2019年4月29日月曜日

大雀命(仁徳天皇):蝮之水齒別命 〔341〕

大雀命(仁徳天皇):蝮之水齒別命


近淡海国(難波津)の開拓を試みた大雀命(仁徳天皇)は生まれた御子をその海辺に配置した。大河の河口付近に侵出した類稀な天皇として特筆されるべきであろう。民の竈から立ち昇る煙からその窮状を知って租税を軽減したこと…「聖帝」と言われる所以…が判り易い文で記述され、目立つところとなっているが、「難波之高津」に宮を構えたことがもっと強くこの天皇の事績を暗示していると思われる。

その三男に恐ろしげな名前の御子が登場する。「蝮之水齒別命」、とても天皇家の御子の名前とは思えない命名なのである。巷で古事記に魅せられた方々が感じる一側面であろうか。古事記の大胆さは、体裁もさることながら何より地形象形するための文字の選択を優先していると読み解いて来た。


<石之日賣命の御子>
この「蝮」も山稜の端が作る地形を表していると読み解いたが、不十分であったことは否めない。今一度「蝮」の地をじっくりと眺めてみようかと思う。

古事記原文…、

此天皇、娶葛城之曾都毘古之女・石之日賣命大后、生御子、大江之伊邪本和氣命、次墨江之中津王、次蝮之水齒別命、次男淺津間若子宿禰命。四柱。

右図に誕生した御子達が坐した場所を示した。図中の白破線は、当時の海岸線(推定)を示す。

ざっと見ただけでも五本の大河が流れ込む巨大な入江であって現在の豊前平野はすっぽりと海中に没している状況である。

縄文海進と沖積の未熟さとが重なって、現在とは全くことなる河口付近の様相なのである。また、それを念頭に置かずに古代を伺うことは難しいようである。

唯一三男は内陸の場所に土地を得ていた。これはその後に引き起こる事件の布石でもあり、その大事件によって彼らが住まう地の様相が見えて来るのである。

さて、「蝮」の棲息する場所の詳細を求めてみよう。既に記述したところも併せて掲載する。


蝮・齒

三男は「蝮」とは恐ろし気な命名なのであるが、これは安萬侶くんの戯れの一種かと…後に「蝮」=「多治比」と表記して居場所を教えてくれる。「多治比」は…、
 
多(山稜の端の三角州)|治(治水する)|比(並べる)
  
…と紐解ける。水田が奇麗に治水されて並んでいる様を表している。
 
<蝮之水齒別命>
ただこの地域では「多治比」は至る所に見出せて、一に特定は難しいことも判る。

「蝮」=「虫+复」と分解する。「虫」=「蛇」を象った様で、畝った地形を表すと解釈される。

「复」=「元に戻る」を意味すると解説される。山稜の端が一旦途切れかかって、また盛り上がり延びている様を表しているのではなかろうか。

ところが困ったことには、やはり、この地はどうやらそんな地形が多く発生している。

少々以前に遡るが、神倭伊波禮毘古命が「豐国宇沙」で接待を受けた場所が足一騰宮と記載された。山稜の端が一段高くなる地形を象った表記と紐解いた。「蝮」から直線距離約3kmのところである。

数ある類似の地形の中から図に示した対になったところが見出せる。現在はゴルフ場になっていて些か当時の地形との差異があるかもしれないが、何と!…蝮の牙の様な・・・そのように並んでいることが必須だったわけである。すると「水歯」は…、
 
水(平らな)|歯(牙)

…と解釈される。「牙」の住所は京都郡みやこ町勝山大久保の平尾となっている。宮の場所は定かでないが、二つの「牙」の先端辺りと推定した。


<水歯>
蝮之水齒別命は後に「反正天皇」として即位する。その段に…、

御身之長、九尺二寸半。御齒長一寸廣二分、上下等齊、既如貫珠。

…と記述されている。歯の長さまで?…注目されるのが「上下等齊」である。

「上下」を図のように解釈すると、見事に揃った「牙」であることが解る。「蝮」の居所、ほぼ確定の感覚である。

十二分に戯れている気もするが、象形表示としては納得せざるを得ないものではなかろうか。


こんな文字遊びに触れて、「古事記・万葉集」の世界に住まう人々の心の豊かさを感じさせられる。実に爽快である。

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余談だが・・・勝山御所CCのコースレイアウトを拝見すると、およそ半分のホールが「水歯」の上にあることが分る。紹介文に「コース全体にフラットで、自然を十分に活かしたコースとなっております。特にインは池を活かしており、各ホールとも攻めがいのあるホール設計となっています。また、自然のままの赤松がセパレートに使われていたり、コース内には7つの池があるなどしてプレーをしながら雄大な自然を楽しめるようになっております」と記されている。

良くぞ地形を残してくれたものと謝辞を述べると共に、プレーされる方々、くれぐれも「蝮」にご注意を!!・・・。

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<多治比之柴垣宮と難波之高津宮>
いやはや、皇族に付ける名前として、これで良いのか?…なんてことは古事記に当て嵌まらない。

地形を如何に忠実に…地名も地番も何もない時代に読み手と共有するために…記述したのであろう。

神(人)名を読み解いて初めて古事記の伝えるところが見えて来る。果たせなかった1,300年、である。


唯一入江から遠ざかった場所である。それは何のため?・・・という訳ではないのであろうが、上記したように「難波之高津宮」の場所の特定に重要な情報を提供することになったのである。

またまた余談だが・・・蝮の古名を「タジヒ」と言うのは、蝮之水齒別命に由来するとか(「蝮 タジヒ」でネット検索すると幾つかの記述が見つかる)。そうだとしたら、上記のように古名ではなく、別名であって、しかもある特定の場所にのみ適用されることなのである。

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相続争いの大事件が勃発するが、長男の「大江之伊邪本和氣命」が即位し、その後を引き継いで天皇となる。そして坐したところが「多治比之柴垣宮」と記される。上図に示したように山麓で高津宮と並ぶ位置にあったと推定される。詳細はこちらを参照願うが、高津宮の場所の特定にも有効な記述なのである。

その宮は焼失したわけで、更に後の天皇もその地に宮を造ることはなかったようである。難波の地は、まだまだ手出しするには尚早の時だったと伝えていると思われる。



2019年4月25日木曜日

當摩之咩斐・酢鹿之諸男・菅竈上由良度美 〔340〕

當摩之咩斐・酢鹿之諸男・菅竈上由良度美


新羅の王子、天之日矛の子孫が多遲麻国に拡散する記述があった。その系譜から「當摩」の地へと更に広がって行ったことが伝えられている。この系譜は重要な位置付けで、そこから息長帶比賣命が出現するのである。概略は、そんなに難しくなく読み取れるが、當麻の地の人々だけに詳細となると戸惑ってしまう…ようである。

初見で一応は紐解いたところではあるが、再度見直してみた結果を述べてみよう。関連する古事記原文は…、

故更還泊多遲摩國、卽留其國而、娶多遲摩之俣尾之女・名前津見、生子、多遲摩母呂須玖。此之子、多遲摩斐泥、此之子、多遲摩比那良岐、此之子、多遲麻毛理、次多遲摩比多訶、次淸日子。三柱。此淸日子、娶當摩之咩斐、生子、酢鹿之諸男、次妹菅竈由良度美。此四字以音。
故、上云多遲摩比多訶、娶其姪・由良度美、生子、葛城之高額比賣命。此者息長帶比賣命之御祖。故其天之日矛持渡來物者、玉津寶云而、珠二貫・又振浪比禮比禮二字以音、下效此・切浪比禮・振風比禮・切風比禮、又奧津鏡・邊津鏡、幷八種也。此者伊豆志之八前大神也。

新羅の王子ではあるが、天之日矛の居場所は「天」であって、大国主命の後裔の記述で登場した地、現在の壱岐島の北西部と推定した。
 
<天之日矛>

少々余談ぽくなるが・・・三叉矛は、トライデントと言われ、海神ポセイドンが所持するものと知られている。何とも勇ましい神が新羅から来たものである。

この血統が皇統に深く絡み、応神天皇はその海神の末裔になる…海神ポセイドンのことが伝わっていたのか?…妄想の領域である
・・・。

「日(炎)」と解釈することによって古事記の伝えるところが見事に浮かび上がって来るようである。並の王子ではなかった…のであろう。

この王子の系譜の詳細はこちらを参照願うとして、上記の「此淸日子、娶當摩之咩斐、生子、酢鹿之諸男、次妹菅竈由良度美。此四字以音」を再度紐解いてみよう。
 
當摩之咩斐
 
「當摩(麻)」の地名が登場する。既に記述したが、開化天皇紀の日子坐王が山代の苅幡戸辨を娶って産まれた小俣王は「當麻勾君之祖」と記述される。再掲すると…、
 
當([當]の字形)|麻(擦り潰された)

…「[當]の形の地形で擦り潰されたような地」と紐解ける。また「當(向き合う)|麻(魔:人を迷わすもの)|勾([勹]の字曲がりの形)」とすると、「人を迷わすものに向き合う勾がりの地」とも読み取れると解釈した。「麻」の文字を略字と見做して両意に受け取れるように記述されたと推測した。

<當麻勾君>
現地名直方市上境にある水町池を囲む山稜である。福智山・鷹取山の裾野に当たる。

正に修験道の聖地として存在したことを告げている。併せて「當」の文字で地形を象った表記であるとも読み解いた。

現在に繋がる「当麻」の文字からも推察されるように、英彦山、求菩提山、福智山における古代修験の地を示していると思われる。

今回は「摩」と記されていることから「魔」の意味はあり得ないことになる。

では當摩之咩斐」は何処であろうか?・・・。

咩」=「メエー:羊の鳴き声」と辞書にあるが、咩」=「口+羊」と分解することができるであろう。


<羊>
羊の甲骨文字を示す。「美」=「羊+大」に類似する地形象形と思われる。すると「」=「谷間の入口」と紐解ける。類似の文字「訶(谷間の耕地)」、これは「耕」が付くのである。「咩斐」は…、
 
咩(谷間の入口)|斐(挟まれた隙間)

…と紐解ける。初見では「羊の口」として紐解いたが、それも的外れではなかったようである。と言うか、例によってそう読めるようにも記述されていると思われる。いずれにせよ安萬侶コード「羊(谷間)」としておこう。
 
<當摩之咩斐>
図の水町池の東端、おそらくは当時の池は現在よりも小さく、羊の舌先の地も広がっていたであろう。現地名は直方市上境である。

さて、當摩之咩斐は「酢鹿之諸男、次妹菅竈上由良度美」の二人を誕生させる。どんな意味を含めているのか紐解いてみよう。

「酢鹿」とは?…「酢」=「酒を皿に作って、「す」にする」とある。この原義は些か難しいようであるが、「乍」を含む他の文字、例えば「作」「昨」「咋」など、「重ねる」意味を持つと解釈される。

「酒」がキーワード…上記の水町池は「輕之酒折池」であった。「酒=坂」である。この地に並列するところと推測される。

「酢」=「酒(坂)+乍(重なる)」とすると…、
 
酢(坂が重なる)|鹿(麓:ふもと)

…「麓で坂が重なるところ」と紐解ける。坂が段々になって続いている様を表している。「諸男」=「凹凸の地を田にする」人であろう。母親の近隣で求めると、大浦池がある長く積重なる坂があるところを示しているのではなかろうか。現地名は田川郡福智町上野である。

菅竈由良度美」は何と解く?…竈に関連する山、丘ととすれば「羊の舌」が該当するのではなかろうか。二つの坂に挟まれた小高い丘を「菅竈」と表現したと推定される。
 
<菅竈由良度美・酢鹿之諸男>
釡の蒸気が立つようにユラユラとした態度(様子)が美しい…かなり安萬侶くんの戯れの領域に立入るが、どうであろうか?…嫋やかな姿の表現と解いたが・・・。


その血筋が葛城の高額比賣命に受け継がれ、更に息長帯比賣命に・・・ちょっとイメージが違うかも?…當麻の血が流れて行ったことは間違いないようである。

流石に當麻の記述、惑わされる。その上洒落た文字使いも含まれていた。「由良度美」が「葛城之高額比賣命」を産む。

息長帯比賣(神功皇后)に繋がっていくという重要な意味を含んでいる。葛城之高額比賣を経て息長帶比賣に至る系譜はこちらを参照願う。

さて、文字の印象から読み解けば上記のような解釈も成り立つように思われるが、例によって一文字一文字を紐解いてみよう。「菅」=「[菅の小穂(ショウスイ)]の形」、「竈」=「稜線が放射状に延びた山(丘陵)」、「由」=「寄り添う)」、「良」=「なだらかなところ」とすると…、
 
菅([菅の穂]の地形)|竈(放射状に延びた稜線の丘陵)
由(寄り添う)|良(なだらかなところ)度(広がり渡る)|美(谷間に広がる)

…「[菅の穂]の地形がある放射状に延びた稜線の丘陵がなだらかなところに寄り添うように広がり渡っている谷間」と紐解ける。「由」は旦波の由碁理、その孫の比古由牟須美命に含まれ、「由」に続く文字、「碁・牟」が地形を表していると解釈した。

「竈」は神倭伊波禮毘古命の兄、五瀬命が葬られた竈山に準じた。枝木を交差して積み上げた様の地形象形と解釈した。また「由良」は後の仁徳天皇紀に登場する由良能斗(下関市彦島田の首町)の解釈と同様である。

當摩之咩斐・酢鹿之諸男・菅竈上由良度美の親子の名前は、正しく「當摩」の地の詳細を語っていると解る。橘豐日命(用明天皇)の時代にも登場し、長く皇統に関わる地であったことが伺える。ところで當摩之咩斐の段では「當摩」と表記されるが、他では「當麻」である

当然のことながら、これでは解釈が異なって来る。ここで登場する「咩斐」らの住まう「當摩」は、「麻」=「擦り潰された地」ではなく…、
 
[當]の形をしているところが近接している地

…と解釈される。要するに「斐」=「隙間」なのである。「麻(マ)」は、「マ」音の表記として真に使い勝手の良い文字、と言うことになるようである。いやぁ~、真に微に入り細に入りの表現であろうか・・・勿論橘豐日命が関わる時は「當麻」、隙間の出来事ではないようである



2019年4月22日月曜日

大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇):『淤斯呂』とは? 〔339〕

大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇):『淤斯呂』とは?


大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の和風諡号が表す意味は、何となく判ったようなところで中途半端に終わっていた。再度の見直し結果である。

古事記原文…、

凡此大帶日子天皇之御子等、所錄廿一王、不入記五十九王、幷八十王之中、若帶日子命與倭建命・亦五百木之入日子命、此三王、負太子之名。自其餘七十七王者、悉別賜國國之國造・亦和氣・及稻置・縣主也。故、若帶日子命者、治天下也。小碓命者、平東西之荒神及不伏人等也。次櫛角別王者、茨田下連等之祖。次大碓命者、守君、大田君、嶋田君之祖。次神櫛王者、木國之酒部阿比古、宇陀酒部之祖。次豐國別王者、日向國造之祖。

…と言う訳で、さしもの安萬侶くんも御子を省略して記述である。逐次追いかけてみよう。が、その前に天皇の諡号と居場所の紐解きである。

大帶日子淤斯呂和氣天皇の「淤斯呂」=「御代」とすると…、
 
淤斯呂和氣=御代別=子に代を別ける

…となる。上記中の「悉別賜國國之國造・亦和氣・及稻置・縣主也」の「偉業」に繋がる。言向和した、あるいは開拓した土地を分け与えたのである。素晴らしい、天皇家の実力を天下に示す作業である。と同時に全てが将来への布石ともなる。「大帯日子」は…、
 
大(大いに)|帯(満たす)|日子(稲穂)

…「大いに稲穂を満たす」国中に田畑を多く作り、その地を八十人の御子に分け与えたという大繁栄の倭国の天皇であったと伝えている。と言うことで、何とも豊かな時の天皇が浮かび上がって来るのであるが、「淤斯呂」=「御代」の読み替えで納得するわけにはいかない。

この三文字、決して目新しいものではなく、地形象形の表記として使われている。ならば…、
 
淤(泥が固まったような)|斯(切り分ける)|呂(四角く積重なる)

<大帶日子淤斯呂和氣命・纒向之日代宮>
…「泥が固まったような地と四角く積重なった地が切り分けられたところ」と読み解ける。「斯」=「其(分ける)+斤(切る)」と分解される。
 
「和氣」=「しなやかに曲がる様子の地」として、金辺川と呉川の合流地点にあって、「淤能碁呂嶋」(下図)のような地形を示す極めて特徴的なところである。

「纒向之日代宮」は何処であろうか?…「纏向」は…、
 
纏(纏わり付く)|向(向く)

…「山麓にあって正面を向けている」と読み解ける。正面を向けているのは、既に登場した三つの畝の香山(香春岳)の最高峰、香春三ノ岳である


<淤能碁呂嶋>

では「日代」とは?…、
 
日(日=太陽)|代(背)

…「日が背にある(日を背にする)」と解釈される。即ち香春三ノ岳に対してその正面を向けていて、日(太陽)がその背を照らす宮と思われる。

この解釈で宮は、呉川が流れる谷間を背にして建っていたと推定される。

上記の「淤斯呂和氣命」と併せて、図に示した通り、現在の福岡県田川郡香春町鏡山辺りと結論付けられる。

現在の四王寺辺りかと思われたが、その西側の小高いところ…現在は新道が開通していて当時の地形と些か異なるようでもあるが…と推定される(国土地理院地図には印がある)。


<纏向日代宮と長谷朝倉宮>
「纒向之日代宮」については、後の雄略天皇紀にも詳細な記述がある。

雄略天皇の「長谷朝倉宮」についての詳細はこちらを参照願う。抜粋して述べると・・・。

「長谷(長い谷)・朝倉(朝が暗い:東に山塊)・宮」として現在の香春町採銅所宮原辺りと推定。

説話はその地が日代宮の近隣である。

日代宮は小高いところの「多氣知」にある、と后が詠う。天照大神の御子:天津日子根命が高市縣の祖となる記述がある。

伊勢國之三重婇の歌に「麻岐牟久能 比志呂乃美夜波 阿佐比能 比傳流美夜 由布比能 比賀氣流美夜」[武田祐吉訳:纏向の日代の宮は朝日の照り渡る宮、夕日の光のさす宮]とある。宮は一日中日が当たる場所にあったと告げている。

これだけの情報を併せて矛盾のない記述かと思われる。天皇一家の倭国支配が本格化した景行天皇からそれが極められた時の天皇の揃い踏みの記述である。日代宮はさぞかし立派な宮であったのだろうか…知る由もないのだが・・・。妾が何人も、いやはや、流石である。


<坂手池・膳之大伴部・田部>
前記<大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の事績 〔323〕>で紐解いた結果を再掲する。

纏向日代宮の近隣をしっかりと開拓したと告げてる。

金辺川と呉川が作る「津」の周辺は、これらの川の恵みとその脅威を両立させるにはまだまだ時間が必要であったのであろう。

それにしても和風諡号、事績などから浮かび上がって来る地形にあらためて古事記記述の”凄さ”を感じさせられてしまう、ようである。
















































2019年4月18日木曜日

建内宿禰:平群都久宿禰・木角宿禰 〔338〕

建内宿禰:平群都久宿禰・木角宿禰


天皇家の早期に登場した傑物建内宿禰、通説では竹内宿禰とも解釈されるのであるが、勿論大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の御子である以上葛城に深く関わっている人物でもある。彼一人を抜き出しても、古事記の解釈は魑魅魍魎の有様であろう。

そんなことは、取り敢えず脇に置いて、彼の子孫が拡散した記述の中で少々読み解きが不十分であったところの補足である。詳細はこちらを参照願う。

古事記原文(抜粋)…、

此建內宿禰之子、幷九。男七、女二。波多八代宿禰者、波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君之祖也。次許勢小柄宿禰者、許勢臣、雀部臣、輕部臣之祖也。次蘇賀石河宿禰者、蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也。次平群都久宿禰者、平群臣、佐和良臣、馬御樴連等祖也。次木角宿禰者、木臣、都奴臣、坂本臣之祖。次久米能摩伊刀比賣、次怒能伊呂比賣、次葛城長江曾都毘古者、玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也。又若子宿禰、江野財臣之祖。
 
平群都久宿禰

「平群」は通説に従い…地形象形として…現在の田川市、田川郡に横たわる丘陵地帯である。さてその中に求める地名があるのか、勿論そのまま残っているとは思えないが…。「都久」=「衝く(田)」で丘陵地帯の開拓に努めた宿禰かもしれない。

平群():田川市伊田 佐和良():田川市奈良 馬御樴():田川市伊加利

田川市以外は田川郡に属する。大任町は大行事と任原との合併で生じた地名のようである。元の大行事辺りが「平群」の中心地だったのであろう。

通説などを参考して考察すれば上記のようなところに落ち着きそうであるが、一文字一文字の紐解きも忘れてはならない。「群」=「君+羊」だが、更に「君」=「尹+囗(大地)」と分解され、「尹」=「統治する、整える」の意味を持つとされる。「平」=「平らに」、頻出の「羊」=「谷間」、「都」=「集める」、「久」=「山」とすると・・・、

「平群都久」は…、
 
山が集まったところで谷間の地を平らに整える

…と紐解ける。文字の印象から読み取れる結果と大きくは異ならないようであるが、やはり一文字一文字の紐解きは、極めて具体的である。丘陵地帯は決して平らではなく、それなりの凹凸のある形状である。それを「平群都久」で表記したと読み解ける。

各々祖となった地を読み解いてみよう。「平群臣」は中心となる地と思われる。「佐和良臣」の「佐和良」の文字列を紐解くと…「佐」=「助くる、支える、促す」として…、
 
佐(支える)|和(しなやかに曲がる)|良(なだらか)

…「しなやかに曲がってなだらかな地に支えられたところ」と読み解ける。
 
<平群都久宿禰>
現在の田川市奈良を、中元寺川に向かって流れる蓑田川沿いの地と思われる。「和良」の地形であることが判る。

「奈良」、「那羅」という表記は古事記に出現しない。地形象形には不向きな文字列のようである。

言い換えると、だから地名として現在も使用されるようになったのかも?…である。

「奈良」の地名を見つけて、奈良大和との関係を云々する向きもあるようだが、それを古事記記述と絡めての考察は無意味である。

また少し東方には「京都」の文字もある。上記したように古事記には「京都」の文字も見出すことはできない。

「馬御樴」「樴」=「杭」である。文字の意味するところは「牧場」牧畜の行われていたところではなかろうか・・・などと初見では読んだが、これもしっかり文字の紐解きであろう。「馬」=「踏み台の地形」とすると…、
 
馬(踏み台の地形)|御(束ねる)|樴(杭:山稜)

…「踏み台の地形が束ねられた山稜」と解読される。現地名田川市伊加利は広大な工業団地になっているようだが、当時もそれなりに平坦な地形を有していたのであろう。ちょうど山稜が分岐する(台地が寄り集まる)ところが見受けられる。それを「樴」と表記したと解釈される。

建内宿禰の次女「怒能伊呂比賣」が坐した場所に接するところでもある。唐突に「怒」が登場したように錯覚しがちだが、ちゃんと建内宿禰一族が広がって行くところに居た比賣と解る。それにしても現在の「伊加利」の地名は広大である。

「平群」地の地形象形は「師木」と同様に判り辛いところではあるが、垂仁天皇の師木玉垣宮の在処と同じく現在の地形から求めることができた。古事記記述の精緻さにあらためて感動する思いである。
 
木角宿禰

():豊前市大村 都奴():豊前市中村 坂本():築上郡築上町坂本

<都奴臣>

「木」が示す場所は木國造之祖宇豆比古の在所及びその近隣であろう。今回は「都奴」を紐解くことにする。

「都奴」=「角」とすれば現在地名は「豊前市中村」であるが「角田八幡宮」「角田小・中学校」「角田公民館」などなど旧角田村の名前が残っている。

古事記記載の由緒ある名前、消さないで・・・。「木角宿禰」は、この「角田」が本拠地だったのではなかろうか。

速須佐之男命の御子、八嶋士奴美神に含まれる「奴」=「女(嫋やかに曲がる)+又(手)」と分解でき、「又(手)」=「手の指が分かれる/寄り集まる様」を象った文字であると解釈される。

図に示したように「都奴」は…、
 
嫋やかに曲がる地形が寄り集まったところ

…と紐解ける。仲哀天皇紀に高志之「角鹿=都奴賀」と記述される。「都奴=角」と古事記が伝えているのである。
 
<坂本臣>
「坂本」はそのものズバリで残っているようであるが、残存地名のみで、ここだ!…とは言わないのが本著の取り柄…なのかどうか怪しいが・・・。

それにしても「坂本」だけでは何とも解釈のしようがない。取り敢えず「坂」を原義に戻って紐解いてみよう。

「坂」=「土+反」これで地面が反った形を表すと解釈できるのでるが、更に「反」=「+又(手)」と分解される。「本」=「山稜の麓」とする。

粉々された破片を繋ぎ合わせると・・・、
 
土(地)|厂(崖)|又([手]の形)|本(山稜の麓)

…「[手]の形の山稜が崖となっている麓の地」と紐解ける。

「坂」を通常に解釈しては全く特定できなかったが、これで求めることが可能となる。現地名築上郡築上町山本・椎田辺り、求菩提山・国見山山稜の端にあっては珍しく崖に挟まれたところである。確かに「坂本」も近隣に当たるところにある。現在は見事な棚田が連なっているように見受けられる。

「木角宿禰」が居た地域、北は城井川、南は山国川に挟まれた地となる。木国の背後は山深い山岳地帯である。豊な材木資源で倭国に貢献したということであろう。古事記の中で地味ではあるが欠かせない位置付けのように感じられる。

「平群」の地の詳細やら「都奴」の地形象形の再現であったり、やはりしっかりと紐解くことであろう。彼らの事績は全く語られないが、この居場所を基に伝えられる出来事を眺めてみるのも一興かもしれない・・・それはまたいつの日か・・・。






2019年4月15日月曜日

古事記の『小楯』 〔337〕

古事記の『小楯』


古事記に「小楯」の文字が現れるのは、白髮大倭根子命(清寧天皇)紀に「爾山部連小楯、任針間國之宰時、到其國之人民・名志自牟之新室樂。・・・」と記述される段である。皇統断絶の危機に際して、大長谷若建命(雄略天皇)に惨殺された市邊忍齒別王の御子、意祁命・袁祁命を針間国で見つけると言う重要な役割を担ったと告げる。

なのだが、本ブログの主対象は仁徳天皇の大后石之日賣命が嫉妬で狂って発した「袁陀弖 夜麻登」の「袁陀弖」である。勿論「山部連小楯」も併せて紐解くことにする。通説では夜麻登に掛かる枕詞「小楯」として知られている。奈良大和を取り囲む山々が盾を並べてような景観を持つことに由来すると解説されている。勿論「小」の意味は含まれていない。

現在の地形を見る限り、とても楯を並べたような地形でもないし、通常の山を楯と表現することはあり得ないであろう。無茶苦茶な地理感覚がそのまま今に残っているという有様である。「令」=「目出度い」と解釈するのと同様であろう。

そんな背景で「小楯」の意味をじっくりと紐解いてみようかと思う。当然、その解釈によって「夜麻登」の文字解釈も、くっきりと浮かんで来る、筈である、何せ枕詞なのだから・・・。

袁陀弖 夜麻登」が登場する場面を再掲することから始める。古事記原文[武田祐吉訳]…、

自此後時、大后、爲將豐樂而、於採御綱柏、幸行木國之間、天皇婚八田若郎女。於是大后、御綱柏積盈御船、還幸之時、所駈使於水取司・吉備國兒嶋之仕丁、是退己國、於難波之大渡、遇所後倉人女之船。乃語云「天皇者、此日婚八田若郎女而、晝夜戲遊。若大后不聞看此事乎、靜遊幸行。」爾其倉人女、聞此語言、卽追近御船、白之狀具如仕丁之言。於是大后大恨怒、載其御船之御綱柏者、悉投棄於海、故號其地謂御津前也。卽不入坐宮而、引避其御船、泝於堀江、隨河而上幸山代。此時歌曰、
都藝泥布夜 夜麻志呂賀波袁 迦波能煩理 和賀能煩禮婆 迦波能倍邇 淤斐陀弖流 佐斯夫袁 佐斯夫能紀 斯賀斯多邇 淤斐陀弖流 波毘呂 由都麻都婆岐 斯賀波那能 弖理伊麻斯 芝賀波能 比呂理伊麻須波 淤富岐美呂迦母
卽自山代廻、到坐那良山口歌曰、
都藝泥布夜 夜麻志呂賀波袁 美夜能煩理 和賀能煩禮婆 阿袁邇余志 那良袁須疑 袁陀弖 夜麻登袁須疑 和賀美賀本斯久邇波 迦豆良紀多迦美夜 和藝幣能阿多理
如此歌而還、暫入坐筒木韓人・名奴理能美之家也
[これより後に皇后樣が御宴をお開きになろうとして、 柏の葉を採りに紀伊の國においでになつた時に、天皇がヤタの若郎女と結婚なさいました。ここに皇后樣が柏の葉を御船にいつぱいに積んでお還りになる時に、水取の役所に使われる吉備の國の兒島郡の仕丁が自分の國に歸ろうとして、難波の大渡で遲れた雜仕女の船に遇いました。そこで語りますには「天皇はこのごろヤタの若郎女と結婚なすつて、夜晝戲れておいでになります。皇后樣はこの事をお聞き遊ばさないので、しずかに遊んでおいでになるのでしよう」と語りました。そこでその女がこの語つた言葉を聞いて、御船に追いついて、その仕丁の言いました通りに有樣を申しました。そこで皇后樣が非常に恨み、お怒りになつて、御船に載せた柏の葉を悉く海に投げ棄てられました。それで其處を御津の埼と言うのです。そうして皇居におはいりにならないで、船を曲げて堀江に溯らせて、河のままに山城に上つておいでになりました。この時にお歌いになつた歌は、
山また山の山城川を上流へとわたしが溯れば、河のほとりに生い立つているサシブの木、
そのサシブの木のその下に生い立つている葉の廣い椿の大樹、その椿の花のように輝いており その椿の葉のように廣らかにおいでになるわが陛下です。
それから山城から回つて、奈良の山口においでになつてお歌いになつた歌、
山また山の山城川を御殿の方へとわたしが溯れば、うるわしの奈良山を過ぎ
青山の圍んでいる大和を過ぎわたしの見たいと思う處は、葛城の高臺の御殿、故郷の家のあたりです。
かように歌つてお還りになつて、しばらく筒木の韓人のヌリノミの家におはいりになりました]

仁徳さんが若い比賣を相手にするものだから、大后が嫉妬に狂って遁走するという段取りである。安萬侶くん筆さばきも軽やかで、前記したところも少し引用してみると・・・、

少々大后を走らせる為の前書きが何とも微笑ましい。庶民までも吉備国との行き来ができている様が伺える。定期船でも発着していたのかも?…そこで噂話が飛び交う、まるで江戸時代の渡し場の光景を浮かび上がらせるような記述である。民の賑わいを伝えんがためとも思われるが、むしろ捏造された匂いが感じられない。安萬侶くんの筆さばきかも・・・。

吉備の「黒日売」との密会が終わったかと思うと、自分がいない間に、なんと宮に女を連れ込んで日夜…なんてヒドイひと、許せません、あんたのお仕事のためにわざわざ出掛けて取って来たのに…大事なものをかなぐり捨てて、実家へ・・・その行程記述が始まる。
 
<石之日賣命>
「夜麻志呂賀波」=「山代(背)川」=「山の背(うしろ)を流れる川」を通って、「山口」=「那良山口」に到着する。

彦山川と中元寺川に挟まれたところ、現地名田川市奈良の近隣となる。

現在の赤村辺りで犀川が大きく曲がる所で上陸し、おそらく舟を引き摺って彦山川に向かったと思われる。

この川を下れば目的地に届くのだが、ここで思い止まって、開けた眺望の場所で見渡せる景色を縷々と述べる。地図を参照願うと、見事に葛城(現地名田川郡福智町辺り)が見渡せることが判る。

初見では・・・枕詞「あおによし」の「那良」(現在の田川市奈良)を過ぎ、枕詞「小楯」=「青山の囲んでいる」そうでしょう(?)…「夜麻登」=「田川市香春町高野」を横に見ながら・・・と記している。

現在の奈良大和では「平城」から「大和」を過ぎて葛城に向かうことはないであろう。殊更葛城を遠望する時に挙げる場所ではない。怒り狂った大后の目が回っていた?・・・古事記の記述は信用できない?…と言う結末であろう。

武田氏は「楯」を使わず「青山」としている。現実的な解釈を採用したからであろう。がしかし「楯」に青山の意味はない。致し方なく訳されたものと推察される。ともあれ、大后はここで思い止まって山代に戻り、奴理能美のところに留まったと伝えている。上図に示した通りの行程を歩んだことと思われる。


楯津

「楯」は、神倭伊波禮毘古命と登美能那賀須泥毘古の初戦の場所となった場所に用いられている。この「楯津」は、それを含めて三つの異なる表現で表していることが解る。残りの二つは「青雲之白肩津」と「日下之蓼津」である。詳細はこちらを参照願う。


<青雲之白肩津>

①青雲之白肩津

「白」=「団栗もしくは頭蓋骨」を象ったものと言われる。地形的には丸く小高いところと解釈すると…「肩」=「直角に曲がったところ」として…、
 
丸く小高いところが直角に曲がった地

…と紐解ける。山稜の端に並ぶ小高く丸いところを捉えた表記と思われる。現地名北九州市小倉南区長野と横代東町の境辺りである。

②日下之蓼津

邇藝速日命の別称として「櫛玉命(クシタマノミコト)」と呼ばれる。「日下(クサカ)」とは…、
 
<楯津・日下之蓼津>
ク(櫛玉命)|サ(佐:助くる)|カ(処) 

…「櫛玉命のご加護があるところ」となる。古事記序文に「日下}=「玖沙訶(クサカ)」と読むことが述べられている。

登美能那賀須泥毘古の初戦勝利は邇藝速日命のお陰であったと後の世の人々が言ったと伝えている。

では「蓼津」とは何を意味するのであろうか?…「蓼」=「艹+羽+羽+㐱(人+彡)」とバラバラにすると、地形象形していることが解る。

二つの羽の様な台地に挟まれた「髪の毛のようにしなった入江(人)」を表していると読み解ける。何とも言えないくらいに見事な地形象形である。

邇邇藝命の兄、邇藝速日命(天火明命)の威光との闘いであったことを述べている。彼らとの闘いそしてその後裔達との融和(娶り)を繰り返して草創期に天皇家は統治の範囲を拡げて行ったのである。

では本題の・・・、

③楯津

「楯」、楯を並べたような津?…文字の意味そのものを用いているとは到底思われない。「楯」=「木+盾」、更に「盾」=「斤(斧)+目(隙間)」と分解される。
 
木(山稜)|斤(切り取る)|目(隙間)|津(入江)

…「山稜を斧で切り取った隙間のような入江」と紐解ける。上記①、②は津の周辺の地形を説明し、③で津の形を述べたものと解る。


<神屋楯比賣命・事代主神>
神屋楯比賣命

もう一つの例示である。大国主命が娶った神屋楯比賣命、事代主神の母親でもある。この比賣にも「楯」が含まれる。

少々見辛いかもしれないが、山稜に端が割れていることが伺える。

現在は近隣を高速道路が通ったり、地形の変化は否めないが、基本の形は残されているように思われる。

出雲を譲った「事代主神」の場所も示してある。この名前の解釈も極めて重要な意味を持っているが、詳細は原報を参照願う。

前置きが長くなって来たようだが、もう一つの例示を・・・、


狹城楯列陵

帶中津日子命(仲哀天皇)の大后、息長帶比賣命(神功皇后)の陵墓の名称に使われている。后の陵名が記されるは二人だけ、その内の一人である。通常よく知られて、その活躍が伝えられる皇后ということになる。「狹城楯列」は…、
 
狹(狭い)|城(整地された高台)
楯(切り取られたような隙間がある地)|列(連なり並ぶ)

<狹城楯列陵>
…「狭いが整地された高台が切り取られたような隙間が連なり並ぶところ」にある稜と紐解ける。

現在は切り取られたところが、広大な棚田になっているようだが、その間に小高いところが見える。

やはりその一部は墓所になっているように伺えるが、その中の何処か?…が神功皇后の陵墓であろう。

「楯列」これなら「楯を並べたような」と解釈しても良いように思われるが・・・「小楯」ではない。

縷々と述べて来た「楯」は、その文字解釈として「切り取られた隙間」を表していると思われる。では袁陀弖 夜麻登」の「小楯」は何と紐解けるのであろうか?・・・。


小楯

少し振り返りながら・・・「小楯」は大和に掛かる枕詞と解説されている。青山が囲むという訳は「楯」が立ち並んでいる様を象ったという解釈であろう。だが、実際の大和は山に囲まれてはいるが、「楯」に繋がる地形とは到底掛離れた様相であろう。では、何故「小楯」という表現が生まれたのであろうか?…やはり「楯」の文字解釈である。

大国主命が娶った神屋楯比賣命、事代主神の母親でもあるが、また神倭伊波禮毘古命と登美能那賀須泥毘古の初戦の場所となった楯津、これらの名前に含まれる「楯」の解釈は「楯」=「木(山稜)+盾」更に「盾」=「斤(斧)+目(隙間)」と分解すると…、
 
山稜の端に斧で切り取られたような隙間があるところ


<夜麻登>
…と読み取れる。

「夜麻登」の部分を拡大したものを別図として示した。

「夜麻登」=「狭い谷間を登ったところ」と解釈した。その狭い谷間を「楯」=「斧で切り取ったような隙間」と表現していると紐解ける。

言い換えると「夜麻登」は「狭い谷間を挟む山稜が二つに分かれるところにある高台」を表していることが裏付けられたと思われる。

「夜麻登(ヤマト)」については様々に読み取られて来た。山門、山戸など、それなりに地形的には近いもののようにも思われるが、やはり、単なる門・戸ではなく、特徴ある具体的な地形を示している。

しかしながら、固有の地名ではなく「夜麻登」はその他にも存在するのである。「小」は「小さい」に重ねて、推古天皇の小治田宮近傍に類似の地形であり、[小]の字形を象った表記であろう。


<小楯>
これらの地形を満足する「夜麻登」に冠するのが「小楯」と読み解ける。

今回も古事記全般を通じて、揺るぎなく貫かれた記述に感心させられた。それがなければ混乱に陥るのみであったろう。

漢字学の重要性も痛感させられたようである。もっともっと漢字を大切に用いたいものである。

トンデモナク長くなってしまった。「山部連小楯」、「山部大楯連」と言う将軍もおられたようで、彼らの紐解きは後日とすることに・・・。

2019年4月12日金曜日

大后息長帶日賣命:礒名謂勝門比賣 〔336〕

大后息長帶日賣命:礒名謂勝門比賣


仲哀天皇(神功皇后)紀の読み解きは、なかなかのもので、古事記編者も力が入っているのか、小難しく記述されている。いや、あからさまにせずに言いたいことを述べるために行った作業なのかもしれない。前回の<筑紫國之伊斗村・御裳之石・淡道之屯家 〔330〕に追加の地名である。

通説では「筑紫末羅縣之玉嶋里」の場所については、「筑紫」が冠されることから、諸説ある中でほぼ確定的な状況のようであるが、「末羅」の解釈も多様である。中国の史書にある「末盧国」(佐賀県唐津市付近)と見做されているが、本ブログでは無縁の場所のようである。

いずれにせよ、博多湾岸周辺には香椎宮、宇美など古事記関連の文字が見受けられることから考えられたのであろうあが、地名が類似するのは「国譲り」された、と思うべきであろう。奈良大和の状況に似たり寄ったりの地名類似を疑うならば、同じく博多湾岸も疑うのが公平(?)かもしれない。

さて、関連するところを再掲しながら本題を紐解いてみよう・・・。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

故其政未竟之間、其懷妊臨。卽爲鎭御腹、取石以纒御裳之腰而、渡筑紫國、其御子者阿禮坐。阿禮二字以音。故、號其御子生地謂宇美也、亦所纒其御裳之石者、在筑紫國之伊斗村也。亦到坐筑紫末羅縣之玉嶋里而、御食其河邊之時、當四月之上旬。爾坐其河中之礒、拔取御裳之糸、以飯粒爲餌、釣其河之年魚。其河名謂小河、亦其礒名謂勝門比賣也。故、四月上旬之時、女人拔裳糸、以粒爲餌、釣年魚、至于今不絶也。
[かような事がまだ終りませんうちに、お腹の中の御子がお生まれになろうとしました。そこでお腹をお鎭めなされるために石をお取りになって裳の腰におつけになり、筑紫の國にお渡りになってからその御子はお生まれになりました。そこでその御子をお生み遊ばされました處をウミと名づけました。またその裳につけておいでになった石は筑紫の國のイトの村にあります。 また筑紫の松浦縣の玉島の里においでになって、その河の邊で食物をおあがりになった時に、四月の上旬の頃でしたから、その河中の磯においでになり、裳の絲を拔き取って飯粒を餌にしてその河のアユをお釣りになりました。その河の名は小河といい、その磯の名はカツト姫といいます。今でも四月の上旬になると、女たちが裳の絲を拔いて飯粒を餌にしてアユを釣ることが絶えません]

「宇美」、「御裳之石」、「筑紫國之伊斗村」、「筑紫末羅縣之玉嶋里」、「小河」など地名頻出の場面である。前回及びそれ以前にこれらの場所を求めて来た。現在の北九州市小倉北区富野、山門町、赤坂辺りと比定した。「小河」は、おそらく…いや、きっと…「小倉」、「小文字」の由来に関わると思われる。詳細はこちらを参照願う。

その川は「筑紫末羅縣之玉嶋里」を流れていて、その川中に「礒(ゴツゴツとした突き出た岩)」があって、そこで鮎を釣ったと述べている。「其礒名謂勝門比賣」その岩が名付けられていると言うのである。決して比賣の名前ではない。神功皇后が征伐した比賣?…面白くもないフィクション作家もおられるようで・・・。さて、本題に入ろう。

勝門比賣

其礒名謂勝門比賣也」…「礒」に名前を付ける?…安萬侶くんの戯れ?…ならば「勝門比売」=「勝ち組みの姫」(アラサー、アラツー?女子)とでも、だから姫たちがこぞって真似をした?…かもである・・・と、全くのフィクション・・・あれこれ妄想するのも良いのだが、文字列は何を示しているのであろうか?・・・。
 
<勝門比賣>
「勝」=「朕+力」と分解される。更に「朕」=「月(舟)+关」と分解される。

「关」=「両手で物を捧げることを象り、舟形の器で捧げ持った様か、舟の浮力で浮かび上がることを意味、ともにあるものが際立つことを意味した」と解説される。

地形象形的には「三日月(舟)の地形が小高く盛り上がっている様」を表していると解釈できる。

天之常立神が坐したところは現在の壱岐市勝本町として、この「勝」が「常立」に関連すると述べた。ここで再会である。

また「門」は橘小門の「門」であり、その地は伊邪那岐の禊祓で誕生した衝立船戸神の場所と比定した。同じ状況にある海辺に面するところと思われる。

比賣は比賣陀君の比賣であろう。貝の地形が並んでいるところを表していると思われる。纏めると、「勝門比賣」とは…、

谷間に挟まれた山稜の端が小高く盛り上がり傍らに[貝]の地形があるところ

…と紐解ける。「筑紫末羅縣之玉嶋里」の詳細地形を示していることが解る。現在は埋立てられて、当時の面影はかなり希薄になっているようだが、この地が淡海における船着き場であったことが伺える。「比賣」は、たぶん、女性器を模した表記のようであるが・・・。

あらためて「礒」を紐解いてみよう。「礒」=「石+羊+我」と分解される。「石」=「山麓の区切られた地」、上記の「羊」=「二つの山稜に挟まれた谷間」である。「我」はずっと後の「蘇我」の表記で用いられることになる。「我」=「ギザギザとした戈(矛)のような地」と紐解ける。其礒名謂勝門比賣也」と記された通り、「勝門比賣」の地形の別表記であることが解る。

そしてその内陸が栄えある「筑紫」である、と古事記が語るそしてこの地もまた「国譲り」されたのである。譲られた先は九州西部、所謂律令制定後の「筑前国、筑後国」である。古代の解釈は百花繚乱の状態である。しかし博多湾岸から南に延びる一帯を筑紫とするのは、古事記が伝える時代ではない、と断言する記述は未だ見当たらない。

2019年4月9日火曜日

品陀和氣命(応神天皇): 蟹の歌(再々読) 〔335〕

品陀和氣命(応神天皇):蟹の歌(再々読)


ともかくも難解な歌である。と言うか、全く解読されていないのが現状であろう。前二回でなんとかその主旨を紐解けたように感じるが、一語一語の意味をあらためて読み解こうかと思う。登場する「壹比韋」の歌中の表記「伊知比韋」、見事に繋がった意味を示していたことが解った。今更ながら古事記の文字使いに感嘆である。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

故獻大御饗之時、其女矢河枝比賣命、令取大御酒盞而獻。於是天皇、任令取其大御酒盞而、御歌曰、
許能迦邇夜 伊豆久能迦邇 毛毛豆多布 都奴賀能迦邇 余許佐良布 伊豆久邇伊多流 伊知遲志麻 美志麻邇斗岐 美本杼理能 迦豆伎伊岐豆岐 志那陀由布 佐佐那美遲袁 須久須久登 和賀伊麻勢婆夜 許波多能美知邇 阿波志斯袁登賣 宇斯呂傳波 袁陀弖呂迦母 波那美波 志比斯那須 伊知比韋能 和邇佐能邇袁 波都邇波 波陀阿可良氣美 志波邇波 邇具漏岐由惠 美都具理能 曾能那迦都爾袁 加夫都久 麻肥邇波阿弖受 麻用賀岐 許邇加岐多禮 阿波志斯袁美那 迦母賀登 和賀美斯古良 迦久母賀登 阿賀美斯古邇 宇多多氣陀邇 牟迦比袁流迦母 伊蘇比袁流迦母
如此御合、生御子、宇遲能和紀郎子也。
[そこで御馳走を奉る時に、そのヤガハエ姫にお酒盞を取らせて獻りました。そこで天皇がその酒盞をお取りになりながらお詠み遊ばされた歌、
この蟹はどこの蟹だ。遠くの方の敦賀の蟹です。横歩きをして何處へ行くのだ。 イチヂ島・ミ島について、カイツブリのように水に潛って息をついて、高低のあるササナミへの道をまっすぐにわたしが行きますと、 木幡の道で出逢つた孃子、後姿は楯のようだ。 齒竝びは椎の子や菱の實のようだ。櫟井の丸邇坂の土を上の土はお色が赤い、底の土は眞黒ゆえ眞中のその中の土をかぶりつく直火には當てずに畫眉を濃く畫いてお逢いになつた御婦人、このようにもとわたしの見たお孃さん、あのようにもとわたしの見たお孃さんに、思いのほかにも向かっていることです。添っていることです。
かくて御結婚なすつてお生みになった子がウヂの若郎子でございました]

なんとも美しい「矢河枝比賣」を褒め上げてるわけだが、その内容は、どうやら大変なことを告げているようである。逐次解いてみよう。

①毛毛豆多布 都奴賀能迦邇

「都奴賀能迦邇」高志の敦賀の蟹に例えて、高志国から出て来た、と言っている。仲哀天皇と神功皇后との御子だが、前記で謀反を起こした香坂王と忍熊王を征伐し、越前の角鹿に禊祓に出向き、その地の神と名前を交換した説話があった。名前交換だけではなく入替ったような記述である。神格化された天皇かも・・・。

「毛毛豆多布」=「百伝う」=「数多く伝って」行くと述べる。武田氏、概ね通説は氏に準じているようでるが、「毛毛豆多布=遠くの」と訳す。目指す二つの島が不詳だからである。福井の敦賀からとすると先ずは山越え、琵琶湖の島?となるなど、詠われる内容に追随するのは極めて困難であろう。これは難解としながら、実は解釈の放棄なのである。

<伊知遲志麻>
②伊知遲志麻 美志麻邇斗岐

海辺を伝って何処に行くのか?…二つの島を目指して進む。伊知遲志麻の「伊知遲」は何と紐解くか?…「知」=「矢+口」=「矢の先端(鏃)」として…、
 
伊(小ぶりな)|知(矢の先端の地形)|遲(治水)

…「小ぶりな治水された鏃の形」の志麻(島)と紐解ける。

現在の京都郡苅田町長浜町に属する「神ノ島」と推定される。この島には市杵島神社がある。現在は無人島とのことであり、治水された痕跡を伺うことは不可のようである。


<美志麻>
美志麻の「美」=「三つの頂き」として、現在の行橋市の「簑島山」と思われる。間違いなく当時は「島」であったと思われる。「角鹿」から「難波津」に至ったわけである。

この「美志麻」近く(邇)で「斗岐」=「鋭角に分岐する」と述べている。入江の奥に向かうためには必要な行路変更であろう。

現在の今川(犀川)方面、と言っても当時は難波の海なのだが、へと方向を変え、和訶羅河を遡ったのであろう。

③志那陀由布 佐佐那美遅

「美本杼理能 迦豆伎伊岐豆岐」は武田氏訳通りで川を遡り、「志那陀由布 佐佐那美遅」に到着する。志那陀由布」は…、


志(蛇行する川)|那(しなやかに)|陀(崖)|由(~のような)|布(平坦なところ)

…「蛇行する川がしなやかに流れ崖の下にある布のように平坦なところ」と紐解ける。「由」=「~の如く(のような)」と解釈した。開化天皇紀の旦波之由碁理、仁徳天皇紀の由良能斗、また下記の菅竈由良度美などの訳と同様である。「沙沙那美遲」は…、
 
佐佐(笹)|那(しなやかに)|美(谷間に広がる)|遲(治水された)

<志那陀由布 沙沙那美遲>

…「笹のようにしなやかに曲がり谷間に治水されたところが広がる地」と紐解ける。武田氏の訳とは、かなり掛離れたものとなる。

既出に「佐佐=笹」として嫋やかに曲がる地形を表わす。後の淡海之佐佐紀山などの例がある。

文字で表された地形を見事に再現している場所である。ここで上陸しているのである。現在の京都郡みやこ町犀川大坂松坂・笹原と推定される。

「笹原」は一字残しの残存地名かもしれない。古事記は「笹の原」とは記していないが・・・。おや、「佐佐(笹)|那(豊かな)|美遲(道)」と読み解けば・・・歌の解釈、多様であろう。

犀川(現今川)を上流へと遡り、犀川木山辺りで支流の松阪川に入ると「佐佐那美遅」に届く。そこからは須久須久登」=「順調に、問題なく」進む。いずれにしても「志那陀由布 佐佐那美遅」の文字列は、行程の通過点を明確に示していることが解る。


<許波多能美知>
④許波多能美知

上記の木幡村への道に辿り着き、比賣との出会いの場所に通じる、と詠っている。ここまでが歌の前書きに当たるところであろう。

間違いなく「許波多」=「木幡」と解釈できるであろうが、これも一文字一文字を紐解いてみると…、


許(傍ら)|波(端)|多(山稜の端の三角州)|能(熊:隅)
美(谷間が広がる地)|知([鏃]の形)

…「端にある三角州の隅の傍らに谷間が広がるところにある鏃の地形」と紐解ける。ここが「木幡村」の在処と伝えていると思われる。

正に古事記たるところ、文字を使った地形象形の”極意”であろう。多重に重ねられた意味が収束するところが、真に心憎い表記である。

核心はこれに続くところであるが、これまでの行程を纏めた下図<行程図>を示す。垂仁天皇紀に「鵠」を求めて海辺を伝って北上し高志国(北九州市門司区伊川)まで行った記述(こちらを参照)の逆行程(神ノ島の手前辺りまで)を述べている感じである。

木幡の比賣の美しさを述べたら(上記の武田氏訳に従う)休む間もなく「丹」について詠う。

⑤伊知比韋能 和邇佐能邇

「邇」が繰り返し登場するが、最後の「邇」=「丹」と解釈する。
 
伊知比韋=壹比韋

孝昭天皇の御子、天押帶日子命が祖となった地である。春日を含む大坂山山麓の地に田を広げる礎となった命と古事記は記す。

既に紐解いたように「壹比韋」=「総てに囲いを備える」地形である。開化天皇紀に穂積臣の祖となる内色許男命(内側が渦巻く地のもとで田を作る命)の在処となるところである。現地名は田川郡赤村内田山ノ内と推定した。「能」=「熊」=「隅」と解釈する。

続く「和邇佐能邇」には二通りの解釈ができるようである。その一は…、
 
和(しなやかに曲がる)|邇(近い)|佐(ところ)|能(隅)|邇(丹)

…「しなやかに曲がる地に近い隅の丹」と紐解ける。「和邇」は、大国主命の海和邇海・山佐知毘古の段の説話の和邇魚に登場し「しなやかに曲がる地の近く」と解釈した。「佐(サ)」は「方向、場所」を表す助詞として解釈する。


<伊知比韋能 和邇佐能邇①>
纏めると「壹比韋の隅にあるしなやかに曲がる地に近い隅の丹(朱)」と読み解ける。

「丹」が産出されるところの詳細を述べたものと推定され、地形象形の表現と読み解ける。

その二は…歌は表音として、「和(ワ)」→「丸(ワ)」に置換えれば…「佐」=「助ける、支える、促す」、「能(の)」として…、
 
丸邇が支える(促す)ところの丹

…と解釈できる。丸邇の発祥は日子国で、それは壹比韋の西隣に位置していた。だから「丸邇=丸(壹比韋)|邇(近い)」ところに居た臣という名称なのである。

ところで歌の中では「壹」→「伊知」と表記される。表音のみの記述と思えば、何の問題も無くやり過ごせそうだが、些か気に掛かるようで・・・「伊知比韋」は…「知」=「矢+口」=「鏃」として…、
 
伊(小ぶりな)|知([鏃]の地形)|比(並ぶ)|韋(囲む)

<伊知比韋能 和邇佐能邇②>
…「小ぶりな[鏃]の地形が並んで囲むところ」と紐解ける。幾重にも重ねられた文字の使用・・・「壹比韋」の場所、確定であろう。

元来の「沙本(沙の麓)」(沙=辰砂)に代わって「丹」の開発に情熱を持った一族だったと推測される。

沙本一族は沙本毘古の謀反が発覚して伊玖米入日子伊沙知命(垂仁天皇)(伊沙知命=丹を得ることを支配する命)によって配置転換させられてしまった。

その空きに乗じたかはどうかは不明だが見事に入れ替わったと思われる。この謀反は当時の「丹」に対する攻防の凄まじさを伺わせる記述と思われる。応神天皇の歌は丸邇がすっかり「丹」の取得の実務を主導していたことを示しているようである。

丸邇一族の比賣に対して「和邇佐能邇」の表現は、容姿の礼賛に加えて、重要な天皇の認識ということになろう。同時に比賣及び父親の比布禮能意富美への確かな意思表示でもあると思われる。

更に詠い続ける。この「丹」について、トンデモナイこと…化学変化に伴う色相の変化を、またそれを制御出来る…と述べているのである。驚きの内容である。

⑥波都邇波 波陀阿可良氣美 志波邇波 邇具漏岐由惠

「波都邇波」=「外に現れている朱(赤色)」「志波邇」=「囲われている朱(黒色)」する。通訳は「上」「下」とする。状態的には間違ってないが、外気に触れているか、そうでないか違いを区別していると思われる。化学的には大変重要である。勿論、当時に化学などという言葉はなかったであろうが・・・。

⑦美都具理能 曾能那迦都爾袁 加夫都久

「美都具理能 曾能那迦都爾袁」=「三栗のような間にある中の丹」を…、
 
加夫都久=火夫点く(火夫が火を付ける)

…実際には少量を火で炙ったのであろう。赤(辰砂)と黒(黒辰砂)の間にある辰砂を加熱すると言っている。ビックリ仰天である。

現在では「赤」を加熱すると「黒」に可逆的に変化することがわかっていて、結晶系が変化して変色するのである。勿論冷やすと「赤」に戻るが(可逆)、微量の不純物に可逆の時間・程度が依存する。実際に採掘される下層の「黒」は不純物が多く含まれていることを考えると、中間の辰砂を用いることにより、より純粋な「黒」を作り出すことができると思われる。

併せて加熱して火傷をしない程度の温度にすることにより眉を引く時の塗布適性も向上するであろう(詳細はこちらを参照)。通説「かぶりつく」は意味不明。最も毒性の強い鉱物の一つに挙げられる、かぶりついたら眉が引けない・・・息を引き取ることに・・・。

<行程図>

応神天皇の時代、既にこれだけの知識と技能を有していたこと「あさまし」である。また、化学史上極めて重要な記述と思われる。

「あさまし古事記」である。当然渡金に欠かせない水銀(液状金属)と金とのアマルガムを作り、そのアマルガムを塗布後加熱して水銀を揮発させ、金張りを形成する、これが眩いばかりの仏像を世に出現させることになる。その水銀も製造していたのではなかろうか。

香春岳で産出する銅、鏡を作るのに不可欠な「朱砂」(研磨剤)また渡金に必要水銀、勿論、薬としての利用もあったであろう(殺菌作用)、国家権力に直結する立場を獲得することになる。それは自然の流れでもあったろう。

丸邇一族が力を持っていたこと、前記での「沙本」の反逆行動など応神天皇紀の歌からその背景を知らされる。

「食」ばかりではなく「衣住」に関するモノへの関心へと動いていることを伺わせる貴重な記述と思われる。

上記に続くところは武田氏の訳を参照して、古事記本文は宇遲能和紀郎子が誕生すると結んでこの段を終える。応神天皇の「丸邇」一族に対する思い入れが強く感じられるところである。

安萬侶くんの伝えたかったこと、歌を通じての国の力である。当時最も重要な技術を、誰が、何処で、何時、どの様にして育み発展させて来たかを述べているのである。1,300年の時が過ぎるまで、謎のままに過してきたことに悔いがあるのではなかろうか。