2018年7月17日火曜日

穴門之豐浦宮と筑紫訶志比宮 〔234〕

穴門之豐浦宮と筑紫訶志比宮


倭建命の御子、帶中日子天皇(後の仲哀天皇)が坐したと言われる二つの宮である。従来よりこの二つの宮についての比定場所は殆ど異論なく豊浦宮が山口県下関市長府宮の内町の忌宮神社、訶志比宮が福岡県福岡市東区香椎の香椎宮とされて来た。

既に述べたように、これほど雑駁な論理で比定されて来たことに疑問を投げ掛けることすらなされて来なかったのが不思議なくらいの経緯である。前者の「穴門」は「穴戸」ではない。古事記は現在の関門海峡の場所を「門」とは言わない。また、上記の比定された神社は「穴戸」と約5km離れ、面する海は周防灘に開いている。

後者は「筑前」であって「筑紫」ではない。古事記の記述に「筑前」は登場しない。「越前」は現れるが、それは「高志の前(サキ)」である。神武天皇が東行に際して坐した「筑紫岡田宮」との関係も極めて曖昧であり、仲哀天皇の遠征も含めて何故この場所が拠点となるかも全く説明されないていない。

やや、大仰に言えばこの二地点に関して疑問を呈することは、古代史の揺るがぬパラダイムに挑むことに他ならないようである・・・肩を怒らせたことは抜きにして納得できる解を見出すことであろう。既述とダブらせながら、再度二つの宮の場所を突き止めてみよう。

古事記原文[武田祐吉訳]…


帶中日子天皇、坐穴門之豐浦宮及筑紫訶志比宮、治天下也。此天皇、娶大江王之女・大中津比賣命、生御子、香坂王、忍熊王。二柱。又娶息長帶比賣命是大后生御子、品夜和氣命、次大鞆和氣命・亦名品陀和氣命。二柱。此太子之御名、所以負大鞆和氣命者、初所生時、如鞆宍生御腕、故著其御名。是以知、坐腹中定國也。此之御世、定淡道之屯家也。[タラシナカツ彦の天皇、穴門の豐浦の宮また筑紫の香椎の宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇、オホエの王の女のオホナカツ姫の命と結婚してお生みになった御子は、カゴサカの王とオシクマの王お二方です。またオキナガタラシ姫の命と結婚なさいました。この皇后のお生みになった御子はホムヤワケの命・オホトモワケの命、またの名はホムダワケの命とお二方です。この皇太子の御名をオホトモワケの命と申しあげるわけは、初めお生まれになった時に腕に 鞆の形をした肉がありましたから、この御名前をおつけ申しました。そこで腹の中においでになって天下をお治めなさいました。この御世に淡路の役所を定めました]

二つの宮に坐したと述べる。先ずはこの宮の在処から紐解いてみよう。


穴門之豐浦宮

穴門之豐浦宮に含まれる「穴門」と「豊浦」の解釈である。現在の関門海峡を「穴戸」と表現することは真に適切なものと思われる。「穴」=「宀(山麓)+ハ(谷)」は「山麓に挟まれた谷」の象形と解釈できる。「戸」は「瀬戸」のように使用されるものであろう。「穴戸」は…、


山麓に挟まれた瀬戸

…と読み取れる。山麓が迫り出して狭くなった間を水が急速に流れるところを表したものと解釈される。「瀬門」と表現されないように「穴門」ではない。「穴門之豊浦宮」を「穴戸」の近隣に持ってくる根拠は薄弱である。かつ、離れたところにあって「戸」も「門」も共に関連するところは希薄である。

「豊浦」は何と解釈するのであろうか?…豊かな浦、漁獲が?…大きな浦?・・・決定的な矛盾であろう。「穴戸」渦巻く海流の場所とは無縁の筈であろう。矛盾だらけの命名、その解は「穴戸」の地には「豊浦宮」がなかったことである。

(拡大)

こんなことを背景に既に紐解いたこの宮の場所は「穴門」=「峠越えする山口に向かう山間の通路」を表現していると解釈した。

更に「豊浦」=「豊の代(背)」、頻度高く登場する「山代」と同様の解釈である。「豊」=「豊国(現在の京都郡みやこ町の一部)」である。図に示したところと比定した。


既述したように景行天皇が日向之美波迦斯毘賣を娶って誕生したのが「豊国別王」、その地は御所ヶ岳山・馬ヶ岳山系の北麓、長峡川とに挟まれた東西に長い国、である。「豊浦」はその背後にあるところと紐解ける。

田川郡香春町から京都郡みやこ町に抜ける「新仲哀トンネル」がある。仲哀峠、仲哀平そして仲哀隧道などの名前が残っている。

「穴門之豊浦宮」は現在の香春町から仲哀峠に向かう呉川沿いにあったと推定される。近くには「仲哀の名水」と呼ばれる場所もある。これだけ所縁の地でありながら…不可思議なことである。


筑紫訶志比宮


「筑紫訶志比宮」上記したように、ほぼ異論なく現在の福岡市東区香椎にある「香椎宮」に比定されている。がしかし、「筑前」と混同してはならないのである。


<筑紫訶志比宮>(拡大)
伊邪那岐・伊邪那美の大八嶋国に含まれる筑紫嶋、その四面の内の一つに「筑紫国」が登場する。

邇邇芸命の天孫降臨そして神倭伊波禮毘古命の東行を紐解くと、「筑紫」は現在の北九州市小倉北区、足立山西麓であることを示した

筑紫嶋の国々、勿論大倭豊秋津嶋の国々も全て国譲りをされて現在の日本国中に散らばされたのである。

比婆之山を挟んで東の出雲国及び西の伯伎国と呼ばれた「筑紫」も例外ではない。古事記に記された「胸形」(宗像)の地以外は全て国譲りの対象であったと言える。

現在も使われる筑前、筑後の地域は足立山西麓の地が国譲りされてできた地域である。古事記が語る舞台にはないところである。そんな背景で「筑紫訶志比宮」を紐解くと…、

「訶志比宮」とは「訶志比」=「傾位」=「傾いた場所」=「山の急斜面」と解釈できるかもしれないが、急斜面だらけの土地では一に特定不可能であるが、現在の妙見神社の辺りと推定した。この文字解釈こそ重要であった。そんな名付けをしないのが古事記、では如何なる意味なのか?…たった三文字と雖も決して簡単ではない。

特に「訶」には工夫がいるようである。前記と同様に「訶」=「言+可」に分解すると、既に登場した「言」=「辛(刃物)+口(耕地)」=「大地を刃物で耕地にする」と紐解ける。


<可>
更に「可」=「口(耕地)+丁」となり、可の甲骨文字を使うと「谷間にある口(耕地)」(原義は口の奥)を示すと考えられる。


訶=谷間の耕地

…と解釈できる。よく見ると「訶」には口(耕地)が複数ある。となると、多くの、大きな耕地の意味も込められていると思われる。「訶志比宮」は…、


訶(谷間の耕地)|志(蛇行する川)|比(並ぶ)

…「蛇行する川が並ぶ谷の奥にある耕地」の傍らの宮と解読される。上図に示した通りの地形を示すのであるが、田の傍らとすると妙見神社ではなく東林院の辺りが該当するであろう。

実は「訶」の文字は既に登場している。大毘古命が建波邇安王と戦った場所「和訶羅河」の畔である。曲がりくねる犀川なので輪のように曲がる川で片付けてきたが、もっと具体的に場所を表していたことに気付かされる。「輪のように谷の奥にある耕地が連なる」川なのである。そしてこれは垂仁天皇が氷羽州比賣命を娶って誕生した「印色入日子命」が居た場所を表している。この戦いは谷の出口で行われたのであろう。


「寒竹川」が傍を流れる(もう一つの川は不詳)、この地は「初代神武天皇」の倭国進出の橋頭堡、「筑紫之岡田宮」があったところ、「訶志比」は更に詳細な地形を示してくれたと思われる。

古小倉湾(勝手に命名したが…)に面し、豊国に抜ける交通の要所である。神武天皇も仲哀天皇も遠征には欠かせない拠点であった。

しかしながらこの湾に人々が住み着くにはまだ多くの時間を要し、御子達が住み着くことはなく古事記の時代は過ぎて行ったのであろう。

「岡田宮」は「岡の上にある田の傍らの宮」と理解して良いであろうが、それでは安萬侶くんの伝えるところの半分も分かっていないことになろう。


<岡>
「岡」=「网(網)+山」と分解される。囲われたところに「山」がある地形象形と思われる。因みに甲骨文字は図に示したようである。稜線が作る造形を漢字で表すことに徹していることが判る。異なる表現で示された宮の在処は確定的と思われる。

仲哀天皇紀は大きな時代の転換期であったことを告げている。熊曾国に拘らず、もっと西の国に目を向けろと神のお告げがあった。新羅も去ることながらその北の国々が隆盛を極めようとしている時、その地からの情報を得ることが重要と判断したのである。

その急激な変化に仲哀天皇が演じる戸惑いを伝える早逝の既述であろう。東アジアの、その極東の地に一つの大国が誕生しつつあった。その列強に名を連ねることが大きな目的であった時期に差し掛かった。神功皇后の果たした役割は三韓征伐などという頓珍漢な解釈をする限り、その重要性は見えて来ないのである。