仁賢天皇・武烈天皇

清寧天皇・顕宗天皇                    継体天皇・安閑天皇

仁賢天皇・武烈天皇


1. 意祁命(仁賢天皇)

袁祁王兄・意祁命、坐石上廣高宮、治天下也。天皇、娶大長谷若建天皇之御子・春日大郎女、生御子、高木郎女、次財郎女、次久須毘郎女、次手白髮郎女、次小長谷若雀命、次眞若王。又娶丸邇日爪臣之女・糠若子郎女、生御子、春日山田郎女。此天皇之御子、幷七柱。此之中、小長谷若雀命者、治天下也。
[ヲケの王の兄のオホケの王、大和の石上の廣高の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。天皇はオホハツセノワカタケの天皇の御子、春日の大郎女と結婚してお生みになつた御子は、タカギの郎女・タカラの郎女・クスビの郎女・タシラガの郎女・ヲハツセノワカサザキの命・マワカの王です。またワニノヒノツマの臣の女、ヌカノワクゴの郎女と結婚してお生みになつた御子は、カスガノヲダの郎女です。天皇の御子たち七人おいでになる中に、ヲハツセノワカサザキの命は天下をお治めなさいました]
 
<石上廣高宮①>
仁賢天皇は「石上廣高宮」に坐した。石上にあって山の中腹にあって広く開けたところであろうか。

現在の同県田川市夏吉にある山麓から少し上がった場所、ロマンスヶ丘と呼ばれているところと推定される。

古事記の宮は概ね清流、池の近傍にあるが、少々異なる場所のように感じられる。鍾乳洞に囲まれて湧水に事欠くことはなかった?…かもしれない。

谷間に座する天皇とは些か趣の違った天皇だったようである。葛城に少しは近付いた場所である。

弟は積年の恨みを晴らすことに注力して夢途中で亡くなった。その後を引き継いだ兄は弟の果たせなかったことを、と思ってみてもやはり時間はそう多くはなかったのであろう。
 
<石上廣高宮②>
「廣高」の文字列を眺めてみよう。「高くて広いところ」普通に読めばそうであろうし、実際地形的にも外れてはいないようである。


だが古事記の文字使いは、そんな単純に解釈しては伝わって来ない。「廣」=「广+黄」と分解される。

黄泉国でも登場した「黄」の原義は、決して明解なものではない。そこでは「黄」の古文字をそのまま地形象形に用いたと解釈した。

ここでは単独の「黄」ではなく「广」=「崖」を象った字形が付加されている。

ならば「黄」の原義「四方に広がった様」を採用すると「廣」=「崖が四方に広がった様」と読み解ける。「高」=「山稜が皺の寄ったような様」であるから…「廣高」は…、
 
四方に広がった崖がある山稜が皺が寄ったようになっているところ

…と紐解ける。宮がある高台の地形と、その側面の特徴を述べていることが解る。勿論、それが場所を表すのに最適なことを承知しているのである。更に、この表記は後の上宮之厩戸豐聰耳命(従来、聖徳太子とも呼ばれる)の名前に刻まれた意味と深く関連する記述なのである。

1-1. 大長谷若建天皇之御子・春日大郎女

娶ったのが大長谷若建天皇之御子・春日大郎女と記述されるが、出自が不詳なのである。古事記には珍しく布石されていない。記述漏れか?…とは思うが、雄略天皇紀で「丸邇之佐都紀臣之女・袁杼比賣」を娶ろうと出向いたが逃げられたという説話が残っている。


<丸邇之佐都紀・袁杼比賣>
ただそれだけの話であって、「佐都紀」の場所を示すだけか、とも勘ぐってしまうような内容である。

ところが「金鉏岡」の歌まで送っているのだからそれだけの事件ではなかったようにも受け取れ、この説話が春日大郎女の出自に関連するのでは?…とも思われる。

春日との境界に居たわけだから春日に移っても不思議はないが、丸邇氏がかなり春日に侵出していたことになる。

一時期のことだったのか、情報不足で正確には記述できなかったのかもしれない。

他書では雄略天皇が認知しなかった比賣のことだと記されているようである。詮索はここまでで、春日の地に居た比賣としておこう。

誕生した御子が「高木郎女、次財郎女、次久須毘郎女、次手白髮郎女、次小長谷若雀命、次眞若王」と記載される。何の修飾も無く述べられる…頻度高く登場の高木は、現在の北九州市若松区の東南部、洞海湾に面した地である。また「財」も既出であって北九州市門司区喜多久、江野財の角鹿の地と思われる。それぞれその地の詳細地名も登場しているが、原資料に記載されていなかったのかもしれない。

倭国中心地域には誕生した多くの比賣達に分け与ええるところが急速に減少してきたことを示すものではなかろうか。比古は豪族の比賣の元に預ければ済むし、何せ皇位継承の問題から彼らは何とか確保したい、一方の比賣達の処遇に頭を痛めたことは容易に推測される。

母親を春日大郎女(下図<丸邇日爪>参照)として、山間の春日に土地を分ける余裕はなかったであろうし、また早期に開発された地でもあり、既に多くの人が棲みついていたと思われる。

天皇の方もそもそも分け与える土地を持ち合わせていない。必然的に各地に散らばることになったと推測される。後にも述べるが、「高木」も「財」も「耕作地」と言うよりは、寧ろ特有の産物(魚類、布織物)があり、変わらず豊かさを保っていた地域と推測される。

後に「財」は深く皇統に絡む人材を供給することになる。また「宗賀」との繋がりも記述される。このような地域の開拓に向かうか否かに天皇家の命運が掛かっていたのではなかろうか。

<久須毘>
「眞若王」は特に地名関連ではなく名付けられ、母親の地春日(田川郡赤村内田中村辺り)に居たのであろう。

「小長谷若雀命」は雄略天皇の大長谷若建命から引継いだ命名のようにも見えるが、下記武烈天皇紀で詳細を述べる。

残る「久須毘郎女、手白髮郎女」は何処を意味しているのであろうか?…、
 
久須毘

「久須」は意祁命と袁祁命が針間国に逃げた時に通った「玖須婆河」に含まれると解釈する。「毘」の意味は「臍」を選択すると…、
 
久(くの字に曲がる)|須(州)|毘(臍:凹部)

…「[く]の字に曲がった州の傍らにある凹の地形」と紐解ける。京都郡犀川内垣辺りと推定される。
 
<手白髪郎女>
誕生した比賣達は倭国の広い範囲に散らばったような印象である。

母親を春日大郎女として、春日に土地を分ける余裕はなかったであろうし、天皇の方もそもそも分け与える土地を持ち合わせていない。

必然的に各地に散らばることになったと推測される。勿論それが可能だったのは天皇家だったからであろうが…。
 
手白髮郎女

「白髪命」(太子)に関連するところと思われる。雄略天皇が都夫良意富美の比賣、韓比賣を娶って誕生した太子である。

後の清寧天皇となるが早逝し、「白髪部」を定めたと記述される。ただ「手」が付いている意味は何と解釈するか、であろう・・・何と!…手が付いていた。坐したところは現在の豊前坊下宮辺りではなかろうか。

「白髪」で病弱な太子のイメージを出しながら地形を示し、更にそれを繋げて行く、その時には病弱なイメージなどお構い無しで・・・この大后が辛うじて皇統を繋ぐ役目を果たすことになるのである。

1-2. 丸邇日爪臣之女・糠若子郎女

次いで丸邇日爪臣之女・糠若子郎女を娶って春日山田郎女が誕生したと伝える。丸邇系の娶りが急増した模様である。従来より解説される葛城・丸邇の確執のようにでもあるが、古事記の記述からでは詳らかではない。「丸邇日爪」は何処であろうか?…、
 
日([炎]の地形)|爪(山稜の先端)

…とすると、現在の田川郡香春町柿下原口辺りを示しているようである。「丸邇日爪」は既に登場した「木幡村」(田川郡赤村内田小柳辺り)があった場所の近隣である。「春日山田」は伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の御子、五十日帶日子王が祖となった「春日山」の近隣と思われる。

この地は大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)が內色許男命之女・伊賀迦色許賣命を娶って誕生した比古布都押之信命が開拓したところであり、幾代かに渡って引き継がれて行ったのであろう。
 
<丸邇日爪・糠若子郎女・春日山田郎女>
比賣の名前が「糠若子郎女」と記載される。糠のように細かいイメージであろうが、場所を特定する表現ではない。


「糠」=「米+康」と分解されるが、更に「康」=「广+隶」とすると「广(崖)+隶(追い付く)」と紐解ける。「糠」は…、
 
崖が引っ付くような地形で米を作るところ

…と解釈される。図に示したように御祓川が流れる崖の谷間を表していると思われる。後に春日之日爪の比賣に糠子郎女が登場する。まさに丸邇と春日引っ付くような境の場所である。

現在も香春町柿下と赤村内田の行政区分となっている。古代の人々の佇まいを色濃く残している地ではなかろうか。地形が変わらなければ引き継がれて行くものなのであろう。

丸邇の春日侵出は、ちょっと穿った見方かもしれないが、娶りと御子の活用、嘗ての天皇家と同じ戦略のように思われる。土地を開拓し、子孫を増やして広がって行くという自然の流れに従っているのであろう。その裏に人々の鬩ぎ合い、葛藤する姿もが浮かんで来るのである。
 
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小長谷若雀命が皇位継承したと告げるだけで記述は終わる。無陵の天皇であったのか、不詳である。参考にした資料に記載がなかったのか、かなり記述に変化がみられる。古事記の古代に登場した地名、全てではなかろうが、そこが発展してきたことを示している。

人々が集まり独自に繁栄する。天皇家は決して強圧的に支配して来てはいないのである。「言向和」の精神を頑ななままに守って来たと伝えている。しかし、それは多くの課題も生み出してきたようである。絶対的な耕地の不足、台頭する豪族の処置、挙句には皇位継承等々の重大な局面に遭遇することになった。

皇位継承は何とか過去を紐解けば関係する王子を引出してくることはできる。しかし国の発展を目指して来た彼らが抱える物理的条件は何ら解決策を見出せないでいたのであろう。

丸邇の春日への侵出もその端境で逡巡するところである。大国となった倭国の侵出も同じく端境に来ていると言えよう。仁賢天皇紀から始まるこの閉塞感が大きく表れて来るように思われる。そして古事記の終焉を迎えることになる。暫くはそれとのお付き合いである。
 
2. 小長谷若雀命(武烈天皇)

小長谷若雀命、坐長谷之列木宮、治天下捌也。此天皇、无太子。故、爲御子代、定小長谷部也。御陵在片岡之石坏岡也。
天皇既崩、無可知日續之王。故、品太天皇五世之孫・袁本杼命、自近淡海國、令上坐而、合於手白髮命、授奉天下也。
[ヲハツセノワカサザキの命、大和の長谷の列木の宮においでになつて、八年天下をお治めなさいました。この天皇は御子がおいでになりません。そこで御子の代りとして小長谷部をお定めになりました。御陵は片岡の石坏の岡にあります。天皇がお隱れになつて、天下を治むべき王子がありませんので、ホムダの天皇の五世の孫、ヲホドの命を近江の國から上らしめて、タシラガの命と結婚を
おさせ申して、天下をお授け申しました]
 
<長谷之列木宮>
武烈天皇は
「長谷之列木宮」に坐した。例の「長谷」にある。「列木」は並木と訳されるようであるが、「木(山稜)」とすると…、
 
列(並び連なる)|木(山稜)

…「山稜が並び連なっているところ」と紐解ける。障子ヶ岳山系から並木のように延びる枝稜線を示していると思われる。

現在の田川郡香春町採銅所の黒中辺り、その中央部ではなかろうか。

小長谷若雀命」は雄略天皇と仁徳天皇にあやかったような命名なのであるが、「大長谷」=「平らな頂の山稜の谷間」に対して、「小長谷」=「三角に尖った山稜の長い谷間」であり、忠実に谷間の地形に従って名付けられていることが解る。

「雀」はやはり大雀命と同様の解釈なのであろうか?…「若」=「叒+囗」と分解して…、
 
多くの山稜が延び出ている地に頭の小さい鳥のような形をしているところ

…と紐解ける。「列木」で納得している場合ではない。更に被せて居場所を示していたのである。まだまだ、古事記編者は手抜き?の段階ではないようである。

御陵は「片岡之石坏岡」で顕宗天皇(片岡之石杯岡上)と同じ場所である。天皇に御子はなく、近淡海國から応神五世の袁本杼命(後の継体天皇)を迎えることになる。


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