2018年4月19日木曜日

畝火山の麓 〔199〕

畝火山の麓

「畝火山」という表記は古事記の中で神武天皇、安寧天皇及び懿徳天皇紀に3件登場するのみである。「畝火(尾)」としても2件が追加されるだけで思う程には多くはない。「畝尾」の「畝」は天香山の山稜が畝っている様を表し「尾」は山稜が延びた端を示したものと解釈した(壱岐島の神岳)。

三つの山頂が「火」のように並んでいる地形は真に特徴的であり、また「御諸」で表現する地形との相違を示している。やはり「畝火」はこの地に唯一名付けられた名称であり、それだけこの地の重要性を意味しているものと思われる。思い付きで名付けたものではなく、極めて真面目に地形を象形した記述をしていることがここでも伺えるのである。


畝火山之美富登

師木津日子玉手見命(安寧天皇)は未開の地、葛城(現在の田川郡福智町)に飛び出した綏靖天皇の跡を継いだのであるが、二代続けて夭逝したようである。神武一家の船出は決して安泰としていたわけではなく、葛城の地の選択と言い、その戦略の正しさを明らかにするには多くの時間を要したのである。

先代と同じくこの天皇も若くして亡くなるのであるが、その陵墓が「御陵在畝火山之美富登」と記述される。度々登場の「富登」同じ意味を持つとして紐解いてみよう。


美(微かに)|富(山麓の坂)|登(登る)


…「山麓の坂を少し登ったところ」と紐解ける。安萬侶コードは「富」=「宀+酒樽」=「山麓の坂」を表す。

畝火山(現香春岳)周辺でそれらしきところを求めると、現在の地名に「殿町」というのが見つかる。福岡県田川郡香春町殿町、香春一ノ岳の北東麓にある。

「殿」⇒「臀」⇒「尻」なんていう置換えも考えられないこともないが、地形象形からの「美富登」=「美しきホト」と読めるように記述していることも確かであろう・・・。

九折の道を辿れば一ノ岳に届く道(現在は立入禁止?)がある。図に示すように少し登った場所に高座石寺がある。

墓所はその近隣ではなかろうか。単刀直入の表現、正に古事記の魅力であろう。単刀直入に解釈することこそが要である。


畝火山之眞名子谷上

大倭日子鉏友命(懿徳天皇)が即位する。この天皇も短命で、御子の多藝志比古命(前記血沼之別、多遲麻之竹等の祖)の活躍が目立つのみである。命の名前が表すように蛇行する川(志)を活用した治水の技術を保有していたと思われる。その先進技術を持って各地の祖となったのであろう。


出雲の血が拡散し繋がりが増えていく。出雲が主役の場面は無くなったが、古事記の中で常に根底に流れる国という扱いである。神様も含めて…。

御陵は「畝火山之眞名子谷上」とある。「天之眞名井」で「眞名=神」と解釈した。

神の近くにあるところ、畝火に祀られる神の傍であろう。現在の同県田川郡香春町五徳、その谷の上を示していると思われる。

天香山(神岳)は倭の畝火山(香春岳)に相当する。彼らの意識の中にそれが脈々と流れているのである。

山がもたらす恵みを知る故に山に対する畏敬の念が生じたと思われる。だからこそ常に山を中心とした生活圏が形成されて行ったのであろう。

上図に示した通り、二人の天皇の墓所は畝火山を挟んで東西の位置にあることが判る。香春一ノ岳と二ノ岳との境、少し山稜が括れたところである。峠の道筋があったのではなかろうか。


真名子谷については前記した長谷部若雀天皇(崇峻天皇)が坐した倉椅柴垣宮があった場所と推定した。

概略を示すと…香春一ノ岳の西麓、牛斬山に至る谷間であり、用明天皇が最初に葬られた「石寸掖上稜」(五徳川沿い)がある(後に科長中陵に移る)。

その用明天皇稜は懿徳天皇稜の近隣にあったと思われる。地図を参照願う。この天皇が坐したところは図中の池邊宮と推定した。

倉椅柴垣宮の意味は、反正天皇の柴垣宮」=「並び守る宮」と同じく、先人の墓所の近隣で並び守るという意味が込められている思われる

過去の天皇の墓所は、その後移転する用明天皇のみならず遠祖の天皇である懿徳天皇の墓所を意味しているのかもしれない。古事記の中では畝火山の山麓にあった宮は上記の二つのようである。



畝火山之北方白檮尾上

最後に「畝火山」が付く名称があと一つある。これまた陵墓なのだが…間違いなく、神倭伊波禮毘古命の墓所である。

何故かスルーをしてしまっていたので、あらためて紐解きを・・・。文字列「北方白檮尾上」を如何に解釈するかであるが、「尾」に注目する。

畝火山には南側と北側の二つの「尾」=「山稜が延びた端」があることから「北方」と修飾しているのである。更にその北方の「尾」が「白檮」で覆われている様を「白檮尾」と表現したと紐解く。とすると…、


北方(北側の)|白檮(白檮の)|尾(山稜の端)|上

…「畝火山の北側にある山稜が延びた白檮がある端の上」と解釈される。既に紐解いた「白檮」=「白く光る切り株」である。



幾度か述べてきたようにこの地は銅の産地、それに使われる火力資源としての木材使用量は膨大であったろう。山の中腹辺りまで伐採された当時の情景が浮かぶ。

近隣に今も残る地名「味見峠」の「味」=「切り口から生える若い枝」と紐解いた。天照大御神の名前そのものに潜められた「火」の支配、それを実現できる「白檮」の地、全てが繋がる表現ではなかろうか。

左は上記と全く無関係の切り株から生える若い枝である。

最後に・・・凡此神倭伊波禮毘古天皇御年、壹佰參拾漆。御陵在畝火山之北方白檮尾上也」と記される。亡くなったのが137歳ではない。


御年=御(統治)した年月

…が「137歳」と記述しているのである。「歳=一ヶ月(陰暦)」(こちらを参照)として求めれば137歲≒11.1年(11年と1ヶ月)となる。畝火之白檮原宮に坐した期間が約十一年と一ヶ月であったと述べている。決して不合理な記述ではない、と思われる。