2018年4月29日日曜日

木国の比賣二人 〔203〕

木国の比賣二人


古事記の中で「木国」が初登場するのは大国主命が八十神に徹底的に扱かれた段である。「木國之大屋毘古神」として、いつもながらの唐突さでお出ましである。残念ながら特定するには至らず、「大屋」=「大きな山稜」から英彦山山系の端にある大平山の麓辺りと漠然と推定した。

その後も「木国」として記述されるもののその詳細な場所を求める機会もなく今日に至った、というわけである。情報豊かな件は、何と言っても娶りの記述、娶りの比賣二人とその御子達の居場所を求めて木国の細部に入り込んでみようかと思う。


1.木國造之祖宇豆比古之妹:山下影日賣

古事記原文(抜粋)…、

大倭根子日子國玖琉命、坐輕之堺原宮、治天下也。・・・<中略>・・・又娶內色許男命之女・伊賀迦色許賣命、生御子、比古布都押之信命・・・<中略>・・・娶木國造之祖宇豆比古之妹・山下影日賣、生子、建內宿禰。

大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)が內色許男命之女・伊賀迦色許賣命を娶って誕生したのが「比古布都押之信命」とあり、その命が木国の比賣を娶ったと記される。母親の伊賀迦色許賣命を開化天皇(比古布都押之信命とは異母兄弟)が娶って誕生したのが眞木入日子印惠命(後の崇神天皇)と御眞津比賣に二人と記述されている。

穂積一族の伊賀迦色許賣命が当時の皇統に深く関わる、と記されている。その前夫との間に生まれた「比古布都押之信命」の活躍の物語となる…「欠史」だから名前の紐解きなのだが・・・。

比古布都押之信命 

命の居場所を求めてみよう。母親、伊賀迦色許賣命の近隣と粗方目星を付けて、その前に名前の紐解きである。「布都」は伊邪那岐命の十拳劒から誕生した「建御雷之男神、亦名建布都神、亦名豐布都神」に含まれた「布都」であろう。前記を参照願うが「布都」=「沸水(湧水)」と解釈した。「押」=「手を加えて田にする」大倭帶日子國押人命(孝安天皇)、天押帶日子命など使用されていた文字である(詳細はこちらを参照)。

残るは「信」この文字の解釈はネット検索程度では出て来ない、というかおそらく全く手付かずの状況であろう。致し方なく「信」=「亻+言」とすると・・・月讀命に繋がった。「言」=「辛+口」であり字源的には「刃物で切り開いてはっきりと言う」と解釈されている。

安萬侶コードは「口」=「田」、「辛」=「鋤・鍬・鎌」として「大地を耕地にする」と解釈する。これが月讀命の「讀」=「言+賣」から出て来た「言」の解釈であった。全体を通してみると…「比古布都押之信命」は…、


比(並べる)|古(定める)|布都(湧水)|押(田を作る)|之|信(大地を耕地にする人)|命

「田畑を並べ定めて湧き水の田を作り大地を耕地にする人」の命と紐解ける。「毘古」と記さないのは水田ばかりではないことを告げているのであろう。この命は湧き水を活用したのである。谷川の豊かな水ではなく山からの湧き水で田畑を作り耕したという、正真正銘最強の建御雷之男神の再来と述べているのである。

ひょっとしたら「一言主神*」=「総て田にすることを司る神」かもしれないが、これはまた後日としよう・・・。

さて、それでは何処に坐して居たのであろうか?…春日の地で探索してみよう。



大坂山から延びて戸城山に繋がる尾根の麓、傾斜が大きく川とはなっていない場所と推定できる。湧き水が豊かな地であったろう。それが「布都押之信」の名前の所以と思われる。この有能な御子は、当然、この地に留まらず活躍されることになる。二人の比賣を娶るのであるが、木国に関連するところを抜き出して述べる。

木國造之祖宇豆比古・山下影日賣

御子に「建内宿禰」が登場する。邇藝速日命の後裔、穂積一族に連なる古事記中屈指の臣下である。その有能さには真っ当な根拠があったと判る。さて出自を解き明かしてみよう。「木国」の詳細は未詳なのであるが、果たして辿り着けるであろうか・・・先ずは比賣の父親からである。

「宇豆比古」は何処に居たのであろうか?…「宇」=「山麓」と紐解いてきた。「豆」=「凹凸の地形」とすると…、


宇(山麓の)|豆(凹凸の地形)|比(並べる)|古(定める)

…「山麓の凹凸の地に田畑を並べ定める」と紐解ける。現在の築上郡上毛町の穴ケ葉山古墳群近辺に宇野の地名がある。「宇野」=「山麓の野原」であろう。「宇豆」は凹凸の地、現地名同町下唐原である。比賣の名前は…、

山下(山裾)|影(姿・形)|日(火)|賣(女)

…「山裾が火の形をしたところの女」と紐解ける。「日」=「火」は既に幾度も登場した。「太陽の炎」を簡略に「火」と表したものと解釈される。下図に示した場所に用意されていたようである。実際の地形を見ると「炎」が適切なように思われるが…。現地名、築上郡上毛町東下にある山稜の端が「火」の形をしている場所と思われる。



誕生した「建内宿禰」は臣下としての最高位に就き何代もの天皇に仕えることになる。また子孫は倭国の隅々にまで広がり国の発展に寄与したと告げている。息子の一人は木臣となって赴任することになる。生誕の地の築上郡上毛町東下には下村という旧地名が地図に記載されている。

2.木國造荒河刀辨之女:遠津年魚目目微比賣

時が過ぎて御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の時代に移る。古事記原文(抜粋)…、

御眞木入日子印惠命、坐師木水垣宮、治天下也。此天皇、娶木國造・名荒河刀辨之女遠津年魚目目微比賣、生御子、豐木入日子命、次豐鉏入日賣命。二柱。


この比賣の名前は既に紐解いた。「沈魚落雁閉月羞花」の類かも?…なんて、安萬侶くんの美人の表現力は生々しいのである。再掲すると・・・、

遠津(遠い川の合流地)|年魚(鮎)|目目(両目)|微(何とも言えないほど美しい)

…「遠い川合の場所に住む鮎のように目が何とも言えないほど美しい」比賣となる。木国に流れる現在の山国川(福岡県と大分県の県境)に耶馬渓・青の洞門という秘境がある。その少し下流で屋形川(図の右下)との合流点があり、更に少し下流に「鮎帰」という地名がある。回遊する鮎の住処であろうか。この比賣の美しさは尋常ではなかったようである。・・・などと、すっかり嵌ってしまったようになっていたのであるが、今回は母親の名前からきちんと紐解いてみよう。

木國造荒河刀辨の「刀辨」は何と紐解くか?…、


刀(刀の形)|辨(地を治める)

…「刀の形の地を治める女」と読み解ける。「辨」=「別」と同義と解釈する。下図の上部、荒河(山国川)に接するところを指し示していると思われる。沖積の進行が未熟な時代、大河に突き出た崖のような場所、後に登場する「淵」の表現に繋がるのではなかろうか。

因みに類似の「戸辨」=「凹地を治める女」と解釈するのであるが、Wikipediaによると「ヤマト王権以前の称号(原始的カバネ)の一つで、4世紀以前の女性首長の名称に使われた。後に一般的姓や地名として使われる。トベはトメ(戸賣、斗女、刀咩)の語源でもある」十把一絡げでは勿体無い、地形を示しているのに・・・。

現在の山国川の河口付近、大分県豊津市辺りの氾濫は絶え間なく、河流も大きく変化した経緯があるという。この大河の畔を豊かな地にするには多くの時間が必要であった。遠賀川、紫川、長峡川、犀川、祓川、小波瀬川等の古事記に登場すると比定した大河と全く変わりがない、いや荒河と名付けるならもっと人々に驚異を示す状態であったと思われる。

比賣の在処も大河荒川沿いではなく、少し西側の英彦山山系が作る多くの谷間の一つに位置していたのであろう。図に示されているように有田川と東友枝川とが作る「津」これを「遠津」と表現したと推定される。


御子は「豐木入日子命、次豐鉏入日賣命。二柱」と記述される。豐鉏比賣命は「拜祭伊勢大神之宮也」と書かれているが、現在の斎宮との関係は不詳のようである。

豐木入日子命・豐鉏比賣命

この御子達の在処は上図に示した通りであるが…、

豊(大きな)|木(山稜)

…「大きな山稜」に関わるところにいたのであろう。英彦山山系の大平山が、その名前の通り山頂が大きく広い姿をしている。

現地名は築上郡上毛町有田であるが、川沿いの谷間に豊かな棚田が作られているのが伺える。当時の水田に好適な環境であったと思われる。

「豐鉏比賣命」については、延びた山稜の端が割り込んだ形を示しているところと思われる。幾度か登場の「鉏」の解釈である。

「豐」は「豐日」の意味以外にも用いている例であろう。本来の文字の意味である。

「豐木入日子命者、上毛野君、下毛野君等之祖也」とある。「上毛野」は今も残る地名として現在の福岡県築上郡上毛町に特定できるであろう。ズバリが残る稀有な地名である。「下毛野」は山国川の下流にあった場所であろう。

「上毛野」は上記の現在の築上郡上毛町の穴ケ葉山古墳群近辺と思われる。中心地となれば根拠は希薄であるが上毛中学校辺りかもしれない。

一方の「下毛野」の中心地は何処であろうか?…荒河の上流が上毛であるならその下流域が下毛に該当すると思われる。現在の築上郡吉富町、稜線が伸び切った端のところである。

「下毛野君」に関する情報は少なく決め手に欠けるが、おそらくは天仲寺公園(吉富公園)がある高台にあったのではなかろうか

繰り返すが、遠賀川(遠賀郡)、紫川(小倉市)、今川・祓川・長峡川(行橋市)の河口との地形的類似性をあらためて気付かされる。古代はこれらの地に棲みつき開拓しながら発展してきたと思われる。一つの場所での成功をそのノウハウを御子の派遣で他の場所に伝播しながら領地を拡大していったと読取ることができる。

冒頭に述べた「木國之大屋毘古神」が坐していたところは、おそらく、遠津年魚目目微比賣が住まっていた近隣であっただろう。このモナリザの微笑を想起させる比賣にお目もじすることは…勿論古事記の中で…ないのであろう。それと共に木国の詳細も遠津になるようである。

――――✯――――✯――――✯――――
一言主大神*

於是答曰「吾先見問、故吾先爲名告。吾者、雖惡事而一言、雖善事而一言、言離之神、葛城之一言主大神者也。」天皇於是惶畏而白「恐我大神、有宇都志意美者不覺。」白而、大御刀及弓矢始而、脱百官人等所服衣服、以拜獻。爾其一言主大神、手打受其捧物。
[そこでお答え申しますには、「わたしは先に問われたから先に名のりをしよう。わたしは惡い事も一言、よい事も一言、言い分ける神である葛城の一言主の大神だ」と仰せられました。そこで天皇が畏まつて仰せられますには、「畏れ多い事です。わが大神よ。かよう
に現實の形をお持ちになろうとは思いませんでした」と申されて、御大刀また弓矢を始めて、百官の人どもの著ております衣服を脱がしめて、拜んで獻りました。そこでその一言主の大神も手を打つてその贈物を受けられました]

概ね武田氏の訳のように解釈されて来ているようである。しかし、いつものことながら「ひとこと」で善悪を言い分けるという内容と天皇が畏れ入ることが、決して違和感なく繋がっているわけでもない。言葉の意味は通じるが、一体何を伝えたいのかと考えると奇妙な文章である。
「一言主大神」が現実の姿を持っていることに恐れ入った、と読める内容であるとし、「一言」の意味は考慮に入っていないのである。どうやら「言」=「辛+口」として「大地を農具で耕地(口)にする」と紐解いた安萬侶コードの出番のようである。「一」=「一途に、専ら」として…、

一言主大神=一途に大地を耕地にすることを司る神

…と紐解ける。

では「雖惡事而一言、雖善事而一言、言離之神」は如何に解釈できるであろうか?…「事」=「祭事(まつりごと)」、これは「八重事代主神」の解釈で登場した。また「離」=「区分けする」とすると…、

悪しき祭り事であっても一途に耕地(口)を作り、
良き祭り事であっても一途に耕地(口)を作り、
その耕地を区分けして田にする神

…と読み解ける。

だからそんな大変な神が現実に目の前に現れたから畏敬したのである。祭り事に関係なく一言主大神が居れば田は見事に稲穂を揺らすようになると言っている。安心せよ!…とも受け取れるし、もっと祭祀せよ!…と言っているとも・・・。いずれにしろ葛城が豊かな大地へと変貌したことを告げているのである。

「言」について関連する名前 ①月讀命 ②比古布都押之信命→全て「大地を田にする」の解釈である。大地を「口」に切り取って田にする象形と紐解ける。
(2018.05.20)



2018年4月26日木曜日

内色許男・葦原色許男 〔202〕

内色許男・葦原色許男


邇藝速日命の子、宇摩志麻遲命(現地名田川郡赤村赤の畑辺りに居たと比定)が「穂積臣」の祖となったと記述されていることを既に述べた。そしてこの臣が春日の中心地(現地名同郡赤村内田の中村辺り)を統治し、大きく繁栄していく様子も概ね伺い知れるようになって来た。

宇摩志麻遲命は、その名前が示すように急峻で険しく谷間を蛇行する川の畔を開拓し「天」から降臨した父親の望みを叶えようとしたものと推察される。古事記が伝えているのは、原住民との融和を前提して、彼らが行ったことは、原住民が手が付けられなかった荒れ地を切り開いて行くことであった。邇藝速日命に続く「天」からの降臨人に引き継がれた重要で不変な考え方であったと受け止められる。

さて、そこに「色許」を含む名前が登場する。この名前は「葦原色許男」、生死を彷徨い何度も名前を変えて登場する大国主命の名前の一つに含まれていた。出雲の英雄(勿論恣意的に作られたものだが…)、直接的には開化天皇など皇統に深く関わる重要なキーワードと思われる。が、「色男」まさかの「醜男」程度の解釈で今日に至っている。この重要なキーワードを無視及び暈したのが「正史」日本書紀と呼ばれるものなのである。

大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)紀に記された古事記原文(抜粋)…

大倭根子日子國玖琉命、坐輕之堺原宮、治天下也。此天皇、娶穗積臣等之祖・內色許男命、此妹・內色許賣命、生御子、大毘古命、次少名日子建猪心命、次若倭根子日子大毘毘命。三柱。又娶內色許男命之女・伊賀迦色許賣命、生御子、比古布都押之信命。

若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)、後に大活躍される大毘古命が誕生している。また前記の「御眞津比賣」で述べた伊賀迦色許賣命も登場する。內色許男命・內色許賣命は既に紐解いているが一部重複しながら述べてみよう。


內色許男命

「色男」「醜男」に全く囚われることなく、である。再掲すると・・・、

「色」=「華やかで美くしい」、「許」=「目立つ(際立つ)状態になる、盛んになる」を辞書の中から選択してみると…、


色(華美な)|許(際立つ)

…「華やかで美しいものが際立っている」と読み解ける。

一件落着、とは行かないようである。それだけの内容を伝えるのにワザワザこの文字を使うか?…こんな浮部のことを伝えているとは到底思えない。

間違いなく地形象形の筈…「色」=「人+巴」である。「巴」=「渦巻く、曲がりくねる」蛇の象形文字と解説される。「許」=「元、下、所」とすると…、


色(渦巻く地形)|許(下)|男(田を作る人)

<内色許男・賣命と伊賀迦色許男・賣命>
…「渦巻く地形の下の男(田を作る人)」と紐解ける。「壹比韋」(全体に囲いを並べ備えた地:現地名田川郡赤村内田山の内)のことを述べているのである。醜女(シコメ)」との関わりなど以ての外である。「内」=「内側」として…、

内色許男=内側が渦巻く地形の下の男(田を作る人)

…と紐解ける。「色」=「壹比韋」となろう。図に示した通りの配置であったと思われる。

前記したように孝元天皇及び開化天皇の二代に使えた「伊賀迦色許賣命」に加えて「伊賀迦色許男命」も崇神天皇紀に登場する。

大物主大神を祭祀する為に意富多多泥古を神主として御諸山で拝祭するのであるが、その時の世話役である。天皇の側近と言ったところであろうか。

古事記は語らずなのだが、名前からも伺えるように「伊賀迦色許賣命」の弟のようであり、同じ場所に坐していたのであろう。「内色許男命」の息子である。

若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)は後にこの春日の中心地に「伊邪河宮」を造る。実に巧妙な、と言って良いであろう戦略であった。邇藝速日命が切り開いた地にすんなりと侵出したのである。速須佐之男命が切り開いた地に入ろうとした大国主命の場合とは全く異なる結果であった。一人の英雄(勿論作り上げたものだが…)の尻を叩くだけでは為し得ない・・・学習結果である。

登美能那賀須泥毘古との戦いに勝った神倭伊波禮毘古命の功績を賛辞しているとも読取れる。何はともあれ大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)までの天皇達の努力の賜物であろう。未開の葛城の地を手中にした財力は圧倒的だったのだろう

葦原色許男

「葦原色許男」に関係する大国主命の説話を抜粋して示す。古事記原文[武田祐吉訳]…

故、隨詔命而、參到須佐之男命之御所者、其女須勢理毘賣出見、爲目合而、相婚、還入、白其父言「甚麗神來。」爾其大神出見而、告「此者、謂之葦原色許男。」
[そこでお言葉のままに、スサノヲの命の御所に參りましたから、その御女のスセリ姫が出て見ておあいになつて、それから還つて父君に申しますには、「大變りつぱな神樣がおいでになりました」と申されました。そこでその大神が出て見て、「これはアシハラシコヲの命だ」とおつしやつて]
・・・<中略>・・・
故爾追至黃泉比良坂、遙望、呼謂大穴牟遲神曰「其汝所持之生大刀・生弓矢以而、汝庶兄弟者、追伏坂之御尾、亦追撥河之瀬而、意禮二字以音爲大國主神、亦爲宇都志國玉神而、其我之女須世理毘賣、爲嫡妻而、於宇迦能山三字以音之山本、於底津石根、宮柱布刀斯理此四字以音、於高天原、氷椽多迦斯理此四字以音而居。是奴也。」
[そこで黄泉比良坂まで追っておいでになって、遠くに見て大國主の命を呼んで仰せになったには、「そのお前の持っている大刀や弓矢を以って、大勢の神をば坂の上に追い伏せ河の瀬に追い撥って、自分で大國主の命となってそのわたしの女のスセリ姫を正妻として、ウカの山の山本に大磐石の上に宮柱を太く立て、大空に高く棟木を上げて住めよ、この奴」と仰せられました]

須佐之男命が知っていたのか、そこで名付けたのか不詳だが大穴牟遲神(大国主命)を「葦原色許男」と呼んだ件である。黄泉国での試練に耐えて逃げようとする時に更に追い打ちを掛けられる。事細かな指示を述べて「大国主神」「宇都志國玉神」となれ!…と叫ぶのである。「葦原色許男」は何と紐解けるであろうか?…「色」「許」「男」は上記と同様にして…、


葦原(出雲)|色(渦巻く地形)|許(下)|男

…「出雲の渦巻く地形の下の男」と紐解ける。勿論これだけでは何のことか気付けるわけではないが、次に叫んだ宇都志國玉神」と繋がっていると読み解ける。

ところで「宇都志國玉神」は何と解釈すれば良いのであろうか?…武田氏は「大国主神」のみ訳してこちらはスルーしている。従来は「現し(ウツシ)」とされるようである。黄泉国から現実へ…何となく判ったような気になる解釈であろう。実際作者はそう読めるように、その意味も込めて書いていると思われる。がしかし、本来の意味は…安萬侶コードで全て解読できるようである…、


宇都志=宇(山麓)|都(集まる)|志(之:蛇行する川)

…「山麓が集まり蛇行する川がある」国と紐解ける。「宇迦=山麓が出会う」に「志」を麓に加えて国らしく表現した、と解釈される。


<北九州市門司区大里>
これに続く「玉神」は玉のような…であろうか?…「玉のような山」の地形を述べているのである。緑ヶ丘の東側の山(通称:桃山)、これを「玉」と称しているのである。

現実の…と匂わせながら宮の位置を示す。これが古事記であろう。後に「御魂」とも表現されるところである。

「葦原色許男」も「宇都志国玉神」も全く類似するところを示していたと思われる。「色許」は春日の、そして出雲の中心にある地形を表現していたと判る。山稜に囲まれた凹の地形、かたや山稜そのもの凸の地形、それら両方を表す言葉「色」即ち「巴」の象形を使ったのである。

「色許」の文字によって古事記が伝えることが鮮明に浮かび上がって来る。「葦原色許男」は黄泉国から逃げ出して「大国主神」即ち「宇都志國玉神」となれ、と励まされているのである。いや、これは指示・命令であろう。しかもその地は彼ら天照大御神・高木神達が統治できるところではなかったのである。肥河の近隣を除き、速須佐之男命の御子、大年神一族が支配する地であった。

多くの名前、それは多くの役目、それも重い役目を仰せつかったからであろう。そして更なる悲劇を生むことになる。その悲劇を体現化した「大物主大神」人々の記憶から消失してしまった彼の出自の曖昧さとなってしまったのである。皇統に絡む主要人物、古事記編者にもこの欠落を補うことは叶わなかったのであろう。勿論あったがあまりにも都合が悪く暈した、とも推測されるが・・・やはり前者と解釈しておこう。

ところで少々余談気味に・・・「大穴牟遲神」大国主命に最初に付けられた名前である。これが本来の名前ということであろう。いや、本来は棘国(佐度嶋:現在の福岡市西区小呂島)で誕生したのだから出雲に送り込まれた時に「大」が付いた思うべきかもしれない。ちょっとややこしいのが「穴」の解釈であろう。「洞穴」ではなかろう。「穴」=「宀+ハ」と分解すると、またまた安萬侶コードで「穴」=「山麓のハ(谷)」と紐解ける。


大(大の)|穴(山麓の谷)|牟(大きく)|遲(治水された)

…「大の山麓の谷にある大きく治水されたところ」と紐解ける。彼の遠祖、須佐之男命の御子、八嶋士奴美神が開いた場所に重なると思われる。前記の図を再掲。


<北九州市門司区永黒>
八嶋士奴美神系列であって大年神系列ではない、だから「大穴牟遲神」が送り込まれたところは出雲の北部、肥河(現大川)の畔であったことが確認できる。

「色許」の地を奪取する際の全く異なる状況を上記の二つの名前が示していたのである。

「葦原色許男」の散々たる結果から多くを学び「内色許男」へと繋がって行ったことを、何とも捻った表現で…そうせざるを得なかった?…伝えようとしたのが古事記なのである。















2018年4月23日月曜日

夜麻登登母母曾毘賣命 〔201〕

夜麻登登母母曾毘賣命


第七代孝霊天皇紀(大倭根子日子賦斗邇命)については幾度か関連した記述を行って来たが、纏めて示してみよう。古事記中に登場するのは速須佐之男の子、大年神の後裔である羽山戸神が住まった出雲の地(現在の北九州市門司区羽山辺り)に関わる出来事と読み解いた。

従来よりこれに関する解釈は大混乱である。一つには名前が恐ろしくややこしいものであることに加えて含まれている「夜麻登」=「倭」と置き換えたこと、勿論日本書紀の意図的なものであるが、倭国中心に居た重要人物に仕立て上げられたことによるものであろう。

関連する比賣・毘賣達が重要ではないのではなく、誕生する御子達は天皇家草創期において果たした役割は大きいものと推察される。彼らの居場所及び活躍を告げる記述を読み解かず「欠史八代」のような解釈で闇に葬ってしまった、と言い切れる。

孝霊天皇紀は、出雲に拘りつつも大倭豊秋津嶋の統治へ向けて葛城を開拓し、漸く天神達の思いが叶う兆しが見えて来たところである。既に述べたようにこの紀は時代の転換期、新しい船出の時が訪れたと伝えているのである。そんな背景を思い浮かべながら古事記原文を見てみよう・・・。

大倭根子日子賦斗邇命・・・娶意富夜麻登玖邇阿禮比賣命、生御子、夜麻登登母母曾毘賣命、次日子刺肩別命、次比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命、次倭飛羽矢若屋比賣。四柱。又娶其阿禮比賣命之弟・蠅伊呂杼、生御子、日子寤間命、次若日子建吉備津日子命。二柱・・・。

複数の娶りが発生するが関連するところを抜き出した。意富夜麻登玖邇阿禮比賣命の系列となる。既に紐解いたが概略を示すと(詳細はこちら)・・・、

意富夜麻登玖邇阿禮比賣命は師木津日子玉手見命(安寧天皇)の孫に当たる和知都美命」(淡道之御井宮、淡道嶋の「斗」の淵に居た命)を父親を持つ比賣である。淡海を挟んで淡道嶋の対岸にある「意富(出雲)」、既出の「夜麻登(狭い谷を登る)」として「玖邇阿禮」は…


(三つの頂の山)|邇(近く)|阿(台地)|禮(祭祀する)
 
<北九州市門司区 風師山(風頭山)>
…「風師山近くの台地で祭祀する」比賣と読み解けた。図を参照願うが、「三つの頂の山=風師山」とした。

既出の「玖賀耳之御笠」の解釈に類似する。現在の北九州市門司区にある小森江貯水池、小森江子供のもり公園辺りと推定した。

対岸の淡道嶋の御井に居た和知都美命がこの地の比賣を娶って誕生したのであろう。

また、「夜麻登(山登り)」が汎用の表現であり、決して固有の地名を示すものではないことが判る。

上記したように「夜麻登=倭」とするなら「意富夜麻登」は?…「大倭」?…いや、無視というか、暈したのである。昨今の記録・記憶無しという出来事と同類である。そして都合良いところを取り上げる・・・。


夜麻登登母母曾毘賣命

更に「夜麻登」が続く…「夜麻登登母母曾毘賣命」が生まれたと記述される。「意富」が付かないから都合良し、派手な活躍される比賣に仕立てあげるのである。しかも難解である。詳らかにされることはない!…と考えたのであろうか…思惑通りで今日に至った。

今までの紐解きの最高難度の一つであろう。だが風師山の麓に居場所が絞れれば見えて来る。「母」は原義に戻ると…、


母=両腕で子を抱えた姿


<北九州市門司区 風師山(風頭山)>
…の象形とある。「母母曾」=「両腕で抱えた姿が二つ重なる」と解釈されるが、それは何を意味しているのであろうか?・・・。

今一度「風師山」を眺めて詳細を見るとこの山は三つの峰(頭)に加えて更に二つの頭が両側にあり、そこから枝稜線が延びている地形であることが判る。

この残りの二つの頭は「肩」の役割をしていると見ることができる。図を参照願う。

二つの腕が重なったようになって風師山主峰の枝稜線を形成しているように見える。驚きである。山の形状を如何に注意深く観察しているか、そしてそれを当て字で表現しているのである。


<北九州市門司区 風師山(風頭山)>
母親のところから更に「夜麻登」で行き着く場所、当時を再現しているのかどうかは定かでないが、少し平坦なところが見える。

おそらくその場所が比賣の在処であったろう。畝火の傍の高佐士野でもなく、ましてや奈良大和など全く無関係であろう。

古事記ではこの段のみの登場であるが、日本書紀で対応するとされる「倭迹迹日百襲姫命」は様々な活躍をされる。「夜麻登」を抹消するには余りに主要なキーワード、むしろ積極的に「倭」として利用しようとした魂胆が見える。

図中の「倭飛羽矢若屋比賣」及び阿禮比賣命の妹の蠅伊呂杼の御子「日子寤間命」については下記する。全てこの地に関わる名前を持っていたことが判る。「倭」の文字が見える。安萬侶くんの戯れも含まれているのである。

風師山は「風頭山」とも言われるそうである。由来は定かでないが、「風が吹いて来る方向にある」とか言われるようであるが、「風」=「扇子」である。「師」=「諸々」「頭」=「山頂」と読めば、扇子の先の折り畳みを示していると思われる。実に見事な命名ではなかろうか。


日子刺肩別命



<北九州市門司区 風師山(風頭山)>
次いで生まれたのが「日子刺肩別命」である。この命の居場所は皆目不明であったが、上記の「夜麻登登母母曾毘賣命」が解けて初めて気付くことになった。

風師山の山の形状を熟知しなければ到底紐解きは…言い換えれば古代に於いてそれができていなければ…全く為し得なかった命名であろう。

その頂上の拡大図を示す。最も西側にある「頭」は「刺」が刺さったように突出している様が見て取れる。

「別」が付く名前は領地を持つことを表すと思われる。彼の居場所は風師山西麓、現在の北九州市門司区片上町辺りと推定される。「片」↔「肩」ではなかろうか…。


日子(稲)|刺(突出した)|肩(山稜の肩)|別(地を治める)

…「突出した山稜の肩の麓で稲が実る地を治める」命と解釈される。風師山西麓は稀に見る急斜面であり、麓は海が間近に迫る地形とである。この限られた地を開拓するには相当の技術が必要であったと推測される。

これが後に述べる彼が祖となった地との密接な関連を明らかにするのである。「日子刺肩別命」が保有した稲作の技術は倭国周辺地域の開拓に重要な役割を果たしたものと推察される。何度も述べたように大倭豊秋津嶋の開拓はこんな地形を手中にする以外道はなかったのである。

余談だが・・・日本書紀には彼は登場しない。無視である。国の成立ちの礎である重要技術保有者を蔑ろにする書物は史書として無価値であろう。「記紀」と纏める表現に途轍もなく違和感を感じる。

次の「比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命」は既に述べたように後に「若日子建吉備津日子命」と共に「吉備上・下道臣」として活躍することになる。鉄の産地への着実な布石となるのである。出雲の地(北九州市門司区)に育った彼らが吉備(下関市吉見)との間を行き来することは極めて容易であったろう。この戦略は真に見事である。


伊佐勢理=小ぶりだが田を連ねて整える様を促す

…命と紐解ける。母親の地元で吉備に向かうまでは水田の整備に精を出したと推測される。


倭飛羽矢若屋比賣

もう一人の比賣も紐解こう。羽山戸神の子孫に「久久紀若室葛根神」が居たがその地に重なるところと思われる。「倭」=「夜麻登」ではない。安萬侶くんの戯れである。「倭飛羽矢若屋」は…、


倭(曲がる)|飛(飛び散る)|羽(端)|矢(谷)|若屋(小ぶりな岩屋)

…「(水が)曲がって飛び散る端にある谷の小ぶりな岩屋」の比賣と紐解ける。上図に示したところと思われる。古事記と日本書紀の編者達に翻弄されっ放しというところであろうか。情なし、である。


日子寤間命


妹の蠅伊呂杼から「日子寤間命」が誕生する。針間牛鹿臣之祖となったと記される。もう一人の若日子建吉備津日子命は上記した通り。少々考えさせられる名前なのであるが、「寤」=「目覚める、逆らう」の意味があるとのこと。「間」=「山間」とすると…、


寤間=寤(逆らう)|間(山間の谷川)

…「谷川を堰き止める」日子の命と解釈される。現物が残っている筈はないのでなかなか困難な比定となるのだが、地図をよく見ると、小森江貯水池の手前には幾つかの堰が設けられているように伺える。おそらく現在の形になる前から貯水の工夫がなされていたところと推察される。

またまた余談だが・・・昨今の◯池事件など一連の行政官庁の不始末との重なりを感じてしまう。日本書紀の編者(勿論もっとお上の方の指示であろうが…)肝心なところを削除しろ!とのご命令があったに違いない。が、安萬侶くん達は消さなかった!…何としたか…これ以上はない程の難解な表現にしてしまったのである。1,300年間、ともするとこれからも暫くは続く「不詳」の世界に陥れたのである。勿論本ブログの読者以外は、であるが…。

当て字の時代だからできたこと、そうであろうが、現在ならばもっと良い手があるかもしれない。官僚諸君、いつ我が身に降りかかるかもしれない事態に備えて準備、夢々怠ることなかれ!…である。それにしても1,300年は長い…いえいえ、これからはAIが処理をしてくれる…筈、と思う。

娶りの場所が出雲へと延びたと解釈される。また、それだけ少しは余裕が生まれたことも推し量ることができる。更に重要なことは「吉備国」対応の主要中間地点、淡道の確保が確約されることであろう。








2018年4月21日土曜日

御眞津・御眞木 〔200〕

御眞津・御眞木


「御眞津」「御眞木」の文字列は孝昭天皇紀及び崇神天皇に集中するのであるが、何となく接頭語の「御」が付いた尊称のような解釈で過ごされて来たのではなかろうか。そんな思いも手伝って真面目に紐解かれて来なかったようである。当然これも重要な地形象形を示していると考えて考察してみようかと思う。

❶御眞津

①御眞津日子訶惠志泥命

古事記原文…、

御眞津日子訶惠志泥命、坐葛城掖上宮、治天下也。此天皇、娶尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命、生御子、天押帶日子命、次大倭帶日子國押人命。二柱

第五代孝昭天皇の和風諡号といわれる御眞津日子訶惠志泥命に「御眞津」が含まれている。この天皇の在処は「葛城掖上宮」から紐解いた。詳細はこちらを参照願うが、概略を記すと・・・、


「掖」=「脇」として、山を胴体と見做し、谷の部分を「脇」と表現したと解釈した。葛城の地で、それらしいところで田川郡福智町上野にある福智中宮神社辺りと推定した。

前記した「石寸掖上稜」の地形に類似するところかと思われる。現在も山頂に達する登山道がある。脇から登るところであろうか、これも全く同様である。

福智山のトレッキングレポートは多いが、香春岳は少ない。当然の結果かもしれないが・・・。

脇道に入ると遭難しそうなので本道に戻って…図を参照願うと現在の上野峡は大きくは三つの谷川が合流、更に夫々が分岐した多くの谷川が合流した地形を示していることが判る。真に渓谷に相応しいものと思われる。


御眞津=御(統べる)|眞(満ちた)|津(川の合流)

…「眞」=「匕+鼎」=「容器にものを満たすこと、ものが詰まっていること」の原義に基づいた表記と紐解ける。「川の合流で満ちたところを統べる」の解釈が導き出される。宮の名前と併せて決定的に地形象形した記述であった。何とか遭難せずに登頂できたようである。

②御眞津比賣

ところで「御眞津」が付く名前に「御眞津比賣」が記載されるが、何と二人登場する。崇神天皇絡みあり、これが何とも複雑な系譜が記載されている。一人目は…、

若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)紀に「又娶庶母・伊迦賀色許賣命、生御子、御眞木入日子印惠命印惠二字以音、次御眞津比賣命。二柱」とされ、日嗣である御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の妹として記される。二人目は…、

その崇神天皇紀に「又娶大毘古命之女・御眞津比賣命、生御子、伊玖米入日子伊沙知命伊玖米伊沙知六字以音、次伊邪能眞若命自伊至能以音、次國片比賣命、次千千都久和此三字以音比賣命、次伊賀比賣命、次倭日子命。六柱」娶った比賣の中に大毘古命の比賣として登場する。要するに姪っ子を娶ったのである。

この「御眞津比賣命」は次の伊玖米入日子伊沙知命(垂仁天皇)を生むのである。皇統にとって重要な位置付けである。これには諸説が語られている。①他人であって、当時はよくある…流行りか?…名前の「御眞津」を持つの比賣がいたのであろうとか。ありふれた名前に「御」は付かない、と言うか付けられないであろう。また②同一人物で、それでは同母兄妹婚となるので止むなく大毘古命の比賣にすり替えたとか、怪し気な雰囲気である。

何故こんなことが起きたのかは後に述べるとして、確かに大毘古命の娶りが記述されず、故に比賣の出自が判るようで曖昧としていることは事実である。些か手続きを踏まないと求めるところが浮かんで来ないようである。登場人物の紐解きから入ろう・・・。


迦色許賣命

開化天皇が娶った継母の伊賀色許賣命は孝元天皇紀に「娶穗積臣等之祖:內色許男命之女」と記載される。邇藝速日命の後裔である「穗積臣」、現在の田川郡赤村内田の中村辺り、春日の中心地と比定した場所に居たと思われる。では、「迦色許賣命」は何と紐解けるか?・・・、

・・・「賀」=「加+貝」=「谷間に広がる田」、「貝」=「谷間の田」象形とみる。すると…、


伊(小ぶりな)|賀(谷間に広がる田)迦(出会う)|(色許)
 
…「小ぶりだが谷間に広がる田が(色許)と出会う」と紐解ける。(色許)は父親の場所「色(渦巻く地形)|許(下)」で現在の田川郡赤村内田山の内と推定した(詳細はこちら)。

地図を参照願う。現地名は赤村内田中村辺りである。地形象形的には読み取れると言いつつも、ここは初見の解釈「色許賣」=「華美が際立つ女」の方が似合っているような気がする。多分両意に取れるように…であろう。

図には彼女が孝元天皇との間に生んだ比古布都押之信命及び大毘古命の子、比古伊那許士別命の居場所も併せて示してある。詳細はこちらを参照願う。

確かに大毘古命の子には上記の命と建沼河別命の二名であって御眞津比賣の名前は無い。祖の列記のところではあるが、怪しいと勘ぐられる所以である。

この時期における夫々の配置が見えてきたところで御眞津比賣の「御眞津」は地形象形であろうか?…「御」=「御する、統べる」であろうか?…比賣に関連するなら「ギョ」ではなく「ミ」=「三」ではなかろうか・・・


御(三つの)|眞(距離の詰まった)|津(川の合流)

…こんな場所が見つかるであろうか?…川の地図に強いgoo Map"引張り出してみると…、


図のような場所が見出だせる。長い山稜に挟まれた地では多くの支流が形成されている。

現在の状態と当時が同じとは言い切れないが、また、大きく異なるとも言えないであろう。

「三つ」は偶然のように思われるが、基本の地形として残っているのではなかろうか。

では二人の「御眞津比賣」の問題は如何に紐解けるのであろうか?…勿論限られた古事記の情報の中では確定的な結論には至らないが、従来には提案されなかったものとして下記することにしよう。

❷御眞木

崇神天皇の和風諡号、御眞木入日子印惠命に含まれる表現である。一部を紐解いたこちらを参照願う。


印惠=印(首の形)|恵(入江)

…として、現在の田川郡香春町中津原にある御祓川沿いの地を求めた。漸くにして辿り着いた「師木」の片隅であろう。しかし着実に積年の思いを成し遂げたのである。

「御眞木」は上記と同様地形象形の表現であろう…、


御(統べる)|眞(満ちた)|木(山稜)

安萬侶コードの「木」=「山稜」を使うと、「山稜の満ちたところを統べる」と紐解ける。真に「師木」=「眞木」を示していると思われる。流石に「御眞木」は一人である。

既に述べた「息長一族」の継体天皇・敏達天皇紀に「息長眞手王」が登場した。「眞手」=「手の形で満ちた」=「手の形の島」と紐解いた。初見では「眞=真の」という程度で解釈したが、伝える情報が如何に豊かになるか、あらためて思い知らされる例であろう。こちらを参照願う。

二人の御眞津比賣

この怪し気な問題解決のヒントは大毘古命の子の「比古伊那許士別命」が近隣に居たことであろう。上図を参照願う。大毘古命の子について「大毘古命之子、建沼河別命者、阿倍臣等之祖。次比古伊那許士別命、此者膳臣之祖也」と「祖」の記述が追記される。この「比古伊那許士別命」が唐突に…いつものことだが…上図の場所に現れる。

これに準じて大毘古命の名もなき比賣が上図の「御眞津」に入ったと考えると混迷の問題は解決する。事情は不確かだが伊賀迦色許賣命の比賣である御眞津比賣が夭折したならば、決してあり得ないことではないように思われる。

大毘古命は穗積臣等之祖である內色許男命の妹、內色許賣命の子、正に穂積一族である。そんな血縁関係を匂わせる出来事ではなかろうか。更にはその內色許男命の比賣である伊賀迦色許賣命は二代の天皇に仕えたのである。天皇家の事情を知り尽くした后は大きな力を保有していたと推測される。日本の初国はこうして作られて行った、のであろう・・・。

「御眞木・御眞津」…「伊邪那岐・伊邪那美」その他に多く登場した対になった神々のような表現に感じられるが、何とか安萬侶くん達の言いたいことは伝わりそうである。春日の地は隈なく網羅されることになるであろう。


入日子

長くなりついでに…「入日子」の文字が含まれる。古事記中に初出である。調べると御眞木入日子印惠命が最初で暫く続いて応神天皇紀辺りで終わりとなる。前記では「日高日子」が連続したが・・・何かを伝えようとしているのか・・・崇神天皇紀以降暫く頻出する(計16回)。一方「日子」の表現は遥かに多い(計38回)。少々考えて…、

入日子=入(移し入れる)|日子(日の子:稲)

…と紐解く。水田(本田:ホンデン)に苗を移し替えることを表していると思われる(現在もこの方法が主流のようである)。水稲として初めから水を張った水田に入れるのではなく、移し替えという作業を加えることによって、以下の利点があるとのこと。


(1)本田での生育期間が短縮され,土地の利用度を高めるとともに春先の不安定な気象条件から幼苗を保護することができる,(2)発芽したばかりの幼植物に比べて大きな苗を植えることにより,雑草に対する競争力が大きい,(3)苗を狭い苗代,育苗箱で育てることにより,苗の保護管理(保温するなど)が行きとどき,良い苗を選びそろえて移植することができるなどによるものである。 


万葉集などに「苗代・田植の語が見え、5-6世紀にはすでに行われていた」との解説もあり、ひょっとしたら、である。その時期が分かれば初国の時期も分かる、かも・・・。

第十代から第十五代の天皇間(50~100年間?)に「苗代・田植」が浸透したのであろうか…実に興味深いところではあるが、これ以上の推論はお手上げである。参考資料は世界大百科事典、百科事典マイペディアなど。












2018年4月19日木曜日

畝火山の麓 〔199〕

畝火山の麓

「畝火山」という表記は古事記の中で神武天皇、安寧天皇及び懿徳天皇紀に3件登場するのみである。「畝火(尾)」としても2件が追加されるだけで思う程には多くはない。「畝尾」の「畝」は天香山の山稜が畝っている様を表し「尾」は山稜が延びた端を示したものと解釈した(壱岐島の神岳)。

三つの山頂が「火」のように並んでいる地形は真に特徴的であり、また「御諸」で表現する地形との相違を示している。やはり「畝火」はこの地に唯一名付けられた名称であり、それだけこの地の重要性を意味しているものと思われる。思い付きで名付けたものではなく、極めて真面目に地形を象形した記述をしていることがここでも伺えるのである。


畝火山之美富登

師木津日子玉手見命(安寧天皇)は未開の地、葛城(現在の田川郡福智町)に飛び出した綏靖天皇の跡を継いだのであるが、二代続けて夭逝したようである。神武一家の船出は決して安泰としていたわけではなく、葛城の地の選択と言い、その戦略の正しさを明らかにするには多くの時間を要したのである。

先代と同じくこの天皇も若くして亡くなるのであるが、その陵墓が「御陵在畝火山之美富登」と記述される。度々登場の「富登」同じ意味を持つとして紐解いてみよう。


美(微かに)|富(山麓の坂)|登(登る)


…「山麓の坂を少し登ったところ」と紐解ける。安萬侶コードは「富」=「宀+酒樽」=「山麓の坂」を表す。

畝火山(現香春岳)周辺でそれらしきところを求めると、現在の地名に「殿町」というのが見つかる。福岡県田川郡香春町殿町、香春一ノ岳の北東麓にある。

「殿」⇒「臀」⇒「尻」なんていう置換えも考えられないこともないが、地形象形からの「美富登」=「美しきホト」と読めるように記述していることも確かであろう・・・。

九折の道を辿れば一ノ岳に届く道(現在は立入禁止?)がある。図に示すように少し登った場所に高座石寺がある。

墓所はその近隣ではなかろうか。単刀直入の表現、正に古事記の魅力であろう。単刀直入に解釈することこそが要である。


畝火山之眞名子谷上

大倭日子鉏友命(懿徳天皇)が即位する。この天皇も短命で、御子の多藝志比古命(前記血沼之別、多遲麻之竹等の祖)の活躍が目立つのみである。命の名前が表すように蛇行する川(志)を活用した治水の技術を保有していたと思われる。その先進技術を持って各地の祖となったのであろう。


出雲の血が拡散し繋がりが増えていく。出雲が主役の場面は無くなったが、古事記の中で常に根底に流れる国という扱いである。神様も含めて…。

御陵は「畝火山之眞名子谷上」とある。「天之眞名井」で「眞名=神」と解釈した。

神の近くにあるところ、畝火に祀られる神の傍であろう。現在の同県田川郡香春町五徳、その谷の上を示していると思われる。

天香山(神岳)は倭の畝火山(香春岳)に相当する。彼らの意識の中にそれが脈々と流れているのである。

山がもたらす恵みを知る故に山に対する畏敬の念が生じたと思われる。だからこそ常に山を中心とした生活圏が形成されて行ったのであろう。

上図に示した通り、二人の天皇の墓所は畝火山を挟んで東西の位置にあることが判る。香春一ノ岳と二ノ岳との境、少し山稜が括れたところである。峠の道筋があったのではなかろうか。


真名子谷については前記した長谷部若雀天皇(崇峻天皇)が坐した倉椅柴垣宮があった場所と推定した。

概略を示すと…香春一ノ岳の西麓、牛斬山に至る谷間であり、用明天皇が最初に葬られた「石寸掖上稜」(五徳川沿い)がある(後に科長中陵に移る)。

その用明天皇稜は懿徳天皇稜の近隣にあったと思われる。地図を参照願う。この天皇が坐したところは図中の池邊宮と推定した。

倉椅柴垣宮の意味は、反正天皇の柴垣宮」=「並び守る宮」と同じく、先人の墓所の近隣で並び守るという意味が込められている思われる

過去の天皇の墓所は、その後移転する用明天皇のみならず遠祖の天皇である懿徳天皇の墓所を意味しているのかもしれない。古事記の中では畝火山の山麓にあった宮は上記の二つのようである。



畝火山之北方白檮尾上

最後に「畝火山」が付く名称があと一つある。これまた陵墓なのだが…間違いなく、神倭伊波禮毘古命の墓所である。

何故かスルーをしてしまっていたので、あらためて紐解きを・・・。文字列「北方白檮尾上」を如何に解釈するかであるが、「尾」に注目する。

畝火山には南側と北側の二つの「尾」=「山稜が延びた端」があることから「北方」と修飾しているのである。更にその北方の「尾」が「白檮」で覆われている様を「白檮尾」と表現したと紐解く。とすると…、


北方(北側の)|白檮(白檮の)|尾(山稜の端)|上

…「畝火山の北側にある山稜が延びた白檮がある端の上」と解釈される。既に紐解いた「白檮」=「白く光る切り株」である。



幾度か述べてきたようにこの地は銅の産地、それに使われる火力資源としての木材使用量は膨大であったろう。山の中腹辺りまで伐採された当時の情景が浮かぶ。

近隣に今も残る地名「味見峠」の「味」=「切り口から生える若い枝」と紐解いた。天照大御神の名前そのものに潜められた「火」の支配、それを実現できる「白檮」の地、全てが繋がる表現ではなかろうか。

左は上記と全く無関係の切り株から生える若い枝である。

最後に・・・凡此神倭伊波禮毘古天皇御年、壹佰參拾漆。御陵在畝火山之北方白檮尾上也」と記される。亡くなったのが137歳ではない。


御年=御(統治)した年月

…が「137歳」と記述しているのである。「歳=一ヶ月(陰暦)」(こちらを参照)として求めれば137歲≒11.1年(11年と1ヶ月)となる。畝火之白檮原宮に坐した期間が約十一年と一ヶ月であったと述べている。決して不合理な記述ではない、と思われる。












2018年4月16日月曜日

多遲麻之竹・丹波之竹野 〔198〕

多遲麻之竹・丹波之竹野


前記で大倭日子鉏友命(懿徳天皇)が賦登麻和訶比賣命(亦名飯日比賣命)を娶って誕生した當藝志比古命が血沼之別の祖となったと記されていて、「血」の地形象形として場所を求めた。その彼が更に「多遲麻之竹」の祖にもなったと述べられていた。

他にも「竹野」という表現のあり、「竹」も地形象形の表現と推測される。関連する記述を併せてその意味を紐解いてみよう。


多遲麻之竹

「多遲麻之竹」の「多遅麻」は垂仁天皇紀の「鵠」の探索で出現する木国から高志国まで一連の国に含まれる。稲羽国と旦波国に挟まれた地である。海岸線沿いでは現在の同県行橋市松原・築上郡築上町西八田辺りであるが、城井川と音無川に挟まれた地域が該当するものと推定された。

現在の標高から推測するとこの地も海岸線が大きく内陸側に後退した地形をしていたものと思われる。上記の築上町西八田辺りの大半は海面下にあったであろう。行橋市の中心地のようには入江が大きくなく(難波津)、従って「難波」ではなく、当時は良好な港であったと推測される。

後の説話に登場する「天之日矛」が難波津への入港を遮られ、回ってこの地に落ち着くことになるのだが、至極自然な成り行きのように思われる。

さて、本題の「竹」は何と解釈できるであろうか?…この地は英彦山山系の枝稜線が大きく延びた、その先端に当たるところである。

山稜と言うより既に丘陵の様相であり、長く連なる地形を示している。この細長く延びたところが無数に並ぶ姿を細く真直ぐに生える「竹」(林)に模したと推測される。

地図を拡大表示すると更に明瞭なのであるが、山稜とその間を流れる川が作る地形と判る。

音無川の東岸に沿って山稜が最も長く延びた丘陵地帯を中心としたところがある。築上郡築上町に「弓の師」という地名が地図に記載されている。この地形を象形した表現と推測される。「弓=竹」と置換えられそうではあるが、不詳である。


當藝志比古命」の名前が表すように蛇行する川(志)を活用した治水の技術を保有していたと思われる。その先進技術を持ってこの地の祖となったのであろう。


彼が祖となった地を纏めて示すと図のようになる。海路を使った盛んな交流があったことを示している。

古事記は語らないが稲作技術の伝播の有り様を表しているように受け止められる。

通説は出雲(島根)、但馬(兵庫県北部)、和歌山そして相武国(神奈川)辺りに広がるが、神話の世界で片付けるには無理があろう。


何よりも重要なことは天皇家が如何にして国を開拓し統治する道程を見逃してしまうことであろう。「日本」が開けていくその過程を記している古事記である。



丹波之竹野

若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)が娶った比賣の名前に「旦波之大縣主・名由碁理之女・竹野比賣」と記述され、旦波にあった「竹野」の地名らしき表現が登場する。また同じく天皇が葛城之垂見宿禰之女・鸇比賣を娶って誕生したのが「建豐波豆羅和氣(王)」で、その御子が「道守臣、忍海部造、御名部造、稻羽忍海部、丹波之竹野別、依網之阿毘古等之祖也」と記述され、そこに「丹波之竹野別」と明らかに地名の表現が見つかる。

❶旦波之大縣主・名由碁理

竹野比賣の父親の名前から「竹野」のヒントを得ようと既に紐解いた(こちらを参照)。通説の解釈にある「水垢離」から「湯垢離」として、更に「竹の油抜き」に繋げて事なきを得たような紐解きであった。場所の特定には至らず、結局は「弓の師」に落ち着かせたのであるが、上記と被ってしまうのである。

「大懸主」だから当時はその地まで支配していたのでは?…とも勝手な解釈に陥り、古事記が述べる旦波と多遲麻の区別を有耶無耶にしてしまっていたのである。「由」↔「湯」の置き換えを疑わなかったのである。「碁理」↔「垢離」に至っては全く置き換えの根拠が見出せない。それを押し通してしまったのである。猛省すると同時に新たな解釈を求めることになった。

やはり頻度は決して高くはないが重要なところで出現する「碁」の文字解釈に従うべきと考えて、本来の「由」=「依り所にする、基づく」で紐解く方針とした。「碁」=「其(箕)+石(岩)」と分解すると「箕の形をした山」と紐解ける(例えばこちらを参照)。ならば…、


由(利用して)|碁(箕の形の山)|理(整えられた田)

…「複数の稜線の緩やかな起伏を利用して田を整えた」様を述べていると解釈される。「箕」の地が特筆されるのは、この緩やかな高低差を利用して田畑を開拓して行ったからであろう。

古代の耕作の基本なのである。図を参照願う。英彦山山系から延びた極めて長大な枝稜線が周防灘に届くまで緩やかに傾斜しているのである。

上記の「多遲麻之竹」に近接する場所である。同様に複数の長く延びた山稜が見出だせるところであり、また決してそれらが交差することはない。

「由碁理」の名前が示す場所は音無川と祓川との間にある広大な州を形成している場所と推定される。

図に示した通り「竹野比賣」は現在の京都郡みやこ町綾野辺りに坐していたのではなかろうか。

御子の「比古由牟須美命」も「由↔湯」と解釈していたが…、


由(利用して)|牟(大きな)|須(州)|美(谷間に広がる地)

…「大きな州」に由来する名前と紐解ける。全てが繋がった解釈となる。現在地名は京都郡みやこ町と築上郡築上町に跨る場所となるが、むしろ当時の境界としては音無川を挟んで分かれていたのではなかろうか(図中の白線と黃線)。

ずっと後にこの地の一部は「三尾」と呼ばれていたと紐解いた。既に開化天皇の時代に皇統に絡む人材を輩出していたところなのである。

❷建豐波豆羅和氣

この王の名前はそのままで紐解いてみよう…、

豊(豊国の)|波(傍の)|豆羅(凹凸のある)|和氣(地)


…「豊国の傍らにある凹凸のある地」に居た王と紐解ける。比賣の父親が葛城の地で培った池作りによる治水技術を持って「竹野」の近隣に移ったのであろう。

保有する技術の拡散を狙った、極めて戦略的な施策であった受止められる。と同時にその裏には「大懸主」の解体であり、その地への侵出を果たしたものと推察される。真に素晴らしいことを古事記は伝ている。

この御子の他の祖については省略するが、ほぼ同様の戦略を込めた移動であったと思われる。技術の伝播とその地の統治の両立を考え合わせた真に見事なものであったことが伺える。

更に後の宗賀一族にも「小貝王(別名竹田王)」と現れるが、同じく細く長い田を開拓した王と紐解ける。安萬侶コードは「竹=細長い地形」と思われる。




2018年4月13日金曜日

胸形之三柱神 〔197〕

胸形之三柱神


またまた読み飛ばしが見つかった…国譲りされていない唯一の場所「胸形」である。だから比定は必要ないのでは?…いえいえ、この神様の一人は娶りの対象になり、誕生した御子(阿遲鉏高日子根神及び下光比賣命)は胸形の地に住まっていたのである。大国主命の段に登場する。また天若日子の葬儀の説話にも登場するという、何だか神様というよりとても俗人ぽい役柄なのである。

というわけで、少々横道にそれついでに紐解いてみた。古事記原文[武田祐吉訳]…、

故爾各中置天安河而、宇氣布時、天照大御神、先乞度建速須佐之男命所佩十拳劒、打折三段而、奴那登母母由良邇、振滌天之眞名井而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、多紀理毘賣命、亦御名、謂奧津嶋比賣命。次市寸嶋上比賣命、亦御名、謂狹依毘賣命。次多岐都比賣命。
[よって天のヤスの河を中に置いておいて誓約を立てる時に、天照大神はまずスサノヲの命の佩いている長い劒をお取りになって三段に打ち折って、音もさらさらと天の眞名井の水で滌そそいで囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神の名はタギリヒメの命またの名はオキツシマ姫の命でした。次にイチキシマヒメの命またの名はサヨリビメの命、次にタギツヒメの命のお三方でした]

天安河の河原で行われた天照大神と速須佐之男の宇気比の段である。その第一番の勝負が始まり先ずは速須佐之男命の剣から三人の毘(比)賣が生まれた。胸形(宗像)三女神と呼ばれる、世界遺産の女神達である。霧の中から現れる、なんとも幻想的な設定である。美しい三姉妹の誕生を祝そう。

この少し後に「「故、其先所生之神、多紀理毘賣命者、坐胸形之奧津宮。次市寸嶋比賣命者、坐胸形之中津宮。次田寸津比賣命者、坐胸形之邊津宮。此三柱神者、胸形君等之以伊都久三前大神者也。」と記される。神から人へ還元された…いや、逆か?・・・。

現存する地名との一致があり、居場所を求める作業を怠りがちである。記された名前は毘(比)賣達が坐したところの詳細を述べている筈である。それを求めてみよう。


❶多紀理毘賣命(奧津嶋比賣命)

「奥津嶋」=「離れたところの津の傍らにある島」が単純な読み下しであろう。内陸部に島があるのか?…胸形(宗像)の地形の特異なところである。この台地は釣川で二つに分断され、内陸深くにまで海水が届いていた場所と推定される。遠賀川・彦山川流域と極めて類似した状況であったと推測される。
 
<多紀理毘賣命>


図中青っぽく見えるところは当時は水面下と予想され、古事記では海水と川水が交じる忍海状態と言われるところである。

釣川とその支流が合流、即ち大きな入江に注いでいたと推測される。

そして巨大な三角州の先端が入江の中に浮かぶ島となっていたと思われる場所が見出せる。現地名は宗像市曲辺りである。

それを「奥津嶋」と名付け、「胸形之奧津宮」のあったところと思われる。現在の高見神社辺りではなかろうか

多紀理毘賣命に含まれる「多紀理」の解釈を何とするか?…「紀」=「糸+己」と分解して「撚り糸の己(畝る)の形」の象形とすると…、
 
多(山麓の三角州)|紀(畝る)|理(連なり整えられた田)

…「山麓の三角州が畝る傍らで田が連なり整えられたところ」と紐解ける。現在の「曲」の地名の由来は定かでないが、「紀」と繋がっているのではなかろうか。

現地名の赤間は、この奥津に面するところであることが解る。宗像の中心の地であることは変わらず現在にまで至っている。古代史の”不動点”とも言うべき宗像でさえ、「奥津宮」は海の彼方に移されているのである。

❷市寸嶋比賣命(狹依毘賣命)

「市寸嶋」とは?…「寸」の文字解釈を何とするか?…「寸」=「時」の省略形と見做すと、前記登場の時量師神の解釈に繋がり、「寸」=「之:蛇行する川」である。すると…、
 
<市寸嶋比賣命>
市(集まる)|寸(蛇行する川)

…「蛇行する川が集まるところの島」と紐解ける。現在の河東天満宮のあるところ、蛇行する川に挟まれた三角州である(胸形之中津宮)。「邊津」と「奥津」の間にある宮と読み解ける。

さて、謂れは「狹依毘賣命」と記述される。この地の背後は高い台地であって谷は極めて狭い状況と思われる。
 

狹(狭い)|依(寄り添う)|毘賣

…「狭いところに寄り添って田を並べ生み出す」命と解釈される。釣川の中流域が開拓されるのには多くの時間を要したものと推測される。

❸多岐都比賣命(田寸津比賣命)

胸形之邊津宮に坐したという。しばば登場の文字列なのでそのままで…、
 
多(山麓の三角州)|岐(分かれる)|都(集まる)

…「分かれた山麓の三角州が集まるところ」の比賣と紐解ける。谷筋が複数あり、谷の出口で集まったような地形であろうか。
 
<多岐都比賣命>

尾根から延びる山稜が幾つかの谷間で分岐し、麓で寄せ集められたような地形を示している。

「多岐都」が示す場所は、現在の宗像市深田辺り、現在の徳満神社、葦木神社辺りかと思われる。

比賣が坐していたのは「胸形之邊津宮」と記される。現在の宗像大社辺津宮であろう。上記の二人の比賣と同様に、津に面した小高いところである。

歴史的不動地点は、どうやらこの邊津宮だけなのかもしれない。古事記に沖ノ島は登場しない。

伊邪那岐・伊邪那美の国(島)生み説話の段で述べたように彼らの精神的(信仰的)中心の地であったと思われるが、そこに住まう人々の顔は伺えない。冷淡とも思われるほど、”事実”に徹した記述のように感じられる。

<胸形三柱神>
また田寸津比賣命とも記される…「寸」は上記と同様として…、
 
田|寸(蛇行する川)|津(入江)

…「田が傍にある川が蛇行しながら注ぐ入江」の比賣と紐解ける。別表記として差し支えないようである。

胸形三柱神を纏めて図に示した。海辺から近い順に内陸へと名付けられている。彼らの視点は、「天」なのである。


此三柱神者、胸形君等之以伊都久三前大神者也」にある「三前」=「三つ揃える」と解釈される。伊邪那岐が生んだ墨江之三前大神と同様である。

…全体を通しては古事記新釈の「天照大神・須佐之男命」を参照願う。<2019.01.10 Rev.>