2018年1月30日火曜日

秋津とは? 〔160〕

秋津とは?


さて、前記で古事記最終章に到達したことを書いたのだが、伊邪那岐・伊邪那美に習ってやはりグルグル回りそうである。古事記新釈などと荷の重い作業なのであるが、これも一応神代から最終章まで通して記述した。ところが最も手を焼いたのが神代の神名なのである。現在一部解き初め順調に進んでいるとはいえ、まだまだ公開するには至っていない。

次回あたりからボチボチと載せるつもりなのだが、少々時間が掛かりそうでもある…と、まぁ言い訳も込めて少し閑話休題でアラカルトに話題提供してみようかと思う。あっちこっち飛んだ話になるのだがお付き合い頂けたら、である。

で、何を選んだかというと首記の「秋津」である。伊邪那岐・伊邪那美の国生み及び神生みで登場する「大倭豊秋津嶋」と「速秋津日子神・速秋津比賣神」に含まれた文字である。古事記の記述は国生みが先にあって後に神生みされるのであるが、文脈は先に「秋津」があって国生みによって登場するのが「豊(日別の)秋津」であると思われる。

伊邪那岐・伊邪那美が生んだ水戸神に固有な名前を明かし、古事記の主舞台である「大倭豊秋津嶋」の名前に用いるのだから重要な地名と思われる。がしかし、この謎は全く手掛かりなしである。通説はこの島を本州に比定するのだから何をか言わんやで、秋津の意味などどこ吹く風の秋の空って感じであろう。参考にもならないので根本から見直す羽目に・・・。

「大倭豊秋津嶋」が何処であったかは既に幾度か記述したように神武天皇の東行ルート、畝火山の比定(香春岳)、雄略天皇が吉野で叫んだ蜻蛉島など申し分無しで比定できる。福岡県東北部の貫山~大坂山山塊と福智山山塊を中心とした地域である。詳細はこちら

速秋津日子神・速秋津比賣神

雄略天皇のトンボの話は別にして何故「秋津」と表現されるのか全く不明であった。上記の「速秋津」が解ければ何かのヒントが得られるのではなかろうか?…と思いつつ見直してみよう。海神:大綿津見神に続いて生まれる水戸神である。「水戸」も「港」と解釈してしまっては伝わらない。

「水戸」=「内海と外海との境」と解釈する。古代は縄文海進により多くの内海、汽水湖が形成されていたと推測される。またそれらの地点は交通の要所でもあり、海と川の混じり合う豊かな水辺でもあったと思われる。

その神に具体的な名前が付けられている。それは何処を指し示しているのであろうか?…神生みの時期に当て嵌まる地があるのか…「天」に次ぐ古事記の重要な地点であろう。下図を参照願う。





「秋津」の「秋」=「禾+火」と分解し、略等間隔で海に突き出る三つの岬を「火」の頭の部分に模したと推測される。後に登場する「畝火山」の表現に類似するものであろう。「稲穂の茂る火」の解釈もあり得るかもしれない。上図(含拡大図)から判るように現在の標高で推定して草崎に連なる山稜線の両脇は大きな汽水湖を形成していたと推測される。


津=氵(さんずい)+聿(ふで:毛の束=穂)

が原義である。「水が集まる(められた)」様を表現するのに用いられていると思われる。「海と川とが入り交じるところ」と解釈される。

この地は邇邇芸命が降臨した竺紫日向に隣接し、後に神倭伊波禮毘古が訪れた国「阿岐(アキ)国」と呼ばれたと読み解いた。現地名は宗像市の赤間である。赤間は元は「秋郷」と呼ばれたところととある史書が伝える。「秋」の名前が全てに繋がっていることが伺える。

文字列の最初に付く「速」は何を意味しているのであろうか?…海流が速いので付けた…ではなかろう。「秋」と同じく「速」→「辶+束」=「道+束ねる」と解釈する。これが「速い」の原義である。


速秋津=速(束にした)|秋(火の)|津(海と川が入り交じる)

…「火の字の三つの頭の部分を束ねた津」と紐解け、「火の津」の日子(男)神・比賣(女)神と読み下せる。上図に示されるように現在は長い浜で繋がれていることが判る。

いずれにしても「速」「秋」「津」の文字が持つ意味を紐解いて初めて浮かび上がり、それらが全体として矛盾のない解釈になっていることが判る。既に幾度か述べたが古事記は文字の原義、というかそれが作られた時の意味を用いて表現しているのである。漢字の原点を知る上に置いても実に興味深い書物である。


大倭豊秋津嶋


いよいよこの島の名前を紐解いてみよう。「速」はなし。「豊(日別の)秋津」上記の二つの山塊に「火」はあるのか?…下図を参照願う。


そういう目で眺めてみると…

①「火」の頭の部分
②「禾」の頭の部分
③「禾」の真直ぐ延びた「木」の部分
④「火」の中央から下部

…を示しているように見える。「秋」の字を入れてみると…、

<大倭豊秋津嶋>
山稜を文字で表すことは既に幾度か遭遇した。神大根王(八瓜入日子王)神櫛王那爾波能佐岐などがあったが「秋」=「禾+火」への分解がなかなか気付き難かったということであろう。

纏めてみると…「大倭」=「偉大な倭」として…、

豊秋津嶋=豊の方にある秋津(火の津)の島

…と紐解ける。現在の宗像市の「秋津」から生まれた「豊秋津」の表現と結論付けられる。上記でも少し触れたが、「秋津」の由来が語られた例は極めて少ないようである。上田恣さんが稲作伝播の地としての宗像(秋)と豊秋津嶋を関連付けられている例がある(サイトはこちら)。

「大倭豐秋津嶋」の別名を「天御虛空豐秋津根別」と記述する。国生みのところで紐解いたが…、


天御虛空豐秋津根別=天が御す、今は何もない豊秋津の中心の地

…の解釈が実感として受け止められる。仁徳天皇紀になって「蘇良美都=天の下(世界)が満つ」と表現するのである。実によくできた筋書きである。

…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。