2018年7月13日金曜日

若帶日子天皇の后と御子 〔233〕

若帶日子天皇の后と御子


近淡海之志賀高穴穂宮に坐した若帶日子命(成務天皇)、ともかくも短命な上にその御子は皇位を継がず、古事記の表舞台から消え去ってしまう系譜となる。様々に憶測されるが、登場する言葉は、近淡海、志賀など重要なのである。既に紐解きも行って来たのだが、今一度整理してみようかと思う。

特に加筆・修正を必要としないところは省略するので、こちらを参照願う。未開の地、近淡海に坐したと言う、確かにどんな戦略があってその地を選択したのか、首を傾げたくなるところもあるが、何せ関連する情報もない。古事記が語らないところを述べるのはもう少し後にして、先ずは「事実」の積み上げに努めようかと・・・。

少し現在まで判ったことについて、述べてみる…古事記原文は…、

若帶日子天皇、坐近淡海之志賀高穴穗宮、治天下也。此天皇、娶穗積臣等之祖建忍山垂根之女・名弟財郎女、生御子、和訶奴氣王。一柱。故、建宿禰爲大臣、定賜大國小國之國造、亦定賜國國之堺・及大縣小縣之縣主也。天皇御年、玖拾伍乙卯年三月十五日崩也。御陵在沙紀之多他那美也。

<近淡海之志賀高穴穂宮>
「高穴穂」という難解な言葉は日本でも有数の特異な地形に拠っていたと理解した。鍾乳洞と関連付け、決して平凡な地形の名前ではなかったのである。

雄略天皇紀に吉野(現平尾台)に向かう説話が登場する。山裾に着いた天皇が吉野河(現小波瀬川)の川辺で、とある比賣と遭遇する。志賀高穴穂の宮の近隣であろう。

地図から明らかなように急勾配の山に挟まれた谷の出口である。

しかしながら茨田と池作りの蓄積技術があれば何とかなる地でもあったろう。既に吉野河(小波瀬川)の河口付近を治水して「布多遲」にすることができるようになっていたのである。

既述したように近淡海国の及び側は開拓が進み、残る西側中央部の開拓を目指したのであろう。更に河口付近に近付く河内中央の治水はもう少し後代にならないと果たせなかったのである。天皇家の戦略は、「土地の開拓」と「言向和」の螺旋状の発展を目指した、と告げている。

御子達に分け与える土地の確保が如何に困難を伴うか、谷間を利用した水田作りだけではその限界も見えつつあったろう。急速に時代の転換期を迎えつつあったと推測される。がしかし、しばらくは絶頂期に向かって流れて行くようである。

この地で娶ったのが下記の比賣、穂積一族である。

穗積臣等之祖建忍山垂根之女・名弟財郎女

穂積臣は孝元天皇の娶りに登場した内色許男命が祖となった地と説明されたところである。引用すると…「大倭根子日子國玖琉命、坐輕之堺原宮、治天下也。此天皇、娶穗積臣等之祖・內色許男命、此妹・內色許賣命、生御子、大毘古命、次少名日子建猪心命、次若倭根子日子大毘毘命」


<穂積>
また邇藝速日命の
子孫でもある…「邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也」

既に「穂積」の意味そしてそれが示すところを紐解いた。大坂山・戸城山に囲まれた山麓の稜線が積み重なるように広がる地形のを表したものと思われ、穂積臣の居場所は現在の田川郡赤村内田及び香春町柿下辺りと推定された。

「忍山垂根」の居場所は何処であろうか?…「忍」=「目立たない」として…、


忍山=目立たない山

…と解釈できる。既に登場の「忍坂」=「目立たない坂」などに類する。すると、標高がまだ低いところ、入口に当たる場所と思われる。

「垂根」は池で蓴菜などの栽培に長けていた人物を示すと思われる。「大筒木垂根」と同じ解釈である。するとこの親子の居場所は池の近傍に求められると思われる。

「忍山」の意味も含めて探すと「穂積」の西端の地に池を見出だせる。勿論当時との異同はあろうが、根拠としても無理ではないと思われる。


<建忍山垂根・弟財郎・和訶奴氣王>

現地名では田川郡赤村内田から同郡香春町柿下に深く入り込んだ場所となる。

比賣の名前が「弟財郎女」と記される。「財」=「貝+才」であり「貝」の甲骨文字は「臼」に近い。

建内宿禰の御子、若子宿禰が「江野財」の祖となる記述で紐解いた結果である。


貝(貝の地形)|才(木:山稜)

…「山稜が貝の地形」である。御子に「和訶奴氣王」が誕生する。

和(丸い)|訶(谷間の耕地)|奴(野)|氣(気配)

…「谷間にある耕地が丸いように見える野」の王と解釈される。図に示した通り、輪に成り切れてないが、それらしいところという意味ではなかろうか。



<可>

「訶」=「言+可」とし、「言」=「大地から耕地を作る」また、可の甲骨文字が地形を表すところは「谷間の耕地」から紐解ける意味である(和訶羅河など)。「口」=「耕地」大地から切り取った形と読む。安萬侶コード「言(大地から耕地を作る)」を含む文字(列)は多数登場している。

父親は真っ当に引き継いだ皇位故にその息子にもそのまま移るかと思いきや、その後の行く末は不詳である。名前で未熟さを示したつもりなのであろうか?…経緯、不詳である。

次期天皇は前記倭建命が伊玖米天皇之女・布多遲能伊理毘賣命を娶って誕生した帶中津日子命(仲哀天皇)が継ぐことになる。倭建命によって西方(熊曾国、出雲国)及び東方十二道が言向和されるのだから、各々の国を定める作業に取り掛かったという記述は頷ける(「倭国連邦言向和国」と呼ぶことに…)。

その領域においては倭国統治に然したる不安材料もなかったのであろう。またその功績と悲運を伴った結末が皇統の捻れを生じたのかもしれない。通説の中には存在しなかった天皇の一人にされているものもあるようである。〇〇○史観というやつなのであろうか、自説に合わないのはカットである。目下のところは漠然としているが、この捻れは大きな意味を有しているように感じられる。

建内宿禰の登場については、少々説明があっても良いのでは?…と思いたくなるような時間観念である。この後にもご登場なさるが、それはシャレのような?・・・。

御陵については下記のように修正する。

「天皇御年、玖拾伍乙卯年三月十五日崩也。御陵在沙紀之多他那美也」崩御の年に干支が入ってくるのだが、不確かなので割愛する。後の応神天皇紀で述べてみたい。


御陵が「沙紀」にあると述べられる…「沙」=「川縁」、「紀」=「糸+己」=「撚り糸のように畝る地形(己)」として…、


沙紀=沙(川縁)|紀(畝る)

…「川縁が畝った地」と紐解ける。多他那美の「他」=「蛇の形」を象形したものとある。


多(田)|他(長く畝る)|那(大きな)|美(谷間に広がる地)

<羊>
…「田が長く畝って大きな谷間の大地」と紐解ける。「美」=「羊+大」で羊の甲骨文字の地形象形から紐解ける安萬侶コード「美(谷間に広がる地)」である。この二つを併せ持つ地形は現在の幸ノ山と観音山との間にある大きく長い谷間から流れる川縁であったと推定される。御陵の特定は難しいが幸ノ山の麓辺りかと推定される。

近淡海国を大国にする基礎を作った天皇ではあるが、影の薄い扱いになっているように感じられる。古事記が記述する期間では、まだまだ成務天皇が目指した地は墓地であったようである。

短い説話でなんとも言い難い部分が多く、安萬侶くんの伝えたかったことの半分も読み取れないようである。上記したが、通説は実在しないとする場合が多く、欠史八代とよく似ている。まだまだ隠れたところがあるように思われるが・・・。