2017年12月6日水曜日

幼い皇子の逃避行-ver.2 〔133〕

幼い皇子の逃避行-ver.2 


何故か本ブログの早期に記述していたこの逃避行、見返してみると色々教えられることがあったのでもう一度書き直してみようかと…関連箇所の古事記原文と武田祐吉氏訳を載せる。

自茲以後、淡海之佐佐紀山君之祖、名韓帒白「淡海之久多此二字以音綿之蚊屋野、多在猪鹿。其立足者、如荻原、指擧角者、如枯樹。」此時、相率市邊之忍齒王、幸行淡海、到其野者、各異作假宮而宿。爾明旦、未日出之時、忍齒王、以平心隨乘御馬、到立大長谷王假宮之傍而、詔其大長谷王子之御伴人「未寤坐。早可白也、夜既曙訖、可幸獦庭。」乃進馬出行。爾侍其大長谷王之御所人等白「宇多弖物云王子。宇多弖三字以音。故、應愼、亦宜堅御身。」卽衣中服甲、取佩弓矢、乘馬出行、倐忽之間、自馬往雙、拔矢射落其忍齒王、乃亦切其身、入於馬、與土等埋。
於是、市邊王之王子等、意祁王・袁祁王二柱聞此亂而逃去。故到山代苅羽井、食御粮之時、面黥老人來、奪其粮。爾其二王言「不惜粮。然汝者誰人。」答曰「我者山代之猪甘也。」故逃渡玖須婆之河、至針間國、入其國人・名志自牟之家、隱身、於馬甘牛甘也
[それから後に、近江の佐々紀の山の君の祖先のカラフクロが申しますには、「近江のクタワタのカヤ野に鹿が澤山おります。その立ている足は薄原のようであり、頂いている角は枯松のようでご
ざいます」と申しました。この時にイチノベノオシハの王を伴なて近江においでになり、その野においでになたので、それぞれ別に假宮を作て、お宿りになりました。翌朝まだ日も出ない時に、オシハの王が何心なくお馬にお乘りになて、オホハツセの王の假宮の傍にお立ちになて、オホハツセの王のお伴の人に仰せられますには、「まだお目寤めになりませんか。早く申し上げるがよい。夜はもう明けました。獵場においでなさいませ」と仰せられて、馬を進めておいでになりました。そこでそのオホハツセの王のお側の人たちが、「變つた事をいう御子ですから、お氣をつけ遊ばせ。御身をもお堅めになるがよいでしよう」と申しました。それでお召物の中に甲をおつけになり、弓矢をお佩びになて、馬に乘ておいでになて、たちまちの間に馬上でお竝びになて、矢を拔いてそのオシハの王を射殺して、またその身を切て、馬の桶に入れて土と共に埋めました。それでそのオシハの王の子のオケの王・ヲケの王のお二人は、この騷ぎをお聞きになて逃げておいでになりました。かくて山城のカリハヰにおいでになて、乾飯をおあがりになる時に、顏に黥をした老人が來てその乾飯を奪い取りました。その時にお二人の王子が、「乾飯は惜しくもないが、お前は誰だ」と仰せになると、「わたしは山城の豚飼です」と申しました。かくてクスバの河を逃げ渡て、播磨の國においでになり、その國の人民のシジムという者の家におはいりになつて、身を隱して馬飼牛飼として使われておいでになりました] 

履中天皇が葛城之曾都毘古の孫の黑比賣命を娶って誕生したのが市邊之忍齒王である。世が世であれば皇位を引継いでも不思議ではない位置に居た王子ではあるが、叔父達が引継いで皇位については全く無関係な扱いを受けたのであろう。その彼が歴史の表舞台に引き摺り出されるのである。その直後に呆気なく大長谷王の餌食となったと伝える。

この説話の段に多くの地名が出現する。先ずはそれを紐解いてみよう。

1.淡海之佐佐紀山

「近淡海」と比べて「淡海」の領域は広いが、現地名田川郡福智町市場辺りに居たと推定した市邊之忍齒王を誘って行くとなると彦山川~遠賀川河口の淡海に抜けるルート上が有力な候補と考えられ、福智山山系に含まれる山を指すと推測される。現在に残る地名を探すと麓を「笹尾川」が流れ、周辺を「笹田」とある「金剛山」が浮かび上がって来る

佐佐紀山=金剛山

この辺り、既に「淡海」である。古遠賀湾の奥深くに面したところであったと思われる。下図左下「笹田」の下(南側)を東西に流れる川が「笹尾川」である。淡海之佐佐紀山君之祖である韓帒は金剛山西麓に住んでいたのであろうか。渡来人の一人のようでもあるが、不詳である。その彼が狩りのできる場所を教えたと言う。



2.淡海之久多綿之蚊屋野

同じ「淡海」でも程度が違うことを示しているのであろう…、


久多綿=くちゃくちゃ(秩序のない様)の海

と解釈される。そこに接する…


蚊屋野=蚊(小さい、少ない)|屋(覆うもの)|野

…「地面を覆う木が少ない(殆どない)野原」と思われる。その場所は、現在の福岡県遠賀郡水巻町の宮尾台など複数の団地となっているところと比定される。


久多綿=水巻

同義と解釈できるのではなかろうか。下図中水巻駅、東水巻駅の東側の台地が該当する。古遠賀湾の広さは想像を遥かに越えるものであったことが伺える。


この地で市邊之忍齒王はいとも簡単に命を落とすことになる。そして大長谷王子の周りに彼を脅かすような勢力は消滅したことを伝えているのである。しかしそれは皇位の継承者の数が激減したことを伺わせる。大長谷王子の直系血族が途絶える不運の布石の記述となる。

さて、市邊之忍齒王には二人の王子が居た。意祁王・袁祁王である。父親が殺害されたことから彼らの逃亡劇が始まる。そして王子とは掛離れた世界に身を投じることになる。


意祁王・袁祁王

殺害された市邊之忍齒王の二人の御子である。突然襲った不幸に逃げ惑い、逃避する行程が記される。それはまた倭国南部の地域の詳細な説明でもある。


「意祁王・袁祁王」が何処にいたのか?…母親は不詳である。父親の災難の情報を知った場所として忍齒王の居場所としてみよう。上記した現在の田川郡福智町市場辺りである。そこからの逃避行を再現することになる。

先ずは初見で解釈した例を示すと…

第一通過点は「苅羽井(カリハヰ)」である。「苅羽井」=「カワイ」=「河(川)合」と読めば「河合」の由来は「河が合流しているところ」、それも単なる合流ではなく複数の河が集まってるような特徴のある場所に由来するとある。「山代の河合」を示している。

現在の京都郡みやこ町犀川生立辺りと推定できる。南から犢牛岳、蔵持山から流れ「喜多良川」「高屋川」、北から御所ヶ岳山塊から流れる「松坂川」が「犀川(山代川)」に合流する。平成筑豊田川線犀川駅近隣である。神功皇后が立寄ったという伝説のある生立八幡神社がある

…であった。また、山代大國之淵之女・苅羽田刀辨が居た場所の近隣と解釈することもできる。

最後の「苅羽田」との関連に気付くことによって古事記は「苅羽+?」という文字区切りをしていると判った。「苅+羽田」ではなく「苅羽+田」となる。同じく「苅羽+井」となろう。文字解釈の根本からの見直しである。では「苅羽」とは?…、


苅羽=苅(刈取る)|羽(羽の形状)

「羽の形をした地の一部を刈り(切り)取った」ところを意味すると紐解ける。現在の犀川大村及び谷口が含まれる丘陵地帯を「羽のような地形」と表現したものと思われる。苅羽田」は羽の端に当たる現在の犀川谷口辺りと推定される。既に比定した場所そのものに大きな狂いはない。

とすると、「苅羽井」は何と紐解けるであろうか?…


苅羽井=苅(刈取る)|羽(羽の形状)|井(井形の水源)

…「羽の形をした地の端を切り取った四角い池(沼)」と解釈される。現在の犀川谷口大無田の近隣にある池を示していると思われる。



「苅+羽田」=「草を刈取った埴田」埴田は草を刈取ってあるのは当然で、何とも釈然としない解釈と思われる。古事記はこのような無意味な修飾語を使わない。より明確に場所を示していたと漸くにして気付かされた。またこの第一通過点までの逃亡ルートも変更を余儀なくされるが、後に述べよう。

第二通過「玖須婆(クスバ)之河」これも初見の解釈例を先に示すと…

「玖須婆」=「奇・婆」=「神妙で頭を垂下げた姿」と解釈できる。日本三大彦山、修験者の山「英彦山」を源流に持つ「祓川」の謂れに直結する。「玖須婆之河」=「祓川」である。多くの修験者が登った霊験あらたかな山、古代から人々の生き様を見届けてきた山である。

…と最もらしく記述したが、「婆」の解釈は今一スッキリ感に欠けるようである。


玖須婆=玖須(奇し:霊妙な力がある)|婆(派:分かれ出る)

「霊妙な力が分かれ出る」と紐解ける。


玖須婆之河=祓川

「犀川」を渡り、現在の京都カントリークラブ山荘近くの間道を抜けると「祓川」にぶつかり、渡渉して暫く行くと、もう「針間国」は間近である。途中で追剥に遭いながらもその国の志自牟の家に身を隠したと記述される。

「針間国」は現在の地名、築上郡築上町椎田辺り、最終地点も不詳ではあるが、逃亡ルートを描くには十分な情報を与えている。



二人の王子は針間国で馬飼牛飼として生き永らえたと伝えている。勿論これは後日の物語の布石である。皇位継承の乱れがなければ彼らが歴史の表舞台に躍り出ることはなかったであろう。

天皇が暗殺されるという前代未聞の物語を述べる安康天皇紀、前記允恭天皇紀に「百官及天下人等、背輕太子而、歸穴穗御子」と記述される。力を持った豪族達が皇位継承にも口を出した有様を物語る。いやむしろ豪族達によって取り決められていたと思うべきであろう。

豪族間の相克が歴史を動かし得ることを述べているようである。豊かになった徴でもあり、また争乱の兆しでもある。次期の雄略天皇紀は絶頂を迎えるが、それはまた倭国繁栄の限界を示すことでもあったと思われる。

…全体を通しては「古事記新釈」安康天皇の項を参照願う。