2017年12月13日水曜日

雄略天皇:美和河 〔135〕

雄略天皇:美和河


古事記中、大長谷王(後の雄略天皇)に関連する説話が最も多い。ただ内容は殺伐たる身内の争いであったり、それを打ち消すかのような優しさ溢れる歌の列挙であったり、何だか寄せ集めの感が強い。ほぼ紐解きが済んでいたかと思いきや、少々毀れていた説話である。「美和」は幾度か出現した「美和之大物主神」に関連するのであろう。あらためて見直してみた。

古事記原文[武田祐吉訳]

亦一時、天皇遊行到於美和河之時、河邊有洗衣童女、其容姿甚麗。天皇問其童女「汝者誰子。」答白「己名謂引田部赤猪子。」爾令詔者「汝、不嫁夫。今將喚。」而、還坐於宮。故其赤猪子、仰待天皇之命、既經八十。於是、赤猪子以爲、望命之間已經多年、姿體痩萎、更無所恃、然、非顯待情不忍於悒。而令持百取之机代物、參出貢獻。
然天皇、既忘先所命之事、問其赤猪子曰「汝者誰老女。何由以參來。」爾赤猪子答白「其年其月、被天皇之命、仰待大命、至于今日經八十。今容姿既耆、更無所恃。然、顯白己志以參出耳。」於是、天皇大驚「吾既忘先事。然汝守志待命、徒過盛年、是甚愛悲。」心裏欲婚、憚其極老、不得成婚而賜御歌。其歌曰、
美母呂能 伊都加斯賀母登 賀斯賀母登 由由斯伎加母 加志波良袁登賣
又歌曰、
比氣多能 和加久流須婆良 和加久閇爾 韋泥弖麻斯母能 淤伊爾祁流加母
爾赤猪子之泣淚、悉濕其所服之丹摺袖。答其大御歌而歌曰、
美母呂爾 都久夜多麻加岐 都岐阿麻斯 多爾加母余良牟 加微能美夜比登
又歌曰、
久佐迦延能 伊理延能波知須 波那婆知須 微能佐加理毘登 登母志岐呂加母
爾多祿給其老女以返遣也。故此四歌、志都歌也。
[また或る時、三輪河にお遊びにおいでになりました時に、河のほとりに衣を洗う孃子がおりました。美しい人でしたので、天皇がその孃子に「あなたは誰ですか」とお尋ねになりましたから、「わたくしは引田部の赤猪子と申します」と申しました。そこで仰せられますには、「あなたは嫁に行かないでおれ。お召しになるぞ」と仰せられて、宮にお還りになりました。そこでその赤猪子が天皇の仰せをお待ちして八十年經ました。ここに赤猪子が思いますには、「仰せ言を仰ぎ待っていた間に多くの年月を經て容貌もやせ衰えたから、もはや恃むところがありません。しかし待ておりました心を顯しませんでは心憂くていられない」と思つて、澤山の獻上物を持たせて參り出て獻りました。しかるに天皇は先に仰せになたことをとくにお忘れになて、その赤猪子に仰せられますには、「お前は何處のお婆さんか。どういうわけで出て參たか」とお尋ねになりましたから、赤猪子が申しますには「昔、何年何月に天皇の仰せを被て、今日まで御命令をお待ちして、八十年を經ました。今、もう衰えて更に恃むところがございません。しかしわたくしの志を顯し申し上げようとして參り出たのでございます」と申しました。そこで天皇が非常にお驚きになて、「わたしはとくに先の事を忘れてしまた。それだのにお前が志を變えずに命令を待て、むだに盛んな年を過したことは氣の毒だ」と仰せられて、お召しになりたくはお思いになりましたけれども、非常に年寄ているのをおくやみになて、お召しになり得ずに歌をくださいました。その御歌は、 
御諸山の御神木のカシの樹のもと、そのカシのもとのように憚られるなあ、カシ原のお孃さん。 
またお歌いになりました御歌は、
引田の若い栗の木の原のように若いうちに結婚したらよかた。年を取てしまつたなあ。 
かくて赤猪子の泣く涙に、著ておりました赤く染めた袖がすかり濡れました。そうして天皇の御歌にお答え申し上げた歌、 
御諸山に玉垣を築いて、築き殘して誰に頼みましょう。お社の神主さん。 
また歌いました歌、 
日下江の入江に蓮が生えています。その蓮の花のような若盛りの方はうらやましいことでございます。
そこでその老女に物を澤山に賜わて、お歸しになりました。この四首の歌は靜歌です]


「美和河」は「美和山」に関連すると解釈できるであろう。神武天皇紀で登場の美和之大物主神の「美和」である。現在の企救半島足立山、旧名竹和山を指し示す。その山から流れ出る川「寒竹川」(下流域は神嶽川と呼ばれる)を「美和河」と称したのであろう。

「引田部」は田を拡げるのであるが、文字通りで、「田を引く=田を張って拡げる」と解釈される。場所は現在の川の流れが当時とそんなに大きくは異ならないとして、干潟を田にできた場所と思われる北九州市小倉北区熊本周辺であろう。標高からその地の半分以上は海面下であったように推測される。



「引田」は現在も幾つか残る地名で、香川県東かがわ市引田がある。ハマチの養殖、レトロな街並みなどで有名で、NHKブラタモリで放映されたこともある。その由来に「潮が引いてできた田」と言われるとのことで干潟を田にしたとのこと。とあるサイトには「低い田」からの転化説が載っているが、低地の入江の干潟ができるところに関連すると推察される。

余談だが、上記の「熊本」の「熊=隈」であろう。寒竹川が蛇行している様子が伺える。全国に残る「熊」の解釈を行ってみても面白いかも、である。

さて、説話は老婆となった乙女との会話に進む。娶ると言って忘れてしまったという何とも惚けた話の内容で天皇は謝罪の為にと「多祿給」して返したと言う。しっかり娶っていれば御子も誕生したのかもしれないのだが・・・いつものごとく、何かを告げているようである。

美和山の神に対するように御諸山の木の下で畏まってしまう、と宣っておられる。大物主神の時代より美和山の神に対する畏敬は変わってない様子である。崇神天皇紀に大物主大神(意富美和之大神)の祟りを鎮める為に意富多多泥古を神主として御諸山で祭祀した記述があった。その背景を受けた歌と解釈される。

美母呂爾 都久夜多麻加岐・・・」御諸山に玉垣築いて・・・美和山から離れたところで畏敬するのは良いが近付こうともせずそれだけで終わってしまう…核心をズバリと、かつ婉曲に表現する、いつものごとくこれに弱い天皇である。

締めの歌に「久佐迦延能 伊理延能波知須」とある。通説の「久佐迦延=日下江」とすれば天皇が要る場所のことを述べていることになる。遠く離れていたことと矛盾する。それともこっそり近付いていた?…それはない…通説は長谷と日下が遠く離れているという混迷の解釈だから問題なし?…「日下」の解釈がポイントである。


久佐迦延=久(櫛玉命)|佐(助ける)|迦(処)|延(遠く及ぶ)

邇藝速日命の加護するところが遠く及ぶ…日下之蓼津(青雲の白肩津)に届くならば…この「伊理延=入江」にも届く、と紐解ける。「日下」が登場した場面を密接に関連付けていると判った。

ならば「波知須=蜂巣=蓮」があった地は上図の「引田部」当時は大きな入江に隣接していたと思われる場所を示していると読み解ける。歌が示す内容は極めて合理的であり、また感情豊かな表現となっていることが浮かび上がって来るのである。

…全体を通しては「古事記新釈」雄略天皇の項を参照願う。