2017年5月4日木曜日

筑紫嶋の面四〔031〕

筑紫嶋の面四

参照追記❶❷>

<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
古事記が示す「国又は地域」を紐解いたら、地図上の空白部がキチンと収まる。しかも古事記が語らないところは、なんと、幾度も目にしてたところ、そんな結果になってしまった。そうならば、いつも目にして気付かないところがあるのでは? ありました。

企救半島の東側「高志国」及び西側「出雲国」それらの北側、っぽり空いている。古事記に登場していない訳はない。再検討してみた。前記で企救半島南部の山稜全体を「筑紫」と名付けていることがわかった西の端は「筑紫国」であり、東の端は「筑波」である。国生み説話の段に以下の記載がある…

古事記原文[武田祐吉訳]

次生筑紫嶋、此嶋亦、身一而有面四、毎面有名、故、筑紫國謂白日別、豐國謂豐日別、肥國謂建日向日豐久士比泥別自久至泥、以音、熊曾國謂建日別。曾字以音。
[次に筑紫の島(九州)をお生みになりました。やはり身一つに顏が四つあります。顏ごとに名がついております。それで筑紫の國をシラヒワケといい、豐の國をトヨヒワケといい、肥の國をタケヒムカヒトヨクジヒネワケといい、熊曾の國をタケヒワケといいます]

「筑紫國」前記で比定した通り「豊國」=「東方十二道の科野国から筑波及び高志国」。「肥國」=「出雲国(肥河)」と容易に当て嵌めることができる。ならば「筑紫嶋」=「現在の企救(半)島」であろう。そして「熊曾国」が残る一つの「顔」を示すことになる。

「肥国」の謂れが意味深い。「建日向日豐久士比泥別」の「建日向」=「建日(別)が向いている」=「熊曾国が接してる」、「豐久士比泥」=「豊久士比(櫛比)泥」=「豊(国)が(この国)に隙間なく並んでは(泥)ない」の補足説明付きである。解釈すれば、豊国とは離れていて、かつ、熊曾国に接しているところの国、となろう。

らためて文字解釈を行ってみると「熊曾」=「隈阻」=「奥まって隠れた、険しい場所」=「山々の襞が重なる山岳地帯」ではなかろうか。<追記❷> 前回の比定では、「穴戸」、地名の「熊」を頼りにして行ったのであるが、考察不十分であった。「穴戸神」が在するところは現在の関門橋が架かる場所を示すものと思われる。

現在の北九州市門司区黒川、丸山等の地域が「熊曾国」あったところかと思われる。「出雲国」の範囲を「和布刈」までとしたが、「風師山南麓辺り」までであろう。

仲哀天皇が熊曾征伐に拘り、西方に金銀財宝多々あり、という神の進言に耳をかさなかったという話は、熊曾国が資源も人材も豊かではないことを暗示している。祟りがあってしかるべき外交方針の持ち主であったことを述べている。

もう少し妄想が許されるなら、「熊曾国」は彼らの出自とは異なる朝鮮半島人からなる国の可能性を示唆している。例えば高句麗である。その「熊」信仰を暗示した命名かもしれない。朝鮮半島内の葛藤を色濃く引きずった日本の古代である。

熊曾征伐のために筑紫訶志比宮に向かうことは、当然合理的なことである。「肥国(出雲国)」を前線基地にして侵入する手筈であろう。古事記は語らないが、祟り以前に命を落とすような手傷を負ったのかもしれない。

通説は「肥国」=「肥前、肥後」への「国譲り」が行われた結果である。一方「熊曾国」単純には譲らなかったようで、現在の地名による「肥後国球磨郡大隅国曽於郡」と言われている。朝敵とされた国の行く末かもしれない。また、「肥国」と「出雲国」の関係も今後調べてみたいところであり、東方―西方のラインもいくらか修正が必要であるが、次の機会に回そう…。

…と、まぁ、こんなところに落ち着きましたが・・・。


<追記>


❶2017.06.23 
1.タイトル変更:熊曾国の再考⇒筑紫嶋の面四
2.「日別」の解釈を修正。それぞれが方位を示す。


筑紫國謂白日別:「西」
豐國謂豐日別:「南」
熊曾國謂建日別:「北」
肥國謂建日向日豐久士比泥別:「北西」

天孫降臨関連の記述参照(本文)

❷2017.09.13
「熊曾」の解釈修正。上記では「曾」→「阻」に置換えたが、置換えずにそのままで解釈可能であった。


「熊(隈)・曾(上に重ねてふやす)」=「隅(角)が重なって高くなっている」

とすれば、現在の北九州市門司区門司の古城山の地形を示していることがわかる。

「熊曾国」は古城山及び筆立山と八窪山山塊に挟まれたところを中心とした国であったと思われる。南は「阿多」(後には阿蘇とも表現)と接し、東は上記の解釈通り「奥まって隠れた、険しい場所」である。漠然としていた「熊曾国の実体」が見えてきたように思われる。下図を参照願う。