2018年1月25日木曜日

宗賀の天皇:古事記最終章 〔159〕


宗賀の天皇:古事記最終章


建内宿禰の子、蘇賀石河宿禰から始まる宗賀の地、凄まじい発展を遂げた。造化三神の名前に刻まれた「巢」の地形を見事に具現化した例なのであろう。繰り返しになるが「巢=州」である。人が寄り集まり住まう場所を意味する。古事記が語る世界はこの「州」に寄り集まった人々の物語なのである。

本ブログは宗賀の地を現在の福岡県京都郡苅田町、そこに流れる白川流域と比定した。今も見事に整地され治水された広大な水田を伺い知ることができる。水晶山から流れ出る豊かな清流(白川=石河)はカルスト台地平尾台から流れ出る清流(小波瀬川=吉野河)と合流し、難波津(当時)に注ぐ。

谷間の川を活用した「茨田(松田)」=棚田から下流へと水田の開拓が進み、中流域へと進展していったことを伝えている。縄文海進の後退及び沖積の進行を待たなければそれ以上の開拓は、重機のない時代には到底叶えられることではなかったと推測される。古事記の記録は、まだまだ中流域の未開な部分を残しつつも、必然的に終わりを告げる時が近付いて来たのであろう。

宗賀の天皇とは橘豐日命(用明天皇)、長谷部若雀天皇(崇峻天皇)、豐御食炊屋比賣命(推古天皇)である。一部紐解いたところもあるが、修正も含めて彼らの宮、稜墓の場所を纏めて述べてみよう。


Ⅰ. 橘豐日命(用明天皇)


古事記原文…

弟、橘豐日命、坐池邊宮、治天下參。此天皇、娶稻目宿禰大臣之女・意富藝多志比賣、生御子、多米王。一柱。又娶庶妹間人穴太部王、生御子、上宮之厩戸豐聰耳命、次久米王、次植栗王、次茨田王。四柱。又娶當麻之倉首比呂之女・飯女之子、生御子、當麻王、次妹須加志呂古郎女。此天皇、丁未年四月十五日崩。御陵在石寸掖上、後遷科長中陵也。

宗賀の西側、青龍窟と呼ばれる鍾乳洞がある山から流れ出る複数の川が作る「橘」が所縁の「
橘豐日命」と紐解いた。僅かな期間であったが「池邊宮」に座したと記される。前記したように上宮之厩戸豐聰耳命(後に聖徳太子と言われる)の父親である。また當麻之倉首比呂の比賣を娶り二人の子が誕生している。これも既に述べた。

「池邊宮」は何処にあったのか?…考察してみよう。何の修飾も無く宮の名前が記される。倭国の中心、香春岳の周辺にあったと思われる。池が現在まで残っているかどうか確証はないが、下記の地図に記載されるところに推定できそうである。現地名は田川郡香春町香春の中組である(二つ目の下図も併せて参照願う)。



天照大神と須佐之男命の宇気比で誕生した天津日子根命が祖となった「倭田中直の場所を現在の田川郡香春町香春の中組と比定した経緯があった。それ以後古事記に登場することなく来たが、香春一ノ岳の南西麓のこの地は静かな佇まいを保っていたのであろう。また「許呂母」と表現され、大中津日子命(景行天皇の弟)が祖となったところでもある。

余談ぽくなるが、この二人の命の名前、活躍度の類似性には少々驚かされる。「◯◯◯津日子」の語幹にはそんな意味が込められているのかもしれない。思い出せば邇邇芸命にも付いて…「天津日子番能邇邇藝命」…いた。

さて、上宮之厩戸豐聰耳命については詳細を既に述べたが、その兄弟については簡略に結果だけに止めていた。補足して比定の根拠を列挙する。下図を参照願う。



<間人穴太部王と御子>

兄弟は三名「久米王、次植栗王、次茨田王」である。母親の間人穴太部王は石上穴穂宮近隣に居たと推定したことから上宮之厩戸豐聰耳命と同様のその近辺に住まっていたと思われる。


久米王・植栗王・茨田王

「久米」=「黒米」と垂仁天皇紀で解釈した。田川郡福智町伊方に「大黒」という地名が残る。黒米の産地の名残ではなかろうか。「植栗王」は「栗」の象形とそれを植える「鋤」の象形が組み合わさった地形が見つかる。穴穂宮の近隣(田川市夏吉)である。「茨田王」の「茨田」は既に紐解いたように谷間の棚田の象形である。現地名福智町伊方の長浦が該当するのではなかろうか。

葛城の近隣の地であるがこれまでには登場しなかったところである。田川郡福智町と田川市夏吉との境に位置する。古代の統治領域の境が今に残ることを示しているのではなかろうか。丸邇と春日の境に類似して興味深い。あらためて地形が時を経て残存する確率の高さも示している。変形してしまわない内により精度の高い比定が行われることを願うばかりである・・・。

陵墓は前記の通りである。宮も御陵(当初の)も倭の中心地、香春一ノ岳の近隣である。天皇家が内向きの行動を取るようになっていたのではなかろうか、決して領土の拡張指向とは思われないのである。「石寸掖上」については前記を参照願う。


Ⅱ. 長谷部若雀天皇(崇峻天皇)


兄弟の日嗣になる。がしかしこの天皇の治世も短いものとなったようである。

弟、長谷部若雀天皇(崇峻天皇)、坐倉椅柴垣宮、治天下肆歲。壬子年十一月十三日崩也。御陵在倉椅岡上也。

座したところは倉椅柴垣宮とある。「倉椅」は既出で香春一ノ岳の西麓、牛斬山に至る谷間を示すと思われ、「石寸掖上」(五徳川沿い)に当たる。反正天皇の「柴垣」宮、「並び守る」と解釈した。先人の墓所の近隣で並び守るという意味が込められている思われる。特定するには情報が少ないが、下図のような配置になるのではなかろうか。



石寸掖上稜と香春岳山稜を背にして並んでいる位置である。またその間に小さく山稜が延びていて「垣」を作っている。実に反正天皇の柴垣宮に類似した様相である。この紐解きによって「柴垣」の意味が明確になり、この得意な地形を満足する場所の特定の決め手になろう。

ならば既に比定した「難波高津宮」の場所を確信することができる。やや調子乗って…難波宮の地図を再掲する。



陵墓は「倉椅岡上」とのことである。特定は困難であるが、上図の五徳と書かれたところの近隣ではなかろうか。そして最後の天皇の記述になる。


Ⅲ. 豐御食炊屋比賣命(推古天皇)


妹、豐御食炊屋比賣命(推古天皇)、坐小治田宮、治天下參拾漆歲。戊子年三月十五日癸丑日崩。御陵在大野岡上、後遷科長大陵也。

「小治田」は宗賀にある。地図を参照願う。下図の「小治田王」が坐したところに重なると思われる。三十年以上も君臨したのであるが、古事記は語ることを辞めた、ということであろう。



陵墓は初め「大野岡上」とある。おそらく香春町高野の岡の上と思われる。移して科長大陵」にあると言う。上図の行橋市入覚であろう。



三十七年もの長い期間治世に携わったと伝える。その間に様々な出来事があったのだろうが、全く語られない。倭国の大変曲点、だが、決して途切れたわけではない。その繋がりは残念ながら今のところは闇の中である。


…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。