胸形之三柱神
またまた読み飛ばしが見つかった…国譲りされていない唯一の場所「胸形」である。だから比定は必要ないのでは?…いえいえ、この神様の一人は娶りの対象になり、誕生した御子(阿遲鉏高日子根神及び下光比賣命)は胸形の地に住まっていたのである。大国主命の段に登場する。また天若日子の葬儀の説話にも登場するという、何だか神様というよりとても俗人ぽい役柄なのである。
というわけで、少々横道にそれついでに紐解いてみた。古事記原文[武田祐吉訳]…、
というわけで、少々横道にそれついでに紐解いてみた。古事記原文[武田祐吉訳]…、
故爾各中置天安河而、宇氣布時、天照大御神、先乞度建速須佐之男命所佩十拳劒、打折三段而、奴那登母母由良邇、振滌天之眞名井而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、多紀理毘賣命、亦御名、謂奧津嶋比賣命。次市寸嶋上比賣命、亦御名、謂狹依毘賣命。次多岐都比賣命。
[よって天のヤスの河を中に置いておいて誓約を立てる時に、天照大神はまずスサノヲの命の佩いている長い劒をお取りになって三段に打ち折って、音もさらさらと天の眞名井の水で滌そそいで囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神の名はタギリヒメの命またの名はオキツシマ姫の命でした。次にイチキシマヒメの命またの名はサヨリビメの命、次にタギツヒメの命のお三方でした]
天安河の河原で行われた天照大神と速須佐之男の宇気比の段である。その第一番の勝負が始まり先ずは速須佐之男命の剣から三人の毘(比)賣が生まれた。胸形(宗像)三女神と呼ばれる、世界遺産の女神達である。霧の中から現れる、なんとも幻想的な設定である。美しい三姉妹の誕生を祝そう。
この少し後に「「故、其先所生之神、多紀理毘賣命者、坐胸形之奧津宮。次市寸嶋比賣命者、坐胸形之中津宮。次田寸津比賣命者、坐胸形之邊津宮。此三柱神者、胸形君等之以伊都久三前大神者也。」と記される。神から人へ還元された…いや、逆か?・・・。
現存する地名との一致があり、居場所を求める作業を怠りがちである。記された名前は毘(比)賣達が坐したところの詳細を述べている筈である。それを求めてみよう。
❶多紀理毘賣命(奧津嶋比賣命)
「奥津嶋」=「離れたところの津の傍らにある島」が単純な読み下しであろう。内陸部に島があるのか?…胸形(宗像)の地形の特異なところである。この台地は釣川で二つに分断され、内陸深くにまで海水が届いていた場所と推定される。遠賀川・彦山川流域と極めて類似した状況であったと推測される。
図中青っぽく見えるところは当時は水面下と予想され、古事記では海水と川水が交じる忍海状態と言われるところである。
釣川とその支流が合流、即ち大きな入江に注いでいたと推測される。
そして巨大な三角州の先端が入江の中に浮かぶ島となっていたと思われる場所が見出せる。現地名は宗像市曲辺りである。
それを「奥津嶋」と名付け、「胸形之奧津宮」のあったところと思われる。現在の高見神社辺りではなかろうか。
多紀理毘賣命に含まれる「多紀理」の解釈を何とするか?…「紀」=「糸+己」と分解して「撚り糸の己(畝る)の形」の象形とすると…、
現地名の赤間は、この奥津に面するところであることが解る。宗像の中心の地であることは変わらず現在にまで至っている。古代史の”不動点”とも言うべき宗像でさえ、「奥津宮」は海の彼方に移されているのである。
❷市寸嶋比賣命(狹依毘賣命)
「市寸嶋」とは?…「寸」の文字解釈を何とするか?…「寸」=「時」の省略形と見做すと、前記登場の時量師神の解釈に繋がり、「寸」=「之:蛇行する川」である。すると…、
…「蛇行する川が集まるところの島」と紐解ける。現在の河東天満宮のあるところ、蛇行する川に挟まれた三角州である(胸形之中津宮)。「邊津」と「奥津」の間にある宮と読み解ける。
さて、謂れは「狹依毘賣命」と記述される。この地の背後は高い台地であって谷は極めて狭い状況と思われる。
…「狭いところに寄り添って田を並べ生み出す」命と解釈される。釣川の中流域が開拓されるのには多くの時間を要したものと推測される。
❸多岐都比賣命(田寸津比賣命)
胸形之邊津宮に坐したという。しばしば登場の文字列なのでそのままで…、
…「分かれた山麓の三角州が集まるところ」の比賣と紐解ける。谷筋が複数あり、谷の出口で集まったような地形であろうか。
尾根から延びる山稜が幾つかの谷間で分岐し、麓で寄せ集められたような地形を示している。
「多岐都」が示す場所は、現在の宗像市深田辺り、現在の徳満神社、葦木神社辺りかと思われる。
比賣が坐していたのは「胸形之邊津宮」と記される。現在の宗像大社辺津宮であろう。上記の二人の比賣と同様に、津に面した小高いところである。
歴史的不動地点は、どうやらこの邊津宮だけなのかもしれない。古事記に沖ノ島は登場しない。
伊邪那岐・伊邪那美の国(島)生み説話の段で述べたように彼らの精神的(信仰的)中心の地であったと思われるが、そこに住まう人々の顔は伺えない。冷淡とも思われるほど、”事実”に徹した記述のように感じられる。
また田寸津比賣命とも記される…「寸」は上記と同様として…、
…「田が傍にある川が蛇行しながら注ぐ入江」の比賣と紐解ける。別表記として差し支えないようである。
胸形三柱神を纏めて図に示した。海辺から近い順に内陸へと名付けられている。彼らの視点は、「天」なのである。
「此三柱神者、胸形君等之以伊都久三前大神者也」にある「三前」=「三つ揃える」と解釈される。伊邪那岐が生んだ墨江之三前大神と同様である。
「奥津嶋」=「離れたところの津の傍らにある島」が単純な読み下しであろう。内陸部に島があるのか?…胸形(宗像)の地形の特異なところである。この台地は釣川で二つに分断され、内陸深くにまで海水が届いていた場所と推定される。遠賀川・彦山川流域と極めて類似した状況であったと推測される。
<多紀理毘賣命> |
釣川とその支流が合流、即ち大きな入江に注いでいたと推測される。
そして巨大な三角州の先端が入江の中に浮かぶ島となっていたと思われる場所が見出せる。現地名は宗像市曲辺りである。
それを「奥津嶋」と名付け、「胸形之奧津宮」のあったところと思われる。現在の高見神社辺りではなかろうか。
多紀理毘賣命に含まれる「多紀理」の解釈を何とするか?…「紀」=「糸+己」と分解して「撚り糸の己(畝る)の形」の象形とすると…、
多(山麓の三角州)|紀(畝る)|理(連なり整えられた田)
…「山麓の三角州が畝る傍らで田が連なり整えられたところ」と紐解ける。現在の「曲」の地名の由来は定かでないが、「紀」と繋がっているのではなかろうか。
現地名の赤間は、この奥津に面するところであることが解る。宗像の中心の地であることは変わらず現在にまで至っている。古代史の”不動点”とも言うべき宗像でさえ、「奥津宮」は海の彼方に移されているのである。
❷市寸嶋比賣命(狹依毘賣命)
「市寸嶋」とは?…「寸」の文字解釈を何とするか?…「寸」=「時」の省略形と見做すと、前記登場の時量師神の解釈に繋がり、「寸」=「之:蛇行する川」である。すると…、
…「蛇行する川が集まるところの島」と紐解ける。現在の河東天満宮のあるところ、蛇行する川に挟まれた三角州である(胸形之中津宮)。「邊津」と「奥津」の間にある宮と読み解ける。
さて、謂れは「狹依毘賣命」と記述される。この地の背後は高い台地であって谷は極めて狭い状況と思われる。
狹(狭い)|依(寄り添う)|毘賣
…「狭いところに寄り添って田を並べ生み出す」命と解釈される。釣川の中流域が開拓されるのには多くの時間を要したものと推測される。
❸多岐都比賣命(田寸津比賣命)
多(山麓の三角州)|岐(分かれる)|都(集まる)
…「分かれた山麓の三角州が集まるところ」の比賣と紐解ける。谷筋が複数あり、谷の出口で集まったような地形であろうか。
<多岐都比賣命> |
「多岐都」が示す場所は、現在の宗像市深田辺り、現在の徳満神社、葦木神社辺りかと思われる。
比賣が坐していたのは「胸形之邊津宮」と記される。現在の宗像大社辺津宮であろう。上記の二人の比賣と同様に、津に面した小高いところである。
歴史的不動地点は、どうやらこの邊津宮だけなのかもしれない。古事記に沖ノ島は登場しない。
伊邪那岐・伊邪那美の国(島)生み説話の段で述べたように彼らの精神的(信仰的)中心の地であったと思われるが、そこに住まう人々の顔は伺えない。冷淡とも思われるほど、”事実”に徹した記述のように感じられる。
<胸形三柱神> |
田|寸(蛇行する川)|津(入江)
…「田が傍にある川が蛇行しながら注ぐ入江」の比賣と紐解ける。別表記として差し支えないようである。
胸形三柱神を纏めて図に示した。海辺から近い順に内陸へと名付けられている。彼らの視点は、「天」なのである。
「此三柱神者、胸形君等之以伊都久三前大神者也」にある「三前」=「三つ揃える」と解釈される。伊邪那岐が生んだ墨江之三前大神と同様である。