継体天皇:三尾の比賣
皇位断絶の危機を救済するために急遽近淡海国から迎えられたのが応神天皇五世の袁本杼命と記載される。名前から応神天皇の御子、若野(沼)毛二俣王が百師木伊呂辨を娶って誕生した大郎子、別名意富富杼王に繋がる出自と思われる。宮内庁の史料によると「稚野毛二派皇子→意富富杼王→乎非王→彦主人王→袁本杼命」とのことである。
日本書紀にはもう少し詳しく記述され、近江国高嶋郷三尾野で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向で育てられて、男大迹王として五世紀末の越前地方を統治していた、と言われる。いずれにせよ不明なところが多く積み残されているようである。古事記はいつも以上に多くを語らないが、もう少し掘り下げてみよう。
古事記原文…
品太王五世孫・袁本杼命、坐伊波禮之玉穗宮、治天下也。天皇、娶三尾君等祖・名若比賣、生御子、大郎子、次出雲郎女。二柱。・・・<中略>・・・又娶三尾君加多夫之妹・倭比賣、生御子、大郎女、次丸高王、次耳上王、次赤比賣郎女。四柱。
「三尾」からの娶りが二件、この天皇になって出現することからも深い繋がりがあったと伺える。上記、古事記に「近江」という地名はないが「三尾野」に含まれる「三尾」は重なる。天皇の母親が住まっていた地を示しているかと思われる。
「三尾」の初出は、垂仁天皇が山代大国之淵之女・弟苅羽田刀辨を娶って産まれた「石衝別王」が祖となった、という記述である。初見では現在の福岡県京都郡みやこ町吉岡・築上郡築上町船迫に跨るところと比定した。既述を引用すると…
石衝別王は「羽咋」及び「三尾」君の祖となったと記述されている。
全くの情報なく、象形であること、二つはかなり近いところ、そして山代国から遠くないところと考えて探索する。
「三尾」は三つに分かれた山稜の麓であろうし、「羽咋」は喰われた羽の形状・・・(右図参照)。
…であった。その後の考察で築上町の「船迫」は「多遲摩之俣尾」とされていることが判った(下図三尾の東隣)。何とこの山稜の端を3:2に分けていて、現在も京都郡と築上郡の郡境なのである。丸邇と春日の端境に類似して現在に残る古事記の記述であろう。
このことから「三尾」は厳密に三つの尾の麓にあったと思われ、現在の光冨(ミツドミ)と吉岡辺りと修正される。「三尾(ミツオ)」=「光冨(ミツオ)」と読めるかもしれないが、委細は不詳である。古事記の国の分類からすると旦波国に属すると思われる。祓川の川上、中流域に当たるところであろう。旦波の美知能宇志王が娶った丹波之河上之摩須郎女が居たところ(現地名京都郡みやこ町木井馬場と推定)より下流にある。
大河祓川の中流域が開けて来たことを示しているのであろう。早期に開けた上流域がその広がりが地形的に困難となってきたこと、それに並行して中流域の広い耕地開発が進んで来たと推測できる。祖となって侵出した後に開拓の努力が実って来たと容易に理解可能である。更に中流域の開拓はより一層多くの財力をもたらしたであろう。それは新しい豪族の出現を促す状況を産んだとも考えられる。
また中流域はそれなりの大土木事業を必要とする。国家的規模の開発投資を行わなければ困難であり、各地の豪族だけでは不可能な事業であったろう。それを企画し実行する戦略がなかったと推察される。古事記が記述する国家体制では中流域以降の事業は極めて可能性の低いものだったと判る。仁徳天皇が行った難波津の開発はその中で特筆すべきものであったと読み取れる。
誕生した御子は「大郎子、次出雲郎女」と記述される。継体天皇の出自に関連すると思えるが、大物主大神と関係があった山代大国と三尾との関連に由来するのかもしれない。開拓されたばかりで三尾の地で御子達を養うことができず出雲に頼ったのではなかろうか。久々の出雲復活の記述である。
古事記には通説のような「越前(高志国)」との関連を示唆するような記述は見られないようである。確かに越前(古事記は「財」と表現)は大きく繁栄しつつある状況は、続く天皇の娶り及び御子の名前に表現されている。
既述された美和の大物主大神の末裔である「河內之美努村の意富多多泥古」また「近淡海之安国の祖である意富多牟和氣」が示すように、出雲の進んだ技術で近淡海国の開拓が行われていた。多くの人が出雲から近淡海国に移ったのであろう。
袁本杼命(継体天皇)の場合も近淡海国に居たのは上記のような時流に乗った出来事ではなかろうか。意富富杼王を遠祖に持ち、山代大国を出自に持つ王が切り開いた地、出雲出身者が集まる国、久々に歴史の表舞台に登場した出雲である。残念ながら古事記の語りは極めて少なく、憶測の域に入ることになる。
「三尾」からの娶りが二件、この天皇になって出現することからも深い繋がりがあったと伺える。上記、古事記に「近江」という地名はないが「三尾野」に含まれる「三尾」は重なる。天皇の母親が住まっていた地を示しているかと思われる。
「三尾」の初出は、垂仁天皇が山代大国之淵之女・弟苅羽田刀辨を娶って産まれた「石衝別王」が祖となった、という記述である。初見では現在の福岡県京都郡みやこ町吉岡・築上郡築上町船迫に跨るところと比定した。既述を引用すると…
石衝別王は「羽咋」及び「三尾」君の祖となったと記述されている。
全くの情報なく、象形であること、二つはかなり近いところ、そして山代国から遠くないところと考えて探索する。
「三尾」は三つに分かれた山稜の麓であろうし、「羽咋」は喰われた羽の形状・・・(右図参照)。
このことから「三尾」は厳密に三つの尾の麓にあったと思われ、現在の光冨(ミツドミ)と吉岡辺りと修正される。「三尾(ミツオ)」=「光冨(ミツオ)」と読めるかもしれないが、委細は不詳である。古事記の国の分類からすると旦波国に属すると思われる。祓川の川上、中流域に当たるところであろう。旦波の美知能宇志王が娶った丹波之河上之摩須郎女が居たところ(現地名京都郡みやこ町木井馬場と推定)より下流にある。
大河祓川の中流域が開けて来たことを示しているのであろう。早期に開けた上流域がその広がりが地形的に困難となってきたこと、それに並行して中流域の広い耕地開発が進んで来たと推測できる。祖となって侵出した後に開拓の努力が実って来たと容易に理解可能である。更に中流域の開拓はより一層多くの財力をもたらしたであろう。それは新しい豪族の出現を促す状況を産んだとも考えられる。
また中流域はそれなりの大土木事業を必要とする。国家的規模の開発投資を行わなければ困難であり、各地の豪族だけでは不可能な事業であったろう。それを企画し実行する戦略がなかったと推察される。古事記が記述する国家体制では中流域以降の事業は極めて可能性の低いものだったと判る。仁徳天皇が行った難波津の開発はその中で特筆すべきものであったと読み取れる。
誕生した御子は「大郎子、次出雲郎女」と記述される。継体天皇の出自に関連すると思えるが、大物主大神と関係があった山代大国と三尾との関連に由来するのかもしれない。開拓されたばかりで三尾の地で御子達を養うことができず出雲に頼ったのではなかろうか。久々の出雲復活の記述である。
古事記には通説のような「越前(高志国)」との関連を示唆するような記述は見られないようである。確かに越前(古事記は「財」と表現)は大きく繁栄しつつある状況は、続く天皇の娶り及び御子の名前に表現されている。
既述された美和の大物主大神の末裔である「河內之美努村の意富多多泥古」また「近淡海之安国の祖である意富多牟和氣」が示すように、出雲の進んだ技術で近淡海国の開拓が行われていた。多くの人が出雲から近淡海国に移ったのであろう。
袁本杼命(継体天皇)の場合も近淡海国に居たのは上記のような時流に乗った出来事ではなかろうか。意富富杼王を遠祖に持ち、山代大国を出自に持つ王が切り開いた地、出雲出身者が集まる国、久々に歴史の表舞台に登場した出雲である。残念ながら古事記の語りは極めて少なく、憶測の域に入ることになる。