2017年8月31日木曜日

天皇一家の開花 〔091〕

天皇一家の開花


大倭豊秋津嶋の北端近くまで飛んだ孝元天皇、地道な努力で一家は頗る豊かになった。いよいよ倭国中心地に向けて出立である。第九代開化天皇(若倭根子日子大毘毘命)は、父親の亡骸を劒池に残して春日に飛んだのである。第五代孝昭天皇の御子、天押帶日子命が隅々までしっかり押さえた地であった。

真に用意周到、決して無謀な戦略は取らない、いや、殲滅できるだけの殺傷応力のある武器も無ければ兵隊の数も不十分だったのであろう。古事記の戦闘をこの背景を抜きにして理解することは無茶である。「言向和」に隠された凄惨な戦争は数少ないと思われる。と言うか、身内の争いだけであったろう。

開化天皇紀以降はかなりの部分を紐解いてきた。だが残っているところも多い、見落としの箇所を一つ一つ拾い上げてみようかと思う。一気に増えた娶りと御子達、その名前には例によって重要な情報が潜んでいるのであろう。順不同、暇が取り柄の老いぼれの気が向くまま、である。<追記>

旦波之大縣主・名由碁理


「旦波()は現在の福岡県行橋市稲童辺りとした。古事記全体を通じてなんら矛盾のない場所、揺るぎないところと思われる。問題は「由碁理」、固有の人名のようでもあり、また、何かの地名に絡む情報を示しているようでもある。そもそも文字の解釈がややこしい・・・。

調べてみると「水垢離」身を清める所作から「湯垢離」と解釈。冷たい水ならまだしも身を清めるほど何か悪いことでもしでかして湯を使うとは?…それを名前に?…また、鉄を冷やして凝らせるから鉄の産地を示す?…旦波国で鉄?…何故、湯?…文脈に全く絡まない解釈。

初見の解釈は・・・とは言うもののこれに引き摺られてしまったようである。「湯碁理」の娘名が「竹野比賣」である。これは「竹」に関連する言葉と直感する。そして検索するとそのものズバリの解答が見つかった。詳細は例示されたサイトを参照願う。天然の竹を竹材とするには「油抜き」が不可欠である。その方法の一つに「熱湯」を使う湿式方式が現在も使われているとのこと。

適切に油抜きされ、竹は本来のしなやかで強靭な性質を示すようになる。また独特の艶など見た目の美しさを顕在化させるのである。余分な油は竹の表面に集まり、汚れと相まって真っ黒な粒のようになる。「碁」の表現はそれを表したものであろう。これこそノウハウであり、そのスキルが誇りとなり、財を成さしめた、と伝えている・・・とまで記述してしまった。

「由」↔「湯」の置き換えを疑わなかったのである。「碁理」↔「垢離」に至っては全く置き換えの根拠が見出せない。それをゴリ押してしまったのである。やはり頻度は決して高くはないが(古事記中10回登場)重要なところで出現する「碁」の文字解釈に従うべきであった。

「碁」=「其(箕)+石(岩)」と分解すると「箕の形をした山」と紐解ける。ならば…、


由(依り所にして)|碁(箕の形の山)|理(整えられた田)

…「複数の稜線の緩やかな起伏を利用して田を整えた」様を述べていると解釈される。「箕」の地が特筆されるのは、この緩やかな高低差を利用して田畑を開拓して行ったからであろう。

古代の耕作の基本なのである。図を参照願う。英彦山山系から延びた極めて長大な枝稜線が周防灘に届くまで緩やかに傾斜しているのである。

更に「竹」の文字が続いて登場する。これはその稜線が長く広く延びて広大な田を作り上げたことを意味しているようである。

竹のように細く長く見える州が竹の正体である。現在地名は京都郡みやこ町と築上郡築上町に跨る場所である。おそらく古代は音無川を挟んで分かれていたのではなかろうか(図中の白線と黃線)。

「旦波国の竹野」と言われた場所も含め、南北に跨る広さを持っていたのであろう。「大縣」はそんな状況を簡単に表現したものと思われる。比賣の居場所を図に示した。根拠は竹野の中心と見做したからである。ずっと後にこの地の一部は「三尾」と呼ばれてたと紐解いた。既にこの時代に皇統に絡む人材を輩出していたところなのである。

勿論当時の旦波国と多遲麻国との国境について古事記は語らない。平地で陸続きの国間の国境は、大河でも流れていない限り、曖昧であって当然であろう。基本は「村」が単位、納税義務が発生する時期まで追及は止しとしよう。引続き旦波関連の説話が幾つか見当たる。纏めて述べてみよう。

 
阿治佐波毘賣・遠津臣・竹野別


開化天皇紀の途中から「旦波」→「丹波」に切り替わる。意図があってのことなのか不明なのであるが、同一国の表記らしい。「丹=赤米」の生産が順調になってきたのかもしれない。だとすると、豊前に赤米の記述が少ないと言えない。国名にあるから…「丹=赤米」の傍証、探すかな?…。

「阿治佐波」は極めて具体的な地形象形と思われる。「阿(台地)・治(治水された)・佐(支える)・波(端を)」と紐解ける。現在の


行橋市稲童の「出屋」

という地名が該当するのではなかろうか。南は音無川、東は周防灘に囲まれた大きな台地状の土地である。後の世に海軍航空隊の飛行機を格納する掩体壕が作られ、今もその一部が残っているとのこと。


「丹波之遠津」は少々考えさせられた場所である。「中津」を中心とする旦波国における「遠津」とは?…しかし考えてみれば「中津」が単独であったと考える方が誤りであろう。例によって「上・中・下」の三つを揃えていた筈であろう。「遠・中・近」かな?

現在の稲童に


稲童上・稲童中・稲童下

がある。これがヒントとなった。「稲童下」は「覗山」の東麓辺りを示しており、そこに


奥津神社

が鎮座している。多くの池、細いが複数の川もあって稲童古墳群石並古墳の近隣である。


難波津があり、仲津がありって後に名付けられた地名からの類推で考えがちであるが、そうではなく旦波国内で完結する表現であった。この国の西境等々これまでに随分とわかって来ていたような錯覚に陥っていたが、中心の「中津」周辺が漸くにして見えてきた、と思える。読み解いてみるものである。

「遠津」に居た「高材比賣」の名前、後ろにある覗山の木材を示していると思われる。海辺にありながら「木」の匂いを表す命名、山が接近する地形であってこその場所、矛盾のない表現かと思われる。

後述する「葛城之垂見宿禰之女・鸇比賣」が産んだ「建豐波豆羅和氣」が「丹羽之竹野別」となる。


豐波豆羅=豊(豊国の)|(傍)|豆羅(凹凸のある)

と紐解けば「竹野」の地を示しているようである。懲りることなく名前に刻まれた地形象形、やはり見事と言うしか他なし。少々大雑把な表現ではあるが・・・。

「旦波之大縣主(之由碁理)」は大きくなり過ぎたのではなかろうか。その「技」は尊重するが、土地を大きく占有されては面目が立たない。下段に述べるように「竹野比賣」の子供はその地に落ち着き、孫達は他の地に赴く。そして統治は他所から派遣される御子が担う。

何気なく、それこそ事を荒立てずに手を打っているのである。後の「丸邇」の隆盛に対して打った手と同じである。その時は旦波国の御子を送り込んだのであるが。「言向和」に通じる戦略と思われる。后にそれを言わせる心憎い演出もあったが・・・。

さて、「湯碁理」の後裔の動きを見てみよう…

大筒木垂根王・讚岐垂根王


古事記原文…

比古由牟須美王之子、大筒木垂根王、次讚岐垂根王。二王。此二王之女、五柱坐也

娶りは省略されて、いきなりその御子達の名前が記述される。竹野比賣が産んだ「比古由牟須美命」の名前は何を意味する?…当初は「由(湯)|牟須(生す)|美」として「竹の美的特徴」に注目したのであろうか…などと解釈したが、彼がこの地に留まる理由にはならない。また「比古」=「並べ定める」の意味で一貫して用いられていることが判ったところで、再度紐解いてみよう。


由牟須美=由(拠り所にして)|牟(大きな)|須(州)|美(見事に)

…「大きな州であることを拠り所にして見事に並べ定めた」と紐解ける。利水の容易な起伏が少なく大きな州に田畑を立派に整備した命を意味すると解釈される。上図を拡大すると北は音無川、南は城井川に挟まれ、尚且その州の中には多くの川が流れる州であることが判る。英彦山山系の枝稜線が長く延びた、その先端部である。

由牟須美命は間違いなくこの地の開拓に努めたものと思われる。竹材を活用した田の整備を行った命であったと伝えているようである。勿論この広大な州の地に留まらざるを得なかったということも併せて…。

比古由牟須美命は出歩くことなく「竹材治水の技術」に専念したのであろう。彼の御子達がその技術を広める役割を担うことになったと推測される。山代の「大筒木」伊豫の「讃岐」それぞれ山裾に広がる大地を田畑に変え、豊かな国になったところである。それを可能にした「技術」は?…「池()」及び治水の技術であろう。

彼らは祖先が培ってきた「竹」の技術…おそらくは「木()」も…を使った池造りの基盤を確立していったと推測される。古事記は国を作った「技術」を極めて重要として記述している。それを登場人物の名前の中に埋め込む、それが読取れて来なった…残念ながら…のである。

「垂根」は既に述べたように池で栽培する植物の状態を表している。例えば蓴菜(ジュンサイ)など。池造成の技術は革命的であった。急峻な山麓を水穂の国に変え、そればかりか池に溜められた水は裾野を水田に変え、耕地面積を一気に向上させた。旦波国、山代国、讃岐国(若木)が早期に発展したのも頷ける話であろう。

葛城之垂見宿禰


開化天皇が娶った鸇比賣の父親である葛城之垂見宿禰は葛城に居たのであるが「垂見」とは何処を示すであろうか?…「垂(垂れ下がる)・見()」であるが、「垂」=「何かを伝わって少しずつ落ちる」という意味を持つ。何か?…連なる池であろう。では、何処か?

よく見ると葛城には連なる池が殆ど…困ったが・・・池の数、整列の美しさから、現在の


田川郡福智町上野原にある中の池、尻の池等

と思われる。この近隣に垂見宿禰が居たのであろう。彼の出自は不詳である。鸇比賣同様、日本書紀には現れない。


宿禰であり、娶りの対象となる以上それなりの地位に居た邇邇芸命一家以外の先住渡来人かもしれない。少々北側(直方市)になるが「畑」の地名がある。池作り、用水に長けた集団とも考えられるが、闇の中である。

丸邇の意祁都比賣命が産んだ日子坐王、その彼が娶った山代の苅幡戸辨が産んだ大俣王の子の「曙立王」が「伊勢之佐那造之祖」になったと記す。「無口な御子の出雲行き」で随行し、功績が認められたのであろう。前記した邇邇芸命降臨に随行した「手力男神」が切り開いた「佐那縣」に当たる。

さて、いよいよ師木進出の天皇となる。「初國之御眞木天皇」と言われる「御眞木入日子印惠命」(崇神天皇)の登場。一語一語をしっかり紐解いて行こう。

…と、まぁ、見逃しは、まだまだあるようで・・・。


<追記>

2017.09.07
早速の見逃し…開化天皇の名前を見逃していた。若倭根子日子大毘毘命の「大毘毘」である。奇妙な名前なのであるが、一見では何とも言えない…が、これは重要な意味を含んでいた。

「毘毘」を何と解く?…「毘」の意味は多彩である。いつもお世話になってるOK辞典さんの解説を書き写すと…①「あつい(厚)」「厚くする」 ②「ます(増)」 ③「たすける(助)」「そばについて助ける」(例:毘補) ④「人体の左右の真ん中にあるへそ」 ⑤「田畑・山・川などが連なる」…とある。

更に分解すると…


「田+比」→「通気口」+「人が二人並ぶ」象形

…となる。これで解けた。


「毘毘」=「通気口の前の人々を助ける」

大いに助けたのであろうか。彼の娶りに春日建國勝戸賣之女・名沙本之大闇見戸賣が居る。辰砂の採掘現場の管理監督者と既に紐解いていた。ピンポ~ンと鳴っても良いのではなかろうか。勿論⑤も掛けているのであろうが・・・。

辰砂=丹の時代、即ち丸邇氏の台頭となる。若倭根子日子大毘毘命の時代から天皇家の様相が一変する、その兆しを示しているのであろう。






2017年8月30日水曜日

建内宿禰一族 〔090〕

建内宿禰一族


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
さて、「建內宿禰之子」の記述に移ろう…古事記原文…

此建內宿禰之子、幷九。男七、女二。波多八代宿禰者、波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君之祖也。次許勢小柄宿禰者、許勢臣、雀部臣、輕部臣之祖也。次蘇賀石河宿禰者、蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也。次平群都久宿禰者、平群臣、佐和良臣、馬御樴連等祖也。次木角宿禰者、木臣、都奴臣、坂本臣之祖。次久米能摩伊刀比賣、次怒能伊呂比賣、次葛城長江曾都毘古者、玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也。又若子宿禰、江野財臣之祖。

ずらりと並ぶ祖の名前、圧倒されるが読み解くと圧巻の内容とわかる。今回もきっと期待を裏切らないものと信じて取り掛かろう。例によって各宿毎に初めに求めた現地名を記す。本件、日本書紀は無口である。

波多八代宿禰


波多():二夕松 林():小森江 波美():大里東
星川():永黒 淡海():羽山 長谷部(君):奥田

これら全て北九州市門司区に属する地名である。「波多」現在は細かく分かれた行政区分であるが、その中心にあったと思われる「羽山」とした。勿論「羽山=端の山」である。「林」は「森」の置換えと見做した。少し難解なのが「波美」=「波()・美()」として、肥河(大川)の河口付近と解釈した。

「星(=日)・川」は「肥河」そのものであろう。当時の「州」となる前の場所である「永黒」が該当すると思われる。「淡海」はそれに面した「御大之御前」のあった地名とした。「長谷部」は既に解いた淡島神社に向かう「長い谷」であろう。ところでこの宿禰の名前に「八代」とある。何を意味するのであろうか?…そのまま読めば…、

(谷)|(背にある)

…「谷を背にする」と解釈される。「波多」は極めて急傾斜の地であり、多くの谷川が流れている。また、「波多」に限らず彼が祖となった地は全て同様の地形を示す。風師山、矢筈山の麓をぐるりと取り囲んだような地名が並んでいるのである。出雲の北部、建一族が入り込んだのである。


許勢小柄宿禰


「許勢小柄宿禰」はこの段にしか登場しない。「許勢」からは地名の情報は得られないが「小柄」と祖となった名前から容易に紐解けた。決して小柄な人ではありません。「許勢」=「山麓の地勢」と読み解く。「許(モト)」=「元、下」から「山の下(麓)」とする。

許勢():感田 雀部():笹田 輕部():下境・赤地・溝堀

全て直方市の地名である。


許勢小柄=山麓の地勢が小さな柄杓の柄

…と解釈する。「軽」の地の近傍、実に大きな「斗=柄杓」金剛山と雲取山の山稜がつくる特徴的な地形である。金剛山は「淡海之佐佐紀山」で出現した山である。その大きな柄杓に対して小さな柄となっている山稜が延びた丘陵が「許勢」と呼ばれたのであろう。

「雀部」は以前に特定した「笹田」。「軽部」は現在の行政区分を示した。既にここは「淡海」であった。だが既に支配下に治めつつあったことも示されている。上記の孝元天皇の「輕之堺原宮」の在処は「劒池」の東岸、直方市頓野にある近津神社辺りにあったのではなかろうか。「頓野」に広がる「原」である。

 
蘇賀石河宿禰


歴史に名を刻む「蘇我氏」発祥の記述である。心して紐解こう。祖に「蘇我」と記述しながら「蘇賀」と書く。意味があると思われる。「賀=入江」に面したところである。「小治田」が示す地は既に特定し、京都郡苅田町にあるところ、そう神倭伊波礼比古が熊野村から八咫烏に道案内されて出てきたところである。

蘇我():稲光 川邊():稲光/鋤崎 田中():稲光
高向():法正寺 小治田():葛川 櫻井():山口 岸田():片島

「石河」は何を意味するであろうか?…苅田町に「白川」という「水晶山」から流れる川がある。支流を集めて小波瀬川と合流し周防灘に注ぐ。この「白川」の名前の由来は定かではないが、有名な鴨川支流の一級河川「白川」の由来に「川が白砂(石英砂)で敷き詰められた状態」と言うのが知られている。

石河=白川

である。「水晶山」の名前の通り石英砂を含む小石が「石河」に流れ込み、後に「白川」と呼ばれるようになったと推測される。名前に付けるほど美しい川が流れていた、今もそれは変わりがないであろう。神武天皇が八田の住人に案内されて通過した地はその後建内宿禰一族が開拓したのである。

「阿多」=「阿蘇」と置換えられることを既に示した。ならば「多賀」=「蘇賀」ではなかろうか。この多賀神社は「白山多賀神社」と言う。白山→石河及び語順を入れ替えれば、そのものの表現となる。紐解いてみて深い関連性に驚きを隠せない有様である。間違いなく「蘇賀石河宿禰」はこの地に居た。

「川邉」はその文字に従って川べり、「葛川」は白川の支流ではなく小波瀬川に注ぐ川である。「田中」は最も田の豊かなところ、「岸田」はその小波瀬川合流地点の近傍と思われる。「高向」は背後に平尾台の山地が聳え、また、多賀神社に向かう登り口でもある。「小治田」は既出、治水のされた田があるところ。

少々ややこしいのが「櫻井」特定されていない地名、残りは八田山の入口、現在はダムまで造られた上流の場所である。何故「櫻井」?…


(佐:促す)・くら(倉=谷)・い(水源)

と紐解く。「山口」にある上記のダムの辺りであろう。後には「八田」と呼ばれるところである。


上記したように歴史に名を刻んだ「蘇我一族」であろうが、日本書紀には古事記に関連する記述はなく、また古事記中の蘇我臣との繋がりも定かでない。なんとも消化不良な有様、それが実態なのであろうが、口惜しいところではある。

様々な解釈が横行し、混沌としている。解き明かしてみたくもあるし、少々戸惑う気分でもある。「近淡海国」の傍にある極めて重要な地点に蘇我氏が居た。これを事実として今後の解釈に向かおう。

平群都久宿禰


「平群」は通説に従い…地形象形として…現在の田川市、田川郡に横たわる丘陵地帯である。さてその中に求める地名があるのか、勿論そのまま残っているとは思えないが…。「都久」=「衝く(田)」で丘陵地帯の開拓に努めた宿禰かもしれない。

平群():大任町大行事 佐和良():田川市奈良 馬御樴():川崎町安真木大ヶ原

田川市以外は田川郡に属する。大任町は大行事と任原との合併で生じた地名のようである。元の大行事辺りが「平群」の中心地だったのであろう。


「佐和良」=「沢のようなところ」

と読み解くと、現在大浦池があって中元寺川に向かって流れる蓑田川沿いの地、「奈良」が該当するところかと思われる。

「奈良」は解釈困難な文字であるが「那羅」とも古代では表記されるとすると「安らかな地」と読み解ける。いくつかの地方にもある命名で一つに限られたものではないが、「佐和良」の地形象形は間違いなく現在地を示していると思われる。

「馬御樴」「樴」=「杭」である。文字の意味するところは「牧場」牧畜の行われていたところではなかろうか。「日向之諸縣君牛諸」の居た地と類似する地形を探すと、上記の大ヶ原に目が止まった。現在も牧場がある草原地帯であろう。師木には届かないが、その周辺をしっかり押さえている様子がわかる。

木角宿禰


木国の祖となる人物の登場である。

():築上郡上毛町 都奴():豊前市中村 坂本():築上郡築上町坂本

「木」が示す場所は上記「木國造之祖宇豆比古」の在所及びその近隣であろう。「都奴」=「角」とすれば現在地名は「中村」であるが「角田八幡宮」「角田小・中学校」「角田公民館」などなど旧角田村の名前が残っている。古事記記載の由緒ある名前、消さないで・・・。木角はこの


角田

が本拠地だったか。

「坂本」はそのものズバリで残っているようである。「木角宿禰」が居た地域、北は城井川、南は山国川に挟まれた地となる。木国の背後は山深い山岳地帯である。豊な材木資源で倭国に貢献したということであろう。古事記の中で地味ではあるが欠かせない位置付けのように感じられる。

葛城長江曾都毘古


謂わば「Mr. Katsuragi」であろう。文字通りに葛城の中心地、現地名の田川郡福智町を押さえる。

玉手():上野常福 的():弁城浄万寺 生江():上野大谷 阿藝那():伊方久六

「玉手」は前記の「玉手岡」であろう。「的」は地形象形「勺」形のところである。「生江」は彦山川の入江を形成していたと思われる「手」の掌に当たる場所である。「阿藝那」は葛城の端にある丘陵地であろう。様々な説話の中で記載された地名を読み合わせて解ける地名である。だが、見事に合致することがわかた。


「長江」の解釈は上図の「人差し指」と「中指」の間、上図の「大谷」と記載されているところを表しているように思われる。傍を流れる福智川流域は葛城の中でも早期に開発された地域と推測される。後進の荒野から新興開拓の先進地としての位置を獲得するのであろう。

若子宿禰

 
江野財(臣):喜多久(北九州市門司区)

最後の宿禰である。しかしこれが何とも意味不明・・・「江野財臣」を…「財」=「貝+才」=「子安貝の形をした山稜」とすると…、


(入江の)|(野原の)|([貝]の形)
 
と紐解いてみる。子安貝を象形した文字を山稜の地形に用いていると解釈される。古事記中に「財」の使用は幾度か登場するが全て同じ解釈と思われる。(2018.04.14)

大きな入江とそこに広がる野を有し、良質の木から布を紡織するところは「角鹿」現在の「喜多久」と読み解いた。以前とは異なる表現をする。

解けてみれば更なる情報と地名特定の確度が高まるのであるが、やはり疲れる…。他の史書から現在の石川県に関連するという情報もある。場所は違えど通じるかも、である。

流石に建内宿禰一族である。古代の要所をキチンと抑えている。彼らが天皇家を支え発展させて行ったことを建内宿禰の度々の登場に映し出しているのであろう。彼らの拠点としたところを地図に示してみよう…



正に倭国の周辺に建内宿禰一族の息がかかった場所を作り上げたと言うべきであろう。後代の倭建命に匹敵する古事記の扱いである。

…と、まぁ、葛城物語を卒業した、出来たかな?・・・。








2017年8月29日火曜日

葛城孝元天皇の布石 〔089〕

葛城孝元天皇の布石


孝元天皇は「時が来た」と判断しなかった。土地の開拓は順調で十分な財力を生んでいたのであろうが、吉備の「鉄」は未熟、時間がかかる作業であったと思われる。今暫く様子を伺い時が熟するのを待つ、という選択をした。そして葛城の地に留まるのではなく、再び「軽」に飛んだ。

「輕之堺原宮」は既に考察を加えたところである。この時は決定的な決め手がなく「境岡」「堺原」の地形からのみで「境岡」近隣の地を候補に挙げたが、見直してみると孝元天皇の選択はより「淡海」に近付き、より豊かな実りが得られる場所へと向かったように感じられる。それを実行できる力が備わっていたのである。

劒池


更に、御陵の場所「劒池之中岡上」まさかこんな淡海間近にまで進出していたとは思われなかった場所に「劒池」現在名


小野牟田池(福岡県直方市頓野・感田)

があった。地図を参照願うが「剣」である、しかもまるであの「七支刀」を絵に描いたような姿をした池…絶句である。今の地形であって、当時とは異なる?

 

雲取山の西麓が延びた場所の標高、最低でも10m以上はある。当時との地形に大きな差があるとは思われず、稜線が削られてできた自然の造形美とでも言える地形を示している。後代には農業用に加えて洗炭水、更には製鉄工業用水として利用するために何らかの手が加えられたようであるが、形状に変化を及ぼすものかどうか、定かでない。

カルスト台地など極めて特徴的な地形を古事記が示してきたが、この地もそれに匹敵するほどの特異さである。この地に行き着いた本ブログの地名比定の確からしさを感じる。「中岡上」とは上図標高36.4mの西尾神社辺りではなかろうか。通説の奈良県橿原市石川町にある石川池では断じてない。そこに御陵もない。

二本の稜線の脇を流れる川(近津川、尺岳川)がつくる平地は更なる豊かな実りを約束する場所であったろう。孝元天皇の事績は無し、と通説は言うが、この地に目を付け発展の礎を確固たるものした天皇に真に失礼な言草であろう。境岡、境原これらは莫大な財力を天皇家にもたらした、と結論付けられる。見事な戦略と言える。<追記>

古事記原文…

大倭根子日子國玖琉命、坐輕之堺原宮、治天下也。此天皇、娶穗積臣等之祖・內色許男命色許、此妹・內色許賣命、生御子、大毘古命、次少名日子建猪心命、次若倭根子日子大毘毘命。三柱。又娶內色許男命之女・伊賀迦色許賣命、生御子、比古布都押之信命。又娶河內青玉之女・名波邇夜須毘賣、生御子、建波邇夜須毘古命。一柱。此天皇之御子等、幷五柱。故、若倭根子日子大毘毘命者、治天下也。其兄大毘古命之子、建沼河別命者、阿倍臣等之祖。次比古伊那許士別命、自比至士六字以音。此者膳臣之祖也。

比古布都押之信命、娶尾張連等之祖意富那毘之妹・葛城之高千那毘賣、生子、味師內宿禰。此者山代內臣之祖也。又娶木國造之祖宇豆比古之妹・山下影日賣、生子、建內宿禰。

後に大活躍の説話が記述される「大毘古命」の名前などが見えるが、何と言っても「比古布都押之信命」が儲けた「建內宿禰」であろう。彼の子供達の活躍については纏めて後述する。

那毘


比古布都押之信命が娶る相手の名前に地名が潜められているとみて紐解くと、「意富那毘」の「那毘」=「奇麗な臍」出雲国の「波多毘」であろう。針間之伊那毘から推察し、現在の北九州市門司区城山町辺りとしたところである。山の稜線の裾が一旦凹んで再び小高くなる地形の象形である。

その妹が「葛城之高千那毘賣」とある。葛城にある「那毘」を示す。山裾の「臍」の形…稜線が一度凹んで再び小高くなる…をした場所、探すと直方市永満寺辺りを示していると思われる。地図を参照ねがう(「毘」標高152の東)。葛城の山であることから「高千」を付けたのであろう。





次の相手が「木國造之祖宇豆比古之妹・山下影日賣」建内宿禰の登場である。「木国」の詳細は未詳なのであるが、これを読み解いてみよう。「宇豆比古」は何処に居たのであろうか?…「宇」=「山の稜線が小高くあるその麓」と紐解いてきた。


豆=多くの凹凸がある地形
 
である。現在の築上郡上毛町の穴ケ葉山古墳群近辺に「宇野」の地名がある。「宇」という地域名を持っていたのだろう。「宇豆」は凹凸の地、現地名同町下唐原であろう。その少し南側に「東下」(現地名同町東下)の地名が見える。「山下影」に関連すると思われる。古事記が記述する東南の端、境の山国川西岸である。


豆と木

「阿岐豆野」「小豆嶋」に始まり「豆」の形は種々あれど、多遲麻の「伊豆」木国の「宇豆」等、豆で表現される地形の多さが目立つ。「五百木」「師木」との差は「豆」の大きさ、高さによるのだろうか、地形象形の判定基準など求めてみても面白いかも、である。

神懸かりな建御雷之男神とは異なり、最強の武将を伺わせる「大毘古命」、高志道回りの彼と東方十二道回りの息子「建沼河別命」が「相津」で遭遇、感動の説話があった。現在の北九州市門司区今津にある二つの小山を英雄親子に見立てた記述はなかなかのもの、ドラマ中の名場面の一つに数えられるものであろう。

感動を思い出したところで、次回に移ろう、建さん一家の行く末である。

…と、まぁ、古事記と地図、感動の日課である・・・。

2017年8月28日月曜日

葛城孝安・孝霊天皇の興隆 〔088〕

葛城孝安・孝霊天皇の興隆

葛城の地は順調に開墾されたいったのであろう。生まれる御子の数も少なく内輪の争いも起こらず、政治は国内に目を向けた平和な状態を醸し出していた、と思われる。こんな状態が一番安全だが、長くは続かないのが世の常、いずれは大きな変化を迎えることになる。

日嗣の孝安天皇は、なんと宮を葛城室之秋津嶋宮に置いた。高みより下を眺めて悦に入っていた、とは言い過ぎであろうが、彼以前の天皇達とは異なりずっと長生きをするのである。秋津嶋宮から眺める葛城の地に棚引く稲穂の光景は気持ちの良いものであったろう。

古事記原文…

大倭帶日子國押人命、坐葛城室之秋津嶋宮、治天下也。此天皇、娶姪忍鹿比賣命、生御子、大吉備諸進命、次大倭根子日子賦斗邇命。二柱。故、大倭根子日子賦斗邇命者、治天下也。天皇御年、壹佰貳拾參歲、御陵在玉手岡上也。

そっと一人の御子を吉備に派遣する。長らくの御無沙汰の地に向かっても根付くには少々時間がかかる。「大吉備諸進命」の名前、諸々取進める、やることが沢山あったであろう、苦労を背負った御子であるが、それが次に繋がることを心に秘めていたのであろう(吉備国下図参照)。

大事なことは、目が吉備…鉄…に向いていること。彼からもたらされる情報が次に為すべきことを教えてくれる。古事記は唐突に記述、としながら、実は着実に物語が進行していることを登場人物の名前で伝えているのである。見逃してはならないところである。<追記>

と言いつつ、「玉手岡上」に眠っている。


(勾玉のような)|(の形をした)|岡上(岡の上)

と読み解ける。現在の福岡県田川郡福智町上野常福にある特徴ある地形をした岡の上である。綏靖天皇が坐した高岡宮に近接し、葛城の中心地を形成したところである。


孝霊天皇紀に移る…古事記原文…

大倭根子日子賦斗邇命、坐黑田廬戸宮、治天下也。此天皇、娶十市縣主之祖大目之女・名細比賣命、生御子、大倭根子日子國玖琉命。一柱。又娶春日之千千速眞若比賣、生御子、千千速比賣命。一柱又娶意富夜麻登玖邇阿禮比賣命、生御子、夜麻登登母母曾毘賣命、次日子刺肩別命*、次比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命、次倭飛羽矢若屋比賣。四柱。又娶其阿禮比賣命之弟・蠅伊呂杼、生御子、日子寤間命、次若日子建吉備津日子命。二柱。此天皇之御子等、幷八柱。男王五、女王三。

「黑田廬戸宮」の在処については既に考察を加えた。「黒田」=「豊かに泥の詰まった田」として池()の水に支えられ、治水ができた場所を示すと解釈された。現在の「常福池」の近隣であろう。「廬戸宮」と言う表現も彼らの慎ましやかな生活を示そうとしているのかもしれない。<追記>

漸くにして複数の娶りが発生する。十市縣*、春日の比賣及び前記の淡道之御井宮に居た和知都美命の二人の比賣が登場する。十市縣は既出で現在の田川郡赤村赤、東西南北の十字路がある地を中心としたところとした。古代の交通の要所と思われる。春日は前記の通り同郡赤村内田中村であろう。

残り二人の比賣、既出ではあるが補足すると、「意富夜麻登玖邇阿禮比賣命*」及び「蠅伊呂杼」の在所は何処であったろうか?…「意富(出雲)」「夜麻登(山登り)」として「玖邇阿禮」は…


(三つの頂の山)|邇(近く)|阿(台地)|禮(祭祀する)

…「風師山近くの台地で祭祀する」比賣と紐解ける。出雲で山を登って辿り着く場所、現在の北九州市門司区にある小森江貯水池近隣と推定される。「小森江子供のもり公園」となっているところである。


この地は須佐之男命の御子の大年神、その御子羽山戸神の子孫である夏高津日神、秋毘賣神」が住まっていたところである。対岸の淡道嶋の御井に居た和知都美命がこの地の比賣を娶って誕生したのであろう。

異なる表現で同一場所を示す。これによってその場所の位置がかなり精度高く推定できるようになる。古事記はその手法を頻度高く採用しているのである。また、「夜麻登(山登り)」が汎用の表現であり、決して固有の地名を示すものではないことが判る。他国の史書解読にも関連して「ヤマト」は一般的な表現と思う、という説が従来よりあるが、根拠は希薄であろう。古事記がそのものズバリに答えているのである。1,300年間それに振り回された日本の歴史とは一体何なのかと思いたくなる有様である。

さて、娶りの場所が出雲へと発展したと解釈される。また、それだけ余裕が生まれたことも推し量ることができる。更に重要なことは「吉備国」対応の主要中間地点「淡道」の確保が確約されることである。彼女達が産む御子、二名は吉備臣の祖となって国の発展に貢献する運命を背負うことになる。

本当かい?…と言いたくなるような周到な手配である。武器調達、農耕器具も合せて国力の増大に備える準備が整ったと古事記が伝えている。既に記述したが、


第七代孝霊天皇紀は大きな時代の転換期

であったことを更に確信することができる。間違いなく葛城の地は興隆の時期を迎えたのである。

古事記は上記の段に続いて二人の御子、「大吉備津日子命」「若日子建吉備津日子命」が吉備国を「言向和」した説話を伝える。針間爲道口」の解釈など興味深い内容であることを既に紐解いた。吉備国に入るにはこの「針間」を通る。吉備国の在処の特定に重要な示唆を与えてくれた記述である。

あらためて振り返ると、吉備上道臣、吉備下道臣の上下の臣の記述、現在に残る吉見上、吉見下の地名との合致は感嘆に値する。更に笠臣の「笠→龍」の置換えに気付いたことも加わる。吉見の地の古代があからさまにされることを祈るばかりである。


「日子刺肩別命」が「高志之利波臣、豐國之國前臣、五百原君、角鹿海直之祖」となる記述も各地の主要地点をズラリと並べた読み解き難解文字の羅列であった。懐かしく思い出す。暇が取り柄の老いぼれの「古事記の国々」地図の中にしっかりと位置付けられている。

天皇御年、壹佰陸。御陵在片岡馬坂上也」と記述されて孝霊天皇紀は終わる。天皇一家の興隆を実感として眠っておられることであろう。「片岡馬坂上」とは現在の田川郡福智町弁城、岩屋神社辺りであろう。大きく広がる「玉手岡」の一段低くなった端を指し示していると思われる。

既に紐解きが済んだ地名が多くあるリンクした元のブログを参照願いたい。繰返しになるが、第七代孝霊天皇紀より倭国は隆盛の勢いを獲得することを古事記は伝えている、と思われる。

…と、まぁ、欠史はまだまだ続く・・・。

2017年8月26日土曜日

葛城孝昭天皇の回帰 〔087〕

葛城孝昭天皇の回帰



<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
父親の懿徳天皇の冒険は確かに彼ら一族の将来に夢をもたらした。未だ不十分とは言え大きな可能性を示してくれた。孝昭天皇の選択は、この地、あるいは更に領土を拡大するのか、一旦引き返して施策を施した地を確実なものにするのか、彼の選択は後者であった。

葛城の地を更に確かなものとし、確実に自らの手で自らの領土にする道を選択した。既に初期に開拓した地は実の多い土地に変貌しつつあったのであろう。既に紐解いたように葛城の果て…葛城掖上宮…に坐して師木を遠望したのであった。

古事記原文…

御眞津日子訶惠志泥命<追記❶>、坐葛城掖上宮、治天下也。此天皇、娶尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命、生御子、天押帶日子命、次大倭帶日子國押人命。二柱。故、弟帶日子國忍人命者、治天下也。兄天押帶日子命者、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造之祖也。天皇御年、玖拾參歲、御陵在掖上博多山上也。

娶りも師木からではなく尾張から、繋がりを拡げたのである。開拓のことについて古事記は語らない、がそれは日常業務として行われていたのである。特筆すべきは二人の御子の内、兄に、例によって、活躍の機会を与える。この活躍には相当の財力が必要であったろう。

神武天皇の御子、神八井耳命が奔走できたのは間違いなく三嶋湟咋の援助があっただろう。今回は尾張の比賣からの支援もさることながら、自らの財力がものを言ったと思われる。それだけの貯えが既にできていたからこその派遣であろう。そのターゲットは師木包囲網の構築である。

兄、天押帶日子命(詳細はこちらを参照)が祖となった地名の解釈…、

春日・大宅・粟田・小野・柿本・壹比韋・大坂


邇藝速日命の居所への進出である。埋没した邇藝速日命一族、しかし彼らが築いた地には財力を生み出す力が眠っていただろう。そして何と言ってもその地は師木に隣接するところである。様々な情報を得るにも最適な場所と思われる。少し高台に上がればその地を一望にできるところである。

さて、春日、柿本、大坂は既に何度か出現した場所であるが、「宇遅」の詳細地名がこんなところに出現していた。あらためて調べるのであるが、細かい。現存する地名情報で賄いきれるであろうか…不安を払拭するべく一試案を提示する。全て福岡県田川郡の赤村に属する現在の地名である(柿下:田川郡香春町を除く)

春日:中村 大宅:大内田 粟田:小内田 小野:小柳
柿本:柿下 壹比韋:山ノ内 大坂:大坂

「春日」は邇藝速日命が降臨して坐した戸城山近隣であり、この地の中心となる地、変更はない。「柿本」も柿本人麻呂に関連したところとして取り上げた場所、「本→下」の置換えであろう。「大坂」は現在の京都郡みやこ町犀川大坂の地名があるが、そこは「大坂山口」であり「宇遅」の中にある「大坂」を採用する。

「大宅」「粟田」「小野」は語幹に基づいて特定した現地名である。残るは「壹比韋」である。これは応神天皇紀の「蟹の歌」に含まれる「伊知比韋」に該当するものであろう。難読の文字列で「一番秀でた()」のように解釈した。残念ながら地名であった。修正しよう。通説は「櫟井(イチイ)」に当てる。勿論これも要修正であるが…。

壹比韋=壹(一つ、専ら)・比(備える)・韋(囲い)=専ら囲いを備える

場所と読み解ける。周囲を小高い山で取り囲まれたところを示していると思われる。


山の内

と呼ばれるところと推定される。国土地理院の色別標高図から中心地「中村」に隣接するが隔絶した場所である、とわかった。


応神紀には「丹=辰砂」の話題が頻出する。その採掘場所を「壹比韋」と詠う。地形象形だけでなく「一つになって他を寄せ付けない」と言う意味も含まれているかも…「宇遅=内」に通じる。古事記全体を通じて、


丹=極めて貴重な資源

と記述されているのである。

いや、水銀はその後も有用な素材として君臨する歴史を辿る。その毒性が取り上げられるのは、近年になってからである。あらためて真に貴重な記述を我々は有していることに気付かされる。このことだけでも古事記の評価を見直すべきではなかろうか・・・。

阿那・多紀*・壹師・伊勢飯高


さて、「宇遅」を後にした天押帶日子命は何処に向かったのであろうか?…特定した結果を先に示すと、北九州市小倉南区に属する地名が並ぶ。

阿那:平尾台 多紀*:新道寺 壹師:志井 伊勢飯高:高野

「阿那」=「豊かな台地」カルスト台地の「平尾台」とする。「阿那」=「穴」の方がピッタリ、という感じもするが…。「多紀」=「多岐」と同義と思われる。「阿那」から北上すると「母原」の地が浮かび上がってくる。現在でも複数の道路が交差する交通の要所となっている。倭建命の「能煩野」でもある。

「壹師」は上記の「多紀」の小山を挟んだ北隣に「志井」という現地名がある。語幹を捩って残存する地名ではなかろうか。「伊勢飯高」については「伊勢」という情報から、現地名の「高野」が該当するように思われる。「伊勢神宮」に近接する。現在の三重県の多気・一志・志摩など「国譲り」の痕跡であろうか…。

こう見てくると春日の地から真っすぐ北上して伊勢に到達、伊勢神宮の近隣の地に入り込んだ、という記述である。「大倭豊秋津嶋」のセンターラインを走ったことになる、中心の「阿岐豆野」も抑えて…。

羽栗・知多・牟邪・都怒山


母親の出自に関連するところ、尾張の詳細地名*のお出ましである(追記の図参照)。

羽栗:横山葉山 知多:田原 牟邪:長野 都怒山:貫

全て北九州市小倉南区の地名である。語幹の意味、発音の類似が着目点ではあるが、一つ関係なさそうなのが「知多」である。現在の知多半島の隣、渥美半島は田原市に属する。「知多」を譲って「田原」を残したのに、その「田原」まで持って行かれた…失礼ながら笑いがこぼれる出来事である

「牟邪」=「牟(大きい)|邪(ねじ曲がる)」…「大きくねじ曲がる」川を意味すると思われる。開化天皇が坐する「伊邪河宮」に通じる。これは「小さくねじ曲がる」であるが。現地名の長野を流れる長野川の様子を象形したのであろう。

最後は「近淡海国」近江ではありません。淡海と近淡海を区別しない日本書紀は、真面(まとも)な紐解きに値しない書物と断定できるのであるが、まぁ、参考に目通しするに止めよう・・・。

地図を参照願う…




一見してなかなかの布陣であろう。「春日」の隅々までに浸透したことは後に大きな効果を生み出すことになる。反転攻勢の第一歩と見做して良いのではなかろうか…。が、まだまだ時間を要する作業なのである。

孝昭天皇はこれまでの天皇と比べ長生きをした。じっくりと先のことを考えられたであろう。葛城の地の開拓も順調であった筈である。手は打った、という気分であろうか…。


掖上博多山上=福智山山頂

に埋葬されたと言う。福智山山塊中の最高峰でかつ山頂が広く幾つかの峰が集まった形状をしている。御陵は「鈴ケ岩屋」辺りかもしれない。


…と、まぁ、古事記の内容の濃さにヘコタレそうである・・・。


…全体を通しては古事記新釈孝昭天皇・孝安天皇・孝霊天皇を参照願う。

2017年8月25日金曜日

葛城懿徳天皇の冒険 〔086〕

葛城懿徳天皇の冒険


葛城に移ってからの三代目は何を探し求めたのであろうか・・・

古事記原文…

大倭日子鉏友命、坐輕之境岡宮、治天下也。此天皇、娶師木縣主之祖・賦登麻和訶比賣命・亦名飯日比賣命、生御子、御眞津日子訶惠志泥命、次多藝志比古命。二柱。故、御眞津日子訶惠志泥命者、治天下也。次當藝志比古命者、血沼之別、多遲麻之竹別、葦井之稻置之祖。天皇御年、肆拾伍歲、御陵在畝火山之眞名子谷上也。

懿徳天皇は「軽之境」に飛んだのである。師木とは益々遠くなる道を選んだ。もっと国を拡げるため、もっと力を蓄えるには土地が必要だったから、彦山川と遠賀川の合流地点、その先は古遠賀湾の淡海であった。厳しい環境ではあるが、開拓すれば大きな収穫を望めるところと推し量ったのであろう。

既にこの地は現在の福岡県直方市上境、そこにある福地神社辺りとした(図中上境左斜め下の)。合流地点の傍にある台地、即ち岡の上にあった宮である。遠賀川河口の「岡水門」を連想させる。福地川も合流する水利に極めて優位なところである。福智山山塊の雲取山などの山稜が長く延びる「師木」に類似する大地だった。
<追記参照>


三嶋湟咋の「溝作り」技術は活かされたであろう。しかも大面積の耕地を造成することができたのである。彼らは途轍もなく大きな財源を確保したのであった。勿論それが実現するためには多くの労力と時間が必要であったことは言うまでもない。

師木縣主之祖・賦登麻和訶比賣命を娶り二人の御子を儲ける。次男が「多藝志比古命」と言う。「多藝志」=「多(出雲)・藝(果ての)・志(之賀)と紐解いた場所を示す。何故、出雲?…唐突な出雲の出現は何を意味するのであろうか。前後の記述には一見して出雲と関連する言葉は見当たらない。

が、母親の名前に隠されていた。「賦登麻和訶比賣命」=「賦登(or)・麻和訶(真若)・比賣命」と読み解ける。出自は語られないが母親は深く出雲に関連することをその名前が伝えているのである。「軽之境」に居を構えて広大な土地の開墾に手を付けたが御子を養うには至らないことを示している。

大規模になればなるほど時間がかかる、手間もかかるリスクとリターンの兼合いである。土地の開発は先行投資とそれが財源となるまでのタイムラグを如何に埋め合わせるかであろう。思いを込めたビジョンが代々に引き継がれてこそ漸くにして大きな富が生まれるのである。

少し話が遡るが、前記の安寧天皇には長男の「常根津日子伊呂泥命」が居た。たった一度だけ登場するだけで何らの記述もないが、文脈を辿れば、彼こそ、その後裔も含め、天皇の地に居付き、その亡き後もその地を開拓していったと推測されるのである。

「常根」=「常(床:大地)・根(地下)」=「大地の下」と紐解ける。父親である天皇の思いを遂げるために土地を耕し切り開いていく役割を担った、表の歴史に埋もれた人材であったと思われる。各天皇は臣下の者にその役割を与えたのであろうが、息子に託せればそれに越したことは無い。ポツンと現れた歴史の雲間の太陽である。

この考察がトンデモナイことを気付かせた。「常世国」である。


(床=大地)|(or輿=挟まれたところ)|

…となる。地図を参照願う。島と島に挟まれた鞍部(輿)の国であった。これも地形象形そのものの表現であった。安萬侶くんの戯れ、ここまでくれば苦笑いである。ドンピシャリに特定される場所を無限の広がりを持つ神の国にしてしまった。


壱岐にまで飛んでしまったが、戻して「多藝志比古命」の活躍の場所を見てみよう・・・。

血沼・多遲麻之竹・葦井


「多藝志」出雲の北端から一直線に南下である。「血沼」は現在の福岡県北九州市小倉南区沼辺り、倭建命の東方十二道遠征で出現した「相武国」に当たるところである。この地は船で南下する時には重要な拠点となる。現在の焼津も主要漁港の一つである。良くできた繋がり、錯覚が生じる筈であろう。


「多遲麻之竹」の「多遅麻」は既に紐解いた場所、現在の同県行橋市松原・築上郡築上町西八田辺りとした。

その内陸部に入り込んだところに「弓の師」(築上郡築上町)という地名がある。

現在も大きな面積を占める地名であり、その由来を知りたいところであるが、不詳である。「弓=竹」と容易に置換えられそうである。


「葦井」葦(ヨシ)と読む。「木国」の果て、山国川と佐井川に挟まれた河口にある現在の同県築上郡吉富町辺りではなかろうか。

木国の詳細が出現、記述例は少ないが節目節目に登場する主要地点の木国である。「建内宿禰」の出自に関連する。もう少し後日に記述することになろう。

出雲の血が拡散し繋がりが増えていく。出雲が主役の場面は無くなったが、古事記の中で常に根底に流れる国という扱いである。神様も含めて…。「葦原中国」は邇邇芸命一家にとってかけがえのない国であったと伝えている。

先々代、先代と変わらない短命で亡くなる。御陵は「畝火山之眞名子谷上」とある。

「天之眞名井」で出現した「真名=神」と解釈した。神の近くにあるところ、畝火に祀られる神の傍であろう。現在の同県田川郡香春町五徳、その谷の上を示していると思われる。

懿徳天皇の冒険、その目の付け所は確かに当たっていたようである。現在の地形を見ても福智山西麓を占める大きく豊かな田園地帯を形成している。

がしかし、それは多くの時間と労力が注ぎ込まれた後であって当時はほんの少しばかり手が付いた状態であったろう。

若くして世を去った天皇、日嗣の御子はどんな決断をするのであろうか・・・。

…と、まぁ、欠史から読み取る歴史、なかなか興味深い・・・。



2017年8月24日木曜日

葛城安寧天皇の苦闘 〔085〕

葛城安寧天皇の苦闘


未開の地「葛城」に飛び出した神沼河耳命(綏靖天皇)、祖父三嶋湟咋の「茨田」の技術で何とか開墾に着手したものの悪戦苦闘が始まったであろう。「茨田=八井」の地は多くの河が緩やかに流れ水源の確保が容易であり、田を積み上げるだけで、と言っても簡単ではないが、棚田を作ることができた。

「葛城」は予想を遥かに越える急傾斜の地、谷間に沿って多くの河が流れるが、田に水を貯め、穏やかな水の流れを望むことはできない。この矛盾をどう解決するか?…思案に思案を重ねた結果は「衝田」と「池」であった。傾斜を滑らかにするために山麓を掘ることと水の流れを池によって制御することであった。

例え出来たとしても収穫を得るには一年、いや二年はかかる。気が遠くなりそうな地道な努力を、土との戦いを継続したのである。開拓民と化した彼らの支えは、豊かな海と山の自然、その恵みに溢れ、一面に稲穂が棚引く光景を思い描けることであったろう。

そんな光景を見ることはなかったであろうか、先代綏靖天皇は亡くなった。まだ三十歳前で、おそらく引継いだ師木津日子玉手見命(安寧天皇)も幼い時期であった。父親の思いを遂げるよう、ひたすら開拓に心血を注いだ姿が目に浮かぶ。娶る比賣の出自も同じく師木に絡む。

古事記原文…

師木津日子玉手見命、坐片鹽浮穴宮、治天下也。此天皇、娶河俣毘賣之兄、縣主波延之女・阿久斗比賣、生御子、常根津日子伊呂泥命、次大倭日子鉏友命、次師木津日子命。此天皇之御子等、幷三柱之中、大倭日子鉏友命者、治天下也。次師木津日子命之子、二王坐、一子孫者伊賀須知之稻置、那婆理之稻置、三野之稻置之祖、一子、和知都美命者、坐淡道之御井宮、故此王有二女、兄名蠅伊呂泥・亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命、弟名蠅伊呂杼也。天皇御年、肆拾玖歲。御陵在畝火山之美富登也。

「片鹽浮穴宮」の在処は既に紐解いた。当時の海抜0mの彦山川流域(現在の福岡県田川郡福智町赤池・上野辺り)は潮の干満によって海水、川水の混じるところであったろう。現在も残る多数の池がある場所、現在の同町上野常福辺りと特定した。先代の場所の近隣である。葛城での拡がりも果たせず、早々の日嗣であった。

波延・河俣

娶ったのが従兄弟にあたる縣主波延之女・阿久斗比賣であった。母親の「河俣毘賣」伯父の「縣主波延」は師木の何処辺りに居たのであろうか?…「波延」から紐解いてみよう。「波延」=「波()・延(尾根がずっと延びたところ)」とすると、英彦山系岩石山の北方の稜線の先端を示すと読み解ける。

現在の田川市糒の日吉神社辺りではなかろうか。

その場所は金辺川が直角に曲がるところの近隣であり、現在も複数の川の分岐が見られるところである。

「河俣比賣」の名が示すところであろう。

師木の詳細は未だ紐解けてないが、おそらく師木の中でも縁に居た一族ではなかろうか。

阿久斗比賣」はその北側の「久」の字の岡に囲まれた「斗」を示していると紐解ける。左図を参照願う。

三男の師木津日子命の御子の活躍が記述される。孫が「伊賀須知之稻置、那婆理之稻置、三野之稻置」の祖となるのである。

 
伊賀須知・那婆理・三野*

いきなりの地名である。が、現在の三重県に絡むところであろう。ならば「伊勢国」近隣と連想する。「伊賀須知」は「小ぶりな入江がある州の地」と推定される。


伊(小ぶりな)|賀(入江)|須(州)|知(地)

選択の余地なく、現在の北九州市小倉南区守恒辺りと思われる。何故伊勢?…師木津日子命の娶り記述がない以上不明である。

「那婆理」は上記が解ければ現在の同区葉山町辺りと推定できる。山稜の端にあって伊賀に隣接する地であろう。


那(豊かな)|婆(端)|理(整えられた田)

後の倭建命関連で出現した「石代」(現同区石田)「漁田」(現同区蜷田若園)は近接の地であることがわかる。

地名ピースはピッタリ納まったが、これ以上出てくると大変?…であるが・・・。

「三野」は「隠蓑」であろう。現在地名は同区隠蓑。「尾張之三野」とも言われた。雨具「蓑」の地形象形ではなかろうか。師木津日子命の后の出自は、おそらく尾張国だったのであろう・・・。古事記の記述のみではこれ以上の追求は不可であろう。「三野」を除き登場もこの段のみである。

それにしても「国譲り」は徹底しているようである。しかも能くできている。白地図に地名をやたらと書き込んでいく作業であったのかもしれない。さて、もう一人の孫の話に移ろう・・・。

 
淡道之御井宮


和知都美命が坐したところ「淡道之御井宮」とは?…間違いなく淡海、現在の関門海峡であり、その道に面したところと思われる。下関市の彦島公園の西側、「由良能斗」と特定したところの北側土手は「向井」という地名である。現在の田ノ首八幡宮辺りが「淡道之御井宮」と言われたところと特定できる。

<和知都美命>
確かに状況証拠的には確度の高い比定であろうが、名前に刻まれて意味は何と紐解けるであろうか?…

和(丸い)|知(矢口の地形)|都(集まる)|美(谷間の大地)

…「丸い矢口(鏃)のような地と谷間の大地が寄り集まるところ」の命となる。

「知」=「矢+口」として鏃と解釈し、「美」=「羊+大」として羊の甲骨文字の象形から求めたものである。
<羊>


「美」=「谷間の大地」の地形象形に気付かなければ到底行き着くことのない解釈であろう。他意にも使用される「美」を使った見事な象形表現と思われる。初見に追記して置く。(2018.06.25)

神八井耳命が入り込んだ出雲国の対岸にあり、後に出雲にあった高い木の影が延びるところである。

周辺諸国の記述の少ない古事記の中で貴重な情報と思われる。古事記記述の初期に登場する出雲と淡嶋、これらの地が飛び離れたところにあるという理解を受け入れることは到底できない。
大斗の出雲国は国境警備に神経を使ったところであった。この御井宮は海からの監視に極めて有利な場所であったのであろう。

興味ある土地であるが、その後古事記に登場することは無いようである。先代と同じくこの天皇も若くして亡くなってしまう。「御陵在畝火山之美富登」と記述される。度々登場の「富登」畝火の近く…現在の地名に「殿町」というのが見つかる。

福岡県田川郡香春町殿町、香春一ノ岳の北東麓にあり、九折の道を辿れば一ノ岳に届く道(現在は立入禁止?)がある。高座石寺がある近隣を示すのではなかろうか。

<畝火山之美富登>
「殿」⇒「臀」⇒「尻」なんていう置換えも考えられないこともないが、地形象形からの「美富登」であろう。

単刀直入の表現、正に古事記の魅力であろう。単刀直入に解釈することこそが要である。


美富登=美(谷間の大地)|富(山麓の坂)|登(登る)

…「谷間の大地である麓の坂を登ったところ」と紐解ける。「美」は上記と同じ解釈である。甲骨文字も丈夫の三角の山形二つが香春一ノ岳と二ノ岳を表しているのである。

そろそろ動きが出ても良い時期になるのでは?…宮が動く筈である。

師木に近付くのか、それとも更に開拓を拡張するのか、次回はそんな背景を踏まえて紐解いてみよう。

…と、まぁ、短い原文ながらしっかりと伝えているようである・・・。