之女・糠若子郎女を娶って春日山田郎女が誕生したと伝える。丸邇系の娶りが急増した模様である。従来より解説される葛城・丸邇の確執のようでもあるが、古事記の記述からでは詳らかではない。「丸邇日爪」は何処であろうか?…


日爪=日(春日)|爪(山稜の先端)

…とすると、現在の田川郡赤村小柳辺りを示しているようである。「丸邇日爪」は既に登場した「木幡村」があった場所、時を経て繁栄したのであろう。「春日山田」はかつては壹比韋と呼ばれたところ、現在の赤村内田山の内、に重なるところである。この地もまた時を経て「辰砂」の発掘ばかりではなく人が住まう地に変化したのであろう。



古事記の古代に登場した地名、全てではなかろうが、そこが発展してきたことを示している。人々が集まり独自に繁栄する。天皇家は決して強圧的に支配して来てはいないのである。「言向和」の精神を頑ななままに守って来たと伝えている。

しかし、それは多くの課題も生み出してきたようである。絶対的な耕地の不足、台頭する豪族の処置、挙句には皇位継承等々の重大な局面に遭遇することになった。皇位継承は何とか過去を紐解けば関係する王子を引出してくることはできる。しかし国の発展を目指して来た彼らが抱える物理的条件は何ら解決策を見出せないでいたのであろう。

丸邇の春日への侵出もその端境で逡巡するところである。大国となった倭国の侵出も同じく端境に来ていると言えよう。仁賢天皇紀から始まるこの閉塞感が大きく表れて来るのであろう。そして古事記の終焉を迎えることになる。暫くはそれとのお付き合いである。