2017年12月30日土曜日

聖徳太子:上宮之厩戸豐聰耳命 〔146〕

聖徳太子:上宮之厩戸豐聰耳命


年の瀬も押し迫り、今年最後のアップかな?…と思いつつ、首記のテーマを選択。いくつか端折ったものは年越しとすることにした。何せ歴史上の超有名人なので今更云々かんぬんと述べても、と思うのだが、やはり最後の「耳」が引っ掛かる。

古事記原文…、

弟、橘豐日命、坐池邊宮、治天下參。此天皇、娶稻目宿禰大臣之女・意富藝多志比賣、生御子、多米王。一柱。又娶庶妹間人穴太部王、生御子、上宮之厩戸豐聰耳命、次久米王、次植栗王、次茨田王。四柱。又娶當麻之倉首比呂之女・飯女之子、生御子、當麻王、次妹須加志呂古郎女。此天皇、丁未年四月十五日崩。御陵在石寸掖上、後遷科長中陵也。

橘豐日命、用明天皇の后と御子等の簡略な記述に登場するのが「上宮之厩戸豐聰耳命」後に「聖徳太子」と呼ばれた太子である。他の兄弟の簡単な命名と比べて圧倒的に長たらしい、こんな時は何かを伝えようとしていることは間違いない。がしかし、不詳。

既に「耳(美美)」が付く人名、地名を纏めて記述したが、些かこの太子の素性が不明で、持ち越しとした経緯がある。原報を参照願いたいが…

正勝吾勝勝建日天忍穂耳命、②須賀之八耳命、③神八井耳命、④神沼河耳命、⑤若狭之耳別、⑥陶津耳命、⑦玖賀耳之御笠、⑧御鉏友耳建日子、⑨毛受之耳原、⑩多藝志美美命、⑪岐須美美命

…これらに含まれる全ての「耳(美美)」は、耳の形した山稜の「突き出た部分」又は「縁(ヘリ)」という地形象形であった。考えてみれば山裾の小高いところに坐するのは至極当然のことであったろう、墓所も含めて。この表記は場所を示すのに極めて有用な方法と気付かされる。

従来は無視をするか、尊称と解釈するか、将又耳一族としてしまうようである。「耳(美美)」が示す情報を惜しげもなく葬ってしまっていたのである。その中で「上宮之厩戸豐聰耳命」は少し違った状況となる。何故なら、この方は十人の声を一度に聞き分け、それに応えることができたという、ほぼ神様に値する人と言われて来たからである。

即ち「耳」の解釈を行っているのである。だが、上記十一人の命もそんな「耳」を持っていたわけではなかろう。更に「聰」の原義は「耳がよく聞こえる」とある。派生して「聡明な」などの解釈に繋がる。改めて見てみると「聰耳」は一見分ったような表現ではあるが、耳、耳と重なる奇妙な文字列である。「聰」の意味を見直すと共に一から紐解いてみよう。

「上宮」は何処を示すのであろうか?…古事記の中で「上」が使われるのは決して多くは無い。それは「神」を表現する場合に用いるために混乱を避けているようである。そう考えると、この「上」は「石上」を表し「宮」は「穴穂宮」を示していると紐解ける。安康天皇が坐した「石上之穴穗宮」である。

母親「間人穴太部王」の出自は、蘇賀石河宿禰を遠祖に持つ「宗賀」(通説は蘇我)一族である。「隙間に住まう穴掘り部隊」と紐解いて上記の石上之穴穂宮辺りと紐解ける。現在、多くの鍾乳洞が集まっているところ、地名は福岡県田川市夏吉岩屋と比定できる。母親の居場所に関連することを示す。
 
<上宮之厩戸豐聰耳命>
厩」=「厂+既(既)」と分解される。「厂」=「崖」を象った文字である。更に「既」=「旡+皀」と分解される。

旡」=「詰まる、尽きる」の意味を示す。「皀」=「器に盛った食べ物」を象った文字と言われ、「既(既)」=「食べ物が尽きた」情景を表している。

すると地形象形的には「厩」=「高く盛り上がった山からの崖が尽きるところ」と読み解ける。

通常の意味は「馬小屋」であるが、厂」=「屋根の下()で食べ物が一杯詰まった()様」と解説される。

全く掛離れた解釈となるが…、
 
厩=厂(崖)+既(尽きる)

…とできる。頻出の「戸」=「谷間の入口」、「豐」=「段差のある高台」と解釈する。
 
聰=総(集まる)

…に通じるとある。「耳がよく聞こえる」とは神経を集中することに通じることから派生した意味である。全体を纏めて「厩戸豐聰耳」は…、
 

崖が尽きるところの谷間の入口に段差のある高台が集まって耳の地形となったところ

…と紐解ける。既に記述した「耳一族」と言うわけではないが、天之忍穂耳命から始まる「耳」が付いた名前に共通する解釈が適用できる(毛受之耳原)。さて、そんな場所が見つかるのか?…現在の田川市夏吉、ロマンスヶ丘の麓にある。仁賢天皇の石上広高宮があった麓に「耳」の形をした縁がある。

ここまで解釈してくると、「上宮」は石上穴穂宮よりむしろ「石上広高宮」を示しているようにも受け取れる。当にこの広高宮の崖下に位置するところである。穴穂宮の上にある宮として「広高宮」を表現していたとも読取れる。辻褄があった話ではあるが、事の真相は定かではないようである。下図を参照願う。

<間人穴太部王と御子>
上図には彼の兄弟、「久米王・植栗王・茨田王」の居場所も併せて示した。全員石上之穴穂宮の近隣に住まっていたことが判る。それぞれの解釈は以下の通り。

「久米」=「黒米」と垂仁天皇紀で解釈した。田川郡福智町伊方に「大黒」という地名が残る。黒米との関連を思い付かせるようであるが、やはり「久米」は幾度となく登場の川の合流点の地形象形であろう。図に示したところは大きな津を作っている。
 
久米=くの字に曲がる川の合流点

…と解釈される。黒米と繋がって来るのは耕作に都合の良い場所であり、耕地が大きく広がっていたところなのであろう。現地名では田川市夏吉との境にある。

「植栗王」の「植」=「木+直」と分解される。「木を真っすぐに立てる」意味を表す文字と解説される。即ち「植」=「山稜が真っ直ぐに延びたところ」と紐解ける。「栗」=「毬栗のような形」とすれば、穴穂宮の南側に見出せる。


植栗=山稜が真っ直ぐに延びた毬栗のようなところ


「茨田王」の「茨田」は既に紐解いたように谷間の「棚田」の地を表す。長く延びた高台の斜面に作られた田、現在に残るところであろう。正に「茨田堤」の様相と思われる。現在、この高台の東端で田川郡福智町と田川市の境となっている。即ち古代の「葛城」と「石上」との境であったことが伺える。幾度か登場する行政区分に残る古代ではなかろうか。

厩戸豐聰耳命が歴史上如何なる事績を残したかを古事記は語らない。が、何かを伝えたいから、そして決して単刀直入には記述できないから、凄まじく凝った名前を付けたものと推察される。素性を曖昧にするのは彼の母親から始まっている。突止めるのもかなりの時間が掛ったが、事情を忖度するのみである。(2020.03.04改)


本年二月半ばより始めたブログ。何とか古事記本文を読み終えました。「古事記新釈」も一応の形を整えられたかと、まだまだ見直しするべきところが多いとは思われますが…。

何処から書き始めるかなど、少々逡巡しながら始めたことを思い出します。結果は予想もしなかったところに落着く気配、ただただ「太安万侶」の記述の精緻さ、論理的な表現に驚かされた一年と言えそうです。

途中で現在の通説という、歴史学者が作ったものでしょうが、その杜撰さに憤ったりもしましたが、現在は極めて寛容な気分であります。「過去を未来に取り戻す」こう考えるようになったことが大きな支えになったのでしょうか。

書き残したところが多くあります。それを補いながら来年も引続き、です。そんなブログにお付き合い頂ければと思います。では、良いお年を!


…全体を通しては「古事記新釈」用明天皇・崇峻天皇・推古天皇の項を参照願う。

2017年12月28日木曜日

坂田大俣王 〔145〕

坂田大俣王



応神天皇五世の「袁本杼命」後の継体天皇が即位して一気に御子が誕生する。その中の比賣の親の名前が「坂田大俣王」と記述される。こんな一般的な名称をいきなりぶつけて来る時は、ちょっと考えれば判るでしょ、何て言う書き方なのである。がしかし、そうは簡単には関連付けるわけにはいかない。

と言っても先には進まないので当りを付けて紐解き始める。勿論これも立派な読み方であろうが・・・。一応、古事記原文は

・・・又娶坂田大俣王之女・黑比賣、生御子、神前郎女、次田郎女、次白坂活日子郎女、次野郎女・亦名長目比賣。四柱・・・。

である。四人の比賣が誕生したと伝えている。

「坂田」は初出である。手掛かりは「大俣王」と思われる。開化天皇の御子、日子坐王が山代之苅幡戸辨(苅羽田刀辨)を娶って誕生したのが大俣王であった。これが引き継がれているとすると苅羽田の近隣を「坂田」と称していたのではなかろうか。

前記(幼い皇子の逃避行-ver.2)で「苅羽田」「苅羽井」の場所を見直した。羽の形状をした地から刈取って「田」「井」にしたという解釈である。「苅羽井」の場所が違ってくるとメインルートが異なって来る。どうしても現在のルートは犀川(今川)沿いとなるが、やはりそこは「淵」であって当時の主要な通路ではなかったことが判る。

この時に犀川大坂から松坂、更に犀川谷口と向かう通路が表通りと気付かされた。それを今回一歩進めて詳細に見てみようかと思う。御所ヶ岳山塊から犀川(今川)に流れ出る松坂川沿いの地は急勾配の「坂」であることは間違いないが、そこに「坂田」はない。辛うじて「松坂」(茨田の坂が由来であろうか)に坂が含まれているのみである。

幾度か遭遇したようにこんな時は御子の名前が頼りになるのである。「神前郎女、次田郎女、次白坂活日子郎女、次野郎女・亦名長目比賣」と記される。現在の地図に残る地名「城坂」「神田」が見つかる。神と白()が重なっていることが判った。「目」は「長い田」を、また「田」は「苅羽田」を示すと思われる。


急斜面の山代の苅羽田で住まうことができるように開拓が進捗してきたものと思われる。大河の中流域の沖積と治水が比賣を受け入れるだけの財力を生み出しつつあったと思われる。時が流れ、確実に倭国は変化して来ていることを告げているようである。

…全体を通しては「古事記新釈」継体天皇・安閑天皇の項を参照願う。


2017年12月26日火曜日

継体天皇:三尾の比賣 〔144〕

継体天皇:三尾の比賣


皇位断絶の危機を救済するために急遽近淡海国から迎えられたのが応神天皇五世の袁本杼命と記載される。名前から応神天皇の御子、若野(沼)毛二俣王が百師木伊呂辨を娶って誕生した大郎子、別名意富富杼王に繋がる出自と思われる。宮内庁の史料によると「稚野毛二派皇子→意富富杼王→乎非王→彦主人王→袁本杼命」とのことである。

日本書紀にはもう少し詳しく記述され、近江国高嶋郷三尾野で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向で育てられて、男大迹王として五世紀末の越前地方を統治していた、と言われる。いずれにせよ不明なところが多く積み残されているようである。古事記はいつも以上に多くを語らないが、もう少し掘り下げてみよう。

古事記原文…

品太王五世孫・袁本杼命、坐伊波禮之玉穗宮、治天下也。天皇、娶三尾君等祖・名若比賣、生御子、大郎子、次出雲郎女。二柱。・・・<中略>・・・又娶三尾君加多夫之妹・倭比賣、生御子、大郎女、次丸高王、次耳上王、次赤比賣郎女。四柱。


「三尾」からの娶りが二件、この天皇になって出現することからも深い繋がりがあったと伺える。上記、古事記に「近江」という地名はないが「三尾野」に含まれる「三尾」は重なる。天皇の母親が住まっていた地を示しているかと思われる。

「三尾」の初出は、垂仁天皇が山代大国之淵之女・弟苅羽田刀辨を娶って産まれた「石衝別王」が祖となった、という記述である。初見では現在の福岡県京都郡みやこ町吉岡・築上郡築上町船迫に跨るところと比定した。既述を引用すると…




石衝別王は「羽咋」及び「三尾」君の祖となったと記述されている。

全くの情報なく、象形であること、二つはかなり近いところ、そして山代国から遠くないところと考えて探索する。

「三尾」は三つに分かれた山稜の麓であろうし、「羽咋」は喰われた羽の形状・・・(右図参照)。



…であった。その後の考察で築上町の「船迫」は「多遲摩之俣尾」とされていることが判った(下図三尾の東隣)。何とこの山稜の端を3:2に分けていて、現在も京都郡と築上郡の郡境なのである。丸邇と春日の端境に類似して現在に残る古事記の記述であろう。



このことから「三尾」は厳密に三つの尾の麓にあったと思われ、現在の光冨(ミツドミ)と吉岡辺りと修正される。「三尾(ミツオ)」=「光冨(ミツオ)」と読めるかもしれないが、委細は不詳である。古事記の国の分類からすると旦波国に属すると思われる。祓川の川上、中流域に当たるところであろう。旦波の美知能宇志王が娶った丹波之河上之摩須郎女が居たところ(現地名京都郡みやこ町木井馬場と推定)より下流にある。

大河祓川の中流域が開けて来たことを示しているのであろう。早期に開けた上流域がその広がりが地形的に困難となってきたこと、それに並行して中流域の広い耕地開発が進んで来たと推測できる。祖となって侵出した後に開拓の努力が実って来たと容易に理解可能である。更に中流域の開拓はより一層多くの財力をもたらしたであろう。それは新しい豪族の出現を促す状況を産んだとも考えられる。

また中流域はそれなりの大土木事業を必要とする。国家的規模の開発投資を行わなければ困難であり、各地の豪族だけでは不可能な事業であったろう。それを企画し実行する戦略がなかったと推察される。古事記が記述する国家体制では中流域以降の事業は極めて可能性の低いものだったと判る。仁徳天皇が行った難波津の開発はその中で特筆すべきものであったと読み取れる。


誕生した御子は「大郎子、次出雲郎女」と記述される。継体天皇の出自に関連すると思えるが、大物主大神と関係があった山代大国と三尾との関連に由来するのかもしれない。開拓されたばかりで三尾の地で御子達を養うことができず出雲に頼ったのではなかろうか。久々の出雲復活の記述である。

古事記には通説のような「越前(高志国)」との関連を示唆するような記述は見られないようである。確かに越前(古事記は「財」と表現)は大きく繁栄しつつある状況は、続く天皇の娶り及び御子の名前に表現されている。

既述された美和の大物主大神の末裔である「河內之美努村の意富多多泥古」また「近淡海之安国の祖である意富多牟和氣」が示すように、出雲の進んだ技術で近淡海国の開拓が行われていた。多くの人が出雲から近淡海国に移ったのであろう。

袁本杼命(継体天皇)の場合も近淡海国に居たのは上記のような時流に乗った出来事ではなかろうか。意富富杼王を遠祖に持ち、山代大国を出自に持つ王が切り開いた地、出雲出身者が集まる国、久々に歴史の表舞台に登場した出雲である。残念ながら古事記の語りは極めて少なく、憶測の域に入ることになる。

…全体を通しては「古事記新釈」の継体天皇・安閑天皇の項を参照願う。

2017年12月25日月曜日

安閑天皇:伊波礼に坐した最後の天皇 〔143〕

安閑天皇:伊波礼に坐した最後の天皇


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
神武天皇、神倭伊波禮毘古命によって切り開かれた「伊波禮」の地に後代の天皇達が坐していく。そこは倭国の中心、畝火山(現香春岳)の麓そしてその山の神を祭祀する場所として「伊波禮」の地としたと紐解いた。再掲すると…


伊波禮=伊(神の)|波(端:ハタ)|禮(高台)

伊邪本和氣命(履中天皇)の「伊波禮之若櫻宮」、白髮大倭根子命(清寧天皇)の「伊波禮之甕栗宮」及び袁本杼命(継体天皇)の「伊波禮之玉穗宮」である。



福岡県田川郡を流れる金辺川、御禊川、呉川に囲まれた場所である。沖積の進行、治水の整備等徐々に豊かな地になりつつあったところと推察される。

上図を見ると「甕」のもう一方の端が空いている。古事記の「完璧」さを思うと欠けたままにする筈がない、いずれご登場なさるのでは?…心配するには及ばず、であった。


勾之金箸宮

御子、廣國押建金日命、坐勾之金箸宮、治天下也。此天皇、無御子也。乙卯年三月十三日崩。御陵在河之古市高屋村也。

近淡海国から招聘した継体天皇の尾張連等之祖凡連之妹・目子郎女を娶って誕生したのが廣國押建金日命、後の安閑天皇である。「勾之金箸宮」に坐したが后も御子もなく僅か数年で逝去される。当然記述も一行余りで終わる。が、関連するところは決して少なくないのである。母親の出自から述べてみよう。

・尾張連等之祖凡連

尾張連は既出で尾張国に関連するのであるが「凡連」の文字は初出である。「凡」は天照大神と須佐之男命の誓約で誕生した天津日子根命「凡川内国造」の祖となったという記述に使われている。川内の中で種々の国に分かれている、未だ川内国そのものの領域が確定していない為に全体を表す意味で使われたのであろう。

とすれば「凡連」も尾張国の種々の「連」を取り纏めて表現したものではなかろうか。時代の変化と密接に関連する言葉使いと思われるが、少々古事記解釈から逸脱しそうなので、これ以上は足を踏み入れないことにする。ネット検索すると「凡」の意味について考察された例が見出される。調べてみたい項目ではあるが・・・尾張連を統括する立場ぐらいに理解しておこう。

・目子郎女

上記の比賣で「目子郎女」=「メコイラツメ」と訓読されるようである。それ以上は紐解けない状況である。


目子=マナコ

と読み下す。「目」は全体を示し、「子」はその中にある黒目の部分を示すのが本来の言葉使いであったと言われる。その地形象形と思われる。さて、尾張国にそんな地形が残っているのか?…これが見事に現存しているのである。



尾張国の中心地、その近隣である。国土地理院の色別標高図が無ければ到底見出すことは不可能な地形である。その北側は広大な団地となっている。山が削られては地形は残らない。背筋に寒さを感じる思いである。黒目の東麓に「目子郎女」が居たと推測される。

余談だが、倭建命が立寄った尾張国造の比賣「美夜受比賣之家」もこの近隣だったであろうか・・・。いずれにしても尾張は早期より天皇家と深い関わりをもった地域であったと思われる。

さて、「勾之金箸宮」は「甕」の空席の端を埋める場所であろうか?…「勾」は「甕」の形を表現している。また現存する地名からも間違いなく「甕」の場所を示している。「金箸」を如何に紐解くか、である。更に…、


箸=端

…とすると甕のもう一方の端を示している。

「金」は何と解釈できるのであろうか?…更に分解して「金」=「八+王(概略で表示)」と…、


金=八(八の形で覆う)+王(神を祭祀するための柱)

…となる。ここは伊波禮の地、八の字をした神を祭祀するところとなる。これを組合せて地形象形したと読み解ける。漢字の原点、見たまんまの表現である。再度地図を掲示すると…


ここまで来ると、やはり見事としか言い表しようがない有様である。現地名「勾金」の地にあった倭国の中心「伊波禮」、その全容を抽出することができたと思われる。本ブログで古事記の紐解きを初めてほぼ一年が経つ。漸くにして解明できた、と感慨深いものがある。


河內之古市高屋村

御陵は「河之古市高屋村」と記される。「古市」=「古くからの交通の要所」と紐解いて、河内にある現在の行橋市長尾、椿市と呼ばれる近隣ではなかろうか。南には小高い山があり「高屋」を示すものと思われる。尚、この地のほぼ真東に「毛受」がある。




娶りの説明がないのは后がなく、御子も無く、逝去されたとのことである。早々に兄弟が後を引き継ぐことになる。しかしながら、まだまだ皇位断絶の危機の影が残っていたようである。古事記最終章に向けて紐解きは断絶することなく・・・。

…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。


2017年12月24日日曜日

丸邇と春日 〔142〕

丸邇と春日 


反正天皇が丸邇之許碁登臣之女・都怒郎女を娶ったという記述以来丸邇と春日の端境域の話題が語られようになる。散在する地名を纏めてみると丸邇と春日の関係が少しは見えてくるように思われる。現在の行政区分を重ねると極めて興味深く感じられる。古代の息吹が甦る場所ではなかろうか。

関連する地名は…


春日之日爪

…である。

最後の「春日之日爪」については欽明天皇が「春日之日爪臣之女・糠子郎女、生御子、春日山田郎女、次麻呂古王、次宗賀之倉王。三柱」と記述された中に登場する。仁賢天皇紀の「丸邇日爪臣之女・糠若子郎女、生御子、春日山田郎女」と類似したものである。

丸邇日爪、春日山田は以下のように紐解いた…、


日爪=日(春日)|爪(山稜の先端)

…とすると、現在の田川郡赤村小柳辺りを示しているようである。「丸邇日爪」は既に登場した「木幡村」があった場所、時を経て繁栄したのであろう。「春日山田」はかつては壹比韋と呼ばれたところ、現在の赤村内田山の内、に重なるところである。この地もまた時を経て「辰砂」の発掘ばかりではなく人が住まう地に変化したのであろう。

こうように見て来ると「日爪」という場所に対して、その所属が「丸邇」と「春日」の違いだということになろう。端境の地名を纏めて地図に示した。



丸邇の許碁登、佐都紀及び日爪と端境を拡げた丸邇と旧来の春日勢力の鬩ぎ合いと判断して良いであろう。邇藝速日命が開いた地に居て同族であっても世代が進むに伴って生じたものと推察される。それにしても大坂山南麓の厳しい自然環境、耕作地の面積は絶対的に少なく、それを切り開いて財を成して来た一族である。決して途切れることなく姻戚関係を保持する努力も評価される。

日爪の地が時には丸邇、春日と入替るのもそんな両者の葛藤の現れであろう。上図に現在の香春町と赤村の境界線(赤色二点鎖線)を示した。古代の境界を引継いでいると思うと、1,300年以上もの間それが存続してきたことに感慨深いものがある。人と自然環境、地形との関わり合いは後者が破壊されない限り不変的に存在するもののように思われる。

漢字という記録する手段を有した民族がこの倭国に来て、その地を記録した。漢文と倭文を交えて伝えようとした。その精緻さに驚愕するのである。何度も言う、古事記を神話・伝説の物語にしてしまった歴史学者の罪は拭い切れにないくらいに重いのである。

古事記終章の記述は大河の中流域の開拓、それを成遂げた新しい豪族の出現を示すようになる。後日に述べる予定であるが、それは大きな改革を要する、即ち危機的状況をも生み出すことになる。丸邇と春日の鬩ぎ合い、それは狭い土地の中で既に端境に近付いたことを暗示するものであろう。邇藝速日命の地は倭国全体に起る状況を示しているのである。

…全体を通しては「古事記新釈」参照願う。




2017年12月20日水曜日

雄略天皇:河内之多治比高鸇陵 〔141〕

雄略天皇:河内之多治比高鸇陵


記述漏れの追記となってしまったが、解釈に一工夫を要したこともあって別稿で記述してみようかと…多用される「多治比」倭国の中の各地が治水されていく様子を表わす言葉として欠かせないものであったのだろう。それに纏わることも含めて述べる。

古事記原文…

天皇御年、壹佰貳拾肆己巳年八月九日崩也。御陵在河之多治比高鸇也。

「多治比」に「河内」が被さる。元々河内のあるのだから、何故被せた?…ちょっと丁寧に書いただけ、そんな解釈であろう。履中天皇が寝惚け眼を擦りながら「何処だ、ここは。何だ多遲比怒かぁ」と発したところと同じであろうか?…異なるから被せた、と読む方が適切ではなかろうか。

「多治比」は固有の名前ではない。文字解釈を怠り、固有の地名とすると古事記中にその文字が登場する度にその地が登場することになる。前後の脈略は無視か何かの間違い、と片付けられる。労を問わずに古事記が示すところを紐解くことが肝要と思われる。因みに通説は「多治比」は大阪府羽曳野市とあったと言われている。

「多治比」=「田が治水されて並ぶ」という固有の名前ではないとすると雄略天皇の墓所を特定できるのであろうか?…迷うことなく「高鸇」に全てが潜められている、とは言え鳥の名前ではないか、と行き止まる雰囲気になってしまう。ここからが考えどころと言える。

実年齢六十過ぎと考えておこう。倭国立国宣言をした天皇として大往生であったろう。陵墓の場所も生前の事績に絡むところと推察される。鸇」は鷹、サシバなどの鳥の名前とある。倭建命の白鳥陵など、亡くなってその御霊が天空に舞う姿を映していることが思い起こされる。そう考えてくると墓所の在処は何処に潜められているのか?…、


鸇=亶+鳥


に分解できることが判る。辞書を開くと…、


亶=物が多く集積され分厚くなる様

…と解説されている。文字の印象からも積み重なった様子と見られる。これを適用してみると…


河内之|多治比|高鸇=河内の|治水された(田)|積み重なる

…と紐解ける。河内にある「高い山稜が作る谷間の棚田」に近接する場所となる。現在の地形からではあるが、行橋市にある長峡川と小波瀬川に挟まれたところとした河内の中では一ヶ所、それを示すところが見つかる。行橋市入覚の西側、塔ヶ峰南麓の谷間が合致することが判る。鳥は雄略天皇の御魂として飛んで行ったのであろうか・・・。



詳細な場所の特定は難しいが、小高いところに鎮座する五社八幡宮辺りではなかろうか。雄略天皇が長谷朝倉宮から吉野に通った道筋に当たる。古代の倭国東北部の主要交通路であったと思われる。



多くの説話を残した天皇が大国となった倭国に君臨し、大倭豊秋津嶋を初めとする大小の島の隅々までを統治できるようになったと告げた。その過程を古事記は神話・伝説の物語をも含めて実に合理的に記述して来た。驚嘆すべき、そして誇るべき史書に値すると思われる。

…全体を通しては「古事記新釈」の雄略天皇の項を参照願う。


2017年12月19日火曜日

顯宗天皇:袁祁之石巢別命 〔140〕

顯宗天皇:袁祁之石巢別命


ちょっと遡って市邊忍齒王の二人の御子、先に即位した弟の袁祁命について述べてみよう。それなりに重要なことであった。古事記原文…

伊弉本別王御子、市邊忍齒王御子・袁祁之石巢別命、坐近飛鳥宮治天下、捌也。天皇、娶石木王之女・難波王、无子也。

僅か八年の即位期間であったと告げている。いつもこの期間を書いてくれると助かるのだが…干支を入れているから計算しろ、ということなのであろうか・・・。ところでよく見ると袁祁命に「石巣別」の付帯事項が記載されている。

既に「石巣」は福岡県田川郡添田町の岩石山辺りとしたが、それは「石=岩」に着目しただけであった。山を「別」としたわけではないであろうし、収穫のある、またはこれからそうなると思われる土地でなければ意味がないであろう。「石巣」をきちんと紐解くことなのである。

石巢・石木

分け与えられた「石巣」は何処であろうか?…着目した岩石山の周辺に目を遣ると彦山川ではなく複数の川が蛇行していると判る。それにしてもこの山は花崗岩の塊のような山で、戦国時代は戦略拠点として多くの大名が関わり、山頂付近にあった岩石城は豊前一の堅城として有名な場所であったと伝えられる。

この山の西麓を彦山川が流れるのであるが、固い岩に挟まれて大きく蛇行しながら北に流れている。また幾つかの川が合流する地点でもあるが、不動川と呼ばれる川と大きな「州」を形成していることも判る。現在の田川郡添田町添田辺りである。

ということは…、


石巣=石(岩)|巣(州)

…「岩でできた州」と解釈できる。前記で紐解いた「三野国之本巣」と同じ表現と思われる。



袁祁命はこの州の別となった、即ち直轄の領地を保有したのである。父親が雄略天皇に亡き者にされたのだから地領は何もなかったのであろう。しかし、現在は広大な耕地となっているように見受けられるが、当時はまだまだ岩だらけで、沖積の進行に伴って次第に耕地としての広がりを示し始めていたのであろう。配下の者が移り住み開拓していったと推測される。

「石木」はその中心地、添田町庄岩瀬近隣、貴布禰神社辺りではなかろうか。比賣の名前が「難波王」とある。蛇行する、またほぼ直角に曲がる川が「難波」を作っていたと推測される。古事記は…


難波=難(安楽には進めない)|波(水面の起伏運動)

として記述していることが明らかである。氾濫を繰り返し、蛇行する川の流れと切り離して解釈することは到底不可能と思われる。


飛鳥河

また、針間逃亡の際に食料を奪われた「猪甘老人」を見つけ出して「飛鳥河之河原」で成敗をする。古事記原文…

初天皇、逢難逃時、求奪其御粮猪甘老人。是得求、喚上而、斬於飛鳥河之河原、皆斷其族之膝筋。是以、至今其子孫、上於倭之日、必自跛也。故能見志米岐其老所在志米岐、故其地謂志米須也。

「飛鳥河」とは光栄な命名であるが、「近飛鳥」の近く、現在の同県京都郡みやこ町犀川大坂を流れる「大坂川」と既に紐解いた。犀川(現今川)に合流するが、その間の何処かの河原を「志米須」と命名したそうだが、今一歩見極め辛いところであった…


志米須=志(蛇行する川)|米(多くの支流が集まる)|須(州)

と解釈すると、大坂山の山稜から多くの小川が集まっている様子を表現しているのであろう。下図を参照願う。


かつて登場した「當岐麻道」の近隣である。道の分岐が判り辛いところ、また川が寄集っているところの表現は重なっているように思われる。古代の大坂山口は幾重にも重なる岐路があった交通の要を形成していたと推測される。現在とは相違する華やかな地域であったのであろう。

歴代の天皇はその宮の場所を倭国繁栄の目的に合せ選択してきたように思われる。またそのように紐解いて来た。この近飛鳥宮の「意図」はなかなか読み辛い。逃亡中に通過した地であり、ひどい目に遭った場所でもある。山代国に隣接し、交通の要所ではあるが、拠点とするには倭国中心からは離れているところでもある。

倭国の北方は叔母の飯豐王が葛城忍海之高木角刺宮に居て睨みを利かしてくれているから、南方に…でもないであろうし、安萬侶くんが無口な故にあらぬ方向に思いが飛んでしまうのである。とにかく、そう伝えられている以上それを信じて先に進もう。


…全体を通しては「古事記新釈」の清寧天皇・顕宗天皇の項を参照願う。

2017年12月18日月曜日

仁賢天皇:倭国の向かうところは? 〔139〕

仁賢天皇:倭国の向かうところは? 


前記に続き針間国に潜伏していた逃亡者、意祁王と袁祁王の物語である。運よく見つけ出されて先ずは弟の袁祁王が皇位に就き、短命であったことから兄の意祁王が引継いだと古事記は伝える。意祁王、後の仁賢天皇に関する記述である。

通説はと言うと、終わりに近付いて古事記記述の分量が少なくなり、また一部欠落していると思われるような記述もあり、解釈はかなり大まかになっているようである。日本書紀の記述に依存した歴史解釈が益々表に出て来る時代となる。

がしかし、時代が動く、動くところに何かを示す兆しがあると信じて読み解いてみよう。ここまで関わった以上引き返すわけにはいかない…なんて気張ってはみるものの・・・。

古事記原文…

袁祁王兄・意祁命、坐石上廣高宮、治天下也。天皇、娶大長谷若建天皇之御子・春日大郎女、生御子、高木郎女、次財郎女、次久須毘郎女、次手白髮郎女、次小長谷若雀命、次眞若王。又娶丸邇日爪臣之女・糠若子郎女、生御子、春日山田郎女。此天皇之御子、幷七柱。此之中、小長谷若雀命者、治天下也。

意祁命が坐した石上廣高宮は既に紐解いて現在の福岡県田川市夏吉にある山麓から少し上がった場所、ロマンスヶ丘と呼ばれているところと推定した。安康天皇の石上穴穂宮に近い。袁祁王が山代の近飛鳥からは父親の市邊、幼い頃に過した場所である葛城の近隣に戻ったのであろう。


弟は積年の恨みを晴らすことに注力して夢途中で亡くなったその後を引き継いだ兄は弟の果たせなかったことを、と思ってみてもやはり時間はそう多くはなかったのであろう。


雄略天皇の御子:春日大郎女

娶ったのが大長谷若建天皇之御子・春日大郎女と記述されるが、出自が不詳なのである。古事記には珍しく布石されていない。記述漏れか?…とは思うが、雄略天皇紀で丸邇に関連する記述は「丸邇之佐都紀臣之女・袁杼比賣」を娶ろうと出向いたが逃げられたという説話が残っている。

ただそれだけの話であって、「佐都紀」の場所を示すだけか、とも勘ぐってしまうような内容であるが「金鉏岡」の歌まで送っているのだからそこで記述されただけの事件ではなかったようにも受け取れる。憶測の範囲となるが、この説話が春日大郎女の出自に関連するのではなかろうか。

日本書紀などの記述で補うこともできるであろうが、今は控えておこう。「丸邇之佐都紀」は春日との端境と推定したことから生まれた比賣が「春日大郎女」と命名されても不思議はないであろう。目下のところは袁杼比賣が生んだ比賣と見做しておく。

誕生した御子が「高木郎女、次財郎女、次久須毘郎女、次手白髮郎女、次小長谷若雀命、次眞若王」と記載される。何の修飾も無く述べられる「高木」は伊豫之二名嶋の「粟国」であろう。現在の北九州市若松区である。また「財」は「江野財=角鹿」で北九州市門司区喜多久と思われる。

倭国中心地域には誕生した多くの比賣達に分け与ええるところが急速に減少してきたことを示すものではなかろうか。比古は豪族の比賣の元に預ければ済むし、何せ皇位継承の問題から彼らは何とか確保したい、一方の比賣達の処遇に頭を痛めたことは容易に推測される。

母親を春日大郎女として、山間の春日に土地を分ける余裕はなかったであろうし、また早期に開発された地でもあり、既に多くの人が棲みついている。天皇の方もそもそも分け与える土地を持ち合わせていない。必然的に各地に散らばることになったと推測される。

後にも述べるが、「高木」も「財」も「耕作地」ではなく特有の産物(魚類、布織物)があり、変わらず豊かさを保っていた地域と思われる。比賣の受入れが可能であったと推察される。このような地域の開拓に向かうか否かに天皇家の命運が掛かっていたのではなかろうか。
 
「手白髮郎女、小長谷若雀命、眞若王」は特に地名関連ではなく名付けられたものと思われる。小長谷若雀命は雄略天皇の大長谷若建命から引継いだ命名のように見える。残る「久須毘郎女」は何処を意味しているのであろうか?…


久須毘

「久須」は意祁命と袁祁命が針間国に逃げた時に通った「玖須婆河」に含まれると解釈する。「毘」の意味は「臍」を選択すると…


久須毘=久須(霊妙なところ)|毘(臍:凹部)

…「英彦山山稜の凹んだところ」と紐解ける。京都郡犀川内垣辺りと推定される。上記したように誕生した比賣達は倭国の広い範囲に散らばった。勿論それが可能だったのは天皇家だったからであろうが、「久須毘」は川の中流域で漸くにして田地が開拓されて来たところであったろう。



大河中流域の沖積の進行で州の形成が進み、更に治水の技術で水田が開拓されて行った様子が伺える。そこに人が集まり、豪族らしき者も出現することになる。その歴史を物語る古事記であろう。前記の「志毘」に類似するが、そこまでの発展は無かったのであろうか。現在の地図に見える河口域での大面積の耕地が発生する以前の出来事を主とする古事記である。


丸邇日爪と春日山田

次いで丸邇日爪臣之女・糠若子郎女を娶って春日山田郎女が誕生したと伝える。丸邇系の娶りが急増した模様である。従来より解説される葛城・丸邇の確執のようでもあるが、古事記の記述からでは詳らかではない。「丸邇日爪」は何処であろうか?…


日爪=日(春日)|爪(山稜の先端)

…とすると、現在の田川郡赤村小柳辺りを示しているようである。「丸邇日爪」は既に登場した「木幡村」があった場所、時を経て繁栄したのであろう。「春日山田」はかつては壹比韋と呼ばれたところ、現在の赤村内田山の内、に重なるところである。この地もまた時を経て「辰砂」の発掘ばかりではなく人が住まう地に変化したのであろう。



古事記の古代に登場した地名、全てではなかろうが、そこが発展してきたことを示している。人々が集まり独自に繁栄する。天皇家は決して強圧的に支配して来てはいないのである。「言向和」の精神を頑ななままに守って来たと伝えている。

しかし、それは多くの課題も生み出してきたようである。絶対的な耕地の不足、台頭する豪族の処置、挙句には皇位継承等々の重大な局面に遭遇することになった。皇位継承は何とか過去を紐解けば関係する王子を引出してくることはできる。しかし国の発展を目指して来た彼らが抱える物理的条件は何ら解決策を見出せないでいたのであろう。

丸邇の春日への侵出もその端境で逡巡するところである。大国となった倭国の侵出も同じく端境に来ていると言えよう。仁賢天皇紀から始まるこの閉塞感が大きく表れて来るのであろう。そして古事記の終焉を迎えることになる。暫くはそれとのお付き合いである。



2017年12月17日日曜日

平群の志毘と菟田の首等 〔138〕

平群の志毘と菟田の首等


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
怒り狂った大長谷若建命(後の雄略天皇)が惨殺した市邊之忍齒王の二人の御子、意祁命と袁祁命が針間国へ逃げてその国の人、志自牟に匿われた…と言うかしっかりこき使われて苦労をしていた。

ところがある時、志自牟の新居祝の宴に新しく針間国に赴任した小楯長官が訪れ、二人の王子との運命の出会いがあったと告げる。皇位継承者が無く、葛城忍海高木角刺宮で天皇の代行をしていた叔母がそれを知って大喜び、即決で迎え入れた、と一気に次期天皇の話に飛ぶ。

目出度し目出度し、娶りも進めようと歌垣開催、その宴席での出来事が記述される。天皇不在が如何にこの世を混乱させたかを伝えているようである…と言う訳で読み残しのところをあらためて・・・。

古事記原文[武田祐吉訳]

故、將治天下之間、平群臣之祖・名志毘臣、立于歌垣、取其袁祁命將婚之美人手。其孃子者、菟田首等之女・名大魚也。爾袁祁命亦立歌垣。於是志毘臣歌曰、
意富美夜能 袁登都波多傳 須美加多夫祁理
如此歌而、乞其歌末之時、袁祁命歌曰、
意富多久美 袁遲那美許曾 須美加多夫祁禮
爾志毘臣、亦歌曰、
意富岐美能 許許呂袁由良美 淤美能古能 夜幣能斯婆加岐 伊理多多受阿理
於是王子、亦歌曰、
斯本勢能 那袁理袁美禮婆 阿蘇毘久流 志毘賀波多傳爾 都麻多弖理美由
爾志毘臣愈忿、歌曰、
意富岐美能 美古能志婆加岐 夜布士麻理 斯麻理母登本斯 岐禮牟志婆加岐 夜氣牟志婆加岐
爾王子、亦歌曰、
意布袁余志 斯毘都久阿麻余 斯賀阿禮婆 宇良胡本斯祁牟 志毘都久志毘
如此歌而、鬪明各退。明旦之時、意祁命・袁祁命二柱議云「凡朝廷人等者、旦參赴於朝廷、晝集於志毘門。亦今者志毘必寢、亦其門無人。故、非今者難可謀。」卽興軍圍志毘臣之家、乃殺也。
[そこで天下をお治めなされようとしたほどに、平群の臣の祖先のシビの臣が、歌垣の場で、そのヲケの命の結婚なされようとする孃子の手を取りました。その孃子は菟田の長の女のオホヲという者です。そこでヲケの命も歌垣にお立ちになりました。ここにシビが歌いますには、 
御殿のちいさい方の出張りは、隅が曲つている。 
かく歌つて、その歌の末句を乞う時に、ヲケの命のお歌いになりますには、 
大工が下手だつたので隅が曲つているのだ。 
シビがまた歌いますには、 
王子樣の御心がのんびりしていて、臣下の幾重にも圍つた柴垣に入り立たずにおられます。 
ここに王子がまた歌いますには、 
潮の寄る瀬の浪の碎けるところを見れば遊んでいるシビ魚の傍に妻が立つているのが見える。 
シビがいよいよ怒つて歌いますには、
王子樣の作つた柴垣は、節だらけに結びしてあつて、切れる柴垣の燒ける柴垣です。 
ここに王子がまた歌いますには、 
きい魚の鮪を突く海人よ、その魚が荒れたら心戀しいだろう。 鮪を突く鮪の臣よ。 
かように歌つて歌を掛け合い、夜をあかして別れました。翌朝、オケの命・ヲケの命お二方が御相談なさいますには、「すべて朝廷の人たちは、朝は朝廷に參り、晝はシビの家に集まります。そこで今はシビがきつと寢ているでしよう。その門には人もいないでしよう。今でなくては謀り難いでしよう」と相談されて、軍を興してシビの家を圍んでお撃ちになりました]

平群臣之祖となる志毘臣との遣り取りが続くのであるが「凡朝廷人等者、旦參赴於朝廷、晝集於志毘門」の背景が全てであろう。雄略天皇紀に述べられた志幾にあった宮のような立派な鰹木の家、葛城の一言主の出現が意味するところは、倭国の繁栄は各地の豪族の繁栄の上に成り立ち、彼らが天皇家を脅かすほどの力を持ちつつあった、と告げていた。

朝廷人達は天皇に対して面と向かっては従っているが影では志毘臣を中心に何やら謀議をしている様子であったと述べている。逃亡の身から政治の表舞台に躍り出た二人の王子は大混乱の兆し…インシデント…を感じたのであろうか。さすが祖父…「弾碁」の履中天皇…の血を引く二人、逆境にめげずに早々に手を打ったのである。

中央集権的な統治体制が未熟な時代におこる歴史的過程であろう。「言向和」戦略の転換期と言える。最も手っ取り早い解決方法はモグラ叩き、出る杭を一つ一つ打つことである。二人の命は早いうちに打て、と判断した。いずれにしても天皇家の歴史は取巻く豪族達の影響を抜きにしては語られないと言われる所以であろう。

話し合いの結果弟の袁祁命が即位する。空位だった皇位が埋まったのである。何とも危いところであった。急激な少子化が招いた皇位継続の危機であったことが伺える。この説話に登場した人物の居所を探ってみよう。


平群の志毘

平群は建内宿禰の子、平群都久宿禰が切り開いた地であり、現在の福岡県田川市~田川郡に横たわる丘陵地帯であると比定した。「志毘」は地形象形として紐解けるであろうか?…「志」=「之」として川が蛇行するところと思われる。

一方「毘」は既出の解釈、波多毘の「臍(ヘソ)」あるいは開化天皇の諡号である毘毘命の「坑道の前に並ぶ人々を助ける(増やす)」では平群の丘陵地帯に合致する場所はなさそうである。

「毘」=「田+比」と分解してみると「田が並んでいる」と読み解ける。これらを組合せた場所は…、
 
志毘=志(蛇行する川)|毘(田を並べる)

…と解釈される。現在の田川郡川崎町田原辺りと推定される。中元寺川と櫛毛川が合流する地点であり、川崎町の中心の地と思われる。山間の場所ではあるが、豊かな川の水源とその流域の開拓によって繁栄してきたものと推察される。

茨田(松田)は谷間を利用した水田である。給水と排水が自然に行われ初期の水田開発には最も適したところであったが、その耕地面積の拡大には限りがある。一方、平地が沖積によって急激に拡大し河川の築堤、排水の手段が講じられるようになると圧倒的に耕地面積が増加していったものと推察される。生産量の増大が生んだ豪族間格差の広がりを示しているようである。

平群は内陸にあり、都から遠く離れたところであり、決して先進の地ではなかったであろう。この地理的条件が天皇不在時に志毘という人物を登場させる要因であったと思われる。結果的には叩き潰されてしまうのであるが、彼以外にも登場して何ら不思議ではない人物も居たことであろう。時の流れ、地形の変化、水田耕作の進化等々、それらを記述していると読み取ることができる説話と思われる。

では娶ろうとした美人の「菟田首等之女・名大魚」は何処に住まっていたのであろうか?・・・。


菟田首等

まかり間違っても「菟田」は「ウダ」ではない。「菟田」=「斗田(トダ)」である。高山の「斗」ではなく丘陵地帯の「斗」で少々判別が難しく感じるが、上記の「志毘」の近隣にあった。「首等」は「斗」が作る「首」の形を捩ったものであろうか。下関市彦島田の首町に類似する。纏めて下図に示す。



「志毘」の出自は語られないが、平群臣の祖となった平群都久宿禰を遠祖に持つのであろう。天皇家の混乱に乗じて新興勢力として力を示していた様子が伺える。彼らは葛城一族なのであるが、時を経るに従って同じ一族間でも主導権争いは生じるものである。その一面を説話が伝えたものと推察される。

…全体を通しては「古事記新釈」清寧天皇・顕宗天皇の項を参照願う。

2017年12月16日土曜日

葛城忍海之高木角刺宮 〔137〕

葛城忍海之高木角刺宮


異常ではないが尋常とも言えない雄略天皇が逝って、争いが起こる数の御子も無く、白髮大倭根子命が即位する。都夫良意富美之女・韓比賣を娶って誕生した御子であるが、名前の通りに病弱な天皇であったようである。后も娶らず、当然御子も無く崩御されたと記述される。

既に紐解いた経緯があるが(参照)、今一度見直してみた。少々異なる結果となったが・・・古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…

御子、白髮大倭根子命、坐伊波禮之甕栗宮、治天下也。此天皇、無皇后、亦無御子、故御名代定白髮部。故、天皇崩後、無可治天下之王也。於是、問日繼所知之王、市邊忍齒別王之妹・忍海郎女・亦名飯豐王、坐葛城忍海之高木角刺宮也。
[御子のシラガノオホヤマトネコの命、大和の磐余の甕栗の宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇は皇后がおありでなく、御子もございませんでした。それで御名の記念として白髮部をお定めになりました。そこで天皇がお隱れになりました後に、天下をお治めなさるべき御子がありませんので、帝位につくべき御子を尋ねて、イチノベノオシハワケの王の妹のオシヌミの
郎女、またの名はイヒトヨの王が、葛城のオシヌミの高木のツノサシの宮においでになりました]

急遽、市邊忍齒別王之妹・忍海郎女(亦名飯豐王)が「葛城忍海之高木角刺宮」で執政した。他の人選もあったのでは?…と前記したがやはり古事記は無口で不詳である。葛城氏がしっかり国政に関わっていたことに間違いはないであろうが・・・。

「葛城忍海之高木角刺宮」の場所について紐解いてみよう。


葛城|忍海=葛城|海を忍ばせている

ところ、ここまでは変わりようがなく紐解ける。海と川とが入り混じる場所、決して内陸部にあるところではない。葛城の地は古遠賀湾に隣接する場所にあったと既述した

市邊忍齒別王が居た「市辺」は現在の福岡県田川郡福智町市場辺り、その近辺であろうと思われた。宮の名前に含まれる「刺」=「刺さる」と解釈してみたが場所の特定には極めて曖昧であった。この文字の見直しである。


刺=棘(トゲ)

と解釈する。纏めてみると…、


高木|角刺=高木(高い山=福智山)|角(山稜)|刺(棘)

…と紐解けば、「福智山から延びた山稜にある棘のような形をしているところ」を示していると思われる。現地名は福智町上野上里の福智下宮神社辺り(下図)と推定される。


伊邪那岐・伊邪那美が生んだ佐度嶋にあった「刺国」を「棘」の地形象形として紐解いた。類似する表現と思われる。前記の引用を示す。



天之冬衣神が刺國大神之女・名刺國若比賣を娶って生まれたのが「大国主神」である。

彼の母親の出自の場所である。「刺」=「棘」と解釈する。

刺国=棘のような国

一見で特定できる。国生みされた島、「佐度嶋」現在の小呂島(福岡市西区)である。


「棘」=「小さな尖った突起」の地形象形である。興味のある方はとあるサイトに挙げられた写真を参照願う。


<追記>

亦名飯豐王」を紐解いてみよう。「讚岐國謂飯依比古」の「飯」と同様に解釈して「飯」=「食+反」、更に「食」=「山+良」と分解すると…「良」=「なだらかな(緩慢な)」として…、

飯=なだらかな山麓


…と読み解ける。「飯豐王」=「なだらかな山麓で豊かな(ところの)王」と解釈される。上図の地形と矛盾しない表現であろう。「飯」の文字解釈が検証されたようである。(2018.03.11)

葛城の地に居た「欠史八代」と俗称される天皇達に付随する文字は海と川との混在の場所を示す。上記したように決して内陸にある地ではない。況やその地に忍海なんていう地はあり得ないのである。また、この地が「欠史八代」の彼らによって開拓された地であること、当然それを実行した葛城一族の権勢は揺るぎ難いものであったろう。加えて建内宿禰の子孫達の倭国に羽ばたいた活躍もあったと古事記は伝える。

日嗣が途切れて、針間に逃げた市邊忍齒別王の御子達の説話に入る。事の真偽は別としても皇統存続の危機的状況には変わりはない。継続するには大変な力が要る、ということである。志毘臣を排除する説話もこれまでの古事記の記述とは、少々感じが異なる。が、古事記史上特異な位置付けにあった忍海郎女の「高木角刺宮」と思われる。

…全体を通しては「古事記新釈」清寧天皇・顕宗天皇の項を参照願う。

2017年12月14日木曜日

雄略天皇:丸邇之佐都紀 〔136〕

雄略天皇:丸邇之佐都紀


引続き雄略天皇紀の見逃し…これがまた大切なことを伝えている。古事記、奥深し、である。一風変わった説話である。娶ろうとしたが逃げられた比賣のことが記述される。それも僅か数行の簡単な記述で。何度か出くわした、そこに重要な意味が潜められている…である。

丸邇には、まだその中の、いや、その外の詳細地域が残っていた。想像を越える繁栄をし、多くの人が棲みついていたかが読取れる。邇藝速日命が降臨した時に随伴した連中のなせるところであろうか…古事記原文[武田祐吉訳]

又天皇、婚丸邇之佐都紀臣之女・袁杼比賣、幸行于春日之時、媛女逢道。卽見幸行而逃隱岡邊。故作御歌、其歌曰、
袁登賣能 伊加久流袁加袁 加那須岐母 伊本知母賀母 須岐婆奴流母能
故、號其岡謂金鉏岡也。
[また天皇、丸邇のサツキの臣の女のヲド姫と結婚をしに春日においでになりました時に、その孃子が道で逢って、おでましを見て岡邊に逃げ隱れました。そこで歌をお詠みになりました。その御歌は、
お孃さんの隱れる岡をじようぶな鋤が澤山あったらよいなあ、鋤き撥らってしまうものを。  
そこでその岡を金すきの岡と名づけました]

佐都紀」の地名を紐解くことになる。「都紀」はこの説話の直後の歌の中で纏向日代宮の傍らに聳える木「槻」=「都紀」と表現されている。それを意味するのか?…と思いたくなるのであるが、きっと安萬侶くんの仕掛けた「罠」だと決めつけることにする。

それで、幾度か登場のパターンだと信じて…「小月」=「小の尽きるところ」


佐都紀=佐(助ける、勧める)|都紀(尽きる)

…「丸邇が尽きるところを助ける(勧める)」即ち丸邇の端を更に増やす(した)地と解釈できる。前記した「丸邇之許碁登」の更に春日に近寄ったところと紐解ける。現地名福岡県田川郡香春町柿下大坂の東にある田川郡赤村大坂が求める「佐都紀」に当たると推定される。

この地に天皇が近付くのは春日に向かい、「原口」「小柳」と記載された場所の谷間を通り抜け東に向きを変えたところ、そこに岡がある。その岡を「金鉏岡」と名付けたと記述しているのであろう。下図を参照願う。



この説話は丸邇氏の着実な勢力拡大を示している。それは「春日」の威光、即ち邇藝速日命の降臨が遠い過去になりつつあると言っているようでもある。一時期開化天皇が坐したとはいえ、彼らはより多くのものを求めて旅立っていった。本来の住民であった「沙本」は垂仁天皇によって葬られた。その間隙を逃すことなく春日の地を窺がったのであろう。

従来より、丸邇氏は春日に移り住んだ、と言われる。そうではなく、春日の地を侵食しながらその領域を拡大して行ったのである。「丸邇之佐都紀」が何処まで増えて行ったのかは不詳であるが、現在、香春町と赤村との境界領域になっていることから、古事記の記述の範囲内で止まったのではなかろうか。

古事記の時代の村落形成が今なお残っていることが感動的である。あらためて古事記記述の精緻さに驚くことに加えて、地形象形という表現の時を越えた普遍性を伺い知れる。日本書紀の編者、それ以降、現在の歴史家達も含めて、全く伺うことのできない古事記の真価である。

少々憶測が許されるなら、もしこの「佐都紀」の比賣が逃げ隠れず娶られていたなら歴史は幾らか変わっていたかもしれない…と、ふと思ったが・・・。


…全体を通しては「古事記新釈」雄略天皇の項を参照願う。



2017年12月13日水曜日

雄略天皇:美和河 〔135〕

雄略天皇:美和河


古事記中、大長谷王(後の雄略天皇)に関連する説話が最も多い。ただ内容は殺伐たる身内の争いであったり、それを打ち消すかのような優しさ溢れる歌の列挙であったり、何だか寄せ集めの感が強い。ほぼ紐解きが済んでいたかと思いきや、少々毀れていた説話である。「美和」は幾度か出現した「美和之大物主神」に関連するのであろう。あらためて見直してみた。

古事記原文[武田祐吉訳]

亦一時、天皇遊行到於美和河之時、河邊有洗衣童女、其容姿甚麗。天皇問其童女「汝者誰子。」答白「己名謂引田部赤猪子。」爾令詔者「汝、不嫁夫。今將喚。」而、還坐於宮。故其赤猪子、仰待天皇之命、既經八十。於是、赤猪子以爲、望命之間已經多年、姿體痩萎、更無所恃、然、非顯待情不忍於悒。而令持百取之机代物、參出貢獻。
然天皇、既忘先所命之事、問其赤猪子曰「汝者誰老女。何由以參來。」爾赤猪子答白「其年其月、被天皇之命、仰待大命、至于今日經八十。今容姿既耆、更無所恃。然、顯白己志以參出耳。」於是、天皇大驚「吾既忘先事。然汝守志待命、徒過盛年、是甚愛悲。」心裏欲婚、憚其極老、不得成婚而賜御歌。其歌曰、
美母呂能 伊都加斯賀母登 賀斯賀母登 由由斯伎加母 加志波良袁登賣
又歌曰、
比氣多能 和加久流須婆良 和加久閇爾 韋泥弖麻斯母能 淤伊爾祁流加母
爾赤猪子之泣淚、悉濕其所服之丹摺袖。答其大御歌而歌曰、
美母呂爾 都久夜多麻加岐 都岐阿麻斯 多爾加母余良牟 加微能美夜比登
又歌曰、
久佐迦延能 伊理延能波知須 波那婆知須 微能佐加理毘登 登母志岐呂加母
爾多祿給其老女以返遣也。故此四歌、志都歌也。
[また或る時、三輪河にお遊びにおいでになりました時に、河のほとりに衣を洗う孃子がおりました。美しい人でしたので、天皇がその孃子に「あなたは誰ですか」とお尋ねになりましたから、「わたくしは引田部の赤猪子と申します」と申しました。そこで仰せられますには、「あなたは嫁に行かないでおれ。お召しになるぞ」と仰せられて、宮にお還りになりました。そこでその赤猪子が天皇の仰せをお待ちして八十年經ました。ここに赤猪子が思いますには、「仰せ言を仰ぎ待っていた間に多くの年月を經て容貌もやせ衰えたから、もはや恃むところがありません。しかし待ておりました心を顯しませんでは心憂くていられない」と思つて、澤山の獻上物を持たせて參り出て獻りました。しかるに天皇は先に仰せになたことをとくにお忘れになて、その赤猪子に仰せられますには、「お前は何處のお婆さんか。どういうわけで出て參たか」とお尋ねになりましたから、赤猪子が申しますには「昔、何年何月に天皇の仰せを被て、今日まで御命令をお待ちして、八十年を經ました。今、もう衰えて更に恃むところがございません。しかしわたくしの志を顯し申し上げようとして參り出たのでございます」と申しました。そこで天皇が非常にお驚きになて、「わたしはとくに先の事を忘れてしまた。それだのにお前が志を變えずに命令を待て、むだに盛んな年を過したことは氣の毒だ」と仰せられて、お召しになりたくはお思いになりましたけれども、非常に年寄ているのをおくやみになて、お召しになり得ずに歌をくださいました。その御歌は、 
御諸山の御神木のカシの樹のもと、そのカシのもとのように憚られるなあ、カシ原のお孃さん。 
またお歌いになりました御歌は、
引田の若い栗の木の原のように若いうちに結婚したらよかた。年を取てしまつたなあ。 
かくて赤猪子の泣く涙に、著ておりました赤く染めた袖がすかり濡れました。そうして天皇の御歌にお答え申し上げた歌、 
御諸山に玉垣を築いて、築き殘して誰に頼みましょう。お社の神主さん。 
また歌いました歌、 
日下江の入江に蓮が生えています。その蓮の花のような若盛りの方はうらやましいことでございます。
そこでその老女に物を澤山に賜わて、お歸しになりました。この四首の歌は靜歌です]


「美和河」は「美和山」に関連すると解釈できるであろう。神武天皇紀で登場の美和之大物主神の「美和」である。現在の企救半島足立山、旧名竹和山を指し示す。その山から流れ出る川「寒竹川」(下流域は神嶽川と呼ばれる)を「美和河」と称したのであろう。

「引田部」は田を拡げるのであるが、文字通りで、「田を引く=田を張って拡げる」と解釈される。場所は現在の川の流れが当時とそんなに大きくは異ならないとして、干潟を田にできた場所と思われる北九州市小倉北区熊本周辺であろう。標高からその地の半分以上は海面下であったように推測される。



「引田」は現在も幾つか残る地名で、香川県東かがわ市引田がある。ハマチの養殖、レトロな街並みなどで有名で、NHKブラタモリで放映されたこともある。その由来に「潮が引いてできた田」と言われるとのことで干潟を田にしたとのこと。とあるサイトには「低い田」からの転化説が載っているが、低地の入江の干潟ができるところに関連すると推察される。

余談だが、上記の「熊本」の「熊=隈」であろう。寒竹川が蛇行している様子が伺える。全国に残る「熊」の解釈を行ってみても面白いかも、である。

さて、説話は老婆となった乙女との会話に進む。娶ると言って忘れてしまったという何とも惚けた話の内容で天皇は謝罪の為にと「多祿給」して返したと言う。しっかり娶っていれば御子も誕生したのかもしれないのだが・・・いつものごとく、何かを告げているようである。

美和山の神に対するように御諸山の木の下で畏まってしまう、と宣っておられる。大物主神の時代より美和山の神に対する畏敬は変わってない様子である。崇神天皇紀に大物主大神(意富美和之大神)の祟りを鎮める為に意富多多泥古を神主として御諸山で祭祀した記述があった。その背景を受けた歌と解釈される。

美母呂爾 都久夜多麻加岐・・・」御諸山に玉垣築いて・・・美和山から離れたところで畏敬するのは良いが近付こうともせずそれだけで終わってしまう…核心をズバリと、かつ婉曲に表現する、いつものごとくこれに弱い天皇である。

締めの歌に「久佐迦延能 伊理延能波知須」とある。通説の「久佐迦延=日下江」とすれば天皇が要る場所のことを述べていることになる。遠く離れていたことと矛盾する。それともこっそり近付いていた?…それはない…通説は長谷と日下が遠く離れているという混迷の解釈だから問題なし?…「日下」の解釈がポイントである。


久佐迦延=久(櫛玉命)|佐(助ける)|迦(処)|延(遠く及ぶ)

邇藝速日命の加護するところが遠く及ぶ…日下之蓼津(青雲の白肩津)に届くならば…この「伊理延=入江」にも届く、と紐解ける。「日下」が登場した場面を密接に関連付けていると判った。

ならば「波知須=蜂巣=蓮」があった地は上図の「引田部」当時は大きな入江に隣接していたと思われる場所を示していると読み解ける。歌が示す内容は極めて合理的であり、また感情豊かな表現となっていることが浮かび上がって来るのである。

…全体を通しては「古事記新釈」雄略天皇の項を参照願う。