2017年12月2日土曜日

近淡海の八瓜 〔132〕

近淡海の八瓜

「八瓜」の文字は古事記中に二回登場する。開化天皇紀の日子坐王及び男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)の御子として記載されている。原文を引用すると…

日子坐王…<中略>…娶近淡海之御上祝以伊都玖天之御影神之女・息長水依比賣、生子、丹波比古多多須美知能宇斯王、次水之穗眞若王、次神大根王・亦名八瓜入日子王、次水穗五百依比賣、次御井津比賣。五柱。…<中略>…水穗眞若王者、近淡海之安直之祖。次神大根王者、三野國之本巢國造、長幡部連之祖。

弟、男淺津間若子宿禰命、坐遠飛鳥宮、治天下也。此天皇、娶意富本杼王之妹・忍坂之大中津比賣命、生御子、木梨之輕王、次長田大郎女、次境之黑日子王、次穴穗命、次輕大郎女・亦名衣通郎女御名所以負衣通王者、其身之光自衣通出也、次八瓜之白日子王、次大長谷命、次橘大郎女、次酒見郎女。九柱。

前者の神大根王の「八瓜入日子王」は三野国の本巣国造と長幡部連の祖となったとある。後者の「八瓜之白日子王」は生き埋めにされて敢無くこの世を去ってしまうという役柄である。彼らが居たこの「八瓜」の場所を既に比定して現在の福岡県京都郡苅田町葛川辺りとしたが、二人に関する記述を纏めて今一度読み解いてみよう。


近淡海之安と八田

「近淡海之安」は開化天皇の御子、日子坐王が近淡海之御上の息長水依比賣を娶って誕生した水之穂眞若王が「近淡海之安直之祖」という記述で初めて登場する。その後景行天皇紀の倭建命が娶った比賣の父親が「近淡海之安国造の祖・意富多牟和氣」の中に含まれる。

古事記中での出現は前後するが、先に意富多牟和氣が切り開いた「近淡海之安」の地に後になって水穂眞若王が入り、地名を姓(直)として拝領したのであろう。統治制度が確立していない時期にではあるが、「近淡海之安」を一国と見做し、それを統治を任せたように受け取れる。既に幾度か述べたが、出雲出身者が近淡海に侵出及び開拓を行ったという例に当たる。

比定場所は「安(ヤス)」=「谷州(ヤス)」として谷の出口が州になっている地形を示すところと紐解いた。改めて調べると近淡海に面して谷州を形成していたであろう地は福岡県京都郡苅田町片島(下)辺りに絞られることが判る。下図に示したように谷が難波津に接している地形である。

国土地理院色別標高図の青い部分は概ね10m以下、その大半は縄文海進による上昇した海面の下であったと推測される。後に沖積の進行によって豊かな水田となり、現在に繋がるのである。




水之穂眞若王の「水之穂」も打ち寄せる波の穂を表し、この地に相応しい命名と思われた。大きな入江に突出た岬、その近隣にあった場所である。

「八田」は神倭伊波禮比古が八咫烏に導かれて難を逃れ出たところ、谷の出口である。「八田」=「谷田」であろう。石河(現在名白川)の上流部の豊富な水を利用して多くの棚田が作られていたと推測される。谷と田の地形象形で名付けられたものと思われる。「安=ヤス」も含め、近隣に「谷=ヤ」の語幹を持つ地名が付けられることは最もらしく頷けるものであろう。

「八咫烏」=「八田のカラス(黒い姿の住人)」と解釈した。古事記は「八田」の地名を言わず、吉野河の河尻に行き着いたという。いずれにしても合理的な道筋であり、近畿熊野の山中を彷徨って吉野川の上流部にぶつかることはない。

神大根王・亦名八瓜入日子王

日子坐王が近淡海之御上の息長水依比賣を娶って誕生したのが神大根王、亦の名を八瓜入日子王である。ここで「八瓜」が登場する。上記から類推すると母親の近淡海の地で「八=谷(ヤ)」がつくところとなる。「安」の近隣に行橋市葛川という地名がある。「瓜」との繋がりを求めると…、



「瓜」は蔓になったウリの象形であり、そのものの地形を示していることが判る。「爪にツメなし、瓜にツメあり」と言われるが、ツメ無くしてウリの象形とはならないのである。


八瓜=谷が作る地形を瓜という字に象形したところ

と紐解ける。古事記中には二度出現するが、場所としてはこの地だけである。特異な地形として登場させたのであろう。「八瓜之白日子王」は説話にも登場するが、惨殺されるという悲しい配役である。が、「小治田」という宮が置かれる地の在処の重要な伏線になっているのである。

「神大根王」は何かを意味しているのであろうか?…「神」=「雷=稲妻」と紐解いた経緯があった。「神櫛王」吉備国の王である。下図を参照されたい。稲妻のような尾根の根っこを表しているように見える。その地が「八瓜」である。何とも念の入った命名であった。


神大根王は三野國之本巢國造、長幡部連之祖」と記される。八田から山を越えれば行き着くところである。決して広くはない「八瓜」の地からの新しい活躍の場を求めたのであろうか。まだまだその時代には倭国は開拓の時代だったのであろう。

水穗五百依比賣、御井津比賣」の二人の比賣が居たと記される。水穂五百依比賣は「近淡海之安」の中でより岬の先端に近いところ、現在の苅田町猪熊辺り、御井津比賣は「川の合流する水源の近く」と紐解いて、現在の苅田町葛川にある菅原神社辺りではなかろうか。


通説は近淡海、淡海の区別なく近江と置換える。幾度か取り上げたこの矛盾をそのままにして古代の姿を明らかにすることは不可能である。皆がそう言うのだから、真似る相手がそうしているのだから、だからそうするのが正しい・・・主体性がないことが称賛される時は終わりつつある。日本人という民族、世界に類を見ない多様なDNAを持つ人々の集まりが最大の転機に差し掛かっていると思う。

異文化を受け入れる能力と異文化を生み出す能力とは別物である。日本人が持つ最大の特徴である受け入れる能力を保持しつつ、生み出す能力を育むには如何なる手段があるのであろうか?…生み出すためには先ずは現状の否定から、である。昨今の肯定ムードが蔓延する現状に大いなる危機を感じる。戦前のような押し付けられた肯定とは異なり今は自発的である。故に一層の危惧を覚えるのである。

…全体を通しては「古事記新釈」開化天皇及び允恭天皇の項を参照願う。