品陀和氣命:宮と陵
香坂王・忍熊王の謀反を鎮めた建内宿禰が幼い御子、大鞆和氣命を引き連れて角鹿の血浦に禊祓えに向かった。そこで地の神、伊奢沙和氣大神と出会い、名前を交換したという。何だか生臭い説話なのだが、既に「血浦」の場所、地の神が貰った「氣比大神」(現在の気比大社の主祭神)及び大鞆和氣命が貰った「品陀和氣命」の由縁を読み解いた。
この説話の意味は、伊邪那岐・伊邪那美が生んだ伊豫之二名嶋の面四(伊豫国、讃岐国、粟国、土左国)の内唯一言向和できていなかった粟国(高木)との和平交渉であった。要するに第三国における両首脳の名前交換による和平共同宣言である。高木は「氣比」と名付けられて身分保障され、天皇家は漸くにして高木の地に足を踏み入れることができるようになったわけである。
倭建命の活躍も含めて熊曾国と出雲の南部を除き倭国の統治領域がほぼ確定したことを古事記が伝えているのである。応神天皇紀に新羅、百済からの多くの渡来、とりわけ百済からの先進の情報取得がなされたことが伺える記述となっている。古事記が記す「倭国連邦言向和国」の実情と重ねて十分に納得できる内容と思われる。
品陀=品(段差)|陀(崖)
…「段差のある崖」と紐解いた。石峰山からの大きな崖が目に止まる。ここが「品陀」と言われる由来であろう。
一方、伊奢の「奢」=「大+者」と分解すると、「大」=「大の形」=「平らな山頂の山」であり、「者」=「交差させ集めた木の枝+台」が字源とある。
地形象形的には「木(山稜)」として「者」=「稜線が交差したような麓の台地」と紐解ける。纏めると「伊奢」は…、
伊(小ぶりな)|奢(稜線が交差する麓の台地)
…「平らな山頂からの稜線が交差したように見える麓の小ぶりな台地」と読み解ける。石峰山山頂の様子とその麓にある台地を示していると解読される。上図に示されている通りに山頂を含む尾根は半円を描くように曲がっており、稜線の交差を生み出している。実に「交差させて集めた」図柄であろう。
山頂が平坦で弓なりに曲がり、海に面する断崖のような地形、おそらくこの地以外の場所を求めることは困難であろう。これが「伊奢」の地である。明らかに「品陀」と「伊奢」は同じ場所を示していると判る。気持ち、品陀が山側で広い範囲を表しているような感じではあるが・・・古事記編者達の能力と努力に敬意を評したい。
誕生する御子達がこの「高木」の隅々に散らばったと記述される。初見で紐解いたが、後日改めて詳細を述べるとして、今回は品陀和氣命の宮と稜の場所について述べることにする。
誕生する御子達がこの「高木」の隅々に散らばったと記述される。初見で紐解いたが、後日改めて詳細を述べるとして、今回は品陀和氣命の宮と稜の場所について述べることにする。
輕嶋之明宮
<輕嶋之明宮> |
一方、もう少し上流に彦山川と中元寺川が作る「軽」がある。
そこは那羅山の端にあって現在でも小高いところが途切れ途切れに存在する場所である。
それを「嶋」と表現したと思われる。輕嶋之明宮は現在の福岡県田川郡福智町金田辺りと推定される。
「明宮」はこの地は二つの大河に挟まれ、四方の山から遠く離れた文字通りに、明るい宮、であったろう・・・と簡単に片付けたが、やはり地形象形と思い直すことにした。
「明」=「日(炎)+月(三日月)」と分解できる。もちろんこれが字源である。この二つの地形が揃っていると解釈される・・・油断大敵…そんな格闘が古事記の解読であろう。
古事記に「月」を三日月の三角の地形とし、「日」を炎の地形とする事例は数多く出現する。安萬侶コードである。「輕之明宮」に刻まれた宮の場所を誤ることなく一に特定できる結果である。
当時の「輕」の形は現在とは大きく異なっていたと推測される。標高からでは古遠賀湾が延びたその先にあったと思われるが、現在のし水田地帯は川面との差が1mに満たないようである。
未だ沖積が未熟であったろう。上記の「輕嶋」は真に「島」の状態であったと推測される。
さすが応神天皇、目の付け所が違う…古事記の中でもこの天皇位置付けは、些か異なるところがあるようで・・・那羅山の丘陵地帯に入り込んだ天皇であった。「高木」の地だけでなく師木の西側にある巨大な三角州の地に後裔達が広がって行くことになる。倭国の中心地(現在の田川郡、田川市)の完全統治を示しているようである。
娶った比賣の出身は旦波国、山代国からは激減しているのが特徴である。また御子は男女合わせて二十六人であるが「祖」となる記述は少ない。がらりと趣の変わったことを告げている。領地拡大戦略からの転換と見做せるであろう。
川內惠賀之裳伏岡
「凡此品陀天皇御年、壹佰參拾歲。甲午年九月九日崩。御陵在川內惠賀之裳伏岡也」
<川內惠賀之裳伏岡陵> |
それらしきところはもう一つ現在の行橋市高来・福丸辺りにみられる。福丸にある古墳が該当するかと思われる。
「高来」=「栲(タク)」と読むと、角鹿の「喜多久」に通じる。
即ち「布」に関連する地名と推測される。「裳伏岡」の表現との繋がりが見えてくる。
状況的には上記のようだが、文字そのものを紐解いてみる。「裳」=「ゆったりとした衣」の意味とあるが、「衣」=「山麓の三角州」と紐解いた(「許呂母」とも表記される)。すると…、
裳(ゆったりとした山麓の三角州)|伏(隠れる)
…「広い山麓の三角州が隠れている」ところと読み解ける。
「岡」は山稜に囲まれた中央にある小高いところを示す。実に丁寧に約束事を守っているようである。地形象形的にも全く申し分なしの場所と思われる。若干「裳」の三角州が判別し辛い感じであるが、現在は多数の用水路のような川が流れるところと伺える。小波瀬川に対して当時も目立った川がなかったことを再現しているのかもしれない。むしろ真実味を醸し出す結果となった。
さて、次回は誕生する大雀命(後の仁徳天皇)を含めた数多くの御子達の居場所を見直してみよう…この大雀命の名前は彼が難波之高津宮に坐した動機を示すものと判る重要なところである。