2017年12月28日木曜日

坂田大俣王 〔145〕

坂田大俣王



応神天皇五世の「袁本杼命」後の継体天皇が即位して一気に御子が誕生する。その中の比賣の親の名前が「坂田大俣王」と記述される。こんな一般的な名称をいきなりぶつけて来る時は、ちょっと考えれば判るでしょ、何て言う書き方なのである。がしかし、そうは簡単には関連付けるわけにはいかない。

と言っても先には進まないので当りを付けて紐解き始める。勿論これも立派な読み方であろうが・・・。一応、古事記原文は

・・・又娶坂田大俣王之女・黑比賣、生御子、神前郎女、次田郎女、次白坂活日子郎女、次野郎女・亦名長目比賣。四柱・・・。

である。四人の比賣が誕生したと伝えている。

「坂田」は初出である。手掛かりは「大俣王」と思われる。開化天皇の御子、日子坐王が山代之苅幡戸辨(苅羽田刀辨)を娶って誕生したのが大俣王であった。これが引き継がれているとすると苅羽田の近隣を「坂田」と称していたのではなかろうか。

前記(幼い皇子の逃避行-ver.2)で「苅羽田」「苅羽井」の場所を見直した。羽の形状をした地から刈取って「田」「井」にしたという解釈である。「苅羽井」の場所が違ってくるとメインルートが異なって来る。どうしても現在のルートは犀川(今川)沿いとなるが、やはりそこは「淵」であって当時の主要な通路ではなかったことが判る。

この時に犀川大坂から松坂、更に犀川谷口と向かう通路が表通りと気付かされた。それを今回一歩進めて詳細に見てみようかと思う。御所ヶ岳山塊から犀川(今川)に流れ出る松坂川沿いの地は急勾配の「坂」であることは間違いないが、そこに「坂田」はない。辛うじて「松坂」(茨田の坂が由来であろうか)に坂が含まれているのみである。

幾度か遭遇したようにこんな時は御子の名前が頼りになるのである。「神前郎女、次田郎女、次白坂活日子郎女、次野郎女・亦名長目比賣」と記される。現在の地図に残る地名「城坂」「神田」が見つかる。神と白()が重なっていることが判った。「目」は「長い田」を、また「田」は「苅羽田」を示すと思われる。


急斜面の山代の苅羽田で住まうことができるように開拓が進捗してきたものと思われる。大河の中流域の沖積と治水が比賣を受け入れるだけの財力を生み出しつつあったと思われる。時が流れ、確実に倭国は変化して来ていることを告げているようである。

…全体を通しては「古事記新釈」継体天皇・安閑天皇の項を参照願う。


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<坂田大俣王の比賣と御子>
(2019.04.28)