2017年11月6日月曜日

新羅の王子:天之日矛の子孫 〔120〕

新羅の王子:天之日矛の子孫


阿加流比賣神を追っかけて倭国にやって来た王子、難波津迄来たのは良かったが、渡の神に許してもらえず致し方なく多遲摩国に向かった。結果的にはそれが幸いしたのか多くの子孫を残すことになった、という前説で例によって子供の名前の羅列が始まる。スーッと読み飛ばしそうなところであるが、いやいやこれが結構な情報を潜めていたのである。

多遲摩國での娶りと子孫のことが記述される…古事記原文…

故更還泊多遲摩國、卽留其國而、娶多遲摩之俣尾之女・名前津見、生子、多遲摩母呂須玖。此之子、多遲摩斐泥、此之子、多遲摩比那良岐、此之子、多遲麻毛理、次多遲摩比多訶、次淸日子。三柱。此淸日子、娶當摩之咩斐、生子、酢鹿之諸男、次妹菅竈上由良度美。此四字以音。

故、上云多遲摩比多訶、娶其姪・由良度美、生子、葛城之高額比賣命。此者息長帶比賣命之御祖。故其天之日矛持渡來物者、玉津寶云而、珠二貫・又振浪比禮比禮二字以音、下效此・切浪比禮・振風比禮・切風比禮、又奧津鏡・邊津鏡、幷八種也。此者伊豆志之八前大神也。

全て「多遲摩」は省略して…先ず娶ったのが「俣尾之女・名前津見」と記述される。

・俣尾之女・名前津見→母呂須玖→斐泥→比那良岐→❶毛理 ❷比多訶 ❸淸日子

・❷比多訶(娶由良度美)→葛城之高額比賣命(息長*帶比賣命之御祖)

・❸淸日子(娶當摩之咩斐)→酢鹿之諸男、菅竈上由良度美

比那良岐の子が三人、その内の次男❷比多訶と三男❸淸日子の娶りと子の名前が記されている。垂仁天皇紀に登場した三宅連(屯倉統括)の祖「多遲麻毛理」が長男として現れる。天之日矛から五世代目に当たる。比多訶が姪を娶り誕生したのが「葛城之高額比賣」であると伝える。

多遲摩国内だけかと思いきやそれなりに他国に居たの比賣などが登場していて盛んな交流の跡が伺える。何となく新羅っぽい感じの名前のように感じるのだが、ちょっと思い込みかな?・・・勇気を持ってこれらの地名を紐解いてみよう。

地形象形として…

・俣尾=尾根の稜線が分かれるところ

・母呂須玖=大きくゴツゴツとした州

・斐泥=挟まれた隙間のような水田

・比那良岐=一様に並んだ凹凸のある場所が二つに分かれているところ

・比多訶=田を並べたところ

下図を参照願う。旦波国の南端は現在の音無川北岸辺りまでとすると、多遲摩国は現在の城井川の北岸までと推定される。英彦山山塊の稜線が延びた端の辺りが「尾」と名付けられたところと思われる。現在の京都郡と築上郡の境をなす稜線の端が幾つかに分かれたところが「俣尾」と名付けられた場所、現在の築上郡船迫辺りと推定される。

その近隣は多くの池があり、また稜線が延びたところでもあり、凹凸のある地形を示している。そこが「母呂須玖」と呼ばれた場所で、現在の同郡安武辺りと思われる。「比那良岐」はそこから上流側に稜線が寸断されているところがある。「那良」が分断されたところを示していると思われる。

そう見て来ると「斐泥」はもっと上流側に谷の隙間の場所、現在もかなりの人が住み豊かな水田が見られる同郡本庄・櫟原辺りではなかろうか。「比多訶」はそれらに比較して広い水田が作られていた場所と思われる。河口付近ある現在の同郡東・西八田辺りと推定される。


残っているのは「淸日子」であるが、地形象形的には割り当て困難なようである。「淸」=「寒い、冷たい(澄んでる様から)」の解釈がある。現地名の「寒田」が該当するのではなかろうか。下図中の「櫟原」の南隣に位置するところ、この一連の地名では城井川の最上流部に当たる。

大河城井川の周りを上流から下流に至る地域を示しているものと判る。この地は「比比羅木の新羅国」に極めて類似した地形である。故郷に思いを馳せながら永住したのではなかろうか。中国、朝鮮半島からの渡来人達が開拓し豊かにしていった背景は案外地形の類似性に密着しているように感じられる。

これらを地図上で当て嵌めてみると…全て築上郡築上町の地名で…


俣尾=船迫
母呂須玖=安武
斐泥=本庄・櫟原
比那良岐=上・下深野
比多訶=東・西八田
淸=寒田


葛城之高額比賣が誕生する地は最も下流域で多遲摩国の中心地であったろう。古事記が倭国と朝鮮半島との深い繋がりを示す「息長帯比賣命」の出自が明かされる。人名に潜められた居場所の情報は彼らの行動を推測する上に貴重な示唆を与えていたのである。

天之日矛は八種の神宝を持参していた。それのお陰かどうか知る由もないが「伊豆志之八前大神」となっていたと伝えている。既に紐解いた「伊豆志」についてはこちらを参照願う。

多遲摩国から離れるが「當摩之咩斐」は何処であろうか?…既に「當麻」は葛城の北部、福智山の麓にあったことを突止めた。葛城之高額比賣が誕生するにはそれなりの背景があったのであろう。後日に詳述してみよう。

息長*
「息」=「自+心」であるが、「自=鼻」と解説されている。確かに息をするのは鼻と心であろう。「鼻」↔「端」↔「花」である。端っこで突き出ているところを指し示すところと解釈される。丹波比古多多須美知能宇斯王の多多須美知」(真直ぐな州の道)=「鼻」=「息」と表現したのである。

息長=鼻(端)が長い

…地のことを表していたのである。現地名「行橋市長井」は"一字残し"であろう。古代より多くの渡来があり人々が住まっていたところ、「玖賀耳之御笠」で示された原・住民の存在が浮かび上がって来る。天皇家は彼らとも密接な繋がりを築いて行ったのである。(2018.04.28)