継体天皇・安閑天皇
応神天皇五世の「袁本杼命」が即位したと伝える。前記したように近淡海國(近淡海に面する國)に住んでいたのを探し、仁賢天皇の御子、手白髮郎女を娶らせて大后としたようで、何とか皇位断絶の危機は回避できたということらしい。
古事記原文…、
品太王五世孫・袁本杼命、坐伊波禮之玉穗宮、治天下也。天皇、娶三尾君等祖・名若比賣、生御子、大郎子、次出雲郎女。二柱。又娶尾張連等之祖凡連之妹・目子郎女、生御子、廣國押建金日命、次建小廣國押楯命。二柱。又娶意祁天皇之御子・手白髮命是大后也生御子、天國押波流岐廣庭命。波流岐三字以音。一柱。又娶息長眞手王之女・麻組郎女、生御子、佐佐宜郎女。一柱。又娶坂田大俣王之女・黑比賣、生御子、神前郎女、次田郎女、次白坂活日子郎女、次野郎女・亦名長目比賣。四柱。又娶三尾君加多夫之妹・倭比賣、生御子、大郎女、次丸高王、次耳王、次赤比賣郎女。四柱。又娶阿倍之波延比賣、生御子、若屋郎女、次都夫良郎女、次阿豆王。三柱。
此天皇之御子等、幷十九王。男七、女十二。此之中、天國押波流岐廣庭命者、治天下。次廣國押建金日命、治天下。次建小廣國押楯命、治天下。次佐佐宜王者、拜伊勢神宮也。此御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連・大伴之金村連二人而、殺石井也。
天皇御年、肆拾參歲。丁未年四月九日崩也。御陵者、三嶋之藍御陵也。<伊波禮の宮> |
その三世のようでもある。出雲国及びその周辺から近淡海國への転居例は河內之美努村に居た「意富多多泥古」など幾つか既に記述されて来た。
近淡海國開拓の歴史であり、不自然な出来事ではない、と伝えているのであろう。
とは言え、同族の出身ではあるが五代も経ており、人選に大変な苦労があったと思われる。
地方豪族の台頭と併せて天皇家の求心力の低下も憶測されるが、古事記は語らず、である。兎も角も近淡海國は未だ未開の地で多くの人材が寄り集まった場所であり、それだけに有為な人材の抽出場所であったのかもしれない。
それにしても意富多多泥古の時は、しっかりと素性を語らせて数世代にわたる出雲の状況が伺えるのであるが、袁本杼命は全く…天皇即位の面接?ではなかった、ということであろう。語るほどの進展が出雲の周辺にはなかった、のかもしれない。
<袁本杼命> |
古事記の記述方針からすると登場人物の名前もさることながら、居場所の確からしさを求めているようである。その情報の欠如が未記載という結果を生んだと思われる。
継体天皇が坐した伊波禮之玉穗宮は前記したが、再度掲示する。
倭国の中心地に出戻った感じであろう。天皇家の出直しを意味するのではなかろうか・・・。
「袁本杼命」は何処に居たのか?…近淡海國の…、
袁(ゆったりとした山麓の三角州)|本(麓)|杼([杼]の地形)
…「ゆったりとした山麓の三角州にある[杼]の地形」に坐していた、と紐解ける。「杼」=「横糸を通す舟形の道具」を象ったと解釈される。近淡海國の中で探すと最適な地形を示す場所がある。仁徳天皇の御子、墨江之中津王が切り開い入江の近隣である。おそらく多くの人々が集まり賑わっていた場所ではなかろうか。
何れにしても古事記は言葉少なめで憶測が発生するのであるが、他書も含めて、また過去の論考も、様々な解説がなされているようである。「記紀」に記載と引用して、袁本杼命が越前(古事記では高志に該当するか?)に居たとの解説は、「近淡海→近江」のルール?から外れている。日本書紀もいよいよ”独り立ち”の時期を迎えたのかもしれない・・・。
1-1. 后と御子
1-1-1. 三尾君等祖・名若比賣
娶り関連では「三尾」が目立つ。垂仁天皇が山代大国之淵之女・弟苅羽田刀辨を娶って産まれた「石衝別王」が祖となったところである。現在の同県京都郡みやこ町光富辺りと比定した。
あらためて眺めても古代の境が現在に息づいているように感じられる。これら二つの地名の比定の確度を高めているようである。
現在の光冨(ミツドミ)は「光冨(ミツオ)」と読めるかもしれない。
祓川中流域が開けて来たことを告げている。開化天皇の娶りの記述に「旦波之大縣主・名由碁理之女・竹野比賣」とある。大懸主由碁理が居た場所と推定した。
天皇家は大懸主を解体したのであるが、早期に開けたところは独自の発展、大河の中流域の開拓を行っていたものと思われる。
逆に言えば、古事記が記述する国家体制「倭国連邦言向和国」では中流域以降の事業へと進めることは極めて困難であり、仁徳天皇が行った難波津の開発はその中で特筆すべきものであったと思われる。
ここまで「三尾」について読み解いて来たが、誕生する御子は「大郎子、次出雲郎女」と記述される。誕生する複数の御子を各地に散らばった展開になることは屡々記述されるが、纏めて同じ場所に行かせることは無いであろう。それにしても「出雲」に関連することになったのか?・・・。
娶り関連では「三尾」が目立つ。垂仁天皇が山代大国之淵之女・弟苅羽田刀辨を娶って産まれた「石衝別王」が祖となったところである。現在の同県京都郡みやこ町光富辺りと比定した。
三(三つの)|尾(山稜の端)
多遲麻国の「俣尾」の西隣りの場所である。現在も福岡県の京都郡と築上郡の境となっている。
あらためて眺めても古代の境が現在に息づいているように感じられる。これら二つの地名の比定の確度を高めているようである。
現在の光冨(ミツドミ)は「光冨(ミツオ)」と読めるかもしれない。
祓川中流域が開けて来たことを告げている。開化天皇の娶りの記述に「旦波之大縣主・名由碁理之女・竹野比賣」とある。大懸主由碁理が居た場所と推定した。
天皇家は大懸主を解体したのであるが、早期に開けたところは独自の発展、大河の中流域の開拓を行っていたものと思われる。
中流域はそれなりの大土木事業を必要とする。国家的規模の開発投資を行わなければ困難であり、それを行えるだけの財力(人)の蓄えができてきたと思われる。
本来は「倭国」としての事業を行うべき…仁徳天皇が行ったように…だったのであろうが、皇統の乱れなどそれを妨げる出来事が多発した。
結果として、企画・実行する戦略がなかったと推察される。豪族任せの姿勢が浮き彫りにされている様子を伝えているのである。
本来は「倭国」としての事業を行うべき…仁徳天皇が行ったように…だったのであろうが、皇統の乱れなどそれを妨げる出来事が多発した。
結果として、企画・実行する戦略がなかったと推察される。豪族任せの姿勢が浮き彫りにされている様子を伝えているのである。
逆に言えば、古事記が記述する国家体制「倭国連邦言向和国」では中流域以降の事業へと進めることは極めて困難であり、仁徳天皇が行った難波津の開発はその中で特筆すべきものであったと思われる。
ここまで「三尾」について読み解いて来たが、誕生する御子は「大郎子、次出雲郎女」と記述される。誕生する複数の御子を各地に散らばった展開になることは屡々記述されるが、纏めて同じ場所に行かせることは無いであろう。それにしても「出雲」に関連することになったのか?・・・。
「若い」と言う日本語の意味とすると使い勝手が良い文字なのであろう。因みに漢語では、その意味を持たない。「若」の分解には諸説があるが、最も簡略に「艸+右」としてみる。
すると「若」=「山稜が並ぶ右手の様」と紐解ける。「名若」は…、
右手のように延びた山稜の端が三角州となっているところ
…と読み解ける。図に示した場所、「三尾」の最も西側にある山稜の先の麓が居場所であったと推定される。
「大郎子」の「大」は、その山稜の端が平坦な形を表し、おそらく麓の母親近隣が出自の場所であろう。驚かされるのが、「出雲」である。「手」の「腕」に当たるところが、「出雲」の地形を示していることが解る。幾度も登場した「斗」の地形であり、正に小ぶりだが、見事に相似な形を持っている。
袁本杼命(継体天皇)の系譜を遡れば、確かに「出雲」に繋がる。古事記は、その詳細を全く語らないが、御子の名前を通じて、「三尾」の地との関わりを暗示しているのであろう。解ってみれば、実によくできた物語のように思われる。
「大物主大神」と関係があった「山代大国」と「三尾」との関連に由来することも考えられる。あからさまにしないのは、「大物主大神」の出自と同じである。いや、語れる資料が見出せなかったのかもしれない。「久々の出雲復活の記述ではあるが、釈然としない様相である。出雲は遠くなりにけり、かも・・・。
1-1-2. 尾張連等之祖凡連之妹・目子郎女
<尾張連等之祖凡連・目子郎女> |
図に幾つか記された「連」を示した。これらは「尾張連之祖」であるが「凡連」には「尾張連等之祖」と記述される。「等」が元祖を表すと読み取れる。
図に示した場所に山稜の端が長く延びた州が見出せるが、文字形から「凡」=「平らな台地」と解釈すると、貫山山稜の尾が延びた場所にその地形が見出せる。ここが「凡連」が居たところと推定される。
実に興味深いのが、東隣は「尾張國造」と記される。二俣に分かれた谷間の地形である。住まうところの地形を忠実に示していることが解る。
「國造」にしても「凡連」にしても、既に述べたが、これらは律令制定以前の「官位」のように解釈されているが、これも地形象形した表記と思われる。
「國造」にしても「凡連」にしても、既に述べたが、これらは律令制定以前の「官位」のように解釈されているが、これも地形象形した表記と思われる。
目子郎女
目子郎女の「目子」は場所を示すのであろうか?…通説は「メコ」と読み下しているようであるが、「目子」=「目(マ)ナ子(コ)」と読む。
尾張国の中心地、その近隣である。国土地理院の色別標高図が無ければ到底見つけることができない地形象形である。
現在は全国に地名番地が宛がわれているが、全く地名番地という概念のなかった時代には地形に対する真面目さが桁違いと思わさせられる。
逆に現代人は地形に対してあまりにも鈍感ではなかろうか。勿論著者も含まれるのは当然である。「目」から生え出た(子)ところに坐していた郎女と解釈される。おそらく麓に高台であったと思われる。
現在は全国に地名番地が宛がわれているが、全く地名番地という概念のなかった時代には地形に対する真面目さが桁違いと思わさせられる。
逆に現代人は地形に対してあまりにも鈍感ではなかろうか。勿論著者も含まれるのは当然である。「目」から生え出た(子)ところに坐していた郎女と解釈される。おそらく麓に高台であったと思われる。
御子に「廣國押建金日命、建小廣國押楯命」と記される。彼らはそれぞれ後に皇位に就く。「廣國押」=「大地に田を作り広げる」と解釈できるであろう。大倭帶日子國押人命(孝安天皇)で紐解いた「國押」に類似する。
「金」は、そのままでは何とも読み解け難いように見受けられる。「金」=「今(含む)+ハ(鉱物)+土」と解説される。「今」の甲骨文字から「区切られた(段差のある)山麓」と紐解く。既に登場の藤原之琴節郎女の「琴」に含まれる「今」の解釈に類似する。「金日命」は…、
「金」は、そのままでは何とも読み解け難いように見受けられる。「金」=「今(含む)+ハ(鉱物)+土」と解説される。「今」の甲骨文字から「区切られた(段差のある)山麓」と紐解く。既に登場の藤原之琴節郎女の「琴」に含まれる「今」の解釈に類似する。「金日命」は…、
金([ハ]の字の段差のある山麓の台地)|日(炎の地形)
…「[炎]の地形で[ハ]の字形の段差のある山麓の台地」に座していたと紐解ける。図に示したところと思われる。命が坐したところは現在の護念寺辺りではなかろうか。弟の「楯」=「木+盾」と分解すると…、
楯=山稜が谷間を塞ぐように延びる様
1-1-3. 意祁天皇之御子・手白髮命
仁賢天皇の比賣が大后になったと告げる。皇位の系統をこれで確かなものとした、ということであろう。天國押波流岐廣庭命が誕生して次期の天皇になったとのことである。
<天國押波流岐廣庭命> |
「都夫良」の近隣、出雲から「若狭」に向かう場所である。病弱な御子のためにその地に「白髮部」を定めたと記されている。
更に仁賢天皇が雄略天皇の比賣春日大郎女を娶って誕生した御子の中に「手白髮郎女」が登場する。「白髮部」に近接するところと比定した。
この郎女が「手白髮命」である。都夫良意富美・目弱王から派生して来てここに繋がるのである。
ところで、この久々に登場する長たらしくて厳つめらしい名前を読み下してみよう。
天(遍く)|國(大地)|押(田を作る)|波(端)|流(延びる)
岐(分かれる)|廣(広がる)|庭(山麓の平坦地)
岐(分かれる)|廣(広がる)|庭(山麓の平坦地)
…「端が延びて分かれた山麓に広がる平地に遍く田を作る」命と読み解けるようである。特定できる場所があるのか?・・・母親の近隣にある(図<天國押波流岐廣庭命>を参照)。坐したところは現在の角ノ林公園辺りではなかろうか。
1-1-4. 息長眞手王之女・麻組郎女
「息長眞手王」については初出である。全く出自が語られていないが、調べると若野毛二俣王の子の沙禰王が父親だったと知られている。少々、「息長」について過去の記述を纏めてみると、開化天皇紀の日子坐王が娶った近淡海國天之御影神の比賣、息長水依比賣で初めて登場する。この比賣の母親は不詳であって、居場所は御子の名前から推測する方法を採用すると、長男が「丹波比古多多須美知能宇斯王」で丹波にその子孫を繁栄させたとあり、「息長水依比賣」は丹波に居た可能性が高い。
また旦波国を平定した日子坐王、その子の山代之大筒木眞若王が丹波の比賣を娶って誕生したのが迦邇米雷王で、この王が「丹波之遠津臣之女・名高材比賣」を娶って息長宿禰王が生まれる。更にこの王が葛城之高額比賣を娶って生まれたのが息長帶比賣命、虛空津比賣命、息長日子王と記載される。
これらから丹波は「息長」の発祥の地、とりわけ古事記記述からすると丹波之遠津が息長姓を名乗る一族が居たと推測される。「遠津」は現在の行橋市稲童下にある奥津神社辺りと比定した。石並古墳群がある近隣である。この名前をもたらした経緯は不詳であるが、おそらくは古くから開けた地に渡来した人々の中に居た一族ではなかろうか。
後になるが倭建命が「一妻」を娶って誕生した御子に息長田別王が居る。隋所に登場する「息長」ではあるが、決して詳細には語らない。「息長」と書けば当然判る、という「常識」があったとも思われる。一応、上記のような読み解きを行えば必然的に至る結果ではある。この系列の比賣から若野毛二俣王が誕生し、沙禰王へと繋がっていることが分かる。
後になるが倭建命が「一妻」を娶って誕生した御子に息長田別王が居る。隋所に登場する「息長」ではあるが、決して詳細には語らない。「息長」と書けば当然判る、という「常識」があったとも思われる。一応、上記のような読み解きを行えば必然的に至る結果ではある。この系列の比賣から若野毛二俣王が誕生し、沙禰王へと繋がっていることが分かる。
が、少々不親切な感じもするが…恣意的に何かあからさまにできない訳でもあったのかもしれない。それはさておき、では「眞手」は何処を示しているのであろうか?…「まことの手の形、手の形で満たされた」程度で探索すると・・・、
窪んだ地に手のような山稜が寄せ集められたところ
…と紐解ける。
図が示すように山塊及びその周辺こそ「息長」一族が生息していた地域と推定される。
「息長」として後々まで天皇家と関わる一族と深い関連、いや一族そのものであったことを示しているのであろう。だからこそ単刀直入には「息長」の素性、在処を示さず記述したと推測される。
新羅の王子、天之日矛と阿加流比賣の難波之比賣碁曾社(沓尾山麓と比定)の説話を述べ、息長帯比賣との繋がりを書き、新羅凱旋まで記述する。安萬侶くんの伝えたかったことは「息長」一族、それは新羅から渡来した人々であった、ということであろう。彼らが如何に深く天皇家に関わったかを、真に簡略に、記述している…もう少し蛇足があっても・・・。
比賣の名前の「麻組」の「組」=「糸+且」と分解できる。「糸」=「連なった様」を表し、「且」=「段差のある高台」と読み解くと…、
麻(近接する)|組(連なった段差のある高台)
…「近接する連なった段差のある高台」と紐解ける。中央部の三つの山を示していると思われる。「且」は下記にも登場する。大宜都比賣に含まれていた文字である。「宜」=「宀(山麓)+且(段差のある高台)」と紐解いた。比賣の名前が「佐佐宜郎女」とある。
「佐佐」は「佐佐紀之山」のように「笹」を表すと解釈しても良いが、「佐」=「人+左」=「谷間左手のような山稜が谷間に延びている様」としてみると…、
佐佐(左手のような山稜が並ぶ)|宜(山麓の段差がある高台)
…と紐解ける。図に示した谷間(現在は大半が貯水池になっている)と推定される。行橋市長井の地名であるが、当時は麓は海面下であったと推定される。現在は畑地の様子であり、水田にするには水利が悪い、古代も谷間の水田とするには不向きなところであったと推測される。「佐佐宜王」は伊勢神宮を拝したと記載される。
通説に関して述べることは極力控えているが、Wikipediaに記載された内容についてはどうしても一言述べたくなる。「息長」は・・・『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とするとされている。・・・「記紀」と一纏めにすることも引っ掛かるが、上記したように、古事記に「息長」が登場するのは開化天皇紀の日子坐王の記述である。
その御子の山代之大筒木眞若王が丹波の比賣を娶ってから一気に「息長」の地に後裔達が広がって行くのである。意富富杼王が祖となった「息長坂君」に出自を求めるとは全くの筋違いであろう。「息長」の地は丹波国の一部もしくは隣接するところである。天皇家の草創期に皇統に絡む人材を輩出した地域なのである。
有能な人材、開かれた大地があった場所は近淡海國(近江と置き換えらるのだが…)でも河内でもない。これらの地域は後に開拓されていく場所である。未開の地から人材は出ない。徹底的に歴史認識の欠如を露呈している記述である。
古事記が何故神話時代と言われる時に種々の神々を散らばらせ、祖となる命の記述を行ったのか?…それらの地が既に開かれた地となっていたことを伝えるためである。最後に感想を・・・。
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先住の渡来人達との確執、これを抜きにしては倭国の成立は語れないであろう。散りばめられた記述をいずれまた纏めてみよう。その作業は欠かせないように思われる。今のところは、この程度で留めることにしたい。それにしてもこの地域の隅々までが比定された。終わってみれば、また少々続きがあるが、何とも呆気ないような気分でもある。
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1-1-5. 坂田大俣王之女・黑比賣
「坂田」は初出である。手掛かりは「大俣王」と思われる。開化天皇の御子、日子坐王が山代之苅幡戸辨(苅羽田刀辨)を娶って誕生したのが大俣王であった。これが引き継がれているとすると苅羽田の近隣を「坂田」と称していたのではなかろうか。
古事記記述の流れから推察すると上記のように思われるが、「坂」の文字そのものの地形象形を読み解いた経緯もある。
建内宿禰の御子、木角宿禰が祖となった坂本を「坂」=「土+厂+又」と分解して「崖下の[手]の地形」と紐解いた。
より類似の地形としては、御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の御子、八坂之入日子命に含まれる「八坂」が挙げられる。
より類似の地形としては、御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の御子、八坂之入日子命に含まれる「八坂」が挙げられる。
御所ヶ岳山稜から延びる無数の[手]を表していると思われる。その[手]の先に田がある地は特異であること、それが何の修飾も無く「坂田」と記された所以なのであろう。
御子に「神前郎女、次田郎女、次白坂活日子郎女、次野郎女・亦名長目比賣」と記される。
現在に残る地名も犀川大坂松坂・城坂・神田がある(Bing地図[ⒸZenrin]参照;Google Mapにも記載されていたが消失)。古事記に記された文字…神前(神田)、白坂(城坂)…との重なりも見出だせる。
「神前郎女」は「神前」=「稲妻のように延びた山稜の先」と紐解く。「白坂活日子郎女」は「白坂」=「坂をくっ付けた様」として山稜から突出た十鞍山(片方の名称は不明)の麓で出合う場所と解釈する。「活」=「氵+舌」で「川の畔に延びた[舌]のようなところ」と紐解ける。郎女でありながら「日子」が付く。「日子」=「[炎]の地から生え出たところ」の解釈が妥当と思われる。通説の男子を示す文字ではない。
「長目比賣」は頻出の「目」=「山稜の隙間」この場合は「山腹の谷間」と読み解く。「田郎女」はそれらに囲まれたところかと思われる。
「長目比賣」は頻出の「目」=「山稜の隙間」この場合は「山腹の谷間」と読み解く。「田郎女」はそれらに囲まれたところかと思われる。
上図に纏めて示した。相変わらずの精緻な表記と頷かされるところである。全て比賣であろうが、山代の「苅羽」の地の開拓も大きく進捗したものと思われる。
1-1-6. 三尾君加多夫之妹・倭比賣
再度「三尾」の登場である。下記の通り三尾の地を開拓した人の妹を娶ったのである。「加多夫」は…、
加(増やす)|多(田)|夫(連なる川の合流点)
…「連なる川の合流点で田を増やす」君と紐解ける。京都郡みやこ町光冨辺りであろう。多くの川が合流する地点を示している。
この三尾君の名前から大河の中流域の開拓が進んだことが伺えるのである。
山間の狭い谷間から広々とした領域を、氾濫し蛇行する川の側で大面積の水田にできるようになったのであろう。
この量的拡大は豪族達の質を大きく変えることに関連する。
極言すれば天皇家を凌ぐばかりの勢力を保ち得る財力を生み出すことになる。古事記は大きな時代の変節点に向かうことになる。
蛇行する川…比賣の名前も「倭」=「曲がり畝る」であろう・・・いえいえ、「倭」=「従順で慎ましい」という本来の意味がある・・・両意の解釈を狙った表記であろう。
まさかのまさか、「大和」に置き換えることは無い筈なのだが・・・。
御子に「大郎女、次丸高王、次耳王、次赤比賣郎女」と記される。男女の区別は難しいが全て三尾で住まうことができたのではなかろうか。
「大郎女」は…、
「丸高王」は…、
「耳王」は…、
「赤比賣郎女」は、美和河の赤猪子と同様に「赤」を解釈して…、
…と紐解ける。「比賣」=「並んだ山稜に挟まれた谷間」を表すと読む。上図に纏めて示した。御子達の命名が見事にこの地の地形を表していることが解る。現在は写真のように再生エネルギー利用の施設などで山容は大きく変わっているようである。
余談だが…日本書紀等から継体天皇の母方の先祖は上記の「石衝別王」とのことである。「三尾」からの娶りが増えることとは繋がる話である。古事記記述の空白部が埋まる?…継体ができればより古代が豊かになるかもしれない。
<三尾の御子> |
山間の狭い谷間から広々とした領域を、氾濫し蛇行する川の側で大面積の水田にできるようになったのであろう。
この量的拡大は豪族達の質を大きく変えることに関連する。
極言すれば天皇家を凌ぐばかりの勢力を保ち得る財力を生み出すことになる。古事記は大きな時代の変節点に向かうことになる。
蛇行する川…比賣の名前も「倭」=「曲がり畝る」であろう・・・いえいえ、「倭」=「従順で慎ましい」という本来の意味がある・・・両意の解釈を狙った表記であろう。
まさかのまさか、「大和」に置き換えることは無い筈なのだが・・・。
<現在の航空写真> |
「大郎女」は…、
[大]の字の山稜(谷)の郎女
「丸高王」は…、
丸く高いところの王
「耳王」は…、
耳の地形のところの王
「赤比賣郎女」は、美和河の赤猪子と同様に「赤」を解釈して…、
山稜が交差するように延びる麓で挟まれた谷間の郎女
――――✯――――✯――――✯――――
余談だが…日本書紀等から継体天皇の母方の先祖は上記の「石衝別王」とのことである。「三尾」からの娶りが増えることとは繋がる話である。古事記記述の空白部が埋まる?…継体ができればより古代が豊かになるかもしれない。
1-1-7. 阿倍之波延比賣
「阿倍」は孝元天皇の御子大毘古命の子、建沼河別命が祖となる阿倍臣で登場したところと思われる。御子「若屋郎女、次都夫良郎女、次阿豆王」の名前がその場所の確からしさを示すようである。とりわけ「都夫良」は既出で安康天皇を亡き者にした目弱王が逃げ込んだ都夫良意富美が居たところである。現在の北九州市門司区大里桜ヶ丘辺りと推定した。
「阿豆」は…、
<阿倍之波延比賣・御子> |
阿(台地)|豆(平坦な高台)
…「台地にある平坦な高台」と読み解くと図に示したところと思われる。
この地は峠に向かう山間のところ、現在は広大な墓地となっているが、当時は狭い谷間を活用して住まうことができたのであろう。
若屋郎女の「屋」は…既出の「屋」=「尸+至」=「山陵(尾根)が尽きるところ(端)」であり、「若」=「叒+囗(大地)」と分解する。「叒」=「又+又+又」=「山稜が寄り集まった様」と解釈すると…、
…「尾根の端が寄り集まったところ」と紐解ける。「波延」が行き着くところと思われる。「都夫良郎女」は、都夫良意富美の居た場所と思われる。
倭国の各地が盛んに開拓されている。がしかし、大国を支えるまでには至っていない現状であったと推測される。急速な社会環境の変化に旧の統治体制が追い付いていない、これが様々なジレンマを生じていたのではなかろうか。
1-2. 竺紫君石井
若屋郎女の「屋」は…既出の「屋」=「尸+至」=「山陵(尾根)が尽きるところ(端)」であり、「若」=「叒+囗(大地)」と分解する。「叒」=「又+又+又」=「山稜が寄り集まった様」と解釈すると…、
若(寄り集まる)|屋(尾根の端)
…「尾根の端が寄り集まったところ」と紐解ける。「波延」が行き着くところと思われる。「都夫良郎女」は、都夫良意富美の居た場所と思われる。
倭国の各地が盛んに開拓されている。がしかし、大国を支えるまでには至っていない現状であったと推測される。急速な社会環境の変化に旧の統治体制が追い付いていない、これが様々なジレンマを生じていたのではなかろうか。
1-2. 竺紫君石井
<竺紫君石井①> |
現在の遠賀郡岡垣町にある孔大寺山山系であるとした。そこに「石峠」と言う地名が残っている。
金山南陵と城山との尾根稜線にある峠である。その東側の谷筋が「竺紫君石井」居たところではなかろうか。
図では判り難いが現在も複数の堰が設けられている。水源として有用な谷であったと推測される。
峠を越えるとそこは宗像である。遠く離れた地であり、朝鮮半島の動向が逸早く影響するところでもある。様々な情報が入り乱れるところでもあったろう。
そんな地に接するところに居ては天皇家の乱れに乗じることもあり得たかもしれない。これは単なる妄想に過ぎないが・・・。
<竺紫君石井②> |
ありふれた文字「石」を紐解いてみよう。「石」=「厂+口」と分解され「崖の麓+塊」の象形と解説されている。
「口(塊)」=「口(台地)」と置き換えてみると、現在の遠賀郡岡垣町から石峠に向かう谷の入口に小高い丘が見出だせる。
応神天皇紀に登場した堅石王及び後の宣化天皇紀に誕生する石比賣命(訓石如石)、下效此、次小石比賣命の「石」の解釈に類似する。
「石井」=「麓の台地の傍らの四角いところ」と紐解ける。竺紫君石井は現在の荒平神社辺りに坐していたと推定される。現在、この「石」を取り囲むように谷川沿いに豊かな棚田が作られているが、古くから開拓された土地なのであろう。
石峠の由来は知る由もないが、まさに残存地名かもしれない。邇邇藝命の降臨地、竺紫日向は孔大寺山山系であったことをあらためて確信するところである。繰り返しになるが、「竺紫」=「筑紫」ではない。全く異なる地形を持つ、別の地であることを忘れてはならない。
物部荒甲之大連・大伴之金村連
<物部荒甲之大連> |
娶りの関係は発生しなかったようだが、邇藝速日命の血統を持つ人々が居たことは間違いない場所であり、古事記の中では恐れを知らぬ強者の扱いである。
荒(荒々しい)|甲(山)
…塔ヶ峯は決して高山ではないがその斜面はかなりの勾配を有している。かつ、カルスト台地の石灰岩の岩山であることが知られている。それを表していると推察される。名は体を示す…石井征伐の功績は益々その地位を高めたのではなかろうか。
そんな感じで読んでみても、一向に居場所は掴めない。一文字一文字を紐解いてみよう。「荒」=「艸+亡+川」と分解される。通常に意味ではなく地形象形表記とすると「荒」=「山稜が水辺で途切れる」様を表していると解釈される。「甲」=「兜のような」様であり、山の形を表していると思われる。纏めると「荒甲」は…、
兜のような山から延びる山稜が水辺で途切れているところ
…と紐解ける。山だらけではあるが川(現在の井手浦川)に向かって延びる山稜が途切れるような場所は、図に示したところと思われる。かなり狭まったようでもあるが、何となく漠然しているようでもある。調べると別名が「麁鹿火」、父親が「麻佐良」であったことが判った。
「麁」=「鹿+鹿+鹿」と分解される。旧字体は「鹿」三つが重なった文字である。これは何と読み解けるのか?…既に「鹿」=「山麓」と解釈したが、ならば「麁」=「麓が三つに岐れている」様と解釈される。そして「鹿火」=「麓が火の形」をしているとすると、「麁鹿火」は…、
麓が三つに岐れて炎の形の麓があるところ
…と紐解ける。これで、「荒甲」では曖昧であった出自の場所が、三つの山麓の最も西側の麓であったことが解る。「荒甲」は「甲」の山から眺め、「麁鹿火」は麓から見上げた地形象形であろう。父親の「麻佐良」は…、
擦り潰された地(麻)の麓(佐)でなだらかな(良)ところ
…と紐解ける。平尾台(吉野)を抜ける宇陀之穿(現在の吹上峠と推定)から延びる谷間を表していると思われる。親子の位置関係として申し分のない場所であろう。
<大伴之金村連> |
「大伴之金村連」の「大伴」は現在の京都郡苅田町にある山口ダムの西側の谷間を表すと解釈した。「大伴」は…、
平らな頂の山稜を谷間で真っ二つに切り分けるところ
…である。「金」=「金の文字形」を表すと解釈する。「村」=「木+寸」と分解される。更に「寸」=「一+又(手)」から成る文字と知られる。親指と残りの指で作る形を表し、これが物の長さを測る様と解釈されている。
その地形が谷間の出口に見出せる。白川の蛇行に沿って「手」の形となっていることが判る。上部の尖がった台地が「金」であり、それを合せた名前を金村と表記しているのである。「金村」は…、
金の形をした台地がある山稜が手のように延びているところ
…紐解ける。大伴一族も連綿と人材供給の地となる。勿論、物部も大伴も大臣を輩出するのである。そして共に山間の狭い場所である。興味は尽きないが、それは後に登場の時に述べてみよう。
歴史上有名な事件と思われるが古事記は寡黙である。天皇家は、また、激動の渦の中に巻き込まれて行くことになるのだが、その伏線とならないよう配慮された記述のように感じられる。上記で示した地域を念頭に、他書の情報も参照することになるかもしれない。
1-3. 陵墓
「天皇御年、肆拾參歲。丁未年四月九日崩也。御陵者、三嶋之藍御陵也」二十年強の在位であったのか、十九人の御子を誕生させた。一応日嗣の心配は解消されたが、果たして倭国は如何なる方向に向かうのか?…古事記は益々寡黙になりつつある。
<三嶋之藍御陵> |
現地名は京都郡みやこ町勝山箕田辺りである。「藍」=「ぼろ」平坦な州ではなく、凹凸のある地面を示しているところと紐解ける。三野国の「藍見川」=「朽網川」に類似する。
実はここに二つの古墳が眠っている。扇八幡古墳と箕田丸山古墳である。特定するには情報不足であるが箕田に近接するのは後者である。
山稜の端にあって凹凸があり、その山稜を長峡川と初代川とが挟むように流れる。間違う事無くこの地が継体天皇の眠る地であると思われる。
山稜の端にあって凹凸があり、その山稜を長峡川と初代川とが挟むように流れる。間違う事無くこの地が継体天皇の眠る地であると思われる。
2. 廣國押建金日命(安閑天皇)
御子、廣國押建金日命、坐勾之金箸宮、治天下也。此天皇、無御子也。乙卯年三月十三日崩。御陵在河內之古市高屋村也。
<勾之金箸宮> |
また伊波禮之玉穗宮の「玉」とも表現されたところでもある。稲穂のような地形から「玉穂」が決まった。
するともう一方の端、それが「勾之金箸宮」ではなかろうか…「箸」=「端」とも読めるが、「箸」=「竹+者」=「山稜が交差するように並ぶ様」の地形象形表記と解釈できる。
更に「金」は上記の廣國押建金日命と同様に「金」=「今(含む)+ハ(鉱物)+土」として「三角形の高台」を表している。纏めると…、
三角形の高台が交差するように並んでいるところ
<河內之古市高屋村> |
石上に祭祀する神への畏敬、倭国の原点であろう。上図を眺める度に、その石上が大きく変化している様に、決して晴れ晴れしい気分は生じないのである。
今に残る小、中学校の名前こそ、この地が「伊波禮」と言われた時があったことを告げているのではなかろうか。
御陵は「河內之古市高屋村」と記される。「古市」=「古くからの交通の要所」と紐解いても、それなりに求められそうな感じではあるが・・・。
「古」=「頭蓋骨(頭骨)」を象形したと解説される。それを象ったような地形、山稜を表すと紐解くと…、
古(頭骨のような山稜)|市(集まる)|高(皺が寄ったような)|屋(山稜の尽きるところ)
…「頭骨のような山稜が集まる地で皺が寄ったような山稜が尽きるところ」の村と紐解ける。現在の行橋市長尾、椿市と呼ばれる近隣と思われる。図の都合上割愛したが、西側の「古」は塔ヶ峰と推定した。
この地のほぼ真東に「毛受」がある。河内は墓所の地であった。娶りの説明がないのは后がなく、御子も無く、逝去されたとのことである。早々に兄弟が後を引き継ぐことになる。
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