2017年9月29日金曜日

目から鱗の遠津年魚目目微比賣 〔104〕

目から鱗の遠津年魚目目微比賣


御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の后の一人に木國造の「遠津年魚目目微比賣」がいる。木国は度々登場するのであるが、なかなかその詳細が掴めない。残存している地名もあり、判っているようでわからない、といった国のようである。

グルグルと古事記の中を彷徨ってると、何じゃこれ、の名前で居場所はその前に木国が付いていれば問題なし、と読み飛ばして来たのが実情である。グルグルと目が回ったのか、目目に止まってしまったので、紐解いてみよう・・・。

古事記原文…

御眞木入日子印惠命、坐師木水垣宮、治天下也。此天皇、娶木國造・名荒河刀辨之女遠津年魚目目微比賣、生御子、豐木入日子命、次豐鉏入日賣命。二柱。

意気揚々と師木に進出した初国の天皇、最初に娶った比賣である。それなりの比賣と思うのが世間の常識、ま、それはともかくも名前の字面はちと生臭い感じである。そうなのか?・・・。

遠津年魚目目微」を紐解いてみよう…

「遠津」は遠い、近いではなく広くて大きな津、幾つかの川が出合うところと思われる。「年魚」は鮎、大后息長帶日賣命(神功皇后)が新羅から帰国して筑紫国の中をあちこちと、ご紹介して貰った時に出現した。細かく言えば鮎だけではないであろうが…。

「目目」この表現も面白い。なんと解釈するか…やはり「目」の強調、大きな二つの目、と言いたいのであろう。最後の「微」ネット探索では大半が「わずか、細い、小さい」などであるが、どうも話の筋とは合わない。毛色の変わった訳を求めたい時は決まってOK辞典さんのところ訪問する。

出てきました


微=何とも言えないほど美しい

こんな使い方ある?

「微」の原義はやはり「わずか、ひそかに」のように思われ、奥に潜んだ様を表現するものであろう。それを使っている。即ち形の美しさではなく、その中、奥、の美しさを意味すると解釈される。「目」の美しさは、その透き通った、吸い込まれるような奥深さ、ではなかろうか。

人体の美しさを表現する文字、「目」にのみ適用できる表現方法と思われる。「微」を使うことによって美しさの状態を表しているのである。「微」=「美」とはしない、捻くれ者の安萬侶くんである。

何だか「沈魚落雁閉月羞花」の類かも?…纏めると…、

遠津(広大な川の合流地)・年魚(鮎)・目目(両目)・微(透き通った美しさ)

…広大な川合の場所に住む鮎のように透き通った美しさの目を持つ比賣となる。中国四大美人に勝るとも劣らない、とでも言えるかな?

木国に流れる現在の山国川(福岡県と大分県の県境)に耶馬渓・青の洞門という秘境がある。その少し下流が屋形川との合流点、更に少し下流に「鮎帰」という地名がある。回遊する鮎の住処であろうか。この比賣の美しさは尋常ではなかったようである。

おっと、美人に見とれて肝心の「荒河」…説明するまでもなく…「荒河」=「山国川」である。現在の河口、大分県豊津市辺りの氾濫は絶え間なく、河流も大きく変化した経緯があるという。がしかし古事記に記載される地名を多く残しているところでもある。貴重な地域であろう。



前後の物語は「古事記新釈」の崇神天皇紀を参照願う。


2017年9月28日木曜日

近淡海之御上 〔103〕

近淡海之御上


開化天皇が丸邇臣之祖日子國意祁都命之妹・意祁都比賣命を娶って誕生したのが日子坐王である。日子国そのままを体現したかのような命名で、その通り大変な活躍をなされる。後になるが、「玖賀耳之御笠」一族を退けて丹波国を平定するのである。高志国に行った「大毘古命」に並ぶ将軍であったと伝える。

その彼の後裔の記述があり、幾人かの娶った比賣の中に近淡海之御上祝以伊都玖天之御影神之女・息長水依比賣がいる。古事記中「息長」の文字が初めて現れる名前である。長い名前で通訳はどのように訳しているか…武田祐吉訳…、

近江の國の御上山の神職がお祭するアメノミカゲの神の女オキナガノミヅヨリ姫

勿論、淡海も近淡海も区別なく「近江」である。繰返しになるが「淡海=近江」なら「近淡海=近・近江」である。この一語だけで通説は瓦解する。横道はこれくらいにして・・・。

出雲の石𥑎之曾宮で登場した「葦原色許男大神以伊都玖之祝大廷乎」も真に丁寧な表現であった。「伊都玖(イツク)」=「斎く」で死者を大切にお祭りする意であろうが、おそらくまだ生きてるいると思えば「斎=傳」として「かしずく(仕えて世話をする)」ぐらいかもしれない。

それがわかったところでこの神の居場所を探してみよう。「近淡海国」は幾度か既に登場で、現在の行橋市の入江、通称豊前平野と呼ばれるところ、但し当時はその大半が海中にあった思われる。

既に紐解いたところを並べてみると、中央にある日枝(現在の行橋市上・下稗田)、倭建命の墓所があると言う河內國之志幾(現在の京都郡みやこ町勝山黒田)、意富多多泥古が住んでいた河內之美努村(京都郡勝山箕田)、北の蘇賀石河宿禰一族が居た水晶山南麓(現在の京都郡苅田町)及び南の御所ヶ岳北麓等々、ほぼ埋め尽くされていると思われた。

ところが常に目にしながら古事記に登場しなかったところ、「観音山」及びその連山があった。天皇の宮にしても良いような場所なのであるが、誰も手を付けなかったところだった。漸くにしてその理由、その名前が読み解けたのである。

近淡海之御上の「御上」は「三上」=「三つの頂上のある山」と解釈すれば、現在の「観音山及びそれに連なる山」に当て嵌まるのである。一応、神の山であった。そこに宮を置くことはない。神様は坐したところから時々お出ましになって悪さ?をする…そんな神様もいた。

古事記全体を通じて、近淡海国の中央奥にありながら、がしかしここで出現して後は歴史の表舞台からは外れることになったのであろう。神の山とはそんなものかもしれない。「息長」の名称もここが初出で、これは何代かに渡って引継がれる。後の神功皇后の諡号も含まれる。

天之御影神の「御影」はどんな意味を示すのであろうか?…「御(御す)・影(姿)」とできるであろう。これは「鏡」を示すと解釈される。どうやら天之御影神は「鏡」作りの神(達人)だったのではなかろうか。「鏡」=「影見」が転じたという説もあるが、敢えて上記としてみたい。

採銅場所と離れているのではなく、現在の味見峠を越えればそこは採銅所の地名である。古事記は銅、鉄に関する記述を避けている節がある。書けば何らかの技術的なことも必要になって来る。それを語りたくない、語ってはならないこととして通している。やはり、国家機密なのであろう。


この神が「息長」を伝えた。「息長」の由来を銅の成型時に必要な火力、それを得るために息を吹きかけていた、海に長く潜ってられるとか、様々である。鏡が映すもう一つの世界など、鏡に霊力との関わりを持たせ、神宝とした古代である。「息長」=「命永らえる」の解釈も成り立つかもしれない。

それはともかくも天之御影神から発生する「息長」は貴重な言葉であったことは間違いないようである。幾人かの後裔がこの名前を引継ぐことになる。鏡の製作は開化天皇の時代にはしっかり根付いており、それ以前に倭で作られていたと推測される。伝えたのが、高天原から来た神であった。

本投稿の前後の流れは「古事記新釈」の開化天皇の項を参照願う。

2017年9月26日火曜日

當麻の意味 〔102〕

當麻の意味


この言葉に出会ったのが、履中天皇紀、徳天皇崩御の後の兄弟による跡目争いの説話であった。本ブログの全く初期である。遥かなる遠い昔…なんてことを書くつもりはなく、そこで出くわしたのが當岐麻道」であった。「當麻」と「當岐麻」は異なるのであるが、通説は「當麻路(タギマジ)」とするのである。

次男の墨江中王に焼き出されて逃げた道に當岐麻道」が出てくる。難波宮近辺から倭へ逃げる際に通る道である。通説は「当麻寺」の近くを走る難波との通行に使われた「竹ノ内街道」がそれに該当するとして解釈されている。暇が取り柄の老いぼれ、絶体絶命のピンチを迎えたのである。

三報ぐらい書いてブログも閉鎖になるか・・・なんて思っていた時に気付いたのは、やはり説話の流れであった。履中天皇達が逃げる時に地元の女性に教えて貰ったのが、この「當岐麻道」である。「竹ノ内街道」のような大街道を教えて貰う必要はない筈と思われた。

「當岐麻道」の「岐」を省略すれば確かにピッタシの「當麻道」になるが、やはりおかしいのである。漢字との格闘、これから始まり今日に至る。「岐」を省略せずに何と解釈するか?…


と紐解いた。道の分岐が消えかかっている、よくわからない道だから地元の女性に教えて貰ったのである。そして、追手から逃れることができたと古事記は伝えている。大街道なんて解釈しては逃亡中の彼らの状況は全く伝わらず、まるで行幸のようなものになってしまうのではないだろうか。

こんな背景を持ちながら今日まで多くの文字を紐解いてきた。言えることは文字の省略など勝手な解釈は禁則である。古事記に記載されている文字そのものを解釈するべきであることを示してきた。今後も変わらぬ「ルール」である。

余談だが、天皇、大助かり、喜んで歌を詠われた。その中の文字が「當藝麻知(袁能流)」であった。これを「當()麻道(袁能流)」として全く同意と解釈してきたようであるが、これでは天皇さんの歌の実力、才能なし、である。結果を示せば「弾碁待ちを宣する」と解釈することができた。要は弾碁という遊戯に掛けた歌であった。

そんな日々が過ぎて、ふと思うと「當麻」の意味を解いていなかったことに気付いた。古事記に「當麻勾」という地名が出てたこともあるが、由緒ある當麻寺の名前でもある。逆に當麻寺の謂れなどがヒントになる可能性もある。いろいろ考えてみたが、やはり直接紐解くのが正解であろうと腹を括って挑んだが・・・。

落着いたのは「麻」の文字の解釈であった。上記したように「麻」は「摩」を略したものである。ならば他にも置換えることが可能と思い付いた。

當麻=當(向かい合う)・魔(人を惑わすもの)

修験者及びその場のことを意味していると紐解ける。抜粋で申し訳なしだが「二上山の東麓は当時、役行者さまの私領でした。役行者さまは大和の修験者ですが、その最初の修行地が當麻だったのです」の由緒が當麻寺のサイトに載せてある。

「當麻勾」の在処(九州福智山西麓)については、「古事記新釈」の開化天皇の項を参照願う。通釈なんて無謀な試みに突入したが、なんとも骨が折れる作業になってしまった。が、ボチボチと積み重ねて行こうかと思う。また一つ肩の荷が降りた気分である。



2017年9月24日日曜日

孝元天皇:内色許比賣 〔101〕

孝元天皇:内色許比賣

孝元天皇の娶りに抜けがあった…というか文字の持つ意味が読取れていなかった。反省を込めて書き足して置くことにする。

古事記原文…

大倭根子日子國玖琉命、坐輕之堺原宮、治天下也。此天皇、娶穗積臣等之祖・內色許男命、此妹・內色許賣命、生御子、大毘古命、次少名日子建猪心命、次若倭根子日子大毘毘命。

內色許賣命

御子に大活躍の説話が記述される大毘古命、次期天皇となる若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の名前などが見える。それらは別途のところを参照願う。

「内色許」とは何を意味しているのであろうか?…「色許」は既に何度か目にしている言葉である。大国主命の別名「葦原色許男大神」に含まれている。

読み飛ばして来たが、「色」=「華美、女性の美しい容貌」「許」=「目立つ(際立つ)状態になる、盛んになる」を選択してみると…、


色(華美)|許(際立つ)

…「華やかで美しいものが一層際立っている」ちょっと長ったらしいが、こんなところであろうか。いや、こんな浮部のことを伝えているとは到底思えない。

地形象形の筈である…「色」=「人+巴」と解説される。「巴」=「渦巻く、曲がりくねる」蛇の象形文字である。「許」=「元、下、所」として…、


色(渦巻く地形)|許(下)

…「渦巻く地の下」と読み解ける。「壹比韋」(現地名田川郡赤村内田山の内)のことを述べているのである。

「色許賣(シコメ)」と読んで「醜女(シコメ)」と解釈?…以ての外である。

初見では「內・色許男命」=「内の色許男命」「內・色許賣命」=「内の色許賣命」と読むと解釈したが、「内」=「内側」として…、


内色・許=内側が渦巻く地形・下(元)

…と紐解ける。「内色」=「壹比韋」となろう。

後に登場する言葉も含めて、邇藝速日命が降臨した香春三ノ岳、坐した場所の戸城山、宇遲、春日、日子国、これら邇藝速日命の関連する場所の比定を確信するに至った。




と同時に古事記を紐解くことの難しさも痛感する。この簡明な記述、一語たりとも油断ができない状況であることをあらためて思う。しかしそれは古文書を読み解く時には当たり前のことであろう。三国志であろうが全てについて言える。そしてその難解さを乗越える、姑息な手段ではなく、努力がこれからも必要なのであろう。

先代旧事本紀などを横目で眺めると「内色許賣命」は後にまで太后として生き永らえたとのことである。歴史の表舞台からは消えたのであろうが、その血は末長く天皇家に繋がったのである。彼らがいつ、どこで生き、何を感じたか、その事実を覆い隠すこと、してはならないことである。

前後の物語は「古事記新釈」を参照願う。

…と、まぁ、もっと大事なことを見逃している?・・・。

2017年9月21日木曜日

倭建命:建貝兒王・足鏡別王 〔100〕

倭建命:建貝兒王・足鏡別王


本ブログの投稿数100に到達。何とも時間が掛ったものである。そして未だに完を見ない、霧中に居るようなもの…焦らずにボチボチ、である。景行天皇の御子が終わったかと思いきや、小碓命の後裔にそれなりに記述のある御子が残っていた。あらためて娶りと御子の記述を掲げると…、

古事記原文…

此倭建命、娶伊玖米天皇之女・布多遲能伊理毘賣命生御子、帶中津日子命(仲哀天皇)。一柱。又娶其入海弟橘比賣命、生御子、若建王。一柱。又娶近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女・布多遲比賣、生御子、稻依別王。一柱。又娶吉備臣建日子之妹・大吉備建比賣、生御子、建貝兒王。一柱。又娶山代之玖玖麻毛理比賣、生御子、足鏡別王。一柱。又一妻之子、息長田別王。凡是倭建命之御子等、幷六柱。

故帶中津日子命者、治天下也。次稻依別王者、犬上君、建部君等之祖。次建貝兒王者、讚岐綾君、伊勢之別、登袁之別、麻佐首、宮首之別等之祖。足鏡別王者、鎌倉之別、小津、石代之別、漁田之別之祖也。
次息長田別王之子、杙俣長日子王。此王之子、飯野眞黑比賣命、次息長眞若中比賣、次弟比賣。三柱

故、上云若建王、娶飯野眞黑比賣、生子、須賣伊呂大中日子王。此王、娶淡海之柴野入杵之女・柴野比賣、生子、迦具漏比賣命。故、大帶日子天皇、娶此迦具漏比賣命、生子、大江王。一柱。此王、娶庶妹銀王、生子、大名方王、次大中比賣命。二柱。故、此之大中比賣命者、香坂王・忍熊王之御祖也。

多くの祖となる「建貝兒王」と既に祖は片付けたがご本人が残っていた「足鏡別王」の二名について先ずは紐解いてみよう。かつてにとっては決して簡単なものではなかったと思われる、例によって簡単な記述である。だが、残すことは許されない。

建貝兒王


吉備臣建日子之妹・大吉備建比賣の御子である。福岡県田川郡香春町鏡山から山口県下関市吉見下まで直線50km弱、奈良~岡山約200kmに比べたら近いと言えばそうかもであるが、当時の交通事情を鑑みるとよくも通われたものである。それにしても吉備国が頻繁に登場する。鬼ヶ城の故であろうか・・・。

「建貝兒王」の「貝兒」は何を意味するのか?…「兒」が付くからやはり「吉備兒嶋」辺りを指し示しているようである。

(貝のような)・兒(それに成りかけ)

と紐解いてみると、兒嶋の南で東に突出た円い形の山が見つかる。標高64mの奇麗な円錐状で貝殻を伏せたような形である。

「建貝兒王」居場所はこの山の麓、おそらくは南側、であったと推定される。現在の地名は下関市永田本町()辺りである。国生みの嶋でありながらそこの住人が見当たらなかった「吉備兒嶋」であるが、漸くにしてご登場である。「隱伎之三子嶋」の住人は菟であった…。


「建貝兒王」及び子孫はこの地を離れ各地の祖となる。①讚岐綾君 ②伊勢之別 ③登袁之別 ④麻佐首 ⑤宮首之別と記述される。順に紐解いてみよう。

   讚岐綾君
伊豫之二名嶋にある「讃岐国」を示すと思われる。その中の「綾」と言われた地に居た君である。「綾」は綾織りで知られるように模様が斜めに交差するように紐が編まれたものを表す。地形象形であろうか?…やや判断に苦しむところであるが・・・地図に「修多羅」という地名があることがわかった。

現在の北九州市若松区大字修多羅(畑谷町)である。「修多羅」=「スータラ:経文」に飛んでしまうが、これは「袈裟の装飾として垂らす赤白四筋の組紐」でもある。「綾」と同義と思われる。讃岐国と粟国の境を占めた場所と思われる。ほぼ確実な残存地名と信じて更にその地の地形を観察すると…


並列した山稜の谷筋が折り重なって、正に綾織りのような地形をしていることが伺える。当時とは異なり山麓の開発が進行した現在では些か判り辛いところではあるが、推測可能であろう。地名由来は経文であるとのことだが、何故経文を地名にしたかは不詳である。だが、上記の繋がりが判明したことによって「伊豫之二名嶋」は「若松区」と確信した。


   伊勢之別
既に度々登場している「伊勢」と思われる。ただ「伊勢国」全体なのかその中の「伊勢」なのか、不明である。おそらくその中心である伊勢神宮辺りを指し示しているように思われる。


   登袁之別
既に登場である。「登袁」=「十」と置換えて師木の南、現在の福岡県田川郡赤村赤辺りであろう。と、ここまでで、祖となる地名は吉備から師木の「南北ライン」上にあるような気がするが、果たして・・・。


   麻佐首
これには少々お手上げしかかったが、仁徳天皇の吉備行きで立寄った「阿遲摩佐能志麻」ではなかろうか。無口な御子が言葉を発して立寄り、一夜を共にした比賣に追っかけられるという説話も残しているところである。「首」の称号も狭い地域を示す。南北ライン上の現在の馬島(北九州市小倉北区)である。


   宮首之別
御眞木入日子印惠命(崇神天皇)が坐した師木水垣宮があったところと読み解ける。「印」=「首」から紐解いた「首」にあった宮である。ということで見事に南北ライン上を走ったことになった。しかもその多くが主要な地点を指す。倭建命の子孫がその後倭国において重要な位置にあったことが伺えるのである。


足鏡別王


「足鏡別王者、鎌倉之別、小津、石代之別、漁田之別之祖也」と記述される。鎌倉を含め解けてないのはその主人公だけ、少々反省。小津は倭建命が行き帰りに立寄った主要交通地点で、石代、漁田の地名から一に特定できた記憶がある。本ブログにとっても地名主要地点であった。

「山代之玖玖麻毛理比賣」が母親で、この名前が素晴らしい。

山代(山代国:馬ヶ岳南麓)・玖(三つの山頂)・玖麻()・毛理()・比賣

現在の福岡県京都郡みやこ町犀川花熊、その地ズバリである(△216-208.7-134m)。比賣の素性は今一不詳なのだが…。その子「足鏡別王」は何処に居たのか?

(山稜の端)・鏡()

と紐解いてみると、御所ヶ岳・馬ヶ岳山稜の端、標高約30mの高台に池があることがわかった。当時もそうであったかどうか不詳であるが、山稜の端でこの高さに池があることは珍しいと思われる。人工的でなければ特徴的な地形であろう。山稜の端を「足」という「ルール」も度々登場である。


「建貝兒王」「足鏡王」も地の端に居た王子である。子孫の繁栄はその地を離れ、新たな地を求めざるを得なかったのではなかろうか。が、新たな地は簡単に入手できるものではない。何らかの情報(知識、技術)または娶りで繋がって行くのが通常の手段であったろう。それも古事記に隠されているのかもしれないが、今は不確かである。

漸くにして景行天皇紀の見直しが終わった。八十人の御子に倭建命の御子も加わると随分な分量である。まだ抜けがあるようにも思うが、今のところ「古事記の国々」にすんなり嵌めることができたようである。飽きずに頑張るのみ・・・。

天皇は「山邊之道上」に葬られていると記述される。現在の田川郡香春町高野湯山辺りではなかろうか。倭国が大きな発展を遂げるための人材、「言向和」の充実でその礎を成した天皇であった。


…と、まぁ、一歩づつ、いや半歩づつの進捗かぁ・・・。


2017年9月19日火曜日

景行天皇:押別命・豊戸別王・大枝(江)王 〔099〕

景行天皇:押別命・豊戸別王・大枝()


景行天皇の御子の中で未だ紐解けていなかった御子達を纏めてみた。「妾之子」などと表現されるほど無数にいた様子である。ある意味正直な記述である。やはり古事記は史書などと堅苦しい肩書など外して当時の赤裸々な物語と捉えた方が適切なのであろうか…。だから地名、人名に潜む真実を、という訳である。

古事記原文…

娶八尺入日子命之女・八坂之入日賣命、生御子、若帶日子命、次五百木之入日子命、次押別命、次五百木之入日賣命。又妾之子、豐戸別王、次沼代郎女。…<中略>…又娶倭建命之曾孫・名須賣伊呂大中日子王之女・訶具漏比賣、生御子、大枝王。

八坂之入日賣命、妾之子及び倭建命之曾孫など多彩である。「八坂(=尺)」多くの神が助けてくれる場所、祇園を示すと紐解き「五百木」は「木」の地形象形で「伊豫国」と解釈した。その中に三名の御子が地名を背負っているように思われる。順に述べてみよう。

押別命


八坂之入日賣命の御子である。「八坂」は現在の福岡県北九州市八幡東区祇園辺りと解釈した。現在も残る八坂と祇園の関係が当時からのものであったと推察した。

八坂*=八(ヤ:八百万神)|(サ:佐=助ける・カ:処)

現在も残る祇園の地名に迷わず比定したが、傍証は見出せないでいた。「押別命」の「押別」を何と紐解けるか、八坂の傍証になれば幸いである。

「押」=「手+田」=「手を加えて田にする」

と紐解ける。現地名に残る「田」を探すと、新しい住居表示に惑わされることなく、洞海湾に面した東田、前田、藤田、田町という地名が連なっている。正に広大な稲作地帯を形成していたと推測される。この地は官営八幡製鉄が発祥し、世界遺産にも登録。西は三菱化学黒崎工場などなど、近代工業化の波が押し寄せた場所である。

孝安天皇(大倭帶日子國押人命)の「國押人」=「大地に手を加えて田にする人」に類似して最もらしい解釈になったと思われる。「八坂」の傍証が得られたのである。神が助くる処の前に「田」あり。自然の恵みに感謝する、その対象である諸々の神々が寄集っている場所、祇園であろう。


豊戸別王


久々に「豊」の登場である。豊国近辺で「戸」を求めるのであるが、現在までに随分と比定が済んできている。果たしてそんな地が残っているのであろうか?…いえ、大きな土地が空いていた。現在地名の行橋市、

彦徳(ケンドク)

である。平成筑豊田川線の豊津駅がある。隣接する地名、北が「矢留」、東南が「豊津」に挟まれた地域表示となっている。かつては広い範囲で「豊津」と呼ばれたところであったろう。旦波国の印色之入日子命が居た「錦」も含まれている。

「彦徳」は犀川が御所ヶ岳山稜東端の隙間を横切って流れ出るところに当たる。当時の「別」の広さを思い浮かべて特定した結果である。犀川河口付近にあって交通の要所であったと思われる。「妾之子」の後裔は記述されない。

大枝()


娶倭建命之曾孫と記述される。記述通りに読めば息子の曾孫を娶ることになる。違和感があってもあり得ないことではないような…安萬侶くんが伝えたかったことは「大」の系譜ではなかろうか。途中に登場する「淡海之柴野入杵之女・柴野比賣」淡海にある「大=出雲」の場所を端的に示す表現など・・・。

日本書紀の編纂者達にとっては「近江=出雲」とトンデモナイ記述になる。結果は削除した。古事記があからさまだと感じる所以であろう。いや、それはこの老いぼれが感じるだけで、まだまだ「暗号」の世界に埋没しているのであろう。

「大枝王」の母親は「須賣伊呂大中日子王之女・訶具漏比賣」で、倭建命(娶弟橘比賣命)→若建王(娶飯野眞黑比賣)→須賣伊呂大中日子王(娶柴野比賣)と繋がっている。殊更強調される「須賣伊呂」=「天皇と母方で血が繋がる」と解釈されるが、古事記記載だけでは不詳のようである。詳細を伏せたから強調したのかも…。

この訶具漏比賣誕生の詳細の段では「大江王」と記述される。同一人物の異なる表現、誤記ではない、らしい。何の目的?…きっと場所を知らせるために、であろう。「柴野比賣」の子であるから間違いなく「出雲」しかもその中心地に居たと推定できる。

「大江」は大きな入江を意味し既に特定した現在の、

北九州市門司区大里戸ノ上、黄金町辺り

を示すと思われる。「御大之御前」である。そして戸ノ上山からの山稜が延びるところでもある。これを「大枝」と表現しているのである。王子が居たところは現在の戸上神社辺りではなかろうか。

ひょっとすると「江」と「枝」の中間地点が該当するのかもしれない。安萬侶くんの戯れも考慮しないと・・・不確かだが現在の萩ヶ丘公園辺り(下図)かも、である。


…と、まぁ、解ければ納得の配置、なんですが・・・。
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八坂*

…「八百万の神の加護があるところ」と紐解いた

上記の解釈で場所の特定ができるようあるが、現存地名から求めただけでは何とも心もとなく思われる。


八(谷)|坂

…「谷の坂」とすると上記の「祇園」の背後に巨大な谷があることに気付かされる。急な傾斜面で多くの川が集まり麓に流れる古事記に度々登場する地形である。

確かに「八坂」と言えば当時の人々にとってはこの地以外には考えられないところのようである。


急な傾斜面で多くの川が集まり麓に流れる古事記に度々登場する地形である。確かに「八坂」と言えば当時の人々にとってはこの地以外には考えられないところのようである。「谷坂(ヤサカ)」↔「八坂(ヤ・サ・カ)」↔「祇園」と繋げたのであろう。(2018.05.14)
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2017年9月18日月曜日

景行天皇:櫛角別王・神櫛王 〔098〕

景行天皇:櫛角別王・神櫛王


第十二代景行天皇の御子八十の王子が居て、古事記に記載されたのが五十九人の王子、二十一人の王子が不詳と素直に記述される。なんとも凄い数…これは領地拡大及び領地拡大及び富国の為の人材確保と読み解いた。七十七人は国造などにして国を与えたというのだから一気にこの天皇紀に国は大きく豊かになったと伝えている。

倭建命を残っている「言向和」不十分な地域に出向かせ悉く和して帰らせたのだからまだまだ御子に分け与える地は残っていたのであろう。いずれにしても倭国の充実ぶりが伺えるのである。娶り関連を紐解いてきたが生まれた御子の名前も多くの情報を示しているかと思われる。暫くは整理をしてみようかと思う。

古事記原文…

娶吉備臣等之祖若建吉備津日子之女・名針間之伊那毘能大郎女、生御子、櫛角別王、次大碓命、次小碓命・亦名倭男具那命具那二字以音、次倭根子命、次神櫛王。五柱。

第七代孝霊天皇の御子、若建吉備津日子が登場する。吉備下道臣、笠臣の祖となったとある。現在の山口県下関市吉見下辺りを拠点としていたのであろう。その比賣が「針間之伊那毘」に居た。現在の同市吉見下船越と紐解いた。「笠」=「龍」とすれば現在の吉見の南部を統治したのであろう。

御子の中に大碓命、小碓命(後の倭建命)も見えるが「櫛」が二度も登場する。地名絡みと推測して読み解いてみよう。吉備国の詳細地名と期待して…。

櫛角別王


さてさて、吉見下辺りに目を付けて探すも「櫛」に象形できるような地形を一見では見当たらない。「櫛」=「くしの歯のようにすきまなく並んださま」であろうが、そんな地形を示す山麓はないことがわかる。では何を櫛に象形したのか?…

山頂が櫛のように並んでいる様を象形した。とすると「船越」の西側にある山並みがそれを示していると思われる。「久士布流」の解釈に類似する。低山ではあるが、ハッキリとした凹凸が見られる地形である。更にこの「櫛」は北側で直角に曲がっているのがわかる。

櫛角=櫛(のように並んだ山並)・角(曲がりカド)

である(下図の北)。現在の地図からではあるが、この場所をよく見ると池、川があり水田としての開発がなされている。「別」の地として存在していたことを伺い知ることができる。「櫛角」とは持って回った表現であるが、他に適切な命名の方法がなかったのであろう。谷間の緩やかな傾斜地の場所である。


「櫛角別王」は後に茨田下連の祖となる。現在の福岡県京都郡みやこ町勝山松田下田である。「松田」=「茨田」である。「棚田」の繋がりを伝えている。古事記が繰り返し述べる「棚田」、灌漑技術が出来上がる前の水田耕作の重要性を記述しているのである。


茨田:古代稲作のキーワード

これが読み解けなかった現状が古事記解釈の全てを物語っている、と言っても過言ではないであろう。

神櫛王


「神櫛」は何処を指し示すのであろうか?…「櫛角別」の西方に「串本岬」という地名(吉見古宿町)がある。その岬にある山(串山)がやはり「櫛」の形状を示している。「櫛」=「串」で残存する地名と思われる。加えてその山頂が「稲妻」のように折れ曲がった繋がり方をしているのが見える。

神櫛=神()・櫛(櫛ように並んだ)

「神櫛王」は岬の山の麓に居た王子であった。この王子、「木國之酒部阿比古、宇陀酒部之祖」と記述される。「酒部」=「酒造り」で良いのであろうか?…「酒折」=「坂を下る」と解釈した「酒折宮」「酒折池」である。表現の一貫性を信じるならば「酒=坂」であろう。

「神櫛王」は急斜面の山を背景とする地に居た。彼の得意とするところはその急斜面の活用であろう。その為に必要な技術は「階段」作りではなかったろうか。「酒部」は急斜面の土地に


階段、スロープ等々の山道

を造る部隊であったと推測される。彼及び彼の子孫が保有する技術を伝えたことを「祖」として記述したのである。

「木國之酒部阿比古」とは何処を示すのであろうか?…「阿比・古」=「二つ並んだ台地()・古()」としよう。福岡県築上郡上毛町の「大ノ瀬大池」にそれを挟んで二つの丘がある。「吉岡」という地名である。「吉備」の「吉」に繋がる。「葦井」と比定した「吉富」も「ヨシ」で繋がっているのかもしれない。


「宇陀」は既に特定したように現在の北九州市小倉南区呼野・小森・市丸辺りである。この地は高い崖に挟まれた谷である。かつては東谷村と言われたところである。そそり立つ崖の活用こそ最も重要な課題であったろう。二人の王子の生まれ育った場所の地形から読み取れる古事記の内容、あらためてその深さに驚かされた。


「吉備上」に関する記述は今のところ見当たらない。祖となる王子が行った筈だが、その後音沙汰もなし。「上」は禁句なのか、話題が無かったのか、そんな目で今後も古事記を読んでみよう…。

…と、まぁ、徘徊はまだまだ続く・・・。

2017年9月14日木曜日

倭建命:熊曾建と出雲建の謀殺 〔097〕

倭建命:熊曾建と出雲建の謀殺


前記「倭建命の東奔西走:その壱」で記述した「西方の建」を謀殺した説話に関する。出雲国の詳細(近接の阿多阿蘇を含め)が紐解け、それに伴って熊曾国の概略も少しは見えてきた現時点で改めて、この三名の建の記述を見直してみようかと思う。

古事記原文(抜粋)

於是天皇、惶其御子之建荒之情而詔之「西方有熊曾建二人。是不伏无禮人等。故、取其人等。」而遣。當此之時、其御髮、結額也。爾小碓命、給其姨倭比賣命之御衣御裳、以劒納于御懷而幸行。…<中略>…爾其熊曾建白「信、然也。於西方、除吾二人無建強人。然於大倭國、益吾二人而、建男者坐祁理。是以、吾獻御名。自今以後、應稱倭建御子。」是事白訖、卽如熟苽振折而殺也。故、自其時稱御名、謂倭建命。然而還上之時、山神・河神・及穴戸神、皆言向和而參上。
卽入坐出雲國、欲殺其出雲建而到、卽結友。故竊以赤檮、作詐刀爲御佩、共沐肥河。爾倭建命、自河先上、取佩出雲建之解置横刀而、詔「爲易刀。」故後、出雲建自河上而、佩倭建命之詐刀。於是、倭建命誂云「伊奢、合刀。」爾各拔其刀之時、出雲建不得拔詐刀。卽倭建命、拔其刀而打殺出雲建。

兄の大碓命をいとも簡単に惨殺できる小碓命に景行天皇が命じた時からこの説話が始まる。倭比賣命の衣装と懐剣を持ち女性に変装し、宴会たけなわになったところでブスリ、である。熊曾の建兄弟を謀殺して「建」という名前を貰い、倭建命が誕生する。韓国の斬首作戦、こうは簡単にはいかないでしょうね…。

既に取り上げたように「山神・河神・及穴戸神、皆言向和」と記述される。荒ぶる神の在所は山、河、宍戸である。熊曾国には「宍戸」があることを告げている。古事記全般を通じて「宍戸」は一ヶ所である。現在の関門海峡、関門トンネルが通じるところ以外にはない。「穴門」との混同もないのである。

この単純明快な結論と筑紫嶋之面四の記述から「熊曾国」の概略の位置を特定することができた。現在の企救半島の北部に位置していたのである。通説のような南九州、熊本県及び鹿児島県に比定することは到底不可能である。

熊曾国が見えた…


こんな背景を持ってその後の考察を述べる。出雲国の詳細が判るにつれてその北部の地の名前が明らかとなって来た。出雲国に隣接するところを「阿多」もしくは「阿蘇」及び「多藝志美美」などと表現していることがわかった。娶りの相手、即ち天皇達はそこに出向いているわけである。

「熊曾国」=「奥まって隠れた、険しい場所」と文字解釈して折り重なるような山並みの国と紐解いた。全体からみれば外れていないものであろう。しかしながら古事記における「熊」の意味の一貫性を思い起こせば


であろう。

「熊曾国」=「熊(隅、角)・曾(上に重ねてふやす)・国」

「曾」の意味が今一歩読取れず今日に至った、少々反省。隅が盛り上がった、即ち「山」があるところと読み解けた。国の角に際立った山がある地形を持つ国と理解することができる。地図を参照願う。


「宍戸」に接する北西の隅に古城山及び筆立山がある。一方南東には八窪山山塊があり、これらの山の間が熊曾国の中心地であったと推察される。現在の北九州市門司区東門司、畑田町、清見辺りである。中でも清見の地名は現在でも広く分布しており、最も中心となっていたところではなかろうか。

小碓命が忍び込んだ「熊曾建之家」は八窪山南麓を流れる川沿いにあったかもしれない。現在のサヤ峠、清見小夜町に通じるところである。よく見ると山、谷そしてそこを流れる川、なんとも類似した地形の場所に宮があったと思われる。古事記が描く原風景であろうか・・・。

さて、目的を果たした倭建命は次に出雲国に向かう…「卽入坐出雲國、欲殺其出雲建而到、卽結友」と記述される。ここに含まれる「卽」の文字解釈が真に微妙な状況にある。従来の解釈を少し調べてみると大体以下のようである。

   訳さない。訳に「卽」の意味が含まれない。
   初めの「卽」=「すなわち」次の「卽」=「たちまち」と使い分ける。

通説の熊曾国と出雲国の場所に従うと全く難解な記述となってしまうのである。この段落にもう一つ「卽」が見える。「卽倭建命、拔其刀而打殺出雲建」である。これも訳さないか、「すなわち」とされる。三つも連続して「卽」を使う目的がある。

如何に簡単に倭建命が連続して目的を達成したかを告げている。熊曾国と出雲国連続した国であり、東方十二道と同じく道行しながら「言向和」した結果なのである。出雲が出ればその地の伝承の挿入、それでは何も伝わって来ない。

全ての「卽」=「たちまち」である。熊曾国から出雲国に行くのも、出雲建と友になるのも、出雲建を謀殺するのも、全て「たちまち」で行ったと記述している。隣接する出雲国に「たちまち」で行くことができると、当然のこととして述べている。

本ブログは古事記解釈をその根本から見直すことを提議している。その根拠の重要な箇所であろう。ブログ開始時によく使った「1,300年間」の闇から抜け出すこと、それから日本の歴史が始まるのである。そして世界に例を見ない「史書:古事記」の価値を見直すことに繋がり、世界に誇れる「史書」となるのではなかろうか。

…と、まぁ、古事記と現在の日本、どう繋がるのやら・・・。





2017年9月12日火曜日

垂仁天皇:出雲之石𥑎之曾宮 〔096〕

垂仁天皇:出雲之石𥑎之曾宮


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
垂仁天皇紀は神武一家の倭国が大国へと発展する、その草創期に際して最も多彩で伝える内容も深いものであろう。概略を記すと…、

若木:伊豫之二名嶋(現北九州市若松区)の讃岐国。四つの国の山稜を「木の幹+枝」に比喩して、五百木(伊豫国)、高木(粟国)、沼名木(土左国)そして若木と表現したものと解釈した。古事記執筆当時においても「嶋」と見做すことが難しくなっていたのであろう。

山代国の大筒木と大国:娶りの比賣達の出身地。「大筒木」は山麓の急斜面上への池作り技術。石垣技術の重要性を強調しているとわかった。「大国」は後に紐解けた「大物主大神」に深く関連する場所であり、比賣の名前は「埴田」を表す。神籠石(現行橋市津積)が現存する御所ヶ岳山系との位置関係を暗示する。

大中津日子命:高巢鹿(英彦山、鷹ノ巣山)~吉備之石无(現山口県下関市大字永田郷石王田・石原)の祖となったと、サラリと伝えるが、倭建命を凌ぐ「英雄」である。倭国の南限~北限を示したものと理解した。

沙本毘古、沙本比賣:「沙=辰砂」丸邇氏台頭の物語。古事記中随一のエンターテインメントである。と同時に豪族の謀反に対する天皇の「夢」対応が見事に描写されている。真偽は別としても古事記に貫かれた「言向和」に従うものと思われた。

二俣小舟:現在に至るも詳細は判っていない様子である。多く残る「船越」地名が意味していることと関連ありとみたが、その後も情報は得られていない。今後の課題でもある。

鵠を求めて:木国から高志国まで順次に探し求めた記述であった。「和那美之水門」と「猿喰」を関連付けた。通説の地名比定との相違を決定づけた説話である。本ブログの地名比定のベースとなっている。現在もその修正は見当たらない。

出雲大神:御諸山(現北九州市門司区「谷山」)に坐する大物主大神と思われる。その正体が明らかになった今、本牟智和氣の道行がより鮮明になったと思われる。言えることは、間違いなく極めて合理的な記述である。

常世国の橘:多遲摩毛理が探し求めた「登岐士玖能迦玖能木實」山麓に多くの支流が集まって一つの川となる地形象形、そしてその支流の上に居る「君」を橘と紐解いた。更に「人柱」でもあった。須佐之男命が禊をした「橘小門」もこの地形象形であった。常世国は壱岐島の天ヶ原遺跡、セジョウ神遺跡の辺りにあったとした。

古事記読解は、この内容豊かな垂仁天皇紀の記述を読み解けるかどうかで決まる、と言って過言ではないであろう。人名、地名に含まれる意味を如何に受け止めるか、それを顧みようともしない現状に愕然とするのである。

さて、少々読み飛ばした文字をピックアップし紐解いてみよう。タイトルに掲げた「出雲之石𥑎之曾宮」無口な御子が出雲で発した画期的な言葉である。その他二、三の文字も併せて記述する。

出雲之石𥑎之曾宮


古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)

故到於出雲、拜訖大神、還上之時、肥河之中、作黑巢橋、仕奉假宮而坐。爾出雲國造之祖・名岐比佐都美、餝青葉山而立其河下、將獻大御食之時、其御子詔言「是於河下、如青葉山者、見山非山。若坐出雲之石𥑎之曾宮、葦原色許男大神*以伊都玖之祝大廷乎。」問賜也。[かくて出雲の國においでになって、出雲の大神を拜み終って還り上っておいでになる時に、肥の河の中に黒木の橋を作り、假の御殿を造ってお迎えしました。ここに出雲の臣の祖先のキヒサツミという者が、青葉の作り物を飾り立ててその河下にも立てて御食物を獻ろうとした時に、その御子が仰せられるには、「この河の下に青葉が山の姿をしているのは、山かと見れば山ではないようだ。これは出雲の石𥑎(いわくま)の曾その宮にお鎭まりになっているアシハラシコヲの大神をお祭り申し上げる神主の祭壇であるか」と仰せられました]

御子の本牟智和氣が無口な理由は出雲大神の御心によることが判明して、曙立王及び菟上王を随行して出雲に出向いた時の説話である。そして言葉を発するどころか目に入る風景をみて重要な情報を述べたのである。何が重要か、それを下記に述べる。勿論現在まで全く気付かれなかったことである。

上記の説話は、御子が肥河の中流域に坐した時川下に見える山ではないが小高いところを見つけ、それを葦原色許男大神、即ち大国主神が眠る「出雲之石𥑎之曾宮」を祀る場所ではないのか、と言葉を発したと記述されている。では、この小高いところとは何処であろうか?

既に特定した肥河(現在の北九州市門司区を流れる大川)の中流域から眺める川下の小高いところは


門司区寺内(一)にある寺内第二団地辺り

と推定される。黒巣橋近くの仮宮があったのは


大山祇神社辺り

ではなかろうか(下図松崎町の右)。川下の小高いところとの標高差は殆どなく、山に見えなかったとの記述と矛盾しない。


出雲の繁栄の礎を築いた大国主神の墓所はここで初めて明らかにされる。須佐之男命の須賀宮以来肥河の河口にある小高い場所、現在の観音寺団地と上記の寺内団地となっているところが中心となって栄えていたのであろう。出雲の南は黄泉国に接し、大物主大神が坐する御諸山(谷山)がある。出雲の詳細である。

「石𥑎」=「イワクマ」と本居宣長以来読み下されて来た。ユニコードに登録されるくらいだから文字としては存在するのであるが、読み・意味については明確な説明を見出されなかった。「石+冋」とすると「冋」=「ケイ;遠い所の境界線」から墳墓の玄室及び棺を象形した表現と解釈できるのではなかろうか。安萬侶くんが使ってるだけかも、であるが…。

「クマ」を奥まったところと解釈すれば外れていないような気もするが、不確かである。「石𥑎」を積み重ねて作った宮が「石𥑎之曾宮」と表現される。ひょっとしたら上記の団地の下に眠っているのかもしれない、出雲に降臨した高天原一族が・・・。

落別・石衝別


山代大國之淵之女・苅羽田刀辨及び弟苅羽田刀辨を娶って生れた王子が落別王と石衝別王の二名。それぞれ各地の祖となるのであるが、既に紐解いた。ところが「落別」「石衝別」は地名のようでもある。該当する場所を探してみることにした。

「落別」の表現、何とも一般的で特に特徴を示したものではないようである。関連する記述を求めると、どうや下記の説話に潜められていた。

古事記原文…

然、留比婆須比賣命・弟比賣命二柱而、其弟王二柱者、因甚凶醜、返送本土。於是、圓野比賣慚言「同兄弟之中、以姿醜被還之事、聞於隣里、是甚慚。」而、到山代國之相樂時、取懸樹枝而欲死、故號其地謂懸木、今云相樂。又到弟國之時、遂墮峻淵而死、故號其地謂墮國、今云弟國也。[しかるにヒバス姫の命・弟姫の命のお二方はお留めになりましたが、妹のお二方は醜かったので、故郷に返し送られました。そこでマトノ姫が耻じて、「同じ姉妹の中で顏が醜いによって返されることは、近所に聞えても耻かしい」と言って、山城の國の相樂に行きました時に木の枝に懸かって死のうとなさいました。そこで其處の名を懸木(さがりき)と言いましたのを今は相樂と言うのです。また弟國に行きました時に遂に峻しい淵に墮ちて死にました。そこでその地の名を墮國と言いましたが、今では弟國と言うのです]

何とも悲しい出来事なのであるが、何故こんな説話を…天皇は冷たい、美醜で決めるとはなんと理不尽な…色々お説が出てきそうな場面である。しかしどうやらこれは地名のヒントであったようである。その前に「相楽」「堕国」「弟国」などの場所を求めよう。

背景は沙本比賣御推薦の旦波国の比賣達を娶る時に起こった出来事で、四人の比賣の内二人を不合格にしてしまったのである。その内の一人の比賣が悲嘆にくれて死を選んだ行程が事細かに記述されている。こんな時は場所を示そうと、安萬侶くんが努めていると思うべし、である。

師木玉垣宮から山代国に帰る道は、幾度か登場した現在の山浦大祖神社がある道と思われる。村らしい村はこの神社を中心とした地域しかないが、「相楽」を紐解いてみよう。「相(佐:助ける)・楽(農作物の出来が良い、豊か)」となる。鳥取之河上宮に坐した印色入日子命(氷羽州比賣命の御子)が耕作地に開拓した場所に一致する。

その場所では目的を果たせず「堕国」に向かう。大祖神社傍の道を通り抜けると、そこは「淵」山代大国之淵が居するところ、そしてその淵から堕ちて亡くなったのである。駄洒落の流れで「弟国」と落ちが付く。少しあやかって、これが「落別」とさせて頂きたい。現在の


福岡県京都郡みやこ町犀川柳瀬辺り

であろう。

「石衝別」=「石が突当たるところの別」であろう。犀川流域を調べると


同町犀川崎山辺り

川に崖が迫って衝立のような地形(下図の崎山駅周辺)となっているのがわかる。山代国の地名ピースもかなりの数に上って来た。草創期に重要な役割を果たした国であった。(下図左下:山浦大祖神社)



垂仁天皇は多遲摩毛理の朗報を聞くことなくこの世を去ってしまう。残り半分の橘を貰った氷羽州比賣命も、不老不死という謳い文句の効果なく、亡くなってしまう。不老不死と言う解釈が誤っていることに気付くべきであろう。

菅原之御立野中・狹木之寺間


天皇は菅原之御立野中の陵、太后は狹木之寺間の陵に眠ると記述されている。「菅原」は後の安康天皇の陵の場所「菅原之伏見岡」で出現する。キーワードの「伏見=伏水」から鍾乳洞が多く集まる現在の福岡県田川郡福智町伊方の東長浦辺りと読み解いた。この近隣と推定し、「御立野中」の意味するところを探してみよう。

「立野」は一段と高くなっている野原を示すであろう。しかしこの地はかなり広い高台であり、特定が難しい。どうやら


御立野中=三つの立野がある内の中

を表しているのではなかろうか。地図を参照願うが、当該の山稜は三つに分かれた尾を持っているように見られる。その中の真中の山稜が該当すると思われる。

ところで、垂仁天皇の師木之玉垣宮は何処にあったのであろうか?…先代の崇神天皇の水垣宮は天皇の名前から「首」を求めた。那良戸、大坂戸、木戸を持ちそれぞれの方向に道がある。即ち、師木のほぼ中央にあったことを示している。早くに気付けば良いものを…と嘆いても致し方なし。再度地図を調べると…。

現在の鎮西公園辺りが該当の場所であったと推定できる。住所は同県田川郡伊田である。周辺には鎮西町、勾金、紫竹原など天皇の宮に関連すると思われる文字が集中して残っているところである。垂仁天皇の時代の後もこの地の中心として存在したのであろう。

太后氷羽州比賣命の陵「狹木之寺間*」は何処を指し示しているのであろうか?…「狭木」=「狭(狭い間)・木(丘陵地帯の凹凸)」と解釈できる。「師木」の場所の異なる表現と思われる。「寺間」の「寺」は通常のお寺を意味しない。仏教の隆盛に伴ってこの文字が宛がわれたものと解説されている。「寺」=「宮」とすると…、


寺間=宮の間=水垣宮と玉垣宮の間

…と紐解ける。現在の紫竹原公民館、無量寺辺りではなかろうか。現地名は…、


同県田川郡香春町中津原紫竹原

…と推定される。太后の陵墓が記載されるのは限られている。事績は不詳であるが、存在感のある后でだったかも。前記したが人柱の風習を差し止めたという伝説もある。

(図中、①右上、中津原の左上:水垣宮 ②左下、上伊田駅右下の右の鎮西公園:玉垣宮 ③中央、紫竹原右上の狹木之寺間陵と推定)

…と、まぁ、ボチボチと前に進もう・・・。

2017年9月7日木曜日

崇神天皇:依網池・軽之酒折池 〔095〕

崇神天皇:依網池・軽之酒折池


耳シリーズで色々漢字を調べて玖賀耳之御笠の「玖」解釈に少し時間を取られた。「王+久」はちょっとした思い付き、お蔭で「美嶋」が目に留まり、一気に解決、であった。ところが「玖」の文字を使った天皇の名前があったことを思い出し、昔のページを開いて見てみると、何とも悔しい読み残しがあった。

孝元天皇の「大倭根子日子國玖琉命」である。関連するページで追記しておいたが、「國玖琉」は「石炭が飛び出ている大地」を表していると紐解けた。後代の筑豊は石炭産出で当然と言ってしまえばそれまでだが、今までには出合わなかった(得意の読み飛ばしがあるかも…)

採掘ではなくとも露天ならばその価値に気付く?…銅も辰砂も掘っていた筈、石炭に気付かなかったか、それとも既に利用していたのか…なんとも歯がゆい所ではあるが、これ以上の推測は止しとしよう。いずれにしてもこの地は極めて豊かな資源の地であったことは間違いないと思われる。

次いで「鉏友」も懿徳天皇の「大倭日子鉏友命」に記載があった。これで「軽之境岡宮」の場所が確定した。関連ページの追記を参照願う。軽、境()が決まり、繋がる「欠史八代」の地名比定の確度がグッと高まったと思われる。

さて、崇神天皇紀に大きく事績に取り上げられているのに首記の二つの池作りがある。

古事記原文は…

故稱其御世、謂所知初國之御眞木天皇也。又是之御世、作依網池、亦作輕之酒折池也。

御子の誰かが作ったものではなく、これは国家的大事業だったのでは?…と錯覚させるような表現である。まぁ、そこまででなくとも大きな池であったことは想像できる。依網池については既に特定したのであるが、旦波国の配置等々が明らかになって来たところで今一度見直してみようかと思う。

依網池


何の修飾もなく、であるから彼らの支配下にあった場所、何処の国にも属さない地、はたまた当時は言わずもがなでわかるところの何れかであろう。既に特定した覗山西麓(現地名福岡県行橋市高瀬)蓮池等々の池は、やはり適切とは言えないように思われる。

依網池が海と川とが混じり合う場所という解説も一応は頭の片隅に置くが、そもそもこれだという解説は見当たらないのも現状である。こんな時、安萬侶くんは必ずヒントを何処かに書いている筈と、難波津絡みの説話を思い出してみると、実に丁寧に地名を述べているものが浮かんできた。

何のことは無い、上記原文の直上の記述「和訶羅川の戦い」(この老いぼれが勝手に付けた名前で恐縮)である。そこに「伊豆美」があった。謀反人の庶兄建波爾安王とその掃討作戦を命じられた大毘古命が対峙した場所である。勿論、そこはここだとは教えてくれない。

紐解いた場所は、平成筑豊田川線の豊津駅の少し南方、今川(犀川=和訶羅川)を挟んで対峙したのである。この場所を「伊豆美」と言う。現在も近隣には


松田池、裏ノ谷池、釜割池、長養池

の四つもの池がある。そして隣接に現地名福岡県行橋市泉(東・中央・西・南に分かれて)がある。万葉仮名の美夜古泉駅も近い。

「伊豆美」=「出水、泉」変動する川からではなく水田への安定した供水源確保の大土木事業であったと思われる。この地より先は近淡海、現在も「流末」という地名が残っている。川は満潮時に海の水が逆流していたところでもあろう。確かに「依網」はそんな海と川とが入り混じるところであったと思われる。


池に関する記述が多いのは正に水源、特に安定水源の確保が如何に生死を左右したか、と気付かされる。後に急斜面の池作りが登場する。それも合せて古事記が訴えていることを理解することが大切であろう。耕作地の拡充、これが彼らにとって最重要課題であった。

葛城の地でそれを乗越えて来た彼らには十分な力が備わっていたのであろう。稜線の端の谷間を利用して作った池、大河犀川の伏流水があるのも大池作りに有利に働いたのではなかろうか。「依網池」上記四つの池の何れか、又は全てか、については定かでないが、裏ノ谷池及び/又は松田池のように思われる。

輕之酒折池


「酒折」とくれば「甲斐之酒折宮」を想起させる。現在の北九州市門司区恒見町にある鳶巣ヶ山の西麓、県道294号線が南北に走るところと既に紐解いた。谷間の坂道である。「軽」の地にそんなところがあるのか?…直方市上境、水町遺跡公園が傍にある


水町池

が該当すると思われる。

現在の地図で見る限り葛城の地では最大の池であろう。福智山・鷹取山から流れ出る水を制御し、福地川河口に広がる水田に安定供給する役目を果たす池かと推測される。この地は懿徳天皇が切り開き豊かな実りを得たところであるが、更にこの池によって安定水源の確保が多くの実りを与えてくれたのであろう。


既に推論したように天皇家は葛城の地を財源として大倭豊秋津嶋を統治した。それを可能にした理由を、あくまでも簡略に記述しているのである。溝作り、池作り等々(後には石垣作り)の土木技術を如何にして確保し、谷間、扇状地そして河口付近の耕地を拡張・発展させて行ったかを繰り返し述べている。

池と蓴菜とは切り離せない。「垂根」の人名が頻出するのも池が与えてくれる恵みが如何に大きいものであったかを物語る。垂根の比賣を娶って、というか垂根に多くの御子を育てさせ、各地に派遣した。これも立派な戦略であろう。池作りは国家プロジェクトだった、と確信する。

崇神天皇紀に見落としがあったものを拾ってみよう。木國造・名荒河刀辨之女・遠津年魚目目微比賣を娶って生れた御子に「豐木入日子命」がいる。上毛野君、下毛野君等之祖となったと述べている。「上毛野」は今も残る地名として現在の福岡県築上郡上毛町に特定できるであろう。ズバリが残る稀有な地名である。

「下毛野」は山国川を挟んだ場所、大分県中津市であろう。川で分断されたのであろうが、県境の区切りの難しさを示しているようである。以上はこれまでも概略は理解できていたのであるが、その後の考察も加えて、「君」の在処を推察してみよう。<追記>

建内宿禰の出自に関連して木國造之祖宇豆比古」の在処を求めた。現在の築上郡上毛町の穴ケ葉山古墳群近辺と思われた。一方の「下毛野」中心地は何処であろうか?…


中津市福島にある小平遺跡公園辺り

ではなかろうか。山国川を挟んで対峙し、類似の地形を有していることが理由として…試案である。


ところで山代國に坐していた「建波爾安王」は何処に?…、


波爾安=波()|(近い)|(谷州:谷の出口の州)

…と紐解ける。山代国の端に近く谷があるところは、地図を参照願う(地図の上)。現在の


福岡県京都郡みやこ町犀川花熊

である。「花熊」=「花()・熊()」現地名を紐解いてどうする?・・・。

ここでは戦い難い…城郭に居て敵を迎え討つという戦法はなかった…と判断し、その山稜の端を回り、和訶羅河(犀川)渡って少し行ったところの小高い山の背後、現在の行橋市矢留で待っていた、というシナリオになる。川の流れを矢に比喩したようでもあり、説話に繋がるようでもあり、この地名も興味深い。


初國之御眞木天皇は大往生で山邊道勾之岡上に葬られたが、その場所は既に記述した。最後に師木の何処に坐したのかを「御眞木*入日子印惠命」から「師木水垣宮」を紐解いてみよう。


印恵=印()|(入江)

…とすると、川の入江が首の形をしているところではなかろうか(地図の右)。

師木の場所は大坂山と那良山と木国の方角が直交するところとした。その辺りで…現在中津原小学校がある台地状の場所が該当するかと思われる。現地名は


福岡県田川郡香春町中津原

である。ここが


初国…日本国の発祥の地…

である。と、本日は控え目な表現で…後日確度が高まったらもう少し賑やかに・・・。


参考までに「斗=柄杓」で表す凹となった地形を「首」とも言う。由良能斗に比定した場所…


山口県下関市彦島田の首町

がそれに当たり、和知都美命が坐した淡道之御井宮の立地と類似する。表現は異なるが、凹地を見下ろす高台、宮の在所である。

…と、まぁ、出てくる出てくる、懲りずに頑張るのみ・・・。