聖徳太子:上宮之厩戸豐聰耳命
年の瀬も押し迫り、今年最後のアップかな?…と思いつつ、首記のテーマを選択。いくつか端折ったものは年越しとすることにした。何せ歴史上の超有名人なので今更云々かんぬんと述べても、と思うのだが、やはり最後の「耳」が引っ掛かる。
古事記原文…、
弟、橘豐日命、坐池邊宮、治天下參歲。此天皇、娶稻目宿禰大臣之女・意富藝多志比賣、生御子、多米王。一柱。又娶庶妹間人穴太部王、生御子、上宮之厩戸豐聰耳命、次久米王、次植栗王、次茨田王。四柱。又娶當麻之倉首比呂之女・飯女之子、生御子、當麻王、次妹須加志呂古郎女。此天皇、丁未年四月十五日崩。御陵在石寸掖上、後遷科長中陵也。
橘豐日命、用明天皇の后と御子等の簡略な記述に登場するのが「上宮之厩戸豐聰耳命」後に「聖徳太子」と呼ばれた太子である。他の兄弟の簡単な命名と比べて圧倒的に長たらしい、こんな時は何かを伝えようとしていることは間違いない。がしかし、不詳。
既に「耳(美美)」が付く人名、地名を纏めて記述したが、些かこの太子の素性が不明で、持ち越しとした経緯がある。原報を参照願いたいが…
①正勝吾勝勝建日天忍穂耳命、②須賀之八耳命、③神八井耳命、④神沼河耳命、⑤若狭之耳別、⑥陶津耳命、⑦玖賀耳之御笠、⑧御鉏友耳建日子、⑨毛受之耳原、⑩多藝志美美命、⑪岐須美美命
…これらに含まれる全ての「耳(美美)」は、耳の形した山稜の「突き出た部分」又は「縁(ヘリ)」という地形象形であった。考えてみれば山裾の小高いところに坐するのは至極当然のことであったろう、墓所も含めて。この表記は場所を示すのに極めて有用な方法と気付かされる。
従来は無視をするか、尊称と解釈するか、将又耳一族としてしまうようである。「耳(美美)」が示す情報を惜しげもなく葬ってしまっていたのである。その中で「上宮之厩戸豐聰耳命」は少し違った状況となる。何故なら、この方は十人の声を一度に聞き分け、それに応えることができたという、ほぼ神様に値する人と言われて来たからである。
即ち「耳」の解釈を行っているのである。だが、上記十一人の命もそんな「耳」を持っていたわけではなかろう。更に「聰」の原義は「耳がよく聞こえる」とある。派生して「聡明な」などの解釈に繋がる。改めて見てみると「聰耳」は一見分ったような表現ではあるが、耳、耳と重なる奇妙な文字列である。「聰」の意味を見直すと共に一から紐解いてみよう。
「上宮」は何処を示すのであろうか?…古事記の中で「上」が使われるのは決して多くは無い。それは「神」を表現する場合に用いるために混乱を避けているようである。そう考えると、この「上」は「石上」を表し「宮」は「穴穂宮」を示していると紐解ける。安康天皇が坐した「石上之穴穗宮」である。
母親「間人穴太部王」の出自は、蘇賀石河宿禰を遠祖に持つ「宗賀」(通説は蘇我)一族である。「隙間に住まう穴掘り部隊」と紐解いて上記の石上之穴穂宮辺りと紐解ける。現在、多くの鍾乳洞が集まっているところ、地名は福岡県田川市夏吉岩屋と比定できる。母親の居場所に関連することを示す。
<上宮之厩戸豐聰耳命> |
「旡」=「詰まる、尽きる」の意味を示す。「皀」=「器に盛った食べ物」を象った文字と言われ、「既(既)」=「食べ物が尽きた」情景を表している。
すると地形象形的には「厩」=「高く盛り上がった山からの崖が尽きるところ」と読み解ける。
通常の意味は「馬小屋」であるが、「厂」=「屋根の下(厂)で食べ物が一杯詰まった(既)様」と解説される。
全く掛離れた解釈となるが…、
厩=厂(崖)+既(尽きる)
…とできる。頻出の「戸」=「谷間の入口」、「豐」=「段差のある高台」と解釈する。
聰=総(集まる)
…に通じるとある。「耳がよく聞こえる」とは神経を集中することに通じることから派生した意味である。全体を纏めて「厩戸豐聰耳」は…、
崖が尽きるところの谷間の入口に段差のある高台が集まって耳の地形となったところ
…と紐解ける。既に記述した「耳一族」と言うわけではないが、天之忍穂耳命から始まる「耳」が付いた名前に共通する解釈が適用できる(毛受之耳原)。さて、そんな場所が見つかるのか?…現在の田川市夏吉、ロマンスヶ丘の麓にある。仁賢天皇の石上広高宮があった麓に「耳」の形をした縁がある。
ここまで解釈してくると、「上宮」は石上穴穂宮よりむしろ「石上広高宮」を示しているようにも受け取れる。当にこの広高宮の崖下に位置するところである。穴穂宮の上にある宮として「広高宮」を表現していたとも読取れる。辻褄があった話ではあるが、事の真相は定かではないようである。下図を参照願う。
<間人穴太部王と御子> |
「久米」=「黒米」と垂仁天皇紀で解釈した。田川郡福智町伊方に「大黒」という地名が残る。黒米との関連を思い付かせるようであるが、やはり「久米」は幾度となく登場の川の合流点の地形象形であろう。図に示したところは大きな津を作っている。
久米=くの字に曲がる川の合流点
…と解釈される。黒米と繋がって来るのは耕作に都合の良い場所であり、耕地が大きく広がっていたところなのであろう。現地名では田川市夏吉との境にある。
「植栗王」の「植」=「木+直」と分解される。「木を真っすぐに立てる」意味を表す文字と解説される。即ち「植」=「山稜が真っ直ぐに延びたところ」と紐解ける。「栗」=「毬栗のような形」とすれば、穴穂宮の南側に見出せる。
植栗=山稜が真っ直ぐに延びた毬栗のようなところ
「茨田王」の「茨田」は既に紐解いたように谷間の「棚田」の地を表す。長く延びた高台の斜面に作られた田、現在に残るところであろう。正に「茨田堤」の様相と思われる。現在、この高台の東端で田川郡福智町と田川市の境となっている。即ち古代の「葛城」と「石上」との境であったことが伺える。幾度か登場する行政区分に残る古代ではなかろうか。
厩戸豐聰耳命が歴史上如何なる事績を残したかを古事記は語らない。が、何かを伝えたいから、そして決して単刀直入には記述できないから、凄まじく凝った名前を付けたものと推察される。素性を曖昧にするのは彼の母親から始まっている。突止めるのもかなりの時間が掛ったが、事情を忖度するのみである。(2020.03.04改)
何処から書き始めるかなど、少々逡巡しながら始めたことを思い出します。結果は予想もしなかったところに落着く気配、ただただ「太安万侶」の記述の精緻さ、論理的な表現に驚かされた一年と言えそうです。
途中で現在の通説という、歴史学者が作ったものでしょうが、その杜撰さに憤ったりもしましたが、現在は極めて寛容な気分であります。「過去を未来に取り戻す」こう考えるようになったことが大きな支えになったのでしょうか。
書き残したところが多くあります。それを補いながら来年も引続き、です。そんなブログにお付き合い頂ければと思います。では、良いお年を!