2018年4月29日日曜日

木国の比賣二人 〔203〕

木国の比賣二人


古事記の中で「木国」が初登場するのは大国主命が八十神に徹底的に扱かれた段である。「木國之大屋毘古神」として、いつもながらの唐突さでお出ましである。残念ながら特定するには至らず、「大屋」=「大きな山稜」から英彦山山系の端にある大平山の麓辺りと漠然と推定した。

その後も「木国」として記述されるもののその詳細な場所を求める機会もなく今日に至った、というわけである。情報豊かな件は、何と言っても娶りの記述、娶りの比賣二人とその御子達の居場所を求めて木国の細部に入り込んでみようかと思う。


1.木國造之祖宇豆比古之妹:山下影日賣

古事記原文(抜粋)…、

大倭根子日子國玖琉命、坐輕之堺原宮、治天下也。・・・<中略>・・・又娶內色許男命之女・伊賀迦色許賣命、生御子、比古布都押之信命・・・<中略>・・・娶木國造之祖宇豆比古之妹・山下影日賣、生子、建內宿禰。

大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)が內色許男命之女・伊賀迦色許賣命を娶って誕生したのが「比古布都押之信命」とあり、その命が木国の比賣を娶ったと記される。母親の伊賀迦色許賣命を開化天皇(比古布都押之信命とは異母兄弟)が娶って誕生したのが眞木入日子印惠命(後の崇神天皇)と御眞津比賣に二人と記述されている。

穂積一族の伊賀迦色許賣命が当時の皇統に深く関わる、と記されている。その前夫との間に生まれた「比古布都押之信命」の活躍の物語となる…「欠史」だから名前の紐解きなのだが・・・。

比古布都押之信命 

命の居場所を求めてみよう。母親、伊賀迦色許賣命の近隣と粗方目星を付けて、その前に名前の紐解きである。「布都」は伊邪那岐命の十拳劒から誕生した「建御雷之男神、亦名建布都神、亦名豐布都神」に含まれた「布都」であろう。前記を参照願うが「布都」=「沸水(湧水)」と解釈した。「押」=「手を加えて田にする」大倭帶日子國押人命(孝安天皇)、天押帶日子命など使用されていた文字である(詳細はこちらを参照)。

残るは「信」この文字の解釈はネット検索程度では出て来ない、というかおそらく全く手付かずの状況であろう。致し方なく「信」=「亻+言」とすると・・・月讀命に繋がった。「言」=「辛+口」であり字源的には「刃物で切り開いてはっきりと言う」と解釈されている。

安萬侶コードは「口」=「田」、「辛」=「鋤・鍬・鎌」として「大地を耕地にする」と解釈する。これが月讀命の「讀」=「言+賣」から出て来た「言」の解釈であった。全体を通してみると…「比古布都押之信命」は…、


比(並べる)|古(定める)|布都(湧水)|押(田を作る)|之|信(大地を耕地にする人)|命

「田畑を並べ定めて湧き水の田を作り大地を耕地にする人」の命と紐解ける。「毘古」と記さないのは水田ばかりではないことを告げているのであろう。この命は湧き水を活用したのである。谷川の豊かな水ではなく山からの湧き水で田畑を作り耕したという、正真正銘最強の建御雷之男神の再来と述べているのである。

ひょっとしたら「一言主神*」=「総て田にすることを司る神」かもしれないが、これはまた後日としよう・・・。

さて、それでは何処に坐して居たのであろうか?…春日の地で探索してみよう。



大坂山から延びて戸城山に繋がる尾根の麓、傾斜が大きく川とはなっていない場所と推定できる。湧き水が豊かな地であったろう。それが「布都押之信」の名前の所以と思われる。この有能な御子は、当然、この地に留まらず活躍されることになる。二人の比賣を娶るのであるが、木国に関連するところを抜き出して述べる。

木國造之祖宇豆比古・山下影日賣

御子に「建内宿禰」が登場する。邇藝速日命の後裔、穂積一族に連なる古事記中屈指の臣下である。その有能さには真っ当な根拠があったと判る。さて出自を解き明かしてみよう。「木国」の詳細は未詳なのであるが、果たして辿り着けるであろうか・・・先ずは比賣の父親からである。

「宇豆比古」は何処に居たのであろうか?…「宇」=「山麓」と紐解いてきた。「豆」=「凹凸の地形」とすると…、


宇(山麓の)|豆(凹凸の地形)|比(並べる)|古(定める)

…「山麓の凹凸の地に田畑を並べ定める」と紐解ける。現在の築上郡上毛町の穴ケ葉山古墳群近辺に宇野の地名がある。「宇野」=「山麓の野原」であろう。「宇豆」は凹凸の地、現地名同町下唐原である。比賣の名前は…、

山下(山裾)|影(姿・形)|日(火)|賣(女)

…「山裾が火の形をしたところの女」と紐解ける。「日」=「火」は既に幾度も登場した。「太陽の炎」を簡略に「火」と表したものと解釈される。下図に示した場所に用意されていたようである。実際の地形を見ると「炎」が適切なように思われるが…。現地名、築上郡上毛町東下にある山稜の端が「火」の形をしている場所と思われる。



誕生した「建内宿禰」は臣下としての最高位に就き何代もの天皇に仕えることになる。また子孫は倭国の隅々にまで広がり国の発展に寄与したと告げている。息子の一人は木臣となって赴任することになる。生誕の地の築上郡上毛町東下には下村という旧地名が地図に記載されている。

2.木國造荒河刀辨之女:遠津年魚目目微比賣

時が過ぎて御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の時代に移る。古事記原文(抜粋)…、

御眞木入日子印惠命、坐師木水垣宮、治天下也。此天皇、娶木國造・名荒河刀辨之女遠津年魚目目微比賣、生御子、豐木入日子命、次豐鉏入日賣命。二柱。


この比賣の名前は既に紐解いた。「沈魚落雁閉月羞花」の類かも?…なんて、安萬侶くんの美人の表現力は生々しいのである。再掲すると・・・、

遠津(遠い川の合流地)|年魚(鮎)|目目(両目)|微(何とも言えないほど美しい)

…「遠い川合の場所に住む鮎のように目が何とも言えないほど美しい」比賣となる。木国に流れる現在の山国川(福岡県と大分県の県境)に耶馬渓・青の洞門という秘境がある。その少し下流で屋形川(図の右下)との合流点があり、更に少し下流に「鮎帰」という地名がある。回遊する鮎の住処であろうか。この比賣の美しさは尋常ではなかったようである。・・・などと、すっかり嵌ってしまったようになっていたのであるが、今回は母親の名前からきちんと紐解いてみよう。

木國造荒河刀辨の「刀辨」は何と紐解くか?…、


刀(刀の形)|辨(地を治める)

…「刀の形の地を治める女」と読み解ける。「辨」=「別」と同義と解釈する。下図の上部、荒河(山国川)に接するところを指し示していると思われる。沖積の進行が未熟な時代、大河に突き出た崖のような場所、後に登場する「淵」の表現に繋がるのではなかろうか。

因みに類似の「戸辨」=「凹地を治める女」と解釈するのであるが、Wikipediaによると「ヤマト王権以前の称号(原始的カバネ)の一つで、4世紀以前の女性首長の名称に使われた。後に一般的姓や地名として使われる。トベはトメ(戸賣、斗女、刀咩)の語源でもある」十把一絡げでは勿体無い、地形を示しているのに・・・。

現在の山国川の河口付近、大分県豊津市辺りの氾濫は絶え間なく、河流も大きく変化した経緯があるという。この大河の畔を豊かな地にするには多くの時間が必要であった。遠賀川、紫川、長峡川、犀川、祓川、小波瀬川等の古事記に登場すると比定した大河と全く変わりがない、いや荒河と名付けるならもっと人々に驚異を示す状態であったと思われる。

比賣の在処も大河荒川沿いではなく、少し西側の英彦山山系が作る多くの谷間の一つに位置していたのであろう。図に示されているように有田川と東友枝川とが作る「津」これを「遠津」と表現したと推定される。


御子は「豐木入日子命、次豐鉏入日賣命。二柱」と記述される。豐鉏比賣命は「拜祭伊勢大神之宮也」と書かれているが、現在の斎宮との関係は不詳のようである。

豐木入日子命・豐鉏比賣命

この御子達の在処は上図に示した通りであるが…、

豊(大きな)|木(山稜)

…「大きな山稜」に関わるところにいたのであろう。英彦山山系の大平山が、その名前の通り山頂が大きく広い姿をしている。

現地名は築上郡上毛町有田であるが、川沿いの谷間に豊かな棚田が作られているのが伺える。当時の水田に好適な環境であったと思われる。

「豐鉏比賣命」については、延びた山稜の端が割り込んだ形を示しているところと思われる。幾度か登場の「鉏」の解釈である。

「豐」は「豐日」の意味以外にも用いている例であろう。本来の文字の意味である。

「豐木入日子命者、上毛野君、下毛野君等之祖也」とある。「上毛野」は今も残る地名として現在の福岡県築上郡上毛町に特定できるであろう。ズバリが残る稀有な地名である。「下毛野」は山国川の下流にあった場所であろう。

「上毛野」は上記の現在の築上郡上毛町の穴ケ葉山古墳群近辺と思われる。中心地となれば根拠は希薄であるが上毛中学校辺りかもしれない。

一方の「下毛野」の中心地は何処であろうか?…荒河の上流が上毛であるならその下流域が下毛に該当すると思われる。現在の築上郡吉富町、稜線が伸び切った端のところである。

「下毛野君」に関する情報は少なく決め手に欠けるが、おそらくは天仲寺公園(吉富公園)がある高台にあったのではなかろうか

繰り返すが、遠賀川(遠賀郡)、紫川(小倉市)、今川・祓川・長峡川(行橋市)の河口との地形的類似性をあらためて気付かされる。古代はこれらの地に棲みつき開拓しながら発展してきたと思われる。一つの場所での成功をそのノウハウを御子の派遣で他の場所に伝播しながら領地を拡大していったと読取ることができる。

冒頭に述べた「木國之大屋毘古神」が坐していたところは、おそらく、遠津年魚目目微比賣が住まっていた近隣であっただろう。このモナリザの微笑を想起させる比賣にお目もじすることは…勿論古事記の中で…ないのであろう。それと共に木国の詳細も遠津になるようである。

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一言主大神*

於是答曰「吾先見問、故吾先爲名告。吾者、雖惡事而一言、雖善事而一言、言離之神、葛城之一言主大神者也。」天皇於是惶畏而白「恐我大神、有宇都志意美者不覺。」白而、大御刀及弓矢始而、脱百官人等所服衣服、以拜獻。爾其一言主大神、手打受其捧物。
[そこでお答え申しますには、「わたしは先に問われたから先に名のりをしよう。わたしは惡い事も一言、よい事も一言、言い分ける神である葛城の一言主の大神だ」と仰せられました。そこで天皇が畏まつて仰せられますには、「畏れ多い事です。わが大神よ。かよう
に現實の形をお持ちになろうとは思いませんでした」と申されて、御大刀また弓矢を始めて、百官の人どもの著ております衣服を脱がしめて、拜んで獻りました。そこでその一言主の大神も手を打つてその贈物を受けられました]

概ね武田氏の訳のように解釈されて来ているようである。しかし、いつものことながら「ひとこと」で善悪を言い分けるという内容と天皇が畏れ入ることが、決して違和感なく繋がっているわけでもない。言葉の意味は通じるが、一体何を伝えたいのかと考えると奇妙な文章である。
「一言主大神」が現実の姿を持っていることに恐れ入った、と読める内容であるとし、「一言」の意味は考慮に入っていないのである。どうやら「言」=「辛+口」として「大地を農具で耕地(口)にする」と紐解いた安萬侶コードの出番のようである。「一」=「一途に、専ら」として…、

一言主大神=一途に大地を耕地にすることを司る神

…と紐解ける。

では「雖惡事而一言、雖善事而一言、言離之神」は如何に解釈できるであろうか?…「事」=「祭事(まつりごと)」、これは「八重事代主神」の解釈で登場した。また「離」=「区分けする」とすると…、

悪しき祭り事であっても一途に耕地(口)を作り、
良き祭り事であっても一途に耕地(口)を作り、
その耕地を区分けして田にする神

…と読み解ける。

だからそんな大変な神が現実に目の前に現れたから畏敬したのである。祭り事に関係なく一言主大神が居れば田は見事に稲穂を揺らすようになると言っている。安心せよ!…とも受け取れるし、もっと祭祀せよ!…と言っているとも・・・。いずれにしろ葛城が豊かな大地へと変貌したことを告げているのである。

「言」について関連する名前 ①月讀命 ②比古布都押之信命→全て「大地を田にする」の解釈である。大地を「口」に切り取って田にする象形と紐解ける。
(2018.05.20)