2018年7月29日日曜日

品陀和氣命:宮と陵 〔239〕

品陀和氣命:宮と陵


香坂王・忍熊王の謀反を鎮めた建内宿禰が幼い御子、大鞆和氣命を引き連れて角鹿の血浦に禊祓えに向かった。そこで地の神、伊奢沙和氣大神と出会い、名前を交換したという。何だか生臭い説話なのだが、既に「血浦」の場所、地の神が貰った「氣比大神」(現在の気比大社の主祭神)及び大鞆和氣命が貰った「品陀和氣命」の由縁を読み解いた。

この説話の意味は、伊邪那岐・伊邪那美が生んだ伊豫之二名嶋の面四(伊豫国、讃岐国、粟国、土左国)の内唯一言向和できていなかった粟国(高木)との和平交渉であった。要するに第三国における両首脳の名前交換による和平共同宣言である。高木は「氣比」と名付けられて身分保障され、天皇家は漸くにして高木の地に足を踏み入れることができるようになったわけである。

倭建命の活躍も含めて熊曾国と出雲の南部を除き倭国の統治領域がほぼ確定したことを古事記が伝えているのである。応神天皇紀に新羅、百済からの多くの渡来、とりわけ百済からの先進の情報取得がなされたことが伺える記述となっている。古事記が記す「倭国連邦言向和国」の実情と重ねて十分に納得できる内容と思われる。


品陀=品(段差)|陀(崖)

…「段差のある崖」と紐解いた。石峰山からの大きな崖が目に止まる。ここが「品陀」と言われる由来であろう。

一方、伊奢の「奢」=「大+者」と分解すると、「大」=「大の形」=「平らな山頂の山」であり、「者」=「交差させ集めた木の枝+台」が字源とある。

地形象形的には「木(山稜)」として「者」=「稜線が交差したような麓の台地」と紐解ける。纏めると「伊奢」は…、


伊(小ぶりな)|奢(稜線が交差する麓の台地)

…「平らな山頂からの稜線が交差したように見える麓の小ぶりな台地」と読み解ける。石峰山山頂の様子とその麓にある台地を示していると解読される。上図に示されている通りに山頂を含む尾根は半円を描くように曲がっており、稜線の交差を生み出している。実に「交差させて集めた」図柄であろう。

山頂が平坦で弓なりに曲がり、海に面する断崖のような地形、おそらくこの地以外の場所を求めることは困難であろう。これが「伊奢」の地である。明らかに「品陀」と「伊奢」は同じ場所を示していると判る。気持ち、品陀が山側で広い範囲を表しているような感じではあるが・・・古事記編者達の能力と努力に敬意を評したい。

誕生する御子達がこの「高木」の隅々に散らばったと記述される。初見で紐解いたが、後日改めて詳細を述べるとして、今回は品陀和氣命の宮と稜の場所について述べることにする。


輕嶋之明宮

品陀和氣命は輕嶋之明宮に坐した、とある。「軽」は何度も出現した文字で、例えば、大倭日子鉏友命(懿徳天皇)の「輕之境岡宮」などが既に登場していた。軽の文字は敵陣に戦車が突っ込んでいく様を象形したもので、地形にすれば二つの川が合流する場所、そこにできる川中島の形と解釈した。決して「軽(カル)い」という意味ではない。


<輕嶋之明宮>
果たして同じ場所であろうか?…輕之境岡宮の「軽」は複数の尾根が延びたその先端を遠賀川と彦山川が挟むところで「嶋」の形状とは異なる。

一方、もう少し上流に彦山川と中元寺川が作る「軽」がある。

そこは那羅山の端にあって現在でも小高いところが途切れ途切れに存在する場所である。

それを「嶋」と表現したと思われる。輕嶋之明宮は現在の福岡県田川郡福智町金田辺りと推定される。

「明宮」はこの地は二つの大河に挟まれ、四方の山から遠く離れた文字通りに、明るい宮、であったろう・・・と簡単に片付けたが、やはり地形象形と思い直すことにした。

「明」=「日(炎)+月(三日月)」と分解できる。もちろんこれが字源である。この二つの地形が揃っていると解釈される・・・油断大敵…そんな格闘が古事記の解読であろう。


島のように見える、という解釈から上図の場所と比定したが、果たして「日」と「月」はあるのか?・・・何と島そのものが「月」の地形、宮の場所が「日」であった。

古事記に「月」を三日月の三角の地形とし、「日」を炎の地形とする事例は数多く出現する。安萬侶コードである。「輕之明宮」に刻まれた宮の場所を誤ることなく一に特定できる結果である。

当時の「輕」の形は現在とは大きく異なっていたと推測される。標高からでは古遠賀湾が延びたその先にあったと思われるが、現在のし水田地帯は川面との差が1mに満たないようである。

未だ沖積が未熟であったろう。上記の「輕嶋」は真に「島」の状態であったと推測される。

さすが応神天皇、目の付け所が違う…古事記の中でもこの天皇位置付けは、些か異なるところがあるようで・・・那羅山の丘陵地帯に入り込んだ天皇であった。「高木」の地だけでなく師木の西側にある巨大な三角州の地に後裔達が広がって行くことになる。倭国の中心地(現在の田川郡、田川市)の完全統治を示しているようである。


娶った比賣の出身は旦波国、山代国からは激減しているのが特徴である。また御子は男女合わせて二十六人であるが「祖」となる記述は少ない。がらりと趣の変わったことを告げている。領地拡大戦略からの転換と見做せるであろう。


川內惠賀之裳伏岡

「凡此品陀天皇御年、壹佰參拾歲。甲午年九月九日崩。御陵在川內惠賀之裳伏岡也」


<川內惠賀之裳伏岡陵>
百三十歳(六十五歳?)でお亡くなりになった。川內惠賀は「河内国にあった恵賀」で仲哀天皇と同じく解釈するが、同じところではなかろう。

それらしきところはもう一つ現在の行橋市高来・福丸辺りにみられる。福丸にある古墳が該当するかと思われる。

「高来」=「栲(タク)」と読むと、角鹿の「喜多久」に通じる。

即ち「布」に関連する地名と推測される。「裳伏岡」の表現との繋がりが見えてくる。

状況的には上記のようだが、文字そのものを紐解いてみる。「裳」=「ゆったりとした衣」の意味とあるが、「衣」=「山麓の三角州」と紐解いた(「許呂母」とも表記される)。すると…、

裳(ゆったりとした山麓の三角州)|伏(隠れる)

…「広い山麓の三角州が隠れている」ところと読み解ける。

「岡」は山稜に囲まれた中央にある小高いところを示す。実に丁寧に約束事を守っているようである。地形象形的にも全く申し分なしの場所と思われる。若干「裳」の三角州が判別し辛い感じであるが、現在は多数の用水路のような川が流れるところと伺える。小波瀬川に対して当時も目立った川がなかったことを再現しているのかもしれない。むしろ真実味を醸し出す結果となった。

さて、次回は誕生する大雀命(後の仁徳天皇)を含めた数多くの御子達の居場所を見直してみよう…この大雀命の名前は彼が難波之高津宮に坐した動機を示すものと判る重要なところである。


2018年7月25日水曜日

物部とは? 〔238〕

物部とは?


古代氏族の中で最も有名なものの一つであるが、古事記が語るところが少なくその発祥の地などを詳らかにできていなかった。既に幾度か引用した「邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也」の記述と竺紫之石井君に関連する段で「物部荒甲之大連」として登場するのみである。

とは言え、何とかこれを見出さなければ落ち着かないのも事実、他の二つ「穂積」「采女()」の紐解きを振り返りながら試みてみようかと思う。

宇摩志麻遲命

邇藝速日命が哮ヶ峰(香春三ノ岳)に降臨した後、鳥見之白庭山(戸城山)に移り住むと知られていることは既に述べて、それぞれの場所を求めた(括弧内)。速須佐之男命、天菩比神など幾人かを降臨させたが結局は思いの通りにことが運ばなかった。その降臨者の内の一人と理解した。更に邇邇藝命の兄、天火明命そのものが邇藝速日命(別名櫛玉命)であるとも判った。

他書に記される邇藝速日命のフルネーム「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」の「天照」は真に天照大御神の一族であることを示しているのである。と言うか、本来は奔流の立場にあったと思われる命名であろう。その彼が地元に比賣、登美夜毘賣を娶って誕生したのが「宇摩志麻遅命」である。


<登美>(拡大)

登美能那賀須泥毘古の名前に刻まれた地名は、大きく豊かな谷間がありその出口は州となり、当時としては最適な水田稲作地帯であったことを示していると解釈した。

真に安住の地を得たかのような気分に陥ったのだろう。それが天神達には気に食わなかったと読み解いた。

誕生した「宇摩志麻遅命」は戸城山周辺を開拓し始める。山稜を越えたところ、戸城山の東南麓に居を構えたと、その名前から紐解いた。

図に示したように決して広くもなく、急峻な上に蛇行する川もある地ではあるが、子孫繁栄の基盤を作り上げたのであろう。この地を起点に「祖」となって行ったと記述される。


<穂積>
穂積

穗(山稜の先端)|積(集め重ねる)

…「山稜の先端が集め重ねられた」ところと解釈された。大坂山と戸城山の山稜が交差する複雑、ユニークな山稜配置となっている場所である。

これを捉えた表記と推察した。交差する山稜の端が、自然に重なり合うように集まる場所である。この地で誕生した比賣が皇統に深く関係し、また「丸邇」一族が派生して来ることになる。

丸邇一族は雄略天皇の立国宣言に極めて大きな功績があった一族となる。言わば同根の一族で作り上げた国だったわけである。なのに古事記は邇藝速日命の取扱いが粗末である。同根ゆえのことかもしれないが・・・。

図をあらためて見てみると鳥見之白庭山(戸城山)を中心に無数にある山稜の谷間を開拓して行ったことが伺える。既に詳細を述べた通りこれらの谷間の大半に比(毘)古、比(毘)賣が坐していたと推定した。

葛城、山代ほどではないにしても未開の地への侵出、それを伴いながら原・住人と融和して行ったと思われる。ただ宇摩志麻遅命の時代ではそこまでの浸透は果たせず、開化天皇がこの地に侵出したてから本格化したと思われる。

これも天神達のお気に召さないことの一つで、現地に溶け込んでしまい、安住しては困るのである。


采女()

「采女」は「宮廷で仕える女人」の呼称もあり、また古事記に地名として判断できるような記述はこの「婇臣」のみである。そんな手懸りの状態であったが、倭建命が瀕死の状態で通過した三重村の場所が見出だせたことから一挙にその場所が浮上して来たのである。


<三重村>
伊服岐能山で神様に傷めつけられての帰途、尾張から倭に向かう途中で、身体が三重になったと告げるところである。


三重=山稜の端が三つ重なる

…ところと紐解いた。福智山山塊の端に辺り、この地も複雑に山稜が重なる場所である。

ここもユニークな地形で一に特定できる。それが目的で記載されるわけだから、全体の地形を如何に熟知していたかを表している。

不可能ではないが、その膨大な作業に驚嘆する思いである。だが、古事記編者達は実行した、である。

その隣に「采女」があった。地形的には三つ寄り集まる前の隙間である。これを「采女」と表記した。宇摩志麻遅命が祖となったと言うからには子孫がいた筈であるが、全く語られない。雄略天皇紀に登場する「三重婇」は、それこそ「婇」地と宮仕えの女人とを重ねた表記なのかもしれないが、はっきりとはしない。

当時のことを思うと、紫川から程よい距離を保てる場所が適していたのであろう。三重村は川に近接するところである。宇摩志麻遅命が侵出したのは采女であって、三重村ではなく、そこは采女から開拓されて来た地であったと推測される。重要な交通の拠点ではあるが、人材の供給場所ではなかった様子である。

以上がこれまでに求めてきた概略に相当する部分である。若干の補足も含めて記載したが、邇藝速日命から始まる系譜、登場人物が坐した場所を見ると、最後の「物部」の地は倭国の南北センターライン上の何処か、ということになりそうである。それを念頭に置いて探索する。

勿論、「物部」が地名?…「武士」の由来で勇猛な武将を示す名前では?…従来の主な解釈であろうが・・・。そう読んでも全く問題なしであろうが、それだけならば「建」で十分、異なる表現を使う以上、地名を表していると考えるのである。更に、他の二つ「穂積」「采女」共に地形象形であったこと。律儀な安萬侶くんは、外さないと思う、のである。


物部


<牛>

「物」の解釈は決して簡単ではなかったことを思い出す。大物主大神の場合は「物」→「物故」、「穀物」などに連想して大年神一族の後裔(出雲八十神の子孫)を代表する名前と紐解いた。彼の居場所は「美和」と記され「物」は場所を表す表記と受け取る必要がなかったからでもある。

しかし、この度は異なって「物」そのものが地名と見做すことが必要である。そこで、常套手段「物」=「牛+勿」と分解する。牛の甲骨文字を示した。牛の象形である。「勿」は何とするか?…これ以上分解することもできず・・・致し方なくこの字形そのものに合致する地形を求めることにする。

上記したように雄略天皇の長谷(香春町採銅所)を抜け、峠(金辺峠)を越えて宇陀(小倉南区呼野)へと向かう場所を散策すると、出て来ました目論見の通りの地形を示す場所が見出だせる。現地名北九州市小倉南区井手浦である。

カルスト台地平尾台の西側、宇陀の北側にある崖下に複数の山稜が延びる地形である。図に示した通り、「勿」の字が当て嵌まる。更に詳細に見ると、平尾台西端の山稜が描く地形を横から眺めると「牛」の角二つが揃っていることが判る。塔ヶ峯と大平山である。


<物部・宇陀水取>
古事記に記載の地名に重なる表現はなく、初めての登場となるところである。

麓を更に下ると倭建命の能煩野(母原)に到達する位置でもある。

この地が後の物部氏の本貫の地と思われる。


物(角のような山がある[勿]の字の地形)|部(地)

…と紐解ける。

後の継体天皇紀に竺紫之君石井が無礼をした件で将軍を派遣し…、

遣物部荒甲之大連・大伴之金村連二人而、殺石井也。

…と記述される。「物部荒甲之大連」が登場する。「大連」へと昇格である。


<宇摩志麻遅命(祖)>(拡大)

「荒甲」は…、


荒(荒々しい)|甲(山)

…塔ヶ峯は決して高山ではないがその斜面はかなりの勾配を有している。かつ、カルスト台地の石灰岩の岩山であることが知られている。それを表していると推察される。

名は体を示す…石井征伐の功績は益々その地位を高めたのではなかろうか。

邇藝速日命から采女臣までを纏めると図のようになる。彼らは東西に足を運ぶのではなく南北に行き来したことを表しているようである。

ところで神倭伊波禮毘古命が吉野を経て「宇陀之穿」(吹上峠)を通り抜け、向かった「宇陀」の地で兄・弟宇迦斯と戦闘する説話がある。

弟の密告で兄の謀略を知り、久米の将軍などオールキャストで退治する話しなのであるが、「物部」はその近隣である。

「宇陀之穿」(平尾台西端の山稜を越え抜けるところ)をわざわざ記述したことも考え合わせると、この兄弟は物部一族所縁の者ではなかろうか。

少なくとも宇摩志麻遅命に関わる者達であったことは疑えないと思われる。登美能那賀須泥毘古を失脚させる戦いの前哨戦であったと推察される。

神倭伊波禮毘古命が那賀須泥毘古との初戦「日下之蓼津」と言われたと記される。「日下(クサカ)=櫛玉命の加護がある場所」と読み解いたが、この倭国南北センターラインは強力に邇藝速日命が支配する地域だったと告げていたのである。これは雄略天皇紀の美和河赤猪子の説話に繋がり、古事記の舞台設定がしっかりと据えられていることがあらためて理解できたと思われる。

密告者弟宇迦斯は「宇陀水取之祖」となったと記される。現在の井手浦浄水場が目に入る。調べると1972年完成の北九州市基幹浄水場で「豊かな自然環境の中で良質な水を利用して、わさびの栽培とヤマメの飼育などを行う「やまめの里」があり、自然学習や水源地交流などに取組んでいます」とのことである・・・古事記記述と繋がると訳もなく楽しいものである・・・やっぱり「物部」かぁ~?…。

2018年7月23日月曜日

河內惠賀之長江陵・狹城楯列陵〔237〕

河內惠賀之長江陵・狹城楯列陵


古事記の仲哀天皇紀(神功皇后関連を含む)の見直しが漸く終わりに近付いた。筑紫国の詳細が語られた神功皇后の「凱旋」帰国は多くの情報を提供してくれたのだが、見直しが豊か…と言うことは、それだけ読めていなかった…であった。

古事記の言う筑紫国は現在の小倉である。博多湾岸では決してない、そこは後の世の筑前であった。「筑紫の前」ではなく、筑前と名付けられた地名である。「筑紫」という実体はないのである。古事記の記述は「高志」があり、その前に「高志前」があるとする。勿論「高志後」はない。混同しやすい…そうさせるのが目的なのだが…表記に惑わされている。

「末羅縣」の表現、それは「筑紫之末多」の表裏である。出雲の端っこは筑紫にあると述べている。この位置関係を矛盾なく理解できる解釈でなければならないことを告げているのである。古事記は矛盾だらけの書、それは読み手の頭の中が矛盾しているだけ、更にその矛盾を止揚し、本意に近付こうとすることを放棄した結果に過ぎない。

今回の見直しで些か勇気付けられて、最後の段に移ろう。陵墓の記述、決して簡単ではない。何処かでも記したが、墓のあり場所は極秘であろう。それを明瞭に記した史書の編纂者は間抜け、と決め付けられる筈である。仲哀天皇「河內惠賀之長江」、神功皇后は「狹城楯列陵」に夫々埋葬されたとある。


河內惠賀之長江陵


「河內惠賀之長江」は何処であろうか?・・・「恵」の草書体を調べると容易に推測できるようである。「恵」=「ゑ」である。画像を持ち出してもよいが「え」の旧字コードが登録されているので借用した。ひらがなの成立時期、由来とは無関係に「ゑ」=「之」の象形的類似性は明らかであろう。より複雑な河の蛇行及び天皇に捧げる命名として用いられたものと推察される


成務天皇の志賀之高穴穂宮で推察したように「志賀」=「之江」であり、現在の豊前(京都)平野の一部である。

更に「恵賀」の表現が加わることになったものと思われる。上記したように縄文海進の退行、沖積の進行を合わせると川の蛇行は一層進んだものと思われる。

「長江=枝」とすると、現在の地名、行橋市長木辺りを示しているのではなかろうか。

中国江南の「之江」=「志賀」の推論の傍証となる記述と思われる。図に示したように当時は白点線辺りまでが海岸線であったと推定される。細長く入り込んだ入江を形成し、現在の広宣寺辺りが「長江」の中心地であったのではなかろうか。

無数と言っていいくらいの川が流れていて、殆どが名称不詳である。がしかし、当時は現在の長峡川は、この辺りの下流域になると海に注いでおり(上図参照)、「長江」に注ぐ川などが「惠賀」を形成する本流だったのかもしれない。推定した海岸線はより内陸部に入り込んでいたようであるが、これ以上の推論は返って論拠を危うくしそうである。

山と川の名称が変わらずに残っていたならばもっと比定も楽であったろう。それが解っているから変えたのか・・・「犀川」は地名に残るが今は「今川」となっている。「大坂山」は辛うじて残っているが、これも消えるかもしれない。愚痴っていても致し方ないので先に進もう。

この陵墓の名前が持つ重要な意味の一つは難波の入江に「長江」と称されたところがあったと告げていることであろう。後の仁徳天皇紀に入江が大きく開拓されることになる。御子達の名前の多くに「江」が関連する。後日に述べることにする(お急ぎの方はこちらを参照願う)。

また、これも後の允恭天皇が「河內之惠賀長枝」に眠ると記される。上記と同じ場所を示していると思われるが、共に一に特定することは不可である。


狹城楯列陵

「狹城楯列陵」は…、


狹(狭い)|城(整地された高台)|楯列(楯を連ねる)

…「狭く整地された高台が盾を連ねたようになったところ」と紐解ける。狭い高台となるところは急傾斜の谷間であろう。そこに棚田が連なっている様を表していると読み解ける。御陵の位置は定かではないが、現在の五社八幡神社がある高台ではなかろうか。

<狹城楯列陵>
後の雄略天皇の「之多治比高鸇陵」と重なる場所ではなかろうか。

陵墓の場所は異なるとしても谷間に田が重ねられてる場所の表記として全く類似するものと思われる。

「鸇」=「亶+鳥」として「亶」=「物が多く集積され分厚くなる様」を示している解説されている。「楯列」の表現であろう。

現在の縮小表示されて図からでも見事な棚田の様相が伺える。当時を偲ぶことができるかと思われる。

更にもう一つの墓所名「沙紀之多他那美陵」(成務天皇陵)がある。読みが同じである。がしかし、漢字表記が異なる以上違う場所であろう。「沙」=「川縁」、「紀」=「糸+己」=「撚り糸のように畝る地形(己)」として…、


沙紀=沙(川縁)|紀(畝る)

…「川縁が畝った地」と紐解ける。多他那美の「他」=「蛇の形」を象形したものとある。


多(田)|他(長く畝る)|那(大きな)|美(谷間に広がる地)

…「田が長く畝って大きな谷間の大地」と紐解ける。「美」=「羊+大」で羊の甲骨文字の地形象形から紐解ける安萬侶コード「美(谷間が広がる)」である。

この二つを併せ持つ地形は現在の幸ノ山と観音山との間にある大きく長い谷間から流れる川縁であったと推定される。御陵の特定は難しいが幸ノ山の麓辺りではなかろうか。河内(川内)とくれば陵墓の勢いである。河内、近淡海国全体としても、下流域の開拓はずっと後の世に任されることになる。

いずれにしても河川の中流域~下流域の開拓が大きな課題となりつつあったと推測される。氾濫を抑え四季を通じて安定した水源を確保することができるようになるのは古事記の時代のずっと後になろう。いや、現代でさえ川に潜在する脅威と向かい合っているのである。

2018年7月21日土曜日

忍熊王終焉の地 〔236〕

忍熊王終焉の地


息長帶比賣(神功皇后)が身重でありながら新羅に向かい、筑紫に戻って御子を「宇美」で生む。生まれた御子は次期天皇を約束されたもののようで、古事記はひたすら御子が天下人であることを告げる。都合の良い時は、神憑りで・・・。

そう言う時には必ず謀反人が登場、敢無く処分されるという筋書きである。ただ、今回の謀反人は少し重みが違ったようで、それなりに丁寧に扱われているように感じられる。一つには「出雲」の関わりの終焉を示すようであり、天皇が通う比賣の坐した場所にその地が記されなくなって行くのである。

忍熊王の兄、香坂王の出自も併せて振り返ってみようかと思う。

大江王之女・大中津比賣命

大帶日子天皇(景行天皇)が倭建命の曾孫の迦具漏比賣命を娶って誕生した大江王、その比賣の大中津比賣の登場である。前記したように迦具漏比賣の父親が須賣伊呂大中日子王であり、母親は淡海之柴野入杵の娘、柴野比賣である。出雲北部の中心に居た人々が絡む系譜なのである。


<倭健命:出雲系譜>(拡大)

景行天皇紀の倭建命の段で記載された系譜を纏めた図を示す(詳細はこちら)。

左側の若建王は倭建命と弟橘比賣の御子、杙俣長日子王は孫に当たる。錯綜とはしているが…大帶日子天皇などもご登場なされるが…この狭い出雲北部での娶りが成立しているのである。

そしてこの相関図のアウトプットが香坂王と忍熊王と言うことが判る。出雲北部の血統を色濃く引き継いだ御子達であった。

ちょっと補足だが、「須賣伊呂」は重要なキーワードである。通説は「スメイロド」と読んで「天皇の兄弟」のような意味不明の解釈となる。全くの誤解釈である。「杼(ド)」は付いていない。


須(州)|賣(孕む)|伊(僅かな)|呂(高台)


<大中津比賣命>
…「州が孕む(州に囲まれた)僅かに高い台地」と言っているのである。戸ノ上山からの谷川に挟まれた山麓の高台、そこに坐していた王と紐解ける。出雲北部のランドマークの一つであろう。

大江王及び大中津比賣の居場所を拡大した図を示す。当時の海岸線を推定すると現在よりも大きく陸側に後退しており、いくつかの入江を形成していたことが判る。

既に何度か言及したことではあるが、齟齬のない表示である。倭健命の系譜では「大中比賣命」であり、「津」が付加された命名となっている(前記倭健命を参照)。

「大中日子王」の近隣と推定したが、そもそも大江王の居場所と近接するところである。幼少次期は「大中」に居て、その後父親の「大江」の津に近いところに移ったとも考えられる。

<香坂王・忍熊王>
彼らも地名由来の命名として紐解いてみると…、

香(祭祀する山)|坂

…「祭祀する山(戸ノ上山)へ向かう坂」と読み解く。

忍(目立たない)|熊(隅)

…山稜の端が目立たないところだが隅になっているところと解釈する。図に示した場所と推定される。母親の住まったところに近く、やはり出雲の北部中央に当たるところである。

その地の祖先を持つ彼らが久々に歴史の表舞台に登場する機会があった。だが、その機会は敢無く霧散する。息長の血統を濃く引き継ぐ彼らではあるが、所謂骨肉の諍いの部類に入るのであろうか、身内の争いは凄惨である。

さて、騒動の最後の場面の記述を示すと、古事記原文[武田祐吉訳]…、

忍熊王、以難波吉師部之祖・伊佐比宿禰爲將軍、太子御方者、以丸邇臣之祖・難波根子建振熊命爲將軍。故追退到山代之時、還立、各不退相戰。爾建振熊命、權而令云「息長帶日賣命者既崩。故、無可更戰。」卽絶弓絃、欺陽歸服。於是、其將軍既信詐、弭弓藏兵。爾自頂髮中、採出設弦一名云宇佐由豆留、更張追擊。故、逃退逢坂、對立亦戰。爾追迫敗於沙沙那美、悉斬其軍。於是、其忍熊王與伊佐比宿禰、共被追迫、乘船浮海歌曰、
伊奢阿藝 布流玖麻賀 伊多弖淤波受波 邇本杼理能 阿布美能宇美邇 迦豆岐勢那和
卽入海共死也。
[この時にオシクマの王は、難波の吉師部の祖先のイサヒの宿禰を將軍とし、太子の方では丸邇の臣の祖先の難波のネコタケフルクマの命を將軍となさいました。かくて追い退けて山城に到りました時に、還り立って雙方退かないで戰いました。そこでタケフルクマの命は謀って、皇后樣は既にお隱れになりましたからもはや戰うべきことはないと言わしめて、弓の弦を絶って詐って降服しました。そこで敵の將軍はその詐りを信じて弓をはずし兵器を藏しまいました。その時に頭髮の中から豫備の弓弦を取り出して、更に張って追い撃ちました。かくて逢坂(おおさか)に逃げ退いて、向かい立ってまた戰いましたが、遂に追い迫せまり敗って近江のササナミに出て悉くその軍を斬りました。そこでそのオシクマの王がイサヒの宿禰と共に追い迫せめられて、湖上に浮んで歌いました歌、
さあ君よ、フルクマのために負傷ふしようするよりは、カイツブリのいる琵琶の湖水に潛り入ろうものを。
と歌って海にはいって死にました]

話しの流れは難しいことではないので読み飛ばしてしまいそうになるが、登場人物名、地名などは決して通説のような解釈では合致しないようである。今一度整理をしてみよう。概略の戦闘場所を地図で示すと、以下のようである。


忍熊王の第一波攻撃を「斗賀野」で受けたがすぐに攻勢をかけて「山代」まで後退させた。がしかし雌雄を決するまでに至らず、建内宿禰の策略が発揮される。汚い手を使って欺き、一気に攻勢に。忍熊王は余儀なく「逢坂(オオサカ)」まで後退した。

「逢坂」=「会う(アフ)サカ」⇒「オウサカ」ではな「逢坂」=「大(オオ)きい坂」=「大坂」である。現在の京都郡みやこ町犀川大坂辺り。武田氏のルビは真っ当である。「山代(背、浦)の大坂」は古事記を紐解く上において欠かせない場所である。ランドマークである。

激しいバトルの結果、止めを刺される場所が「沙沙那美」である。決して琵琶湖の「さざなみ」ではない。原文の示すところは最終戦闘場所であり、湖上ではない。命を懸けて戦った戦士の最後の場所、鎮魂を込めて探し出すのが後の世の務め、怠っては…「さざなみ」では浮かばれない。

この地は応神天皇紀の「蟹の歌」にも登場する。高志から向かって来るので逆行であるが、陸地への上陸地点としての定まったところであったと思われる。ここからは船で川を下り海に向かう場所であったと思われる。

地図で示した場所現在、京都郡みやこ町犀川大坂(笹原)という地名になっている。追い詰められた戦士達の無念の場所である。忍熊王と将軍の一人伊佐比宿禰が犀川(現今川)伝いに「阿布美能宇美」へ逃げる。が、時すでに遅し、抵抗を諦めて海に沈んだ。

阿布美能宇美」は簡単に「淡海の海」としてしまいそうであるが、何やら海が重なって違和感がある。通説は「淡水の湖」であろうか…「淡水」の概念は古代にあり得ない、であろう。当初の読み解きではそれで過ごしたが、やはり今一歩踏み込んでみよう。


阿(台地)|布(平らな)|美(谷間に広がる地)

…河口付近の台地、現在の行橋市泉辺りを示すのではなかろうか。「布」=「布を敷いたように平らな」で「布多遲」(布を敷いたように平らな治水された田)のような表記で出現する。前記崇神天皇紀の和訶羅河での戦闘でその南側が登場したところである。


<阿布美能宇美>
図に現在の等高線図を示した。行橋市泉中央を中心とした広々とした台地(標高10-20m)になっている。

これより薄い緑の地は干潟を作っていたものと推測される。一方で「淡の海」とも読める。例によって重なる表現である。が、単なる「淡の海」ではないことも確かなことなのである。

更に、二人の王子の夢も「泡」となってしまったことであろう。三つの意味が重ねられた表現と思われる。近淡海国の入江で事件は幕を閉じたと告げている。

「淡水」に拘っていては古事記の伝えることが読めないのである。塩分濃度が高い、低いなどはこの緊迫した場面での関心事ではなかろう。上図、これを見ることによって登場人物の位置付けが見えて来たのである。後述する。

二人の王子の子孫については古事記は語らない。出雲の血が途絶えたことを伝えたかったのどうか、後の記述に依るが、少なくとも出雲が歴史の表舞台から去って行ったことを告げているように思われる。大物主大神も現れないのであろう・・・。

ところで、この戦いにはそれぞれの将軍の名前が記載される。「忍熊王、以難波吉師部之祖・伊佐比宿禰爲將軍、太子御方者、以丸邇臣之祖・難波根子建振熊命爲將軍」…忍熊王の方は難波吉師部ゆかりの「伊佐比宿禰」であり、一方太子の方は丸邇臣ゆかりの「難波根子建振熊命」である。

共に「難波」が冠されるのであるが、果たして「難波」は唯一の場所であろうか?…これも「難波」の問題に絡んで興味深いところである。


<伊佐比宿禰>
先ずは「難波吉師部之祖・伊佐比宿禰」から紐解くと…含まれる「吉師部」の解釈となろう。

「吉」=「士(蓋)+口(区切られた空間)」と分解される。「区切られた空間に一杯物が詰めて蓋をした様」を表す文字と解説される。

地形象形的には「囗(大地)に○○が一杯詰まった、満ちた地形」と解釈される。「師」=「凹凸のある様」とすると、「吉師部」は…、
 
凹凸に満ちたところ

…と簡略に読み解ける。「師」は既出の「師木」で使われるように丘陵地帯の凹凸のある地形である。

それに難波と付記される。山稜の端で高低差の少ない丘陵が広がった入江であったと思われる。それを「吉師」と表記としたのではなかろうか。即ち上図の「阿布美」を示していると思われる。「伊佐比」は…、


伊(小ぶりな)|佐(支える)|比(並ぶ)


<難波根子建振熊命>(拡大)

…「小ぶりな並んでいるところを支える」宿禰と紐解ける。王と共に我が住まうところの近隣で、無念ながら生涯を閉じた、と述べている。

勝利した「難波根子建振熊命」は如何に紐解けるか?…「難波」は同じではなかろう・・・後の顕宗天皇紀と敏達天皇紀に「難波王」が二度登場する。

犀川が大きく曲がるところ二箇所に相当する。この命は下流の戸城山南麓と思われる。

「難波根子」=「難波の中心に坐す子」と読み解けば…、


振(整える)|熊(隅)|命

…「隅の地を整える命」と紐解ける。「建」が付くので「思う存分に…」という意味合いかも、である。姑息な、いや失礼、見事な策略で一気に忍熊王達を後退させた場所、地の利もあったであろうか、そこが彼の住まう場所だったのである。

香坂王、忍熊王の出雲と倭国を繋ぐのは周防灘を経由する海路であろう。難波伊佐比宿禰を頼ったのは過去の経緯があったからかもしれない。しかし、今にときめく丸邇一族の将軍相手では所詮叶わなかったのである。山代でのバトルが全てで、その後は敗走を繰り返すばかりと述べている。

何れにせよ、出雲北部、速須佐之男から大国主命へ、その子孫達へと繋がった地は古事記の表舞台から遠ざかることになる。手付かずの出雲南部、それは天皇家に関わらぬ地になりつつある、ようだが・・・。

2018年7月19日木曜日

東アジア激動の中の息長帶比賣命 〔235〕

東アジア激動の中の息長帶比賣命


よく知られているように後漢の滅亡(西暦220年)以降、東アジアは群雄割拠の激動の時代を迎えることになる。息長帶比賣命の御子、応神天皇が語る歌から古事記の時代背景を読み取ることができた(詳細はこちら)。古事記の応神天皇紀はおよそ西暦300年前後の東アジアの激変を反映していると読み解いた。

ならばその一世代前の時代にも少なからず反映されていると思われる。それが息長帶比賣の故郷凱旋の記述であろう。国が滅びると「ヒト・モノ・カネ」が漂い始める。その波動が極東の、ヨチヨチ歩きの国へ届く時になったのであろう。

既述したように仲哀天皇は国家戦略の転換期に遭遇した。彼はそれまでの方針「言向和」を基盤とした倭国内の統一「倭国連邦言向和国」の確立に向かい、残る「熊曾国」に目を付けようとする。だが取り巻き達(百官?)はそれとは異なる東アジアに目を向けようとしたのである。三国(魏呉蜀)が活発に動き、漢の支配から解き放たれた朝鮮半島の各国が覇権を争う時代である。

そんな時に倭国の中心は何処にあったのか、その位置を示す羅針盤である伊邪那岐・伊邪那美が生んだ筑紫嶋、その場所が最も重要となって来るのである。中でもその一面である「筑紫国」が示す場所こそ東アジアの、極東の発展途上国の有り様を浮かび上がらせることになろう。

些か余談ではあるが・・・魏の史書に記載された「倭」の既述とは無縁の話しなのである。筑紫嶋を現在の九州全体と見做す解釈では戸惑いしかないであろうが、魏の使者が見た、見せられた場所とは全く異なるのである。更に見た国の状態は、使者にとっては都合が良かっただけのことである。

脅威にならない蛮夷の未開国であった。古事記が記す倭国は、谷間を棚田に変え、苗代・田植えの水田稲作を行い、丹を使って女性は眉を引き、絹を紡ぎ、染色する国であった。勿論武器も…古事記は語らないが・・・。極論的ではあるが、他国の史書の信頼性に捕らわれて、それだけで当時の「日本」を論じる事自体が的外れと言える。未開の地もあれば邇邇藝命が降臨した地もある多様なところだった、のである。

・・・さてさて、話がドンドンとずれそうなので元に戻して…前記で「筑紫訶志比宮」の場所を「筑紫岡田宮」も併せて求めて来たが、「筑紫国」全体に関わる配置をあらためて描いてみようかと思う。それは激動の中故郷に凱旋して帰国した息長帶比賣命の物語の中に埋め込まれている。


息長帶比賣命

この大后の系譜について少し整理してみると、父親は息長宿禰王、日子坐王の子孫でその母親、祖母が丹波系である。一方母親の葛城之高額比賣は天之日矛を遠祖に持つ多遲麻国の出身である。詳細は応神天皇紀で記述の予定であるが、何故多遲麻系が葛城に飛ぶのか不思議であるが、実は彼女の母親、由良度美が「當麻」に居たと推定される。

<息長帶比賣命系譜>(拡大)
多遲麻と當麻の繋がりも後に述べることになるが、當麻は葛城近隣、というかその一部と読み解いてきた。

更に「高額」は當麻の間近に位置するところと推定した(現在の直方市永満寺の「鷹取山」比賣はその西麓にある福智山山ろく花公園辺り)。

また日子坐王が山代之苅幡戸辨を娶って誕生した小俣王は當麻勾君の祖と記載されている。

このように丹波、多遲麻、當麻そして葛城、山代と盛んな交流がなされていたことが推測される。

この背景の中で生まれたのが「息長帶比賣命」であり、倭国が大国への道を歩み始めた時の状況を示している。

図に息長帶比賣に関連する系譜を示した(天之日矛関連は応神天皇【説話】に記載)。この系譜のインプットは穂積臣を遠祖の持つ開化天皇と新羅の王子、天之日矛となる。

それに多遲摩、當摩そして旦波の息長一族が絡んだ系図となっている。いや、実に壮大、と言うか壮観な交流図である。もっとも拡大解釈されている通説からするとちっぽけな話しなのであろうが・・・。

何れにせよ新羅及び息長の血統を強く引き継ぐ比賣であったことは間違いのないところであろう。息長一族が何処から来て丹波に住み着いたのかは不詳であるが、彼らもまた渡来して来た一族であっただろう。

本題の筑紫の話題へと移ろう。新羅、百済と回ってご帰還されるのであるが、ご懐妊の身、「大鞆和氣命・亦名品陀和氣命」(後の応神天皇)の出生は端から思惑ありげな記述がなされている。それはそうとして・・・既に投稿済みの部分もあるが、加筆・修正を加えながら述べることにする。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

故其政未竟之間、其懷妊臨。卽爲鎭御腹、取石以纒御裳之腰而、渡筑紫國、其御子者阿禮坐。阿禮二字以音。故、號其御子生地謂宇美也、亦所纒其御裳之石者、在筑紫國之伊斗村也。亦到坐筑紫末羅縣之玉嶋里而、御食其河邊之時、當四月之上旬。爾坐其河中之礒、拔取御裳之糸、以飯粒爲餌、釣其河之年魚。其河名謂小河、亦其礒名謂勝門比賣也。故、四月上旬之時、女人拔裳糸、以粒爲餌、釣年魚、至于今不絶也。
[かような事がまだ終りませんうちに、お腹の中の御子がお生まれになろうとしました。そこでお腹をお鎭めなされるために石をお取りになって裳の腰におつけになり、筑紫の國にお渡りになってからその御子はお生まれになりました。そこでその御子をお生み遊ばされました處をウミと名づけました。またその裳につけておいでになった石は筑紫の國のイトの村にあります。 また筑紫の松浦縣の玉島の里においでになって、その河の邊で食物をおあがりになった時に、四月の上旬の頃でしたから、その河中の磯においでになり、裳の絲を拔き取って飯粒を餌にしてその河のアユをお釣りになりました。その河の名は小河といい、その磯の名はカツト姫といいます。今でも四月の上旬になると、女たちが裳の絲を拔いて飯粒を餌にしてアユを釣ることが絶えません]

筑紫末羅縣之玉嶋里

一読のごとく地名の羅列である。一つ一つ紐解いてみよう。「筑紫末羅縣之玉嶋里」に含まれる「末羅」とは何を意味するのであろうか。通説はほぼ全て「末羅」=「松浦」とする。読みの類似からだが、「末」の意味とは掛離れている。地形象形としての「末羅」の解釈は…、


末羅縣=連なっている最後の縣

…となろう。「淡海」に面したところ、それは現在の北九州市小倉北区赤坂辺りと推定される。

古より九州の玄関口であり、赤間関(現下関市)への渡し場となっていた。だからこそ数多くの事件を歴史に残している場所でもある。何故ここまでこの地に集中してきたのか、それはこの地の東方は山と海によって隔絶されているからである。


小河

垂仁天皇が山代大國之淵之女・苅羽田刀辨を娶って誕生した落別王が祖となった「小月之山君」が居た山を「手向山」に比定した(これも別れの意味を含むかな?)。「小が尽きる処」である。赤坂を過ぎると尾根の稜線が海に届き、ドン詰まりの状態、そこから先は…出雲国になる。この狭間の地は幾度となく登場する。現在の交通機関は問題なく行き来できるようになっているが、古は全く状況が異なったのである。

現在は土砂の堆積、埋立て等によって当時の地形を伺うことは極めて困難な状況であるが、手向山の西方は小さな島々が浮かぶ淡海であったと思われる。それが「玉嶋里」と表現される所以である。現在の妙法寺がある小高い場所ではなかろうか。かつては「延命寺」があったところであり「延命寺川」が流れる付近である。この川が「小河」と推定される。

「小(河)」=「小(倉)」に繋がり、更には「小(文字)」に繋がる「小倉」の地名の古に繋がるものと思われる。確かに「小」と深い関係にあった、そして現在も続いていることはわかるのであるが、何故「小」なのかは不詳である。「小」の文字を地形象形として紐解いてみよう。「小」=「ハ+」に分解すると、「山稜と川が流れる谷間」の象形が浮かんでくる。


<小河・伊斗村>(拡大)

図に示したように比婆之山と延命寺川が流れる谷間が作る地形を「小」と表したのではなかろうか。

この山稜のそれぞれの端にある丸く飛び出ている地形が「小」の両脇の「点」を表していると読み解ける

これこそが「小」の由来と思われる。小文字山の「小文字焼き」の動画、ご参考。

下図をも併せて眺めると、近世に至るまで本州と九州を繋ぐ、真に主要な場所であったことが伺える。

古事記の時代に既にそうであったことを伝えているのである。「小倉」=「小の谷」となるが、比婆之山の谷が由来なのかもしれない。そしてこの谷を登れば黄泉国に辿り着く、かもしれない・・・今は自衛隊の駐屯所か・・・。


伊斗村

余りにも有名な「鎮懐石」の説話、その場所が「筑紫國之伊斗村」である。


伊(小ぶりな)|斗(柄杓の形)


(拡大)
…延命寺川の谷の出口に当たるところと思われる(上図参照)。

現地名は北九州市小倉北区常盤町辺りである。「常盤」=「常(トコ)磐(イワ)」=「トキワ」である。鎮懐石とは関係ないようだが・・・。
 
出雲国の「大斗」淡道の「由良能斗」そして筑紫の「伊斗」全てが柄杓の地形象形である。

この「斗」を用いて無名の地の在処を記述したと解釈される。実に巧みな手法を編み出したものである。

が、それが読めなかったのだから草場の影で安萬侶くんも苦笑い、ってところであろうか。

御子を産んだ地名「宇美」駄洒落か…いえ、ちゃんと地形が刷り込まれている…、


宇(山麓)|美(谷間に広がる)

…「谷間に広がる山麓」と読み解ける。上図に示したように足立山から北に延びた稜線の麓を示す。「美」の解釈に一工夫を要する。「美」=「羊+大」であり、「大きな羊」から常用される美しい、見事な、美味いなどへと転化して行ったと解説される。確かに通常の意味で通じないわけでもなかろう。しかし、もう一歩踏み込んだ解釈があるのではなかろうか・・・。
<羊>

図に「羊」の甲骨文字を示した。この文字の上部を二つ並んだ山稜に見立ててることができるのではなかろうか。その下部は谷間から広がるところ、山麓を表し、それが「大」と読み取れる。

上図から判るように比婆之山(並んだ端の山)の谷間、正に黄泉国から続く谷間の先に広がる山稜の端を示している。真に「美」な地形象形ではなかろうか・・・。

漸く多数出現する「美」の文字の真っ当な紐解きに行き着いた感じである。「貝」の文字解釈に甲骨文字を使ったが、連想不足であった(関連箇所は修正済み…の筈)。

この地は足立山山塊の北西麓を占める現地名の「富野」(安萬侶コードで紐解けば「山麓の坂にある野となる)に当たる。古代において、そして後代の交通機関の未熟な時代まではこの地が如何に重要な機能を有していたかを歴史に刻んでいると思われる。


<筑紫国>(拡大)
現在の北九州市小倉北区は、当時大半が海面下であったことは容易に想像できる。

足立山西麓及び北に延びた二つの山系(比婆之山)の麓が中心の地であったことも理解できる。その地こそ「筑紫国」であったと導くことができるのである。

「小」はその「比婆之山」が作る谷間に由来を持つ。中心の場所は異なれど「小倉」に秘められた「筑紫国」が今、浮かび上がって来たように思われる。

既に述べたが博多湾岸は律令制後の「筑前」であって「筑紫」ではない。古事記の言う「筑紫」は「豊前」とされたのである。

邇邇藝命の降臨場所しかり、また冒頭の魏の史書の解釈しかり、全て律令制後の国譲りに振り回されたものであろう。胸形(現在の宗像)以外の全てを日本列島に拡散させた国譲りである。

息長帶比賣命の働きで次期の応神天皇紀には多くの渡来を促すことができたと伝える。衣食住に関わる人々、おまけに論語まで先生付きで迎えることができたと言う。「言向和」は影を潜め、内なる高まりへと進んで行ったと述べる。邇藝速日命が叫んだ「虚空見」の国から仁徳天皇の「蘇良美都」の国へと変わる時であった。

2018年7月17日火曜日

穴門之豐浦宮と筑紫訶志比宮 〔234〕

穴門之豐浦宮と筑紫訶志比宮


倭建命の御子、帶中日子天皇(後の仲哀天皇)が坐したと言われる二つの宮である。従来よりこの二つの宮についての比定場所は殆ど異論なく豊浦宮が山口県下関市長府宮の内町の忌宮神社、訶志比宮が福岡県福岡市東区香椎の香椎宮とされて来た。

既に述べたように、これほど雑駁な論理で比定されて来たことに疑問を投げ掛けることすらなされて来なかったのが不思議なくらいの経緯である。前者の「穴門」は「穴戸」ではない。古事記は現在の関門海峡の場所を「門」とは言わない。また、上記の比定された神社は「穴戸」と約5km離れ、面する海は周防灘に開いている。

後者は「筑前」であって「筑紫」ではない。古事記の記述に「筑前」は登場しない。「越前」は現れるが、それは「高志の前(サキ)」である。神武天皇が東行に際して坐した「筑紫岡田宮」との関係も極めて曖昧であり、仲哀天皇の遠征も含めて何故この場所が拠点となるかも全く説明されないていない。

やや、大仰に言えばこの二地点に関して疑問を呈することは、古代史の揺るがぬパラダイムに挑むことに他ならないようである・・・肩を怒らせたことは抜きにして納得できる解を見出すことであろう。既述とダブらせながら、再度二つの宮の場所を突き止めてみよう。

古事記原文[武田祐吉訳]…


帶中日子天皇、坐穴門之豐浦宮及筑紫訶志比宮、治天下也。此天皇、娶大江王之女・大中津比賣命、生御子、香坂王、忍熊王。二柱。又娶息長帶比賣命是大后生御子、品夜和氣命、次大鞆和氣命・亦名品陀和氣命。二柱。此太子之御名、所以負大鞆和氣命者、初所生時、如鞆宍生御腕、故著其御名。是以知、坐腹中定國也。此之御世、定淡道之屯家也。[タラシナカツ彦の天皇、穴門の豐浦の宮また筑紫の香椎の宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇、オホエの王の女のオホナカツ姫の命と結婚してお生みになった御子は、カゴサカの王とオシクマの王お二方です。またオキナガタラシ姫の命と結婚なさいました。この皇后のお生みになった御子はホムヤワケの命・オホトモワケの命、またの名はホムダワケの命とお二方です。この皇太子の御名をオホトモワケの命と申しあげるわけは、初めお生まれになった時に腕に 鞆の形をした肉がありましたから、この御名前をおつけ申しました。そこで腹の中においでになって天下をお治めなさいました。この御世に淡路の役所を定めました]

二つの宮に坐したと述べる。先ずはこの宮の在処から紐解いてみよう。


穴門之豐浦宮

穴門之豐浦宮に含まれる「穴門」と「豊浦」の解釈である。現在の関門海峡を「穴戸」と表現することは真に適切なものと思われる。「穴」=「宀(山麓)+ハ(谷)」は「山麓に挟まれた谷」の象形と解釈できる。「戸」は「瀬戸」のように使用されるものであろう。「穴戸」は…、


山麓に挟まれた瀬戸

…と読み取れる。山麓が迫り出して狭くなった間を水が急速に流れるところを表したものと解釈される。「瀬門」と表現されないように「穴門」ではない。「穴門之豊浦宮」を「穴戸」の近隣に持ってくる根拠は薄弱である。かつ、離れたところにあって「戸」も「門」も共に関連するところは希薄である。

「豊浦」は何と解釈するのであろうか?…豊かな浦、漁獲が?…大きな浦?・・・決定的な矛盾であろう。「穴戸」渦巻く海流の場所とは無縁の筈であろう。矛盾だらけの命名、その解は「穴戸」の地には「豊浦宮」がなかったことである。

(拡大)

こんなことを背景に既に紐解いたこの宮の場所は「穴門」=「峠越えする山口に向かう山間の通路」を表現していると解釈した。

更に「豊浦」=「豊の代(背)」、頻度高く登場する「山代」と同様の解釈である。「豊」=「豊国(現在の京都郡みやこ町の一部)」である。図に示したところと比定した。


既述したように景行天皇が日向之美波迦斯毘賣を娶って誕生したのが「豊国別王」、その地は御所ヶ岳山・馬ヶ岳山系の北麓、長峡川とに挟まれた東西に長い国、である。「豊浦」はその背後にあるところと紐解ける。

田川郡香春町から京都郡みやこ町に抜ける「新仲哀トンネル」がある。仲哀峠、仲哀平そして仲哀隧道などの名前が残っている。

「穴門之豊浦宮」は現在の香春町から仲哀峠に向かう呉川沿いにあったと推定される。近くには「仲哀の名水」と呼ばれる場所もある。これだけ所縁の地でありながら…不可思議なことである。


筑紫訶志比宮


「筑紫訶志比宮」上記したように、ほぼ異論なく現在の福岡市東区香椎にある「香椎宮」に比定されている。がしかし、「筑前」と混同してはならないのである。


<筑紫訶志比宮>(拡大)
伊邪那岐・伊邪那美の大八嶋国に含まれる筑紫嶋、その四面の内の一つに「筑紫国」が登場する。

邇邇芸命の天孫降臨そして神倭伊波禮毘古命の東行を紐解くと、「筑紫」は現在の北九州市小倉北区、足立山西麓であることを示した

筑紫嶋の国々、勿論大倭豊秋津嶋の国々も全て国譲りをされて現在の日本国中に散らばされたのである。

比婆之山を挟んで東の出雲国及び西の伯伎国と呼ばれた「筑紫」も例外ではない。古事記に記された「胸形」(宗像)の地以外は全て国譲りの対象であったと言える。

現在も使われる筑前、筑後の地域は足立山西麓の地が国譲りされてできた地域である。古事記が語る舞台にはないところである。そんな背景で「筑紫訶志比宮」を紐解くと…、

「訶志比宮」とは「訶志比」=「傾位」=「傾いた場所」=「山の急斜面」と解釈できるかもしれないが、急斜面だらけの土地では一に特定不可能であるが、現在の妙見神社の辺りと推定した。この文字解釈こそ重要であった。そんな名付けをしないのが古事記、では如何なる意味なのか?…たった三文字と雖も決して簡単ではない。

特に「訶」には工夫がいるようである。前記と同様に「訶」=「言+可」に分解すると、既に登場した「言」=「辛(刃物)+口(耕地)」=「大地を刃物で耕地にする」と紐解ける。


<可>
更に「可」=「口(耕地)+丁」となり、可の甲骨文字を使うと「谷間にある口(耕地)」(原義は口の奥)を示すと考えられる。


訶=谷間の耕地

…と解釈できる。よく見ると「訶」には口(耕地)が複数ある。となると、多くの、大きな耕地の意味も込められていると思われる。「訶志比宮」は…、


訶(谷間の耕地)|志(蛇行する川)|比(並ぶ)

…「蛇行する川が並ぶ谷の奥にある耕地」の傍らの宮と解読される。上図に示した通りの地形を示すのであるが、田の傍らとすると妙見神社ではなく東林院の辺りが該当するであろう。

実は「訶」の文字は既に登場している。大毘古命が建波邇安王と戦った場所「和訶羅河」の畔である。曲がりくねる犀川なので輪のように曲がる川で片付けてきたが、もっと具体的に場所を表していたことに気付かされる。「輪のように谷の奥にある耕地が連なる」川なのである。そしてこれは垂仁天皇が氷羽州比賣命を娶って誕生した「印色入日子命」が居た場所を表している。この戦いは谷の出口で行われたのであろう。


「寒竹川」が傍を流れる(もう一つの川は不詳)、この地は「初代神武天皇」の倭国進出の橋頭堡、「筑紫之岡田宮」があったところ、「訶志比」は更に詳細な地形を示してくれたと思われる。

古小倉湾(勝手に命名したが…)に面し、豊国に抜ける交通の要所である。神武天皇も仲哀天皇も遠征には欠かせない拠点であった。

しかしながらこの湾に人々が住み着くにはまだ多くの時間を要し、御子達が住み着くことはなく古事記の時代は過ぎて行ったのであろう。

「岡田宮」は「岡の上にある田の傍らの宮」と理解して良いであろうが、それでは安萬侶くんの伝えるところの半分も分かっていないことになろう。


<岡>
「岡」=「网(網)+山」と分解される。囲われたところに「山」がある地形象形と思われる。因みに甲骨文字は図に示したようである。稜線が作る造形を漢字で表すことに徹していることが判る。異なる表現で示された宮の在処は確定的と思われる。

仲哀天皇紀は大きな時代の転換期であったことを告げている。熊曾国に拘らず、もっと西の国に目を向けろと神のお告げがあった。新羅も去ることながらその北の国々が隆盛を極めようとしている時、その地からの情報を得ることが重要と判断したのである。

その急激な変化に仲哀天皇が演じる戸惑いを伝える早逝の既述であろう。東アジアの、その極東の地に一つの大国が誕生しつつあった。その列強に名を連ねることが大きな目的であった時期に差し掛かった。神功皇后の果たした役割は三韓征伐などという頓珍漢な解釈をする限り、その重要性は見えて来ないのである。



2018年7月13日金曜日

若帶日子天皇の后と御子 〔233〕

若帶日子天皇の后と御子


近淡海之志賀高穴穂宮に坐した若帶日子命(成務天皇)、ともかくも短命な上にその御子は皇位を継がず、古事記の表舞台から消え去ってしまう系譜となる。様々に憶測されるが、登場する言葉は、近淡海、志賀など重要なのである。既に紐解きも行って来たのだが、今一度整理してみようかと思う。

特に加筆・修正を必要としないところは省略するので、こちらを参照願う。未開の地、近淡海に坐したと言う、確かにどんな戦略があってその地を選択したのか、首を傾げたくなるところもあるが、何せ関連する情報もない。古事記が語らないところを述べるのはもう少し後にして、先ずは「事実」の積み上げに努めようかと・・・。

少し現在まで判ったことについて、述べてみる…古事記原文は…、

若帶日子天皇、坐近淡海之志賀高穴穗宮、治天下也。此天皇、娶穗積臣等之祖建忍山垂根之女・名弟財郎女、生御子、和訶奴氣王。一柱。故、建宿禰爲大臣、定賜大國小國之國造、亦定賜國國之堺・及大縣小縣之縣主也。天皇御年、玖拾伍乙卯年三月十五日崩也。御陵在沙紀之多他那美也。

<近淡海之志賀高穴穂宮>
「高穴穂」という難解な言葉は日本でも有数の特異な地形に拠っていたと理解した。鍾乳洞と関連付け、決して平凡な地形の名前ではなかったのである。

雄略天皇紀に吉野(現平尾台)に向かう説話が登場する。山裾に着いた天皇が吉野河(現小波瀬川)の川辺で、とある比賣と遭遇する。志賀高穴穂の宮の近隣であろう。

地図から明らかなように急勾配の山に挟まれた谷の出口である。

しかしながら茨田と池作りの蓄積技術があれば何とかなる地でもあったろう。既に吉野河(小波瀬川)の河口付近を治水して「布多遲」にすることができるようになっていたのである。

既述したように近淡海国の及び側は開拓が進み、残る西側中央部の開拓を目指したのであろう。更に河口付近に近付く河内中央の治水はもう少し後代にならないと果たせなかったのである。天皇家の戦略は、「土地の開拓」と「言向和」の螺旋状の発展を目指した、と告げている。

御子達に分け与える土地の確保が如何に困難を伴うか、谷間を利用した水田作りだけではその限界も見えつつあったろう。急速に時代の転換期を迎えつつあったと推測される。がしかし、しばらくは絶頂期に向かって流れて行くようである。

この地で娶ったのが下記の比賣、穂積一族である。

穗積臣等之祖建忍山垂根之女・名弟財郎女

穂積臣は孝元天皇の娶りに登場した内色許男命が祖となった地と説明されたところである。引用すると…「大倭根子日子國玖琉命、坐輕之堺原宮、治天下也。此天皇、娶穗積臣等之祖・內色許男命、此妹・內色許賣命、生御子、大毘古命、次少名日子建猪心命、次若倭根子日子大毘毘命」


<穂積>
また邇藝速日命の
子孫でもある…「邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也」

既に「穂積」の意味そしてそれが示すところを紐解いた。大坂山・戸城山に囲まれた山麓の稜線が積み重なるように広がる地形のを表したものと思われ、穂積臣の居場所は現在の田川郡赤村内田及び香春町柿下辺りと推定された。

「忍山垂根」の居場所は何処であろうか?…「忍」=「目立たない」として…、


忍山=目立たない山

…と解釈できる。既に登場の「忍坂」=「目立たない坂」などに類する。すると、標高がまだ低いところ、入口に当たる場所と思われる。

「垂根」は池で蓴菜などの栽培に長けていた人物を示すと思われる。「大筒木垂根」と同じ解釈である。するとこの親子の居場所は池の近傍に求められると思われる。

「忍山」の意味も含めて探すと「穂積」の西端の地に池を見出だせる。勿論当時との異同はあろうが、根拠としても無理ではないと思われる。


<建忍山垂根・弟財郎・和訶奴氣王>

現地名では田川郡赤村内田から同郡香春町柿下に深く入り込んだ場所となる。

比賣の名前が「弟財郎女」と記される。「財」=「貝+才」であり「貝」の甲骨文字は「臼」に近い。

建内宿禰の御子、若子宿禰が「江野財」の祖となる記述で紐解いた結果である。


貝(貝の地形)|才(木:山稜)

…「山稜が貝の地形」である。御子に「和訶奴氣王」が誕生する。

和(丸い)|訶(谷間の耕地)|奴(野)|氣(気配)

…「谷間にある耕地が丸いように見える野」の王と解釈される。図に示した通り、輪に成り切れてないが、それらしいところという意味ではなかろうか。



<可>

「訶」=「言+可」とし、「言」=「大地から耕地を作る」また、可の甲骨文字が地形を表すところは「谷間の耕地」から紐解ける意味である(和訶羅河など)。「口」=「耕地」大地から切り取った形と読む。安萬侶コード「言(大地から耕地を作る)」を含む文字(列)は多数登場している。

父親は真っ当に引き継いだ皇位故にその息子にもそのまま移るかと思いきや、その後の行く末は不詳である。名前で未熟さを示したつもりなのであろうか?…経緯、不詳である。

次期天皇は前記倭建命が伊玖米天皇之女・布多遲能伊理毘賣命を娶って誕生した帶中津日子命(仲哀天皇)が継ぐことになる。倭建命によって西方(熊曾国、出雲国)及び東方十二道が言向和されるのだから、各々の国を定める作業に取り掛かったという記述は頷ける(「倭国連邦言向和国」と呼ぶことに…)。

その領域においては倭国統治に然したる不安材料もなかったのであろう。またその功績と悲運を伴った結末が皇統の捻れを生じたのかもしれない。通説の中には存在しなかった天皇の一人にされているものもあるようである。〇〇○史観というやつなのであろうか、自説に合わないのはカットである。目下のところは漠然としているが、この捻れは大きな意味を有しているように感じられる。

建内宿禰の登場については、少々説明があっても良いのでは?…と思いたくなるような時間観念である。この後にもご登場なさるが、それはシャレのような?・・・。

御陵については下記のように修正する。

「天皇御年、玖拾伍乙卯年三月十五日崩也。御陵在沙紀之多他那美也」崩御の年に干支が入ってくるのだが、不確かなので割愛する。後の応神天皇紀で述べてみたい。


御陵が「沙紀」にあると述べられる…「沙」=「川縁」、「紀」=「糸+己」=「撚り糸のように畝る地形(己)」として…、


沙紀=沙(川縁)|紀(畝る)

…「川縁が畝った地」と紐解ける。多他那美の「他」=「蛇の形」を象形したものとある。


多(田)|他(長く畝る)|那(大きな)|美(谷間に広がる地)

<羊>
…「田が長く畝って大きな谷間の大地」と紐解ける。「美」=「羊+大」で羊の甲骨文字の地形象形から紐解ける安萬侶コード「美(谷間に広がる地)」である。この二つを併せ持つ地形は現在の幸ノ山と観音山との間にある大きく長い谷間から流れる川縁であったと推定される。御陵の特定は難しいが幸ノ山の麓辺りかと推定される。

近淡海国を大国にする基礎を作った天皇ではあるが、影の薄い扱いになっているように感じられる。古事記が記述する期間では、まだまだ成務天皇が目指した地は墓地であったようである。

短い説話でなんとも言い難い部分が多く、安萬侶くんの伝えたかったことの半分も読み取れないようである。上記したが、通説は実在しないとする場合が多く、欠史八代とよく似ている。まだまだ隠れたところがあるように思われるが・・・。