応神天皇:木幡村再考
思い込み程恐いものは無し、である。出掛けたのだから往路のことしか考えない。落とし穴に嵌ったようにトンデモナイ間違いをしてしまったようである。木幡村、再考である。少々長いが段落全文を掲載する。
古事記原文[武田祐吉訳]…
一時、天皇越幸近淡海國之時、御立宇遲野上、望葛野歌曰、
知婆能 加豆怒袁美禮婆 毛毛知陀流 夜邇波母美由 久爾能富母美由
故、到坐木幡村之時、麗美孃子、遇其道衢。爾天皇問其孃子曰「汝者誰子。」答白「丸邇之比布禮能意富美之女、名宮主矢河枝比賣。」天皇卽詔其孃子「吾明日還幸之時、入坐汝家。」故、矢河枝比賣、委曲語其父、於是父答曰「是者天皇坐那理。此二字以音。恐之、我子仕奉。」云而、嚴餝其家候待者、明日入坐。[或る時、天皇が近江の國へ越えてお出ましになりました時に、宇治野の上にお立ちになって葛野を御覽になってお詠みになりました御歌、
葉の茂った葛野を見れば、幾千も富み榮えた家居が見える、國の中での良い處が見える
かくて木幡の村においでになった時に、その道で美しい孃子にお遇いになりました。そこで天皇がその孃子に、「あなたは誰の子か」とお尋ねになりましたから、お答え申し上げるには、「ワニノヒフレのオホミの女のミヤヌシヤガハエ姫でございます」と申しました。天皇がその孃子に「わたしが明日還る時にあなたの家にはいりましよう」と仰せられました。そこでヤガハエ姫がその父に詳しくお話しました。依って父の言いますには、「これは天皇陛下でおいでになります。恐れ多いことですから、わが子よ、お仕え申し上げなさい」と言って、その家をりっぱに飾り立て、待っておりましたところ、あくる日においでになりました]
荒れた地であった葛野を見て国の充実ぶりを詠ったとされる。応神天皇期には随分と開拓が進行していたことが伺える。領土を拡大すると言うよりも領土内の開発を優先した結果であろう。天皇家の戦略は大倭豊秋津嶋とその周辺の地域からはみ出ることは殆どなかったと理解する。伊邪那岐・伊邪那美が産んだ大八嶋と六嶋及びその周辺である。
地名として記述されているのが、近淡海国、葛野、宇遲野上、木幡村である。既出は近淡海国と葛野であり、「宇遲野上」は春日と呼ばれた地域に重なる。現地名は田川郡赤村内田であり、「野上」は戸城山を指し示すと思われる。国見をする場所として適切である。
読み飛ばしていた「矢河枝比賣」の居場所が重要であった。丸邇の比賣が山代の神社に来ていた、近いから問題はない、そこから道を踏み外すことになるのである。先ずは、一つ一つ丁寧に…丸邇近隣の地を示すところなのかどうか、父親の名前も併せて述べる。
天皇の行程を推察すると近淡海国へ向かう途中の出来事ではなく、むしろ帰りの道すがらに起きたことと思われる。戸城山で国見をした後宇遲野を下って来て偶然見染めた比賣を翌日訪れるという、「明日」が強調された記述に依る。本来の目的である近淡海国に越行くならば「明日入坐」の記述は相応しくない。ならば木幡村の場所は前記の矢河枝比賣が居たところの近隣ではなかろうか…、
と紐解いた。「木」の解釈に二通りを示したが、地形的には前者、読みとしては後者が適するようである。両方が掛けられているのかもしれない。「木幡」二つの稜線の端が重なったところで極めて特異な場所である。日子国は柿本辺り、現在の田川郡香春町柿下辺りと既に比定した。
その近隣を調べると、現在の同郡赤村内田の小柳にあった村が該当すると思われる。初見では往路として考察し、近淡海国への途中、即ち比賣に会ってからその国に向かい、翌日また来るという行程と考えた。往路か復路かで大きく異なる結果となる。
矢河枝比賣及びその妹も娶って宇遲能和紀郎子等が誕生する。丸邇から宇遲へとその一族が旧の春日の地域に広がっていく様を伝えているようである。軽嶋之明宮との往復を含めて、上記の地名を地図に示した…
地名を示す文字列が漸くにしてその落着き場所を得たような感覚である。その他の地名、まだまだ「再考」の余地があろうかと思うが、焦らずに…である。
…応神天皇紀を通しては「古事記新釈」の応神天皇【后・子】と【説話】を参照願う。
地名として記述されているのが、近淡海国、葛野、宇遲野上、木幡村である。既出は近淡海国と葛野であり、「宇遲野上」は春日と呼ばれた地域に重なる。現地名は田川郡赤村内田であり、「野上」は戸城山を指し示すと思われる。国見をする場所として適切である。
読み飛ばしていた「矢河枝比賣」の居場所が重要であった。丸邇の比賣が山代の神社に来ていた、近いから問題はない、そこから道を踏み外すことになるのである。先ずは、一つ一つ丁寧に…丸邇近隣の地を示すところなのかどうか、父親の名前も併せて述べる。
丸邇之比布禮能意富美之女、名宮主矢河枝比賣
既に詳細を記述した「丸邇」で「柿本」と言われたところ、現在の田川郡香春町柿下である。その中にある場所と思われるが「比布禮」は何を意味しているのか?…、
…「並べて布を敷いたような山裾の高台」と解釈される。「禮」は伊波禮の「禮」=「山(=神)裾の高台」と全く同様の解釈である。
丸邇の地では特異的に平坦な地形となった山稜が並ぶところ、柿本*の中心地を指し示していると読み解ける。
現在の柿下の中心地の地形であるが当時との差は少ないのではなかろうか。その近隣で「矢河枝」とは?…
その中心地の東南に現在でも急勾配を直線的に流れる川が見える。三本の川が合流するところ、それは入江のような形状をしていたのであろう。下図を参照願う。図中△58.9の周囲が柿本の中心地。平成筑豊鉄道田川線と書かれた中の「線」の文字の右側が「矢河枝」。
比(並べる)|布(布を敷いたような)|禮(山裾の高台)
<丸邇之比布禮> |
丸邇の地では特異的に平坦な地形となった山稜が並ぶところ、柿本*の中心地を指し示していると読み解ける。
現在の柿下の中心地の地形であるが当時との差は少ないのではなかろうか。その近隣で「矢河枝」とは?…
矢河(矢のように流れる川)|枝(江)
木幡村
天皇の行程を推察すると近淡海国へ向かう途中の出来事ではなく、むしろ帰りの道すがらに起きたことと思われる。戸城山で国見をした後宇遲野を下って来て偶然見染めた比賣を翌日訪れるという、「明日」が強調された記述に依る。本来の目的である近淡海国に越行くならば「明日入坐」の記述は相応しくない。ならば木幡村の場所は前記の矢河枝比賣が居たところの近隣ではなかろうか…、
木幡=木(尾根の稜線/日子国の子)|幡(端)
と紐解いた。「木」の解釈に二通りを示したが、地形的には前者、読みとしては後者が適するようである。両方が掛けられているのかもしれない。「木幡」二つの稜線の端が重なったところで極めて特異な場所である。日子国は柿本辺り、現在の田川郡香春町柿下辺りと既に比定した。
その近隣を調べると、現在の同郡赤村内田の小柳にあった村が該当すると思われる。初見では往路として考察し、近淡海国への途中、即ち比賣に会ってからその国に向かい、翌日また来るという行程と考えた。往路か復路かで大きく異なる結果となる。
矢河枝比賣及びその妹も娶って宇遲能和紀郎子等が誕生する。丸邇から宇遲へとその一族が旧の春日の地域に広がっていく様を伝えているようである。軽嶋之明宮との往復を含めて、上記の地名を地図に示した…
地名を示す文字列が漸くにしてその落着き場所を得たような感覚である。その他の地名、まだまだ「再考」の余地があろうかと思うが、焦らずに…である。
…応神天皇紀を通しては「古事記新釈」の応神天皇【后・子】と【説話】を参照願う。