2018年4月23日月曜日

夜麻登登母母曾毘賣命 〔201〕

夜麻登登母母曾毘賣命


第七代孝霊天皇紀(大倭根子日子賦斗邇命)については幾度か関連した記述を行って来たが、纏めて示してみよう。古事記中に登場するのは速須佐之男の子、大年神の後裔である羽山戸神が住まった出雲の地(現在の北九州市門司区羽山辺り)に関わる出来事と読み解いた。

従来よりこれに関する解釈は大混乱である。一つには名前が恐ろしくややこしいものであることに加えて含まれている「夜麻登」=「倭」と置き換えたこと、勿論日本書紀の意図的なものであるが、倭国中心に居た重要人物に仕立て上げられたことによるものであろう。

関連する比賣・毘賣達が重要ではないのではなく、誕生する御子達は天皇家草創期において果たした役割は大きいものと推察される。彼らの居場所及び活躍を告げる記述を読み解かず「欠史八代」のような解釈で闇に葬ってしまった、と言い切れる。

孝霊天皇紀は、出雲に拘りつつも大倭豊秋津嶋の統治へ向けて葛城を開拓し、漸く天神達の思いが叶う兆しが見えて来たところである。既に述べたようにこの紀は時代の転換期、新しい船出の時が訪れたと伝えているのである。そんな背景を思い浮かべながら古事記原文を見てみよう・・・。

大倭根子日子賦斗邇命・・・娶意富夜麻登玖邇阿禮比賣命、生御子、夜麻登登母母曾毘賣命、次日子刺肩別命、次比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命、次倭飛羽矢若屋比賣。四柱。又娶其阿禮比賣命之弟・蠅伊呂杼、生御子、日子寤間命、次若日子建吉備津日子命。二柱・・・。

複数の娶りが発生するが関連するところを抜き出した。意富夜麻登玖邇阿禮比賣命の系列となる。既に紐解いたが概略を示すと(詳細はこちら)・・・、

意富夜麻登玖邇阿禮比賣命は師木津日子玉手見命(安寧天皇)の孫に当たる和知都美命」(淡道之御井宮、淡道嶋の「斗」の淵に居た命)を父親を持つ比賣である。淡海を挟んで淡道嶋の対岸にある「意富(出雲)」、既出の「夜麻登(狭い谷を登る)」として「玖邇阿禮」は…


(三つの頂の山)|邇(近く)|阿(台地)|禮(祭祀する)
 
<北九州市門司区 風師山(風頭山)>
…「風師山近くの台地で祭祀する」比賣と読み解けた。図を参照願うが、「三つの頂の山=風師山」とした。

既出の「玖賀耳之御笠」の解釈に類似する。現在の北九州市門司区にある小森江貯水池、小森江子供のもり公園辺りと推定した。

対岸の淡道嶋の御井に居た和知都美命がこの地の比賣を娶って誕生したのであろう。

また、「夜麻登(山登り)」が汎用の表現であり、決して固有の地名を示すものではないことが判る。

上記したように「夜麻登=倭」とするなら「意富夜麻登」は?…「大倭」?…いや、無視というか、暈したのである。昨今の記録・記憶無しという出来事と同類である。そして都合良いところを取り上げる・・・。


夜麻登登母母曾毘賣命

更に「夜麻登」が続く…「夜麻登登母母曾毘賣命」が生まれたと記述される。「意富」が付かないから都合良し、派手な活躍される比賣に仕立てあげるのである。しかも難解である。詳らかにされることはない!…と考えたのであろうか…思惑通りで今日に至った。

今までの紐解きの最高難度の一つであろう。だが風師山の麓に居場所が絞れれば見えて来る。「母」は原義に戻ると…、


母=両腕で子を抱えた姿


<北九州市門司区 風師山(風頭山)>
…の象形とある。「母母曾」=「両腕で抱えた姿が二つ重なる」と解釈されるが、それは何を意味しているのであろうか?・・・。

今一度「風師山」を眺めて詳細を見るとこの山は三つの峰(頭)に加えて更に二つの頭が両側にあり、そこから枝稜線が延びている地形であることが判る。

この残りの二つの頭は「肩」の役割をしていると見ることができる。図を参照願う。

二つの腕が重なったようになって風師山主峰の枝稜線を形成しているように見える。驚きである。山の形状を如何に注意深く観察しているか、そしてそれを当て字で表現しているのである。


<北九州市門司区 風師山(風頭山)>
母親のところから更に「夜麻登」で行き着く場所、当時を再現しているのかどうかは定かでないが、少し平坦なところが見える。

おそらくその場所が比賣の在処であったろう。畝火の傍の高佐士野でもなく、ましてや奈良大和など全く無関係であろう。

古事記ではこの段のみの登場であるが、日本書紀で対応するとされる「倭迹迹日百襲姫命」は様々な活躍をされる。「夜麻登」を抹消するには余りに主要なキーワード、むしろ積極的に「倭」として利用しようとした魂胆が見える。

図中の「倭飛羽矢若屋比賣」及び阿禮比賣命の妹の蠅伊呂杼の御子「日子寤間命」については下記する。全てこの地に関わる名前を持っていたことが判る。「倭」の文字が見える。安萬侶くんの戯れも含まれているのである。

風師山は「風頭山」とも言われるそうである。由来は定かでないが、「風が吹いて来る方向にある」とか言われるようであるが、「風」=「扇子」である。「師」=「諸々」「頭」=「山頂」と読めば、扇子の先の折り畳みを示していると思われる。実に見事な命名ではなかろうか。


日子刺肩別命



<北九州市門司区 風師山(風頭山)>
次いで生まれたのが「日子刺肩別命」である。この命の居場所は皆目不明であったが、上記の「夜麻登登母母曾毘賣命」が解けて初めて気付くことになった。

風師山の山の形状を熟知しなければ到底紐解きは…言い換えれば古代に於いてそれができていなければ…全く為し得なかった命名であろう。

その頂上の拡大図を示す。最も西側にある「頭」は「刺」が刺さったように突出している様が見て取れる。

「別」が付く名前は領地を持つことを表すと思われる。彼の居場所は風師山西麓、現在の北九州市門司区片上町辺りと推定される。「片」↔「肩」ではなかろうか…。


日子(稲)|刺(突出した)|肩(山稜の肩)|別(地を治める)

…「突出した山稜の肩の麓で稲が実る地を治める」命と解釈される。風師山西麓は稀に見る急斜面であり、麓は海が間近に迫る地形とである。この限られた地を開拓するには相当の技術が必要であったと推測される。

これが後に述べる彼が祖となった地との密接な関連を明らかにするのである。「日子刺肩別命」が保有した稲作の技術は倭国周辺地域の開拓に重要な役割を果たしたものと推察される。何度も述べたように大倭豊秋津嶋の開拓はこんな地形を手中にする以外道はなかったのである。

余談だが・・・日本書紀には彼は登場しない。無視である。国の成立ちの礎である重要技術保有者を蔑ろにする書物は史書として無価値であろう。「記紀」と纏める表現に途轍もなく違和感を感じる。

次の「比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命」は既に述べたように後に「若日子建吉備津日子命」と共に「吉備上・下道臣」として活躍することになる。鉄の産地への着実な布石となるのである。出雲の地(北九州市門司区)に育った彼らが吉備(下関市吉見)との間を行き来することは極めて容易であったろう。この戦略は真に見事である。


伊佐勢理=小ぶりだが田を連ねて整える様を促す

…命と紐解ける。母親の地元で吉備に向かうまでは水田の整備に精を出したと推測される。


倭飛羽矢若屋比賣

もう一人の比賣も紐解こう。羽山戸神の子孫に「久久紀若室葛根神」が居たがその地に重なるところと思われる。「倭」=「夜麻登」ではない。安萬侶くんの戯れである。「倭飛羽矢若屋」は…、


倭(曲がる)|飛(飛び散る)|羽(端)|矢(谷)|若屋(小ぶりな岩屋)

…「(水が)曲がって飛び散る端にある谷の小ぶりな岩屋」の比賣と紐解ける。上図に示したところと思われる。古事記と日本書紀の編者達に翻弄されっ放しというところであろうか。情なし、である。


日子寤間命


妹の蠅伊呂杼から「日子寤間命」が誕生する。針間牛鹿臣之祖となったと記される。もう一人の若日子建吉備津日子命は上記した通り。少々考えさせられる名前なのであるが、「寤」=「目覚める、逆らう」の意味があるとのこと。「間」=「山間」とすると…、


寤間=寤(逆らう)|間(山間の谷川)

…「谷川を堰き止める」日子の命と解釈される。現物が残っている筈はないのでなかなか困難な比定となるのだが、地図をよく見ると、小森江貯水池の手前には幾つかの堰が設けられているように伺える。おそらく現在の形になる前から貯水の工夫がなされていたところと推察される。

またまた余談だが・・・昨今の◯池事件など一連の行政官庁の不始末との重なりを感じてしまう。日本書紀の編者(勿論もっとお上の方の指示であろうが…)肝心なところを削除しろ!とのご命令があったに違いない。が、安萬侶くん達は消さなかった!…何としたか…これ以上はない程の難解な表現にしてしまったのである。1,300年間、ともするとこれからも暫くは続く「不詳」の世界に陥れたのである。勿論本ブログの読者以外は、であるが…。

当て字の時代だからできたこと、そうであろうが、現在ならばもっと良い手があるかもしれない。官僚諸君、いつ我が身に降りかかるかもしれない事態に備えて準備、夢々怠ることなかれ!…である。それにしても1,300年は長い…いえいえ、これからはAIが処理をしてくれる…筈、と思う。

娶りの場所が出雲へと延びたと解釈される。また、それだけ少しは余裕が生まれたことも推し量ることができる。更に重要なことは「吉備国」対応の主要中間地点、淡道の確保が確約されることであろう。