2019年4月9日火曜日

品陀和氣命(応神天皇): 蟹の歌(再々読) 〔335〕

品陀和氣命(応神天皇):蟹の歌(再々読)


ともかくも難解な歌である。と言うか、全く解読されていないのが現状であろう。前二回でなんとかその主旨を紐解けたように感じるが、一語一語の意味をあらためて読み解こうかと思う。登場する「壹比韋」の歌中の表記「伊知比韋」、見事に繋がった意味を示していたことが解った。今更ながら古事記の文字使いに感嘆である。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

故獻大御饗之時、其女矢河枝比賣命、令取大御酒盞而獻。於是天皇、任令取其大御酒盞而、御歌曰、
許能迦邇夜 伊豆久能迦邇 毛毛豆多布 都奴賀能迦邇 余許佐良布 伊豆久邇伊多流 伊知遲志麻 美志麻邇斗岐 美本杼理能 迦豆伎伊岐豆岐 志那陀由布 佐佐那美遲袁 須久須久登 和賀伊麻勢婆夜 許波多能美知邇 阿波志斯袁登賣 宇斯呂傳波 袁陀弖呂迦母 波那美波 志比斯那須 伊知比韋能 和邇佐能邇袁 波都邇波 波陀阿可良氣美 志波邇波 邇具漏岐由惠 美都具理能 曾能那迦都爾袁 加夫都久 麻肥邇波阿弖受 麻用賀岐 許邇加岐多禮 阿波志斯袁美那 迦母賀登 和賀美斯古良 迦久母賀登 阿賀美斯古邇 宇多多氣陀邇 牟迦比袁流迦母 伊蘇比袁流迦母
如此御合、生御子、宇遲能和紀郎子也。
[そこで御馳走を奉る時に、そのヤガハエ姫にお酒盞を取らせて獻りました。そこで天皇がその酒盞をお取りになりながらお詠み遊ばされた歌、
この蟹はどこの蟹だ。遠くの方の敦賀の蟹です。横歩きをして何處へ行くのだ。 イチヂ島・ミ島について、カイツブリのように水に潛って息をついて、高低のあるササナミへの道をまっすぐにわたしが行きますと、 木幡の道で出逢つた孃子、後姿は楯のようだ。 齒竝びは椎の子や菱の實のようだ。櫟井の丸邇坂の土を上の土はお色が赤い、底の土は眞黒ゆえ眞中のその中の土をかぶりつく直火には當てずに畫眉を濃く畫いてお逢いになつた御婦人、このようにもとわたしの見たお孃さん、あのようにもとわたしの見たお孃さんに、思いのほかにも向かっていることです。添っていることです。
かくて御結婚なすつてお生みになった子がウヂの若郎子でございました]

なんとも美しい「矢河枝比賣」を褒め上げてるわけだが、その内容は、どうやら大変なことを告げているようである。逐次解いてみよう。

①毛毛豆多布 都奴賀能迦邇

「都奴賀能迦邇」高志の敦賀の蟹に例えて、高志国から出て来た、と言っている。仲哀天皇と神功皇后との御子だが、前記で謀反を起こした香坂王と忍熊王を征伐し、越前の角鹿に禊祓に出向き、その地の神と名前を交換した説話があった。名前交換だけではなく入替ったような記述である。神格化された天皇かも・・・。

「毛毛豆多布」=「百伝う」=「数多く伝って」行くと述べる。武田氏、概ね通説は氏に準じているようでるが、「毛毛豆多布=遠くの」と訳す。目指す二つの島が不詳だからである。福井の敦賀からとすると先ずは山越え、琵琶湖の島?となるなど、詠われる内容に追随するのは極めて困難であろう。これは難解としながら、実は解釈の放棄なのである。

<伊知遲志麻>
②伊知遲志麻 美志麻邇斗岐

海辺を伝って何処に行くのか?…二つの島を目指して進む。伊知遲志麻の「伊知遲」は何と紐解くか?…「知」=「矢+口」=「矢の先端(鏃)」として…、
 
伊(小ぶりな)|知(矢の先端の地形)|遲(治水)

…「小ぶりな治水された鏃の形」の志麻(島)と紐解ける。

現在の京都郡苅田町長浜町に属する「神ノ島」と推定される。この島には市杵島神社がある。現在は無人島とのことであり、治水された痕跡を伺うことは不可のようである。


<美志麻>
美志麻の「美」=「三つの頂き」として、現在の行橋市の「簑島山」と思われる。間違いなく当時は「島」であったと思われる。「角鹿」から「難波津」に至ったわけである。

この「美志麻」近く(邇)で「斗岐」=「鋭角に分岐する」と述べている。入江の奥に向かうためには必要な行路変更であろう。

現在の今川(犀川)方面、と言っても当時は難波の海なのだが、へと方向を変え、和訶羅河を遡ったのであろう。

③志那陀由布 佐佐那美遅

「美本杼理能 迦豆伎伊岐豆岐」は武田氏訳通りで川を遡り、「志那陀由布 佐佐那美遅」に到着する。志那陀由布」は…、


志(蛇行する川)|那(しなやかに)|陀(崖)|由(~のような)|布(平坦なところ)

…「蛇行する川がしなやかに流れ崖の下にある布のように平坦なところ」と紐解ける。「由」=「~の如く(のような)」と解釈した。開化天皇紀の旦波之由碁理、仁徳天皇紀の由良能斗、また下記の菅竈由良度美などの訳と同様である。「沙沙那美遲」は…、
 
佐佐(笹)|那(しなやかに)|美(谷間に広がる)|遲(治水された)

<志那陀由布 沙沙那美遲>

…「笹のようにしなやかに曲がり谷間に治水されたところが広がる地」と紐解ける。武田氏の訳とは、かなり掛離れたものとなる。

既出に「佐佐=笹」として嫋やかに曲がる地形を表わす。後の淡海之佐佐紀山などの例がある。

文字で表された地形を見事に再現している場所である。ここで上陸しているのである。現在の京都郡みやこ町犀川大坂松坂・笹原と推定される。

「笹原」は一字残しの残存地名かもしれない。古事記は「笹の原」とは記していないが・・・。おや、「佐佐(笹)|那(豊かな)|美遲(道)」と読み解けば・・・歌の解釈、多様であろう。

犀川(現今川)を上流へと遡り、犀川木山辺りで支流の松阪川に入ると「佐佐那美遅」に届く。そこからは須久須久登」=「順調に、問題なく」進む。いずれにしても「志那陀由布 佐佐那美遅」の文字列は、行程の通過点を明確に示していることが解る。


<許波多能美知>
④許波多能美知

上記の木幡村への道に辿り着き、比賣との出会いの場所に通じる、と詠っている。ここまでが歌の前書きに当たるところであろう。

間違いなく「許波多」=「木幡」と解釈できるであろうが、これも一文字一文字を紐解いてみると…、


許(傍ら)|波(端)|多(山稜の端の三角州)|能(熊:隅)
美(谷間が広がる地)|知([鏃]の形)

…「端にある三角州の隅の傍らに谷間が広がるところにある鏃の地形」と紐解ける。ここが「木幡村」の在処と伝えていると思われる。

正に古事記たるところ、文字を使った地形象形の”極意”であろう。多重に重ねられた意味が収束するところが、真に心憎い表記である。

核心はこれに続くところであるが、これまでの行程を纏めた下図<行程図>を示す。垂仁天皇紀に「鵠」を求めて海辺を伝って北上し高志国(北九州市門司区伊川)まで行った記述(こちらを参照)の逆行程(神ノ島の手前辺りまで)を述べている感じである。

木幡の比賣の美しさを述べたら(上記の武田氏訳に従う)休む間もなく「丹」について詠う。

⑤伊知比韋能 和邇佐能邇

「邇」が繰り返し登場するが、最後の「邇」=「丹」と解釈する。
 
伊知比韋=壹比韋

孝昭天皇の御子、天押帶日子命が祖となった地である。春日を含む大坂山山麓の地に田を広げる礎となった命と古事記は記す。

既に紐解いたように「壹比韋」=「総てに囲いを備える」地形である。開化天皇紀に穂積臣の祖となる内色許男命(内側が渦巻く地のもとで田を作る命)の在処となるところである。現地名は田川郡赤村内田山ノ内と推定した。「能」=「熊」=「隅」と解釈する。

続く「和邇佐能邇」には二通りの解釈ができるようである。その一は…、
 
和(しなやかに曲がる)|邇(近い)|佐(ところ)|能(隅)|邇(丹)

…「しなやかに曲がる地に近い隅の丹」と紐解ける。「和邇」は、大国主命の海和邇海・山佐知毘古の段の説話の和邇魚に登場し「しなやかに曲がる地の近く」と解釈した。「佐(サ)」は「方向、場所」を表す助詞として解釈する。


<伊知比韋能 和邇佐能邇①>
纏めると「壹比韋の隅にあるしなやかに曲がる地に近い隅の丹(朱)」と読み解ける。

「丹」が産出されるところの詳細を述べたものと推定され、地形象形の表現と読み解ける。

その二は…歌は表音として、「和(ワ)」→「丸(ワ)」に置換えれば…「佐」=「助ける、支える、促す」、「能(の)」として…、
 
丸邇が支える(促す)ところの丹

…と解釈できる。丸邇の発祥は日子国で、それは壹比韋の西隣に位置していた。だから「丸邇=丸(壹比韋)|邇(近い)」ところに居た臣という名称なのである。

ところで歌の中では「壹」→「伊知」と表記される。表音のみの記述と思えば、何の問題も無くやり過ごせそうだが、些か気に掛かるようで・・・「伊知比韋」は…「知」=「矢+口」=「鏃」として…、
 
伊(小ぶりな)|知([鏃]の地形)|比(並ぶ)|韋(囲む)

<伊知比韋能 和邇佐能邇②>
…「小ぶりな[鏃]の地形が並んで囲むところ」と紐解ける。幾重にも重ねられた文字の使用・・・「壹比韋」の場所、確定であろう。

元来の「沙本(沙の麓)」(沙=辰砂)に代わって「丹」の開発に情熱を持った一族だったと推測される。

沙本一族は沙本毘古の謀反が発覚して伊玖米入日子伊沙知命(垂仁天皇)(伊沙知命=丹を得ることを支配する命)によって配置転換させられてしまった。

その空きに乗じたかはどうかは不明だが見事に入れ替わったと思われる。この謀反は当時の「丹」に対する攻防の凄まじさを伺わせる記述と思われる。応神天皇の歌は丸邇がすっかり「丹」の取得の実務を主導していたことを示しているようである。

丸邇一族の比賣に対して「和邇佐能邇」の表現は、容姿の礼賛に加えて、重要な天皇の認識ということになろう。同時に比賣及び父親の比布禮能意富美への確かな意思表示でもあると思われる。

更に詠い続ける。この「丹」について、トンデモナイこと…化学変化に伴う色相の変化を、またそれを制御出来る…と述べているのである。驚きの内容である。

⑥波都邇波 波陀阿可良氣美 志波邇波 邇具漏岐由惠

「波都邇波」=「外に現れている朱(赤色)」「志波邇」=「囲われている朱(黒色)」する。通訳は「上」「下」とする。状態的には間違ってないが、外気に触れているか、そうでないか違いを区別していると思われる。化学的には大変重要である。勿論、当時に化学などという言葉はなかったであろうが・・・。

⑦美都具理能 曾能那迦都爾袁 加夫都久

「美都具理能 曾能那迦都爾袁」=「三栗のような間にある中の丹」を…、
 
加夫都久=火夫点く(火夫が火を付ける)

…実際には少量を火で炙ったのであろう。赤(辰砂)と黒(黒辰砂)の間にある辰砂を加熱すると言っている。ビックリ仰天である。

現在では「赤」を加熱すると「黒」に可逆的に変化することがわかっていて、結晶系が変化して変色するのである。勿論冷やすと「赤」に戻るが(可逆)、微量の不純物に可逆の時間・程度が依存する。実際に採掘される下層の「黒」は不純物が多く含まれていることを考えると、中間の辰砂を用いることにより、より純粋な「黒」を作り出すことができると思われる。

併せて加熱して火傷をしない程度の温度にすることにより眉を引く時の塗布適性も向上するであろう(詳細はこちらを参照)。通説「かぶりつく」は意味不明。最も毒性の強い鉱物の一つに挙げられる、かぶりついたら眉が引けない・・・息を引き取ることに・・・。

<行程図>

応神天皇の時代、既にこれだけの知識と技能を有していたこと「あさまし」である。また、化学史上極めて重要な記述と思われる。

「あさまし古事記」である。当然渡金に欠かせない水銀(液状金属)と金とのアマルガムを作り、そのアマルガムを塗布後加熱して水銀を揮発させ、金張りを形成する、これが眩いばかりの仏像を世に出現させることになる。その水銀も製造していたのではなかろうか。

香春岳で産出する銅、鏡を作るのに不可欠な「朱砂」(研磨剤)また渡金に必要水銀、勿論、薬としての利用もあったであろう(殺菌作用)、国家権力に直結する立場を獲得することになる。それは自然の流れでもあったろう。

丸邇一族が力を持っていたこと、前記での「沙本」の反逆行動など応神天皇紀の歌からその背景を知らされる。

「食」ばかりではなく「衣住」に関するモノへの関心へと動いていることを伺わせる貴重な記述と思われる。

上記に続くところは武田氏の訳を参照して、古事記本文は宇遲能和紀郎子が誕生すると結んでこの段を終える。応神天皇の「丸邇」一族に対する思い入れが強く感じられるところである。

安萬侶くんの伝えたかったこと、歌を通じての国の力である。当時最も重要な技術を、誰が、何処で、何時、どの様にして育み発展させて来たかを述べているのである。1,300年の時が過ぎるまで、謎のままに過してきたことに悔いがあるのではなかろうか。